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2013年6月2日 - 2013年6月8日

2013年6月 4日 (火)

【メモ】『自由中国』の雷震と殷海光

 五四運動/新文化運動の特徴の一つは啓蒙的リベラリズムにあるが、そうした思潮が台湾へ流れ込んだルートの一つとして雑誌『自由中国』に集った知識人たちが挙げられる。

 『自由中国』は1949年11月20日、台北で創刊された。胡適を名義上の発行人としているが、実際の編集実務は雷震(1897~1979)が取り仕切っていた。雷震自身、旺盛に執筆していたが、寄稿者の中でもとりわけ活躍した一人として殷海光(1919~1969)の名前も逸することはできない。

 雷震は浙江省の生まれ。1916年に日本へ留学し、京都帝国大学では森口繁治や佐々木惣一のもとで憲法学を学ぶ。雷震が憲政重視の姿勢をとるようになったきっかけはこの日本留学にあったと考えられるだろう。1917年に東京で開催された五九国恥記念会で知り合った張継と戴季陶の紹介により中華革命党に参加、1926年に中国へ帰国すると蒋介石の側近となった。抗日戦争から国共内戦にかけての時期には民主諸党派との調整役として奔走する。その後、国民党の台湾撤退に同行したが、たびたび香港へ渡って民主人士の来台を促すため遊説に回ったという。

 殷海光はまさに五四運動が盛り上がった1919年の生まれであり、本人も「自分は五四時期後の人間だ」とよく語っていたという。武昌で過ごした中学生の頃から論理哲学に夢中となった。西南聯合大学を卒業し、清華大学哲学研究所でも学ぶ。伯父が辛亥革命に参加していたという経緯もあって熱烈な国民党支持者であった。しかし、新聞記者となって、国共内戦時の淮海戦役を取材していたとき、報道と実際の情況との食い違いに気付いたことをきっかけに蒋介石政権に対する疑問が出てきたという。1949年に台湾大学哲学系教授となって以降、西洋の思想家の著作を熱心に学び、例えばハイエク《到奴役之路》(The Road to Serfdom、隷属への道)の中国語訳も出している。

 憲政による政治改革を志した雷震、自由主義を基本とした哲学者の殷海光をはじめ、リベラルだが共産主義にも賛同できない知識人たちが集まって創刊されたのが『自由中国』であった。旗頭に担がれた胡適は言うまでもなく五四運動/新文化運動を代表する知識人であり、五四の精神の系譜を引くという自覚が彼らの共通項になっていたと言えよう。

 ところで、1951年を境として、その前後で『自由中国』の論説内容は大きく異なる。創刊当初は、蒋介石政権支持、反共主義の姿勢を鮮明にしていた。『自由中国』が自由主義や民主主義を主張していたことは国際的に印象が良く、当時、アメリカから見捨てられるのではないかと不安がっていた蒋介石政権には、対米関係改善をアピールするため『自由中国』を利用しようという思惑があった。そのため、この時期の『自由中国』は国民党政権と良好な関係を持っていた。

 朝鮮戦争が勃発し、冷戦構造が定着しつつある情勢下、アメリカは反共政権へのテコ入れを強化し、蒋介石政権は安定する。しかし、それは強権的な抑圧による見せかけの安定に過ぎなかった。雷震たちからすれば政権の腐敗と権力濫用が目にあまる。そこで批判的論説を次々と発表したため、政権との関係は冷え込んでいった。1956年に蒋介石は70歳の誕生日を迎えた際、「反攻大陸の機が熟しつつある今、誕生日なんかで浪費させるつもりはない、それよりも国策への提言を広く募りたい」と表明した。これを受けて、同年10月の『自由中国』祝壽専号(お誕生日祝い特集号)は政府批判の論説を掲げたため、いっそう政権から睨まれるようになった。

 五四の精神を受け継ぎつつ大陸に残ったリベラリストも1957年の反右派闘争以降、抑圧されていた。『自由中国』が国民党によって弾圧されたのとほぼ同じ時期である。なお、雷震が政府批判を行った論点の一つとして軍隊の国家化という問題がある。軍隊が一つの党に忠誠を誓っているようでは政権交代などあり得ず、従って民主的な国家運営は望むべくもない。大陸においても人民解放軍の国軍化が時折話題にのぼるが、軍事力によって政権を獲得したという成り立ちや党の政府に対する優位性など、国共両党には一定の同質性がうかがえる。思えば、蒋経国が戒厳令の解除を決断し、李登輝が民主化へと舵を切ったのは、1989年に起こった天安門事件の直前の時期であった。イデオロギーこそ違えども似通った政治体質を持った国民党と共産党、二つの政党の民主化に対しての態度の相違には、比較すると興味深い論点が色々とあり得る。

 雷震は当初、台湾における国民党の政権基盤安定を優先させるため人権問題には目をつぶっていた。しかし、国民党政権との対決姿勢を鮮明にして以降、特務の迫害を受けて窮状を訴える人々が『自由中国』社を次々と訪れ、彼らの話を聞いているうちに人権問題へ積極的な関心を向けるようになる。雷震の批判は、中華民国はすでに憲法を持っているのだから、憲政の本義に立ち返れば民主国家を実現できるはずだという点にあった。司法の独立により法治が実現されなければ、人権を保障することはできない。

 また、蒋介石が呼号する反攻大陸の非現実性を問題視し、むしろ台湾に腰を据え、時間をかけて民主国家建設に努力すべきだと主張した。「中華民国在台湾」の路線を先取りしていたと言えようか。台湾規模の政治単位を前提とすると、今度は本省人との関係をきちんと考えなければならない。雷震は当初、台湾人エリートが主導権を握ることに警戒心を抱いていたという(胡適の方がむしろ台湾人エリートとの提携を考えていたらしい)。しかし、1950年代末以降の内外の情勢変化を見て考え方を切り替え、提携関係を持つようになる。雷震の周囲には後に民進党を結成する人々も集まっていた。

 雷震は1960年に野党「中国民主党」の結成に向けて奔走したため、逮捕された。すでに64歳であった。『自由中国』も発禁処分を受ける。アメリカにいた胡適は公正な裁判を受けさせるよう蒋介石に働きかけ、現代新儒家の一人として著名な張君勱は釈放を要求、国内では殷海光を始めとした知識人たちが雷震擁護の論陣を張ったが、そうした甲斐もなく、即決裁判で禁錮10年の有罪判決が下された。比較的に重い量刑には蒋介石の意向が強く働いていたらしい。

 10年の刑期を満了した後、政治活動はしないという条件で雷震は釈放されたが、硬骨漢たる彼の熱情はおさまらない。1971年には《救国図存献議》を発表し、その中では民主化を進めた上で国号を「中華台湾民主国」へ変更するよう主張した。

 なお、西洋志向のリベラリズムを特色とする『自由中国』に、現代新儒家の徐復観が寄稿していたり、張君勱が雷震釈放を求めたり、こうしたつながりは何によるものなのか興味がある。

 『自由中国』の雷震と殷海光について日本語による手頃な文献が見つからなかったので、とりあえず《台湾人物百年史2》(玉山社、2005年)から雷震と殷海光それぞれに関する章を訳出してみた(下記にリンク)。本書は台湾の公共電視台で放映されたドキュメンタリー・シリーズを書籍化したもので、関係者や研究者へのインタビューを織り込みながら構成されている。

・「貴ぶべきは度胸、必要なのは魂──雷震」http://docs.com/TDCQ

・「自由思想家──殷海光」http://docs.com/TDCR

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2013年6月 2日 (日)

岩崎育夫『物語シンガポールの歴史──エリート開発主義国家の200年』、田村慶子『多民族国家シンガポールの政治と言語──「消滅」した南洋大学の25年』他

 シンガポールはもともと出稼ぎ移民の寄り集まりに過ぎなかった。歴史的・社会的な背景に基づいて国家が現われたのではなく、国家が成立してからその内部としての社会が形成された点では、世界史的に見て独特である。いわば無から国家が立ち現われていく上で、リー・クワンユー(李光耀)のイニシアティヴが極めて大きかった。人材以外にこれといった資源もない狭小な島国が生き残るため徹底した効率性を求める統治スタイルは、リー・クワンユーを創業者とする株式会社に見立てると分かりやすい。

 岩崎育夫『物語シンガポールの歴史──エリート開発主義国家の200年』(中公新書、2013年)はこの国の歴史を叙述する中で経済立国の特徴を明らかにしてくれる。

 最先端の金融センターとして高層ビルが建ち並ぶシンガポールも、200年前にはほとんど人もいないジャングルに覆われた小島に過ぎなかった。貿易拠点としての将来性に目をつけた東インド会社のラッフルズは独断でこの島を取得、自由港として開港すると、近隣のマレー系住民ばかりでなく、華僑やインド系など各地から様々な人々がビジネス・チャンスを求めて集まってきた。経済的繁栄と人種的多様性というシンガポールの特徴はこの頃からうかがえる。

 第二次世界大戦でシンガポールは日本軍に占領された。華人系住民の虐殺など過酷な占領統治に反感を募らせる一方、逃げ出したイギリス人には幻滅する。自分たちの生活は自分たち自身で守るしかない──独立の気運が高まる中に若きリー・クワンユーの姿もあった。

 華人が75%を占めるほか、マレー系、インド系など多民族の織り成す都市。リー・クワンユー自身は英語を話す植民地エリートであって、華人としての民族意識は持ち合わせていない。しかし、政治的基盤としての大衆組織が必要であったため、華人の共産系グループと手を組んで人民行動党を結成した。1959年、英連邦内自治州となるのに合わせて実施された総選挙で人民行動党は勝利、リーは州首相に就任する。

 将来を見越した経済建設のため彼は工業化を推進する。そのためには市場が必要だが、シンガポールは小さい。そこで、隣のマレーシアを市場とするため合併を目指す。1963年9月に合併を果たしたものの、マレーシアのラーマン首相は共産化を懸念しており、人民行動党内の共産系グループは離党して社会主義戦線を結成。リーはマレーシア政府と連携してこれを弾圧し、人民行動党の優位を確立した。

 しかしながら、リーは立て続けに手ひどい挫折を味わうことになる。第一に、もう一つの市場と想定したインドネシアとの関係である。シンガポールがマレーシアに入ると、華人系の人口がマレー系を若干上回ることになり、ブミプトラ(マレー人第一)政策にとって都合が良くない。そこでマレーシアのラーマン首相は、マレー系人口の優位を保つため、ボルネオの英領サバ・サラワク二州を併合してマレーシア連邦を成立させた。ところが、サバ・サラワクはインドネシア領だと主張するスカルノが武力も辞さないマレーシア対決政策を打ち出し、シンガポールの対インドネシア貿易はストップしてしまった。1965年の九・三〇事件でスカルノが失脚してこの問題は片付いたものの、今度は第二の問題に直面する。シンガポールの突出した経済力はマレーシア中央政府との軋轢を生じさせ、1965年にラーマン首相はシンガポールの追放を決定、否応なく独立を迫られた。記者会見でリーは泣いたという。悲しみに打ちひしがれながらいやいや独立するなんて珍しい。いずれにせよ、シンガポールは逆境の中、なりふりかまわず生き残り戦略を追求せざるを得ず、それが結果として高度な経済立国を実現させることになるのは皮肉である。

 それでも、隣国マレーシア、インドネシアとの関係は死活問題であり、協調関係に腐心する。さらにASEANの活用、イスラエルをモデルとした国防体制、最後の保険としてのアメリカ依存など、外交・安全保障には周到な注意を払っている。

 小国が生き残るために手段を選ばないのがシンガポールの政治方針である。政権与党・人民行動党は特定の政治イデオロギーや政治理念など持たず、とにかく徹底したプラグマティズムから現実的な政策立案・実行能力を持つことを唯一の特徴とする。希少な資源を有効活用するため官僚主導の開発体制を構築し、党・政府・企業が事実上一体となった形で経済運営が行われる。他方で、党の意向に逆らうことは許されず、選挙制度を持つ民主主義国家でありながら、野党は弾圧されて議席を持つことは極めて難しい。華人系企業家はかつて人民行動党と対立したため完全に自助努力だという。リーは華人意識を持たないが、その一方で中国との経済関係が重要となれば、シンガポールの「華人国家」としての性格を強調する。民族意識も経済発展の武器となるならドライに割り切って使いこなすあたり、プラグマティズムが徹底している。

 国民には能力主義が求められ、常に最新の経済モデルを追求し続けなければならないなど、ある種の息苦しさも感じられる。資源のない小国にとって、人間の頭脳は貴重な資源である。そこで人民行動党は優秀な人材を育成・リクルートするシステムを張り巡らしている。その様子は田村慶子『頭脳国家シンガポール──超管理の彼方に』(講談社現代新書、1993年)にうかがわれるが、学歴至上主義、時には遺伝子主義による人材選別など(例えば、高学歴者同士の結婚を奨励する一方、低学歴者には避妊を推奨)、かなり極端である。リー・クワンユー自身の家族がみなエリートで「優秀さ」の具体例となっており、彼はこの方針に確信を持っているという。また、シンガポールに際立った文化はない。これもやはり、文化を無用の長物と考える彼のプラグマティズムの表われであろう。

 経済的なプラグマティズムと政治的な権威主義の組み合わせがリー・クワンユーのスタイルである。しかし、そうした彼の手法は、時代が変わるにつれて国民意識との乖離も目立ってくる。人民行動党は建国以来、常に国会の議席をほぼ独占していたが、2011年の総選挙では全議席87のうち野党に6議席を許してしまった。野党には政権担当能力が期待できないため、人民行動党政権が揺らぐわけではない。国民の大多数も経済発展がなければ自分たちの生活が危ういことは理解しており、こうした批判票は政権交代を求めているのではなく、不満の意思表示であったと考えられる。リーの権威主義的政治手法が上からの一方通行であったのに対し、こうした批判票によって政府に方針転換を迫る、つまり双方向的な政治コミュニケーションへ変化していると捉えられるようだ。

 シンガポールは多民族国家として英語、華語、マレー語、タミル語に優劣がないのが建前であるが、マレーシアとの統合を前提としていたのでマレー語が国語であり、事実上の公用語は英語となっている。華人の中でもリー・クワンユーなど政治エリートは英語に基づく国民形成を図ったが、そこには「華人」色が強く出てしまうと、近隣諸国から警戒されるという懸念も背景にあった。

 他方で、華語や中国の伝統文化を保持しながら、他民族との協調を図ろうと考える人々もいた。華人グループの指導者であったタン・ラークサイ(陳六使)は華語を話す若者のための教育機関がないことを憂えて1956年に南洋大学を創設した。中国以外で華僑が設立した唯一の大学である。田村慶子『多民族国家シンガポールの政治と言語──「消滅」した南洋大学の25年』(明石書店、2013年)は、南洋大学をめぐる政府当局とのせめぎ合いに注目し、人口では多数を占める華語派が、政治権力を握る英語派によって周縁化されていく過程を浮き彫りにする。華人系には共産系グループの力も大きく、南洋大学は「共産主義の温床」になるという警戒心もあったため、タン・ラークサイは初代学長として国民党支持者の林語堂を招いたが、大学の運営方針をめぐって仲違いしてしまったらしい。

 なお、タン・ラークサイを引き上げた華人実業家のタン・カーキー(陳嘉庚)はシンガポールで成功した後、故郷で廈門大学を創設したほか、抗日戦争で中国共産党に資金援助をしており、中華人民共和国の成立後、中国へ戻っている。その後をついでシンガポールの華人指導者になったのがタン・ラークサイであった。 

 南洋大学は英語大学として再編されながら、最終的には1980年、国立シンガポール大学に併合された(跡地には現在の南洋理工大学が設立された)。南大消滅後になって華語を奨励する「多讲华语,少说方语」運動が始まったのも皮肉である。これには、第一に、華語とはいっても出身地ごとに様々な方言が話されており、華人同士でもコミュニケーションがうまくいかないケースがあったのでそれを普通話に統一させること、第二に華語を通して「アジア的価値」による道徳意識を植え付けようとしたこと、第三に対中国経済交流が意図されていたという。

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