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2013年5月5日 - 2013年5月11日

2013年5月11日 (土)

平岡昭利『アホウドリと「帝国」日本の拡大──南洋の島々への進出から侵略へ』

平岡昭利『アホウドリと「帝国」日本の拡大──南洋の島々への進出から侵略へ』(明石書店、2012年)

 日本の場合もそうだが、海上における国境紛争は島の領有権をめぐる争いとして具体化する。そうした島々は、人が住むのに適さない荒涼たる小島であることが多い。漁業資源や埋蔵資源を確保するため領海を出来る限り広げておきたいという思惑があるのはもちろんだが、そもそもこうした島々を領有化したきっかけは何だったのだろうか? ある意味、山師の投機的行動が領土拡大のきっかけになったと言えるのかもしれない。

 幕府によって領有されていた小笠原諸島は幕末・維新の混乱の中でいったん放棄されていたが、1876年から再統治されることになった。この時に小笠原へ派遣された人員の一人だった八丈島の大工、玉置半右衛門は開墾事業を進める中、アホウドリの羽毛は高値で売れることに目をつけた。乱獲でアホウドリが減少すると、さらなる富を求めて1906年には南大東島を開拓する。玉置の成功は一攫千金を狙う山師的な人々を駆り立てた。彼らは南鳥島や尖閣諸島をはじめアホウドリのいそうな島を求めて血眼になり、南洋進出の直接的なきっかけとなる。本書では「バード・ラッシュ」と表現されるが、こうした動向は明治後期に盛り上がった南進論とも連動して、志賀重昂や榎本武揚なども支援していた。日本人の密猟者はミッドウェー諸島やウェーク島にまで上陸し、アメリカと外交問題になったばかりか、乱獲に対する批判的な世論がアメリカ側で盛り上がったという。

 彼らの行く先々で、繁殖のサイクルを無視した乱獲が繰り返されるうちにアホウドリはいなくなっていく。他方、こうした島々には肥料の原料となるグアノ(鳥糞)・リン鉱があることが注目された。グアノ・リン鉱を運ぶには運搬船が必要だし、肥料を製造する工場も建設しなければならない。それまでの山師的な投機行動は組織的な経営形態へと転換されていく。玉置は南大東島でサトウキビ栽培を始めたが、その事業が東洋精糖(後に大日本精糖に合併)へ転売されると、島単位で独占資本の所有・経営によるプランテーションが展開された。そこでは会社─八丈島出身者─沖縄出身者という階層構造で事業が行われたらしい。また、東沙島に上陸した西澤吉治はここを西澤島と名づけて大々的な開発に乗り出したため(「西澤島通用引換券」という独自通貨を発行するなど島単位の経済圏を作っていた)、清朝との間で外交問題を引き起こし、西澤は退去することになった。

 第一次世界大戦でドイツ領南洋諸島を日本軍は占領したが、この作戦を実施した海軍軍務局長の秋山真之は西澤島事件の際に西澤と関わりを持って以来、リン鉱の重要性に目をつけていた。秋山を介して結びついた西澤と三井物産の山本条太郎は南洋経営組合を設立、南洋諸島におけるリン鉱の開発を進めたが、一民間企業と海軍との結びつきが批判され、やがてリン鉱事業は海軍直営に移管されることになる。

 著者は人文地理学を専門としており、そもそも無人島へ上陸した動機を解明しようというのが研究のきっかけだったという。山師の投機行動という民間の経済活動が無人島への上陸という形で領土拡張のきっかけを作り出し、それが経営スタイルの変化に応じて国策的南進へと質的に転換していく動態が興味深い。

 無人島への上陸は、水や食糧の補給がままならない当時、単に冒険者的な勇気では済まされない。玉置のような事業経営者はアホウドリ捕殺作業のため労働者を送り込んだが、補給船が来ないまま、事実上、置き去りにされて餓死した事件も起こっている。交代要員を送り込む際に採取された羽毛だけを回収しており、置き去りも意図的だったのかもしれない。そのように死んでいった人々の存在はそのまま忘れ去られていった。日本の国策的南進に先立って、例えば「からゆきさん」など無名の民間人の足取りがあったことも知られているが、そうしたコンテクストの中で見ると、「南進」の歴史に埋もれた「無告の民」の悲劇の一例とも言えよう。

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石剛 編著・監訳『「牛鬼蛇神を一掃せよ」と文化大革命──制度・文化・宗教・知識人』

石剛 編著・監訳『「牛鬼蛇神を一掃せよ」と文化大革命──制度・文化・宗教・知識人』(三元社、2012年)

 文化大革命そのものよりも、これを現出させることとなった中国社会の内在的要因の解明を目指し、社会制度的・思想構造的な観点からアプローチした論文が集められている。目次は以下の通り。

・王毅(浜田ゆみ訳)「「牛鬼蛇神を一掃せよ」が「文革」の綱領となる過程及びその文化的根源」:文化大革命のスローガンの後景に、打倒相手を妖魔化する原始的・深層意識的なレトリックを指摘。
・印紅標(光田剛訳)「紅衛兵「破四旧」の文化と政治」
・楊麗君「文革期における集団的暴力行為の制度的要因」:私的領域と公的領域を分けるのが近代社会の特徴とするなら、中国では私的領域がなく、公的領域が生活を覆い尽くしている→退出する道がないためあらゆる場面で闘争が拡大したことを指摘。
・王力雄(渡辺祐子訳)「チベット問題に対する文化的懸検証」「チベット仏教の社会的機能とその崩壊」
・張博樹(藤井久美子訳)「中国現代「党化教育」制度化の過程」
・謝泳(浜田ゆみ訳)「思想改造運動の起源及び中国知識人への影響」
・呉廸(浜田ゆみ訳)「ユートピアの実験──毛沢東の「新人と新世界」」
・干春松(光田剛訳)「1973年の梁漱溟と馮友蘭」
・単世聯(桑島久美子訳)「1949年以後の朱光潜──自由主義からマルクス主義へ」

 私は梁漱溟にちょっと関心があるので、干春松論文の概要を以下にメモしておく。梁漱溟については、Guy S. Alitto, The Last Confucian: Liang Shu-ming and the Chinese Dilemma of Modernity, 2nd edition, University of California Press, 1986(ガイ・S・アリット『最後の儒者:梁漱溟と近代をめぐる中国のジレンマ』)を読んだときのメモをこちらにアップしてある。

・儒学研究の大家として知られた梁漱溟と馮友蘭。批林批孔運動にあたって、節度を曲げなかった梁と政治的風潮に迎合して孔子批判を行った馮、この二人を崇高さ/卑小さといった個人的な節度の問題として捉えるだけで良いのだろうか?
・梁漱溟は学問に退避していたのではなく、むしろ政治・社会の問題に強い関心を持っていた。晩年に彼の話を聞きにいった景海峰によると、彼は自らの文化的著述への執着はあまりなかったが、むしろ国共両党の間を取り持とうと奔走した時期の筆墨文章は後世に残したいと念を押していたという。
・知識分子について、独立的な立場からの批評者としての役割という啓蒙的な基準から評価する考え方だけでは、中国の知識階層のイメージをつかむのは難しい。伝統的な中国の知識階層の考え方は、自分の考え方の実現を聖明な君主への期待に寄託するというもの。儒家の立場と現実政治とのあいだの関連を調整しようとした立場で馮を考えてもいいだろう。梁と馮の二人とも、順応的な時もあれば抗争的な時もあった。
・梁漱溟は1949年以前から民主人士として知られ、毛沢東から何度も政府に参加するよう求められたのに対して、彼は「政府の外側にとどまる」ことを希望した経緯がある。対して馮友蘭は、国民党代表大会の代表に加わっていたことがある→過去の過ち→1949年に毛沢東に改悛の手紙を送り、「誠実であれ」という返信→以後の政治活動の基調を決定。
・毛沢東というカリスマの位置→知識分子に新しい秩序を受け入れさせた要素。
・1949年以後の新政権は、過去の社会との断絶を強調した新たな権力体系で、これが中国社会を近代化へと推し進めていると認識したとき、従来から持っていた考え方の無力感→旧説を捨て、新しい権威の要求に一致するような解釈を構成していく。

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2013年5月 9日 (木)

カール・シュミット『政治思想論集』

カール・シュミット(服部平治・宮本盛太郎訳)『政治思想論集』(ちくま学芸文庫、2013年)

 本書は1974年に社会思想社から刊行された『政治思想論集──付カール・シュミット論』からカール・シュミットの論文6本を抜き出し、別の論文1本と合わせてまとめられている。シュミットが展開した議論の主要論点が随所に見え隠れしており、原典によるコンパクトなシュミット入門として読める構成になっている(大竹弘二による新たな解説「カール・シュミットにおける幾つかの思考モチーフ」が示唆に富む)。以下、一からおさらいするつもりで抜き書きメモ。

・法と倫理との分離
「規範としての法は事実から導き出すことができないという思想は、多くの人々にとって周知の事柄に属する。」「法は倫理に対して独立の存在であり、その尊厳は自己から発するものであって倫理への参与によって得られるものではなく、法とは倫理という内面的自由に対して外面的な条件となるものなのだという関係、つまり、倫理から法への漸次的移行という関係などは承服しかねる、という結論がそれである。」(「法・国家・個人」25~26ページ)

・理念としての法を国家が現実世界へと媒介することで具現化
「国家は、この思想世界を現実の経験的現実と結びつけるものであり、法のエートスの唯一の主体の表われなのである。」(同上、14ページ)

・ロマン主義→政治的決断を下す主体とはなり得ない
「ロマン主義的な世界感情や生活感情というものはきわめて多様な政治状況や相対立する哲学的理論と結びつくことのできるものだ」。「革命の火が燃えている限り政治的ロマン主義は革命的であり、革命の終熄と共に保守的となる。また、政治的ロマン主義は、断固たる反革命的な王政復古期にはそのような状況からですら積極的なロマン主義的感情の側面を引き出すことができるのである。」(「政治理論とロマン主義」47ページ)
「所与の事実は、政治的・歴史的・法的ないし道徳的関連から客観的に考察されるものなどではなく、美的=情念的な関心の対象であり、ロマン主義的熱狂を燃え上がらせるものなのである。このような創造力を左右するのは、大部分、主観的なもの、個体的なもの、すなわち、ロマン主義的自我が自らの独創力で創り出したもうたものなのであるから、正確にみると、客体や対象一般などはもはや問題ではない。そのわけはと言うと、対象が、単なる「きっかけ」に、「端緒」に、「跳躍点」に、「刺激」に、「媒体」に、あるいは、ドイツのロマン主義者たちの間で書き換えられた機因という意味のものになるからである。このことは、外界に対する適合関係を意識的に放棄する、ということである。現実的なものとは、すべて、きっかけとなるものであるにすぎない。客体とは実体も本質も持たないものであり、具体的な点なのであるが、その点の周囲をロマン主義的な人物の活躍する場が回転するのである。それは、いつでも存在はするが、唯一の本質的なロマン主義的像に対して共通の尺度で計ることのできる関係などはもっていないのである。したがって、ある客体を別の客体から客観的に区別することなどもまったくできないことである。そのわけはと言うと、まさに存在するものはもはや客体ではなく、さまざまな機因となるものだけだからである。」(同上、64~65ページ)
「ロマン主義者は意識的に決心して何らかの党派に加担し、決断を下す立場などには立っていないのである。」(同上、67ページ)
「ロマン主義的なもののなかには政治的な創造力はない。」(同上、68ページ)→バーク、メーストル、ボナールといった反革命の理論家たちには正/不正の決断を下す決然たる政治能力があったのに対して、ロマン主義者は受動的に流されていくに過ぎない。
※自由主義の不決断に矛先が向けられているが、カール・レーヴィットなどはシュミットの決断主義そのものが機会便乗的なものになり得るのではないか?と批判している。

・マイネッケが示す法と力という二元論への批判。異常な状態(例外)→決断という契機に国家理性の本質を見出す
「…私には、具体的な状況の正常性とか異常性とかの問題は根本的に重要な問題であるように思われる。異常な状態が存在するということから出発すると、誰でも──その人が世界を徹底的に異常なりとみなすのであれ、特別な状況のみを異常なりと思うのであれ──政治・道徳・法の問題を解決するに際して、何らかの妨害によってかき乱されることがあるにしても、それはささいなものに止まるのだとする原理上の正常さを確信している人とは、違った解決の仕方をするのである。」「異常な状況を容認すると生じてくるのは、特別な類いの、決断主義的な帰結、並びに、次のような意味を認めるということである。すなわち、侵害、表面的に言えばいわゆる「非合理性」(たとえば宗教における予定説)、異常な行動と干渉の承認(たとえば、神により召されたる者a deo excitatusの承認)、さらに独裁、それから主権や絶対主義のような概念、したがってマイネッケが(自らスローガン的に拡張した)国家理性と結びつけようとはしたがその委細については注意を払おうとはしなかった諸観念──の意味を認めるということがそれである。」(「フリードリヒ・マイネッケの『国家理性の理念』に寄せて」85~86ページ)
「…実際において唯一の興味ある問題とは、つねに具体的な場合に何が正当なものなのか、いずこに平和が存するのか、平和を妨げたり危険にさらすものは何か、どういう手段で平和を妨げたり危険にさらしたりする事態が排除されるのか、ある状況が正常で「平和的なの」はいつか、等々を誰が決定するのかということである。」(同上、95ページ)

・多元主義的で機能不全に陥ったヴァイマール国家に対して、強力な全体国家(ファシスト国家)
「このような国家は、その内部で、国家に敵対し、国家の行動を阻止し、あるいは国家を分裂させるような、いかなる勢力の台頭をも許さない。こういう国家は、新たな権力手段を自らの敵や破壊者に明け渡そうなどとは夢にも考えないし、また、自由主義、法治国家、あるいは何と称するつもりであろうとも、ともかく何らかの標語を掲げて、権力を破壊しようなどとも考えない。そのような国家は、友と敵とを区別することができる。」(「ドイツにおける全体国家の発展」111ページ)

・ラジオや映画の出現→世論や国民の一般意思を形成する方法の技術的発展→どのような国家であっても検閲・独占を求めざるを得ず、国家権力の強化をもたらす。また、国家が経済に及ぼす影響の増大(「現代国家の権力状況」)。

・「ナチス法治国」→大竹弘二の要約によると「今日の法治国家は一九世紀以来の自由主義の影響のもとで、単に実定法の遵守を求めるだけの「法律国家」に成り下がっている。だが、実定法という抽象的な規範を守るだけでは、法秩序の安定性は決して確保されない。むしろそのような法的安定性は、実定法体系の基礎にあるより実質的な「具体的秩序」を守ることではじめて保障されるということになる。」しかしながら、「総統の意志」といった恣意的なものに体現させることで、彼自身もまた機会主義に落ち込んでしまったと指摘される。

・服従者から取り付けた同意が権力の源泉?→現代社会において権力は権力者自身をも超えた自律的・客観的存在
「私の言わんとするのは、権力に服従する者すべての完全な同意を得て権力が行使される所でも、権力はやはりある固有の意味をもっているということ、いわば剰余価値をもっている、ということです。権力は、自己が受け取るあらゆる同意の総和以上のものであり、同意の生産物以上のものでもあるのです。今日の分業社会に生きている人間が社会関係にいかに深く縛りつけられているかということを、どうぞ一度なりとも考えてみて下さい! 自然の制約が後景にしりぞいたことは先程みましたが、それに代って社会的な制約が分業社会の現代人に向ってそれだけ一層強く一段と身近にまで迫ってくるのです。そのために、権力への同意をかちとるための動機づけも、一段と強烈なものとなるわけなのです。」(「権力並びに権力者への道についての対話」156ページ)
「権力とは、その時々に権力を掌握するあらゆる人間個人にすら相対立する、客観的で自律的な偉大な存在なのです。」(同上、157ページ)
「次のように言ったところで、少しも歩を進めたことにはなりません。つまり、権力とは技術自身と同じようにそれ自体は善でも悪でもなく中性的なものであるから、権力の性質いかんとは、人間が権力から創り出すものなのだ、と言ったところです。このことは、本来の難事を前にして、つまり、ここで善悪を決定するのは誰かという問題を前にして、問題を回避することにほかなりません。現代の破壊手段の力はこの破壊手段を発明し使用する人間個人の力を凌駕していますが、それは現代の機械自体のもつ、また、その機械が何ごとかを処理するについてもつ能力が、人間の筋肉や脳髄の力をしのぐのと同じことなのです。…権力者個人の権力は、ここでは途方もなく極度に発達を遂げた分業体制から生じてくる状況の、単なる分泌物にすぎないのです。」(同上、178~179ページ)
「万事をとりしきるのは、正真正銘の人間なのではなくて、人間がひき起こした連鎖反応そのものの方なのです。この連鎖反応は、人間の肉体の限界を越えることによって、人間が人間に及ぼすあらゆる考えうる権力の人間間における一切の標準をも越えてしまうのです。この連鎖反応は、保護と服従との関係をもみだしてしまいます。権力の方が技術よりもはるかに人間の手の届かない所にいってしまっておりまして、このような技術上の手段を駆使して他の人びとに権力をふるう人びとは、その権力にさらされている人びととはもはや水いらずの関係などにはないのです。」(同上、179ページ)
「私が言っておりますのは、権力はすべての人にとって、それどころか権力者にとってすらも独立の現実であること、さらにそれはすべての人を権力の弁証法にひっぱり込んでしまうものであること、これだけなのです。権力は、一切の権力への意志よりも強く、いかなる人間の善意よりも強く、また、幸いなことには、いかなる人間の悪意よりも強いのです。」(同上、182ページ)
※権力と責任との関係を曖昧にしてしまう「間接権力」をシュミットは批判していたが、上記の権力論ではまさにシュミット自身がそうした悲観的見解に落ち込んでいると大竹弘二の解説で指摘されている。

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2013年5月 6日 (月)

福田円『中国外交と台湾──「一つの中国」原則の起源』

福田円『中国外交と台湾──「一つの中国」原則の起源』(慶應義塾大学出版会、2013年)

 現在の東アジア情勢を複雑にしている焦点の一つは台湾海峡にある。そして、「一つの中国」という外交原則が中台関係のみならず、日本を含めて双方と関わりを持とうとする国々の態度を難しくしていることは周知の通りであろう。しかしながら、蒋介石政権は「漢賊並び立たず」という時代がかった表現で「一つの中国」を主張していた一方、中国政府の側で「一つの中国」言説が頻出するようになったのは1970年代以降のことだという。

 列強に侵略された屈辱の記憶から主権回復の象徴として「一つの中国」がしばしば語られる。ただし、実際の政治的経緯を見てみると、中国政府にとって「一つの中国」という原則は必ずしもアプリオリな所与ではなく、むしろ国際情勢の中でのせめぎ合いを通してプラグマティックに形成されたものなのではないか? そうした問題意識をもとに、本書は中台及び関係諸国の外交文書を活用したマルチアーカイヴァルの手法によって検証を進め、「台湾解放」の論理が「一つの中国」原則へと変容していく過程を明らかにする。

 国共内戦の延長として中国政府は「台湾解放」を目指していたが、台湾の国府はアメリカのバックアップを受けている以上、おいそれとは手が出せない。戦略的焦点は「台湾解放」から金門・馬祖の「解放」へと向けられたが、アメリカ側の出方が読めず、膠着状態に陥っていた。1954年9月の金門砲撃(第1次台湾海峡危機)にはアメリカ側の意図や中国国内での反応をうかがう情報収集としての側面があったらしい。

 毛沢東は、金門・馬祖を蒋介石の手元に残し、台湾・澎湖と一括して「解放」することを長期目標に据えて先送りした。また、アメリカも蒋介石が呼号する「大陸反攻」に巻き込まれてしまうことを懸念しており、台湾海峡は冷戦構造における境界線の一つとして既成事実化していく。中国の指導者は冷戦構造を利用して、「解放」できないながらも後退もしないギリギリのバランスを保とうとした。だが、それは蒋介石の「大陸反攻」を抑え込むことになった一方で、こうした分断状態は中台という政治主体が並び立つ、いわゆる「二つの中国」が国際社会にそのまま受け入れられかねない風潮も生み出すことになった。

 中ソ対立、インドシナ情勢など1960年代に国際情勢が新たな展開を示す中、毛沢東は「二つの中間地帯論」を提起する。つまり、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの第一中間地帯、西欧諸国・カナダ・日本など第二中間地帯との関係構築を模索することで米ソの覇権主義に対抗するという方針である。本書では、ラオス連合政府、フランス、旧仏領アフリカ諸国との交渉が分析されるが、いずれも国府との関係をすでに持っており、これらの諸国との外交関係樹立は対応を誤ると「二つの中国」を具現化しかねない恐れがあった。しかし、外交的局面の打開を急いでいた中国は、フランスに対しては譲歩せざるを得なかったものの、ラオスやアフリカ諸国に対しては「唯一の合法政府」としての地位を認めさせることに成功した。こうした交渉の中から中国は「一つの中国」という外交原則を明確にしていく。

 本書では、「台湾解放」の実現が見通せなくなった中、「台湾解放」を諦めないながらも実質的にはそれに代わる論理として「一つの中国」原則が形成されたと捉えている。ただ、「台湾解放」へのこだわりそのものが「一つの中国」意識の暗黙的意思表示なのではないのだろうか? こうした疑問について明確には説明されていないのだが、外交原則としての顕在化には軍事的攻勢から外交的攻勢への転換が伴っている点に注目していると理解していいのだろうか? 

 いずれにせよ、時代を通じて妥協の余地の無い所与の前提と考えられている「一つの中国」論でも、過去の経緯を検証してみると、時代的・国際的条件とのすり合わせの中で徐々に形成されてきたことを実証的に示そうとしたのが本書の特色である。とするならば、現時点で政治交渉を難しくしている原則であっても可変性が皆無とは言えない。環境整備の進め方をどのように工夫するか、そうした政策面での建設的な含意を読み取ることもできるだろう。

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2013年5月 5日 (日)

下斗米伸夫『ロシアとソ連 歴史に消された者たち──古儀式派が変えた超大国の歴史』、中村逸郎『ろくでなしのロシア──プーチンとロシア正教』

下斗米伸夫『ロシアとソ連 歴史に消された者たち──古儀式派が変えた超大国の歴史』(河出書房新社、2013年)

 ロシア革命前後の時期、宗教的・オカルト的な雰囲気が政治史の随所に見られることはよく知られているが、本書が注目するのは古儀式派である。ボルシェヴィキ指導層でも、例えばカリーニン、ルイコフ、キーロフ、モロトフ、グロムイコ、スースロフなど多くの人々に古儀式派との関連がうかがわれるという。レーニンはボンチ=ブルエビッチを通して古儀式派との連携を模索したこともあったし、彼がテロを避けて晩年をすごした屋敷は古儀式派の村にあった(そこではプーチンの祖父が料理人をしていた)。ところが、マルクス主義的な無神論のため、そうした記録はたいてい抹消された。本書は史料的制約を補いながら論証を進め、宗教という観点からソ連史を描きなおす。

 1666年、ロシア正教会のニーコン総主教は儀式をギリシャ風に統一する改革を行った。当時はオスマン帝国によって1453年に東ローマ帝国が滅ぼされ、1683年には第2次ウィーン包囲が行われるという時代状況にあり、オスマン帝国の進撃を抑えるために新興勢力ロシアを利用しようというギリシャ系聖職者たちの目論みがニーコン改革の背景にあった。キリスト教世界全体の危機感から彼らはカトリックとの連携も深め、カトリックの影響が強いウクライナをロシアに統一させようとする構想も浮上する。つまり、対外的にはイスラム勢力の拡大を防ぐためロシアの大国化が期待され、ロシア内部においては正教会の国家に対する優位を確立しようとする思惑から儀式改革が実施された。

 ところが、ニーコン改革に対して伝統派が猛反発し、正教会から分離した彼らは古儀式派(分離派)と呼ばれる。さらに17世紀のピョートル大帝による西欧化改革によって伝統的政治機構が解体され、ロシアがユーラシア全域に向けて拡大するに伴い、正教会は帝国の拡張と多民族化をイデオロギー的に支えることによって帝政との一体化を進める一方、ロシア人の自己疎外という状況も現れる。国家に従わない古儀式派は弾圧され、ロシア社会において正教会や国家に抵抗する心性を生み出していった。ピョートル改革によってもたらされた政治機構を「アンチクリスト」とみなし、それへの抵抗精神が宗教的メシアニズムと結びついて革命、ニヒリズム、共産主義につながったとベルジャーエフは捉えていた。

 国家から疎外されていた古儀式派の人々は生きていくため自前の経済活動を行わなければならなかったが、その中から実業面での成功者も現われた。古儀式派の終末論的世界観は現世否定のエートスをもたらし、それがマックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘されたのと同様の経済倫理として作用していたというのが興味深い。また、古儀式派は教会スラブ語を典礼で用いていたので識字率が比較的高かったという。こうして成長した古儀式派資本家は革命派に資金提供をした。また、革命派は古儀式派の地下出版ネットワークと協力関係にあった。古儀式派も様々な宗派に分かれていたが、ソビエトという共同体組織も私有財産を否定して共同生活する宗派に求めることもができるらしい。

 もちろん、古儀式派がそのまま共産主義革命に流れ込んだわけではなく、複雑な動向がそこには絡まりあい、同床異夢の関係にあった。スターリン時代に集団化政策が進められると、古儀式派もつぶされていく(ただし、第二次世界大戦でドイツ軍に攻め込まれた、いわゆる「大祖国戦争」において、愛国主義を鼓舞するため古儀式派への抑圧は緩和され、動員が図られた)。帝政時代にはロシア正教会に従わなかったため、ソ連時代には無神論イデオロギーによって古儀式派は抑圧されてきたが、ソ連崩壊によるロシアとウクライナとの分離は、ニーコン改革以前の状態に戻ったことになる。古儀式派自身が政治的影響を与えたかどうかは分からないが、ロシアという版図の枠組み、伝統と近代の葛藤、帝政期からソ連崩壊に至るまでの様々な問題が古儀式派を補助線として引いてみると浮かび上がってくる。

 中村逸郎『ろくでなしのロシア──プーチンとロシア正教』(講談社、2013年)は現代ロシアと正教会との関係に焦点を当てている。ソ連崩壊後、宗教的自由は認められたものの、ロシア正教会は信者数の低迷で財政難にあえいでいた。そこで現在の総主教、キリール1世は正教会がビジネスに手を染めることを表明、政府に頼み込んで優遇措置を受けたが、利権の巣窟として政商や政治家が群がる事態となっている。また、プーチン政権に頭が上がらないまま、愛国主義の高揚など政権の思惑に利用されているという。

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