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2013年1月6日 - 2013年1月12日

2013年1月 8日 (火)

ユーラシア主義、チェレプニン、そして江文也

※前回のエントリーの続き

 ところで、私がなぜ浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』(成文社、2010年)を手に取ったかというと、1930年代に日本や中国で若手の音楽家たちを積極的に発掘・育成しようとした亡命ロシア人の音楽家、アレクサンドル・チェレプニンにユーラシア主義の影響があったのかどうかを確認したいという関心による。

 彼は青年期、革命で混乱するペトログラードを離れてグルジアの首都ティフリス(トビリシ)の音楽院院長に就任した父ニコライ・チェレプニンと共にこの地で過ごしていた。彼はコーカサスが織り成す多種多様な民族文化に積極的な関心を持ち、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの各地をめぐってそれぞれの音楽や芸術に触れている。後にパリでたまたまバルトークと出会った際、民謡採集の話題で盛り上がったらしいが、若きチェレプニンはグルジアの民謡について語ったという(Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, ed. by Sue-Ellen Hershman-Tcherepnin, Alexander Tcherepnin: The Saga of a Russian Émigré Composer, Indiana University Press, 2008, pp.69-70)。

 例えば、浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』でトルベツコイの思想を説明する次の記述は、チェレプニンもまたコーカサス(カフカス)で実感したであろう感覚と共通しているように思われる。

「そして、ヨーロッパ文化こそが最も優れている思考様式に対し、彼が異議を唱えるようになったもう一つの要因は、カフカス地域の文化研究にあったと考えられる。後に彼のライフワークとなるこの地域の言語、文化研究を通じて、トルベツコイは、ロシア文化が擁するアジア的な要素こそが、ロシア文化をヨーロッパ文化と本質的に分けるものであることを認めただけでなく、それまで劣ったものと考えられてきたロシアの中のアジア的な文化を改めて評価する視点を得たのである。その中で、ロシア人の文化とカフカス地域にある種々の文化のどちらが優れているかなど判断はできない、「あらゆる民族と文化は、いずれも全て等しい価値を持ち、高いものも低いものもない」という彼の文化観が確立されたのである。」「様々な民族と言語が混沌とした様相を呈しながらも、調和しながら共生している「ユーラシア」イメージの原風景は、彼が見たカフカスにあった。」(浜、77ページ)

 結論から言うと、チェレプニンがユーラシア主義から一定の影響を受けているのは確かである。アジアへの関心というだけでは、広い意味でのオリエンタリズムというレベルを超えないかもしれない。だが、例えば、彼が来日して日本の若手作曲家たちと懇談の機会を持った際、清瀬保二をはじめ日本の若手作曲家たちに「西欧音楽を模倣する必要はない、君たち自身の民族的個性を活かした音楽を模索しなさい」という趣旨の示唆を与えていたことは、各民族固有の文化それぞれに価値を認めるユーラシア主義の多元的性格と軌を一にしている。

「日本作曲家諸君よ! 諸君の手には世界の民話の豊かな宝庫がある。諸君は近代楽器のテクニックを熟知してをり之れを自由に使用し得るのだ。
 先づ自国に忠実であり、自からの文化に忠実ならんことを努められよ、そして自からの民族生活を音楽に表現されよ。諸君の民話をインスピレーションの無尽蔵な源泉とし、民族的文化を固き土台とし、日本民謡と日本器楽を保存し以つてあらゆる方法によつて之れを発展させるとき、諸君は正しき日本国民音楽を建設するだらう。
 諸君の音楽作品がより国民的であるだけ、その国際的価値は増すであらう。」(アレクサンドル・チェレプニン[湯浅永年訳]「日本の若き作曲家に」『音楽新潮』1936年8月号)

(なお、こうした発想を彼ら日本の若手作曲家たちがチェレプニンを通して学んだのではなく、西欧的な音楽語法による画一化によって彼ら自身の内面でわだかまっていた感覚が押しつぶされかねないという葛藤に悩んでいたところをチェレプニンの肯定によって後押しされたという経緯には注意しておきたい。例えば、伊福部昭が「日本狂詩曲」でチェレプニン賞の募集に応じた際、日本側の事前審査でこんな粗野な作品をヨーロッパの大家に見せるわけにはいかないという意見があったらしいが、結果としてこの「日本狂詩曲」が受賞し、伊福部が作曲家としてデビューするきっかけとなった。日本の既製楽壇が内部検閲でオミットしようとした粗野な感性こそが、まさにチェレプニンの求めているものであった。こうした事情を見ると、若手作曲家自身の内発性があったと言える一方で、西欧音楽という外来文化の押し付けを拒む上で、チェレプニンという、日本の視点からすればやはりヨーロッパから来た著名な音楽家の権威に頼らざるを得なかったというのは一つの皮肉ではある。)

 また、1934年に『上海晩報』からインタビューを受けたときには「ロシア人は実際にはヨーロッパ人ではなく、モンゴル的なものを消し去ってはいません」と語っており(Korabelnikova, p.109)、これはユーラシア主義の「タタールの軛」再評価を念頭に置いた発言と考えられる。実際、彼は1920年代後半にユーラシア主義の文献を読んだことからヒントを得ている。ただし、政治運動としてのユーラシア主義にはコミットしていないのだが、あくまでも彼個人の思想や芸術観というレベルに限って影響を受けていたことは指摘できる(Ibid. p.154)。

 20世紀初頭、ヨーロッパ及びその周辺各国では自分たちの民俗や古代文化を見つめなおそうという気運が盛り上がっており、それはやがて第一次世界大戦後において民族自決の政治思想とリンクしていく。ロシアにおけるキリスト教以前の古代に着想を得たストラヴィンスキー「春の祭典」やプロコフィエフ「スキタイ組曲」は原始主義と呼ばれることがある。フィンランドではシベリウスがカレヴァラを題材に曲想を練り、ハンガリーではバルトークをはじめとした人びとが民謡採集を活発に行った。アルメニア人のコミタスは、トルコ出身であるためアルメニア文化をよく知らないという負い目の意識を抱えており、そのため純粋なアルメニア文化への渇求を彼自身のアイデンティティーの模索と重ね合わせるように民謡採集に取り組んだ。そうした音楽的状況を熟知していたチェレプニンは、西欧近代による文化の均質化傾向が世界規模で拡大することによって各民族固有の音楽文化の豊かさが押しつぶされかねないという懸念を胸中に秘めて、はるか東アジアにまでやって来た。上海では中国的風格を備えた音楽を求めてピアノ曲のコンクールを実施して賀緑汀や老志誠などを見出し、日本でも多くの若手作曲家たちと出会った。清瀬保二は西洋音楽と日本らしさとの葛藤をチェレプニンに向けて率直に問いかけた。早坂文雄は古代への憧憬を抱き、伊福部昭はアイヌやオロッコ、二ヴフのメロディーまで自らの音楽に取り込んでいく。そして江文也は、生まれ故郷の台湾のメロディー、山地の原住民族への憧れ、古代中国文化に圧倒された感動を音楽で表現しようとした。横断的に俯瞰してみると、様々な音色が響きあう世界をチェレプニンはつなぎ手の一人となって渡り歩き、それこそユーラシア主義のイメージさながらに、多文化がそれぞれ異質ながらも全体としてハーモニーを奏でているかのような様相が浮かび上がってくる。それは単なる夢想に過ぎないかもしれないが、非常に魅力的なヴィジョンだと思う。

 同時に、ユーラシア主義は、嶋野三郎の解釈からも分かるとおり、日本のアジア主義において、反西欧近代→東洋の優越という政治的コンテクストで読み替えられかねない危うさもはらんでいた。戦争中の1943年、台湾から東京へ留学していた郭之苑が江文也の自宅を訪問した際、江文也は「西洋の芸術文化は行き詰っている。彼らはすでに西洋的合理主義を離れて東方の非合理的な世界を追求している。音楽の世界ではストラヴィンスキーやバルトークがそのあたりをよく表現しているようだ」と語っていたという(郭之苑「中國現代民族音楽的先駆者江文也」、林衡哲・編『現代音楽大師:江文也的生平與作品』前衛出版社、1988年、66頁)。こうした彼の発言は、おそらくチェレプニンと出会った頃から抱懐していた考え方だと思われる。だが、他方で戦時中という時代状況を考えたとき、西欧近代の克服を日本の使命、大東亜戦争の世界史的意義として正当化しようと試みた「近代の超克」論と共鳴する側面があったことも否定は出来ない。西欧近代の否定を、多文化性の擁護と受け止めるのか、東洋の優越と解釈するのか。両者が微妙に絡まりあった様相をいかに捉えていくかという問題には複雑な難しさも感じてしまう。

 最後に1点だけ指摘しておくと、清瀬保二はチェレプニンと語り合った折の印象を「チェレプニンは語る──われらの道」という文章にまとめている(『清瀬保二著作集――われらの道』[同時代社、1983年]を参照。初出は『音楽新潮』1934年11月号)。そこでは江文也と同様に、チェレプニンの「ヨーロッパ音楽は行きづまっている。どうしても東洋の力をかりて自分らの糧となし再生しなければならぬ」という発言に反応している。同時に、この文章では続けて「とまれ自分らが最も困難に思い、注意しなければならないのは近代の日本であり、現代の東洋である。安価なる日本主義やファッショ的民族主義を主張することには組みしない」と明記していることにも注意を喚起しておきたい。

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2013年1月 7日 (月)

浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』

 近代化の過程が事実上、西欧文明との一体化を意味すると受け止められる中、自分たちの国は果してヨーロッパなのか、アジアなのか?という自己認識をめぐる問いが常に論争の的であり続けた点で、日本の近代思想史においてもロシアはしばしば参照点として言及されてきた。近代=西欧文明とみなし、それへの同一化によって自分たちのアイデンティティーが蝕まれつつあるという認識を内包していたところを見ると、ユーラシア主義もやはり「反近代」を志向する思想運動であったと言える。

 ユーラシア主義とは、ロシア革命によってヨーロッパ各地への亡命を強いられた人々の間で1920年代に生れた思潮である。浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』(成文社、2010年)は言語学者のトルベツコイ(1890~1938)と地政学者・経済学者のサヴィツキー(1895~1968)の二人を軸にしてこの思想の内在的な理解を進めている。トルベツコイがブルガリアのソフィアで刊行した『ヨーロッパと人類』、さらにサヴィツキー、神学者のフロロフスキー(1893~1979)、音楽評論家のスフチンスキー(1892~1985)との4人で共同執筆した論文集『東方への旅立ち』(1921年)が嚆矢とされる。

 ユーラシア主義の思想的特徴をいくつか挙げてみると、第一に多言語・多民族の文化的統一体としてユーラシアを想定している。東方世界と地続きに広がるステップ地帯でスラヴ民族とトゥラン民族との相互交渉を通した多元性に彼らはロシア文化の核心を見出した。第二に、トルベツコイは1925年にベルリンで刊行した『チンギス・ハンの遺産』において、こうした多元的統一を成し遂げたものとしてモンゴルの支配、いわゆる「タタールの軛」を再評価した。サヴィツキーが1933年に発表した論文で民族政策を論じた考え方を本書では次のように要約している。

「ユーラシア世界の歴史に見られる国家の強権的な統治とは対照的に、「民族的体制と宗教的生活は、伝統的に、非強制的な原則によって規定されて」おり、これは「紀元千年にわたってユーラシアに存在したスキタイやフンの国家の特徴」であった。「もっとも大きな民族的、宗教的寛容(当時のヨーロッパの諸体制とは実に対照的である)によって、旧世界のほとんど全てを抱え込んだ十四世紀から十八世紀のモンゴル帝国は特徴付けられ」、この「遊牧民の帝国の歴史の中で古くから培われた独自の寛容の形態」を後のロシアが継承したのである。そして、「一方では国家中央の強力な強制力と、もう一方では民族的、宗教的問題における非強制的体制という、一見して明らかなコントラスト」が歴史的伝統として存在しており、「民族的、宗教的寛容こそが、この帝国の存在の唯一可能なかたち」なのである、と結論づけられている。」(169~170ページ)

 このような「タタールの軛」再評価は、いわゆるアジア的要素をロシアの後進性とみなし、克服の対象と考えてきた知識人層にとってかなり挑発的な議論であったと言えよう。ロシアのアジア的要素を前面に打ち出して、西欧近代とは異なる自己認識を確認しようとした点が第三の特徴として挙げられる。ただし、それは単なる反発ではない。ユーラシア主義では上述のように文化的多元性を擁護する寛容な政治体制を求めている。西欧近代文明の導入による人為的な国家形成は領域内の均質化を図り、それが文化的多元性を押しつぶしてしまう点に批判の矛先が向けられている。あらゆる民族の文化は価値として対等であり、西欧を上位に置くヒエラルキーに従属させてしまうわけにはいかない(ただし、この点についてはトルベツコイとサヴィツキーとに微妙な温度差があったらしい。ユーラシア主義内部における微妙な相違を浮き彫りにすることも本書の論点の一つとなっている)。ボルシェヴィキに対しても同様の観点から批判的であった。

 ロシアの政治亡命者たちが滞在していたヨーロッパの1920年代は、第一次世界大戦の惨禍にうちひしがれ、オスヴァルト・シュペングラー『西洋の没落』が話題になったように文明論的なレベルでも悲観的な気分の蔓延する時代であった。没落しつつある西欧近代にかわり、ロシア=ユーラシア世界の台頭というイメージがあったことも第四の特徴と言えるだろう。また、第五の特徴として、ヨーロッパ諸国の議会制度が行き詰まり、各国で独裁者が出現しつつある政治状況を目の当たりにして、「理念統治」という考え方を掲げた。ただし、伝統なるものを本質主義的に捉えて専制政治を正当化してしまう危うさがあった点も指摘しておかねばならないだろう。

 ボルシェヴィキの政権も早晩崩壊するはずだという見込みからロシアの亡命者たちは様々な政治構想をめぐらしていた。しかし、ソ連の体制が安定し始める中、例えばスフチンスキーのようにむしろソ連内部に入り込むことでユーラシア主義の理念が実現できると考える勢力も現われたように分裂傾向が顕著となり、1930年代には思想運動としてのユーラシア主義は消えていく。トルベツコイは亡命先のウィーンでゲシュタポに逮捕されたショックで1938年に病死した。プラハにいたサヴィツキーは、ドイツ軍が侵攻した1939年にはゲシュタポに、1945年にはソ連内務人民委員部に逮捕され、ラーゲリへ送られた。なお、最後のユーラシア主義者と言われたレフ・グミリョフは、ラーゲリでサヴィツキーと出会ったのがユーラシア主義に関心を持つきっかけであった。

 共産主義も近代の一亜種に過ぎないと批判したユーラシア主義は、ソ連体制において当然ながらタブーとなっていた。ソ連崩壊後、とりわけプーチン政権以降、ロシア外交を地政学的に根拠付ける思想として見直されるようになってきたが、その場合にはネオ・ユーラシア主義と呼ばれることがある。

 なお、トルベツコイ『ヨーロッパと人類』は、1926年の時点で嶋野三郎によって邦訳されている(『西欧文明と人類の将来』行地社出版部)。嶋野は満鉄の東亜経済研究所勤務のロシア専門家で、宮崎正義と共にモスクワ留学に派遣された経験を持つ。他方、嶋野は大川周明や北一輝などの同志として老壮会、猶存社、行地社に参加、二二六事件で投獄されたことのある行動的右翼でもあった。当然ながら、日本的アジア主義のコンテクストの中で反西欧近代→有色人種解放と読み替える志向性を持ち、そうした意識は1932年に出された「ユーラシア主義宣言」を「日満共福主義」と題して翻訳しているところにも表われている。

(続く)

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2013年1月 6日 (日)

萱野稔人『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』、その他

 萱野稔人『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書、2011年)を読んでいたら、私自身の以前の関心と結びついてくるところがあった。そのことに触れる前に、まず本書のキモを以下に並べておく。

・「私がナショナリズムを肯定するのは、基本的に「国家は国民のために存在すべきであり国民の生活を保障すべきである」と考えるところまでだ。もしナショナリズムが「日本人」というアイデンティティのシェーマ(図式)を活性化させて、「非日本人」を差別したり「日本的でないもの」を排除しようとするなら、私はそのナショナリズムを明確に否定する。私がナショナリズムを支持するのは、あくまでも国家を縛る原理としてのナショナリズムであり、アイデンティティのシェーマとしてのナショナリズムではない。」(29~30ページ)

・人間の集団的意思決定にあたって言語の共通性が前提とした上で、「国家(政府)は国民の生活に責任をもたなくてはならない」(24~25ページ)。「それぞれの民族は固有の政府をもつべきであり、それこそが正統な政治の枠組みとする政治的原理」(51ページ)。「国家は国民によって国民のために運営されなければならない」という原理をかかげることで、ネーション(国民)となったその地域の住民たちが主権の行動に関与しうる可能性を歴史的に切りひらいてきた。(148ページ)

・アーネスト・ゲルナーの議論に基づき、かつての農耕社会は差異化のベクトルによって成り立っていた秩序であったのに対し、産業社会における人びとは特定の土地や仕事から切り離されて流動化していったことを指摘。コミュニケーションの抽象化に伴い、共通の言語や基礎的技能が必要となる。そうした産業社会の要請に従って国家は領域内の言語の統一・標準化、教育制度の整備を進め、文化的に同質化した集団へとまとめ上げていった。「国民国家は、国家がみずからの内部を、労働力が自由に移動し、資本が自由に投下されるような社会空間につくりかえることで成立したのである」(168ページ)。言い換えると、資本主義を内在化させることで国民国家が成立した。

・国家が人びとに「基礎的な労働習慣」を身につけさせるよう標準化を進めた点については、フーコーの「規律・訓練」の議論を援用する。暴力による威嚇ではなく、身体的な規律化によって秩序形成が進められ、国家に備わる暴力が後景化した点を指摘。

・国民国家を否定するのは難しい。「一つは、国民国家がなくなったからといって私たちが暴力の問題から自由になることはありえないからだ。マルチチュードによる民主主義を実現するためですらマルチチュードによって民主的に組織された軍隊による総力戦が必要となることはすでにみた。あるいは、もしみずからの独立と自治をめざさないのであれば、別の統治権力による暴力のもとにとどまるほかない。」「いずれにせよ私たちは暴力の問題から逃れることができない以上、問われるべきは統治の暴力を自分たちでコントロールできるかどうかということになる。」「問われるべきは暴力の「規模」ではない。暴力をコントロールできるかどうかという「形態」だ。」(202~203ページ)

・もう一つの問題はファシズムの可能性だが、「労働市場のグローバル化をつうじた国内経済の崩壊によってナショナリズムが排外主義へと向かうことを防ぐには、ナショナルな経済政策や社会政策によって国内経済の崩壊を食い止めることが必要だ」。「ナショナリズムがファシズムに向かわないようにするには、ナショナリズムのなかにとどまってナショナリズムそのものを加工していくことが必要なのである。」(210ページ)

 さて、私の以前の関心を思い出したというのは次の箇所。

・「国家をなくすことはできるかという問題は、つまるところ、物理的暴力行使にもとづいてみずからの意思決定を社会に貫徹しようとする運動そのものをなくせるか、という問題」であって、「善い・悪い」では割り切れない(97ページ)。
・「国家をなくすためにすら国家を反復しなければならないという逆説」(115ページ)

 以前、大正・昭和初期の思想史的状況について調べていたとき、高畠素之という人物に関心を持った。彼はマルクス『資本論』を初めて全訳した人物として記憶されている。ところが、その翻訳作業の最中から国家社会主義を主張し始めたため、社会主義者からは裏切り者呼ばわりされ、逆に右翼陣営からは社会主義者のくせして天晴れな奴じゃ、みたいに受け止められた。戦後のある時期まで、社会主義シンパが主流となった思想史研究では、彼は進歩的な理想についていけず土着的ナショナリズムへ先祖がえりした反動主義者なのだという受け止め方が一般的となった。もちろん、現在の思想史研究ではそれほどのバイアスはないと思うが、ただマルクス主義との対抗関係で高畠を位置づける視点がすでに定着してしまったため、それ以上掘り下げて考えようという契機はない。他方、高畠の極めて論理的・合理的な思考様式は右翼的な感性とも全く異質であり、従って右翼からも鬼っこ扱いされた。左右いずれからも異端視されるという、ある種のエアポケットに落ち込んでしまったと言えよう。

 高畠がマルクス主義に疑問を投げかけたのが、まさに国家の問題であった。例えば、レーニン『国家と革命』が、プロレタリア革命によって国家は揚棄され、暫定的に「半国家」が現れるがいずれ消滅する、と論じていたのに対して、「半国家」だろうが何だろうが国家であることに変わりないじゃないか、とかみついた。人間集団が存在するかぎり、国家と権力の問題は決して無視できない。マルクス研究だけでは不十分で、国家の問題も理論的に考えておかなければ現実問題に対して有効な社会科学とはなり得ない、というのが高畠のいわゆる「転向」の理由である。

 善悪の価値判断を保留して、とにかく論理的に考えようとするのが高畠というパーソナリティーの特徴である。価値中立的な法秩序としての国家を考えるため、彼が高く評価したのがハンス・ケルゼンの国家論であった。つまり、「国家とよばれる人間社会の秩序が一つの強制秩序であり、この強制秩序は法秩序と同一物であることを意味する。」「「国家」とか「法秩序」とかよばれる支配、いわゆる「強制秩序」は、その追求する社会的目的、即ちその内容によって性格づけられるものではない。それは様々な内容を取り込みうる社会生活の形式であり、多種多様な目的を実現しうる社会技術の手段である」(ハンス・ケルゼン『社会主義と国家』長尾龍一訳、木鐸社、1976年、12~13ページ)という考え方を高畠も取っていたと考えられる。また、高畠が天皇主権説の上杉慎吉と一緒に経綸学盟を発足させたことは右翼運動史に記載されているが、そもそも法秩序が成り立つ根拠について当為の問題として考えようとする彼の問題関心において、ケルゼン的国家論と上杉的国家論とにある種の類似性が見られるとも指摘している。単に国家主義者になったのではなく、そこに理論的な着想が動機となっていた点を見逃すことは出来ない。

 このような彼の見解の当否についてはもちろん議論の余地があるだろう。ただ確認しておきたいのは、彼のナショナリズムへの「転向」は、あくまでも社会科学理論としての転換であって、土着的な心情に絡め取られたといった性質のものではないことである。それにもかかわらず、日本の社会主義運動史において、高畠が国家論の重要性を指摘する上でケルゼンを理論的根拠とした点には一切触れられておらず、単にナショナリストだから社会主義者になりきれなかったのだ、という心情倫理的な断罪で終わっている。国家やナショナリズムの問題について感情的でナイーヴな発想が評価基準となっていたことがうかがわれよう(もっとも、戦前の暗い記憶を持つ世代の議論であった点は斟酌してあげないといけないとは思う)。

 萱野さんは「日本の人文思想の世界では、自発性によって人びとがつながるという美しい現象ばかりが想定されて、強制力を必要とするような暗い現実を議論から外す傾向が強い。だからこそそこでは、国家の廃棄が可能だというような議論も簡単になりたつのであり、政治を論じるための概念も貧相なものになるのである」(113ページ)と記しているが、それは戦後、一貫して続いている傾向であるなあ、と思った次第。

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