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2013年5月26日 - 2013年6月1日

2013年5月26日 (日)

【雑感】萩谷由喜子『諏訪根自子──美貌のヴァイオリニスト その劇的な生涯』、深田祐介『美貌なれ昭和──諏訪根自子と神風号の男たち』

 戦前の日本で「天才少女」と謳われた二人の才能──ヴァイオリニストの諏訪根自子(1920~1912)とピアニストの井上園子(1915~1986)。「天才」なる表現はあまりにかまびすしく用いられると食傷気味となってげんなりするものではある。しかし、その奏でる調べにうっとりとした恍惚へと誘われるのをじかに体験したとき、聴き手は言葉では表しがたい感動を以てやはり「天才」と言いたくなるものなのだろう。

 生来の天凛が類稀なるものであっても、それを見出し、育て上げるプロセスがなければ、「天才」なるものは世に現われ得ない。彼女たちが生れた当時の日本で洋楽は一般レベルまで普及していたとは言い難く、またその水準も発展途上にあった。そうした中、諏訪根自子が小野アンナ(1890~1979)やアレクサンドル・モギレフスキー(1885~1953)、井上園子がカテリーナ・トドロヴィッチという世界的レベルの演奏家・音楽教育者と出会えたのは実に僥倖であった。

 彼女たちの才能を開花させた僥倖にはそれなりの時代背景がある。小野アンナ、アレクサンドル・モギレフスキー、カテリーナ・トドロヴィッチはいずれもロシア革命を逃れて日本へ亡命していた白系ロシア人であった。あるいは、1930年代に日本や中国へ来て江文也、伊福部昭、早坂文雄、清瀬保二をはじめとした若手作曲家を発掘した亡命ロシア貴族の音楽家、アレクサンドル・チェレプニンのことも想起される。ロシア革命という政治変動による亡命者の流出は、日本の近代音楽発展にとって重要な貢献をしてくれたと言うこともできよう。

 そう言えば、井上園子は江文也のピアノ曲を演奏会でよく取り上げ、戦前に録音もしていた。江乃ぶ夫人は、井上園子の演奏の素晴らしさがいつまでも印象に残っていたらしい(周婉窈〈緣起於江文也、緣起於曹永坤〉《面向過去而生》允晨文化、2009年、324頁)。井上は戦後、若くして演奏活動をやめてしまった。彼女の評伝があれば読んでみたい。

 ヒトラーが称揚したワーグナーの評価をめぐって現在に至るもナチスの影が落ちていることに顕著なように、本来なら別物であるはずの音楽と政治の関係にキナ臭い緊張が見え隠れすることがある。第二次世界大戦の勃発後、ヨーロッパへ留学していた諏訪根自子も時代状況に流されるように駐独大使大島浩夫妻の後援を受け、ベルリンで演奏会を開いた。ナチスの宣伝大臣ゲッベルスから贈呈されたストラディヴァリウスをめぐり、戦後になると彼女は毀誉褒貶にさらされることになる。彼女の手元にあるストラディヴァリウスはナチスの略奪部隊によってユダヤ人から奪われたものだったのではないかという噂が流れた。ストラディヴァリウスを自らの音楽への評価の表われとしてプライドを持っていた彼女からすれば心外なことで、自らも調査を行い、正規のルートで購入されたものであったと反論をしていた。いずれにせよ、彼女のストラディヴァリウスも、ナチスの犯罪究明に熱意を傾ける人々の視野に入っていたわけで、音楽と「政治的正しさ」をめぐる難しい葛藤には頭を悩ませてしまう。

 萩谷由喜子『諏訪根自子──美貌のヴァイオリニスト その劇的な生涯』(アルファベータ、2013年)は、彼女の音楽へ傾けた純粋で誇り高い情熱と、ストラディヴァリウスをめぐる問題とを分けながら彼女の生涯を描き出しており、好感を持った。本書によると、彼女の死後になって愛用のストラディヴァリウスが贋物だと分かった、と根自子の妹でやはりヴァイオリニストの諏訪晶子(もちろん、諏訪内晶子とは別人)から聞かされたという。真偽のほどは謎のままである。逆に言うと、名器であろうとなかろうと、根自子の奏でる音色は他ならぬ彼女自身ものであったという端的な事実に変わりはない。

 諏訪根自子を描いたもう一冊のノンフィクション、深田祐介『美貌なれ昭和──諏訪根自子と神風号の男たち』(文藝春秋、1983年)のタイトルを見ても分かるように、彼女のイメージには必ず「美貌」というキーワードがついてくる。「美人」なるものへの審美的センスは時代によって微妙に変ってくるものだが、若き日の彼女の写真を見ると、確かに現代の感覚からしても思わず見入ってしまうくらいに気品ある美しさが際立っている。

 ところで、深田の本のタイトルにある「美貌」とは、吉川英治が書いた「美貌なれ国家」という文章に由来する。1937年、日本からヨーロッパまで横断する長距離飛行の世界記録を打ち立てた神風号の操縦士・飯沼正明(1912~1945)、機関士・塚越賢爾(1900~1943)の二人が容姿にすぐれて女性に人気のあったことに触れた文章である。神風号がブリュッセルに降りついたときに花束を持って出迎えた一人が、ベルギー留学中だった諏訪根自子であった。三人の邂逅はこの一回きりであったが、深田はこれを軸にそれぞれの人生の軌跡を描き出していく。洋楽にせよ、飛行機技術にせよ、西洋に追いつけ追い越せ一本やりというだけでなく、ひたむきな凛凛しさを湛えた美貌に、一つの時代精神を見出そうというのが深田の意図なのだろう。

 「神風号」というと「神風特攻隊」が想起されてしまうかもしれないが、それは太平洋戦争末期のこと。1937年のこの時点で、「神風号」は飛行技術の向上と溌溂たる冒険心の象徴だったと言える。

 その後、飯沼と塚越は1941年11月に太平洋横断飛行を志すが、日米関係の緊張、そして開戦という時代状況の中で断念せざるを得なくなる。失意のうちにあった飯沼は、プノンペンの飛行場で滑走路に迷い出て飛行機のプロペラに挟まれるという、プロの操縦士としては考えられない事故で死んだ。「空の英雄」であった飯沼の死は「戦死」と公表され、「血染めの操縦桿」という架空の美談まででっち上げられる。塚越もまた戦争中、シンガポールを飛び立ったまま消息を絶った。

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【メモ】阿南友亮『中国革命と軍隊──近代広東における党・軍・社会の関係』

阿南友亮『中国革命と軍隊──近代広東における党・軍・社会の関係』(慶應義塾大学出版会、2012年)

 なぜ中国共産党が国共内戦を勝ち抜くことができたのか、その理由について研究者の間ではいまだにコンセンサスの得られた結論は出ていない。共産党が実施した社会革命によって農民の支持を取り付け、彼らの積極的な参加によって内戦に勝利したというストーリーが公的に定説とされているが、アカデミックな検証を経ているわけではない。

 共産党の社会革命、具体的に言うと土地改革によって土地の分配を受けた農民が革命運動の担い手となったというモデルは、共産党が軍隊を形成し始めた初期の段階から語られている。実際にはどうであったのか? 本書は軍隊に兵員を供給する社会的背景との関係に注目し、1920~30年代の広東省における共産党軍の動向について当時の史料を駆使しながら丹念に検証を進めるている。下記にメモしたように、「革命の論理」が標榜されつつも、その背景には伝統的・土着的社会との連続性が垣間見えてくる。本書の着眼点を地域的・時代的に広げて検証を続ければ、共産党の「建国神話」を相対化し、ひいては中国現代史を大きく描き変える可能性すら感じさせ、興味深い。

・共産党による階級闘争や社会革命の推進によって土地を分配された農民たちが革命戦争へ積極的に加わったというのが従来の通説であった。当時の共産党が党の指導下で動員し得る近代的軍隊の形成を目指していたのは確かである。しかしながら、当時の史料を調べてみると、実際にはうまくいっていない。
・当時の広東省には潤沢な武器弾薬が流れ込み、農民たちが高度に武装して宗族単位で自衛集団が形成されていた。共産党はむしろ、もともと広東に存在していた宗族間の対立関係に乗っかる、つまり、ある宗族が国民党の後ろ盾を得ているなら、敵対する宗族は共産党に従うという伝統的な分類械闘の論理を利用する形で武力を確保した。
・実際に動員された農民たちはあくまでも自分たちの生き残りが目的であった。従って、革命事業の推進という共産党の理念と宗族の生き残りという地元民の伝統的な思惑との二つの論理をかみ合わせることで当時の広東における共産党の軍事力は成立した。地元出身で宗族と血族的な関係のある党員が接着剤となり、二つの論理を読み替えながら共闘関係を作り上げる必要があった。
・社会変革の進行による農民の支持によって軍事力が形成されたのではない。既存の武力を一定レベルまで確保できさえすれば、その武力を後ろ盾に一定の管理・監視権力を行使して住民の徴発が可能となり、軍隊が拡大される。つまり、共産党が試みた土地革命とは関係なく、様々な手段を駆使して既存の武力をかき集められたからこそ、それがその後の活動を展開する基礎となった。

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