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2013年3月3日 - 2013年3月9日

2013年3月 9日 (土)

劉傑『中国の強国構想──日清戦争後から現代まで』

劉傑『中国の強国構想──日清戦争後から現代まで』(筑摩選書、2013年)

 中華民族の偉大な復興──中国の事実上トップに就任した習近平総書記のこうした発言は、今後、中国は大国志向のナショナリズムを強化するのではないか?と憶測も呼んだ。真意はよく分からない。ただ、欧米や日本など列強に蹂躙された屈辱の過去から中国の近現代史は始まっており、大国としての地位の回復が常に政治目標であり続けたことを考えると、必ずしも唐突な発言とは言えないだろう。言い換えると、中国における政治外交は歴史認識と密接不可分であることを念頭に置いておかねばならない。

 本書は、法と正義、改革と革命、愛国と売国、憲政・民主と権威・独裁、中国的なものと普遍的なもの、といった国家構想をめぐる対立軸を整理しながら中国現代史をたどり直していく。近年の新たな研究動向を取り込みながら複眼的な視点を心がけているところが持ち味だ。

 歴史認識が政権の正統性を担保するために使われている中、一般の人々が歴史を知る入口となる歴史教科書の記述と専門的な歴史研究者による研究との間のギャップは非常に大きい。例えば、中国の教科書で義和団は「反帝反封建の愛国運動」と高く評価されているが、歴史家の間では近代化に反発する後進性の表れという理解の方が主流であり、袁偉時(中山大学教授)が提起した「歴史教科書問題」は一つの波紋を投げかけた(袁偉時[武吉治朗訳]『中国の歴史教科書問題──『氷点』事件の記録と反省』[日本僑報社、2006年]を参照のこと。問題化した経緯については、李大同[三潴正道・監訳、而立会・訳]『『氷点』停刊の舞台裏』[日本僑報社、2006年]を参照→以前こちらにで取り上げた)。

 列強から不平等条約を押し付けられた屈辱の状態からの脱却が当時の政治目標であった。そのために、まず自国の後進性を自覚した上で近代化の推進によって国力をつけ、いかに現状から戦略的に独立を目指すかが問題となるはずであった。ところが、そうした微温的な態度は「売国奴」呼ばわりされてしまう。条約や法律を超越した絶対的な「正義」や「革命」の観点から蒙昧な暴力が肯定されてしまう──歴史教科書の義和団評価にはそうした「愛国無罪」にもつながる問題がはらまれているというのが袁偉時の提起した問題であった。「正義」や「革命」を絶対視する「革命史観」に対し、「近代化史観」は迂遠であっても民主や法治を目指す近代化路線をとっていれば革命の混乱による犠牲はもっと少なかったはずだと考える。辛亥革命を過大評価せず、清朝末期の予備立憲も近代化の道筋をつけたとして再評価する研究動向もこうした中から現われている。

 中国の歴史認識では日本という要因も重要な柱として組み込まれている。日本が中国大陸で得た特殊権益をいかに取り戻すかが国民政府の大きな政治課題であったが、本書では王正廷外交部長による「革命外交」が陥ったジレンマが取り上げられている。中国国内でナショナリズムが盛り上がり、排日運動が過激化していく一方、国民政府は国際協調の必要から平和的な対話で課題を解決するのが一番コストの低い方法だと考えていた。特殊権益の回収という目標で国民政府も排日運動に盛り上がる大衆も一致している。しかし、国民政府の外交姿勢は弱腰と映ってしまう。日本側から排日運動の取締りを要請された国民政府は、排日運動を奨励しても取り締まっても、どちらの場合でも政治・外交の混乱を誘発する可能性が高くなる。日本側(重光葵公使)もそうした国民政府のジレンマを認識してはいたが、国民政府はむしろ外交交渉を有利に進める策略として利用するつもりではないかと疑った。こうした双方のギャップが日中交渉をさらに難航させることになった。

 列強による侵略に抵抗することが至上課題となった中国の近代において、対外強硬派は常に正当性が主張できる一方、妥協的な人物は容易に「漢奸」の烙印を押されかねない。日中関係を考える際、対日協力者、すなわち「漢奸」の存在は大きな影を落としているが、その代表例は汪兆銘であろう。近年の中国の歴史学界でも汪兆銘研究はもはやタブーではなくなって新たな研究が積み重ねられており、革命家としての前半生は積極的に評価されるようになった。それでも対日協力に踏み切った「漢奸」「傀儡」という評価が覆ることはないと指摘される。日本人は戦争で中国に大きな被害を与えてしまったが、国そのものを滅ぼすつもりはなかったと考えている。しかし、中国人にとっては正真正銘の亡国の危機であって、どのような事情があっても危機の中で敵方に協力した事実は絶対に許されない。こうした日中戦争観の相違が汪兆銘評価を左右しているのだという。

 そもそも、日本側の画策した汪兆銘工作とはどのようなものであったか(劉傑『漢奸裁判──対日協力者を襲った運命』中公新書、2000年→こちらを参照。また、汪兆銘政権についてはこちらでも取り上げた)。蒋介石の対日強硬路線ではもはや持ちこたえられないと考えて汪兆銘たちは重慶政権を離脱したが、日本軍の早期撤退、不平等条約改定等の具体的成果がなければ単なる「漢奸」に成り下がってしまうという焦りがあった。ところが、日本側の主目的は蒋介石の重慶政権との交渉であり、汪兆銘の新政権はそのための手段に過ぎなかった。それどころか、将来の重慶政権との交渉を見越して、その時に有利な立場で話ができるように汪兆銘政権に対しては厳しい条件を突きつけ続ける。汪兆銘たちにも日本へ抵抗し続けた側面も確かにあったが、具体的成果を何もあげられなかった彼らは「漢奸」評価を覆すだけの正当性を示すことができなかった。日本の「和平工作」に謀略的色彩が強かったため、汪兆銘たちは自分たちの意図とは違う方向で「漢奸」へと追い込まれてしまった。つまり、和平の意図が日本側に利用された結果として中国国内での「漢奸」イメージにつながってしまったと言える(こうした「漢奸」の苦い記憶は、現在でも中国側で対日関係を冷静に考えようとする人たちを心理的に縛る原因になってしまっているのではなかろうか)。

 太平洋戦争の勃発は、泥沼化しつつあった日中戦争に大きな転機をもたらし、さらには国連安全保障理事会常任理事国のポジションを獲得するなど世界における大国としての地位につながっていく。こうした国際的地位向上に貢献した点で蒋介石の国民政府が再評価され、中国の歴史観の多元化を促したと指摘される。なお、蒋介石の戦争指導については家近亮子『蒋介石の外交戦略と日中戦争』(岩波書店、2012年)も参照のこと(→こちら)。

 蒋介石は戦後の国家構想の中で、言論と結社の自由を保障する方針を明らかにした。これを受けて国民党・共産党の狭間にあって将来の国家像を模索していた自由主義的な知識人たちも政治活動を活発化させ、そうした中、第三党派として中国民主同盟が結成された。彼らが経済面で提唱した国家管理と市場経済の混合モデルは、鄧小平以降の改革開放を先取りしていたと言える。他方、民主同盟は政治面で憲政と民主を主張していたため、権威的独裁を強める蒋介石に反発して共産党側に立つが、中華人民共和国成立後、今度は毛沢東が事実上の共産党一党独裁へと方針を転換したため、主だった指導者は失脚を余儀なくされてしまった。改革開放から三十数年が経ち、政治改革の必要性が議論されている中、憲政と民主を主張した民主同盟を再評価する研究動向が現われているという指摘に関心を持った。今や大国イメージの中に「市民社会」「協力」「寛容」といった概念が組み込まれていると著者は指摘しているが、こうした動向と無関係ではない。

 多様で複眼的な視点で中国現代史を見直してみるというのが本書の基本的な立場である。政権を正統化するために評価軸が一元的に強張ってしまっている中、多くのことが(半ば意図的に)見落とされてきた。様々な歴史上の人物が再評価されている近年の新しい研究動向は興味深い。それ以上に意義があるのは、複眼的な視点で歴史を考察すれば、埋もれてしまっていた様々なオルターナティヴの可能性を掘り起こせることである。過去の歴史との対話を通して中国の政治が動いているのであれば、現状の問題点を改善するための新たな国家構想を模索する上で歴史解釈の再考もまた必要となる。そうした意図が本書の行間から読み取れる。

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2013年3月 5日 (火)

舟越美夏『人はなぜ人を殺したのか──ポル・ポト派、語る』

舟越美夏『人はなぜ人を殺したのか──ポル・ポト派、語る』(毎日新聞社、2013年)

 水と太陽の光に恵まれ、本来ならば豊穣であったはずのカンボジアの大地。フランスから独立を得たものの、深刻な政治腐敗、相次ぐ政争や内戦、さらには泥沼化したベトナム戦争の戦火が飛び火して猛烈な爆撃に見舞われ、人々はあらゆる政治に倦んでいた。そうした中、「理想」を掲げて勢力を拡大、1975年に親米のロン・ノル政権を倒したポル・ポト派の出現は、一時なりとも人心を引きつけた。ようやく、戦乱が終わる──そう思ったのも束の間、ポル・ポト政権時代の3年余りは飢餓と殺戮でこの豊穣な大地をさらなる地獄絵図に変えてしまった。

 なぜ、このような悲劇が起こったのか? 著者は共同通信記者で、本書は存命中のポル・ポト派最高幹部にインタビューを重ねた記録である。もちろん、彼らの多くが自己弁明に終始する以上、悲劇の真相に迫るのはなかなか難しい。むしろ、取材のセッティングに奔走した共同通信プノンペン支局の現地スタッフ、チャン・クリスナーの「真相を知りたい」という情熱が本書の軸となる──彼はポル・ポト政権時代に両親を殺され、キリング・フィールドを生き抜いた一人であった。

 ポル・ポトの義弟にあたり、外交担当副首相として海外を飛び回ったイエン・サリは仲違いしたポル・ポトを厳しく批判する一方、2万人近くが拷問・殺害された政治犯強制収容所(通称、S21)について自分は海外にいたから知らなかったと言う。ポル・ポト政権で国家元首にあたる国家幹部会議長の地位にあったキュー・サムファンは「私のような知識人としては」という口癖を織り交ぜながら、自分には何も権限はなかったと言い訳を繰り返す。外務省幹部だったスオン・シクーン、かつてポル・ポトのクラスメートだったピン・ソイ、ポル・ポトの秘書を務めたテプ・クナルはそれぞれの見た政権の内幕を語る。

 こうした中、ポル・ポトと共に政権の実力者であったヌオン・チアは「祖国に人生を捧げた」ことへの正しさを疑わないながらも、率直に語る。また、彼に寄り添ってきた妻のリー・キム・セインが、昔のポル・ポトたちの穏やかを思い浮かべる一方、イエン・サリの妻であるイエン・チリト(姉のキュー・ポナリーはポル・ポトの妻で二人ともポト派の最高幹部)が、完全平等な社会を目指していたにもかかわらず、自らの教養を鼻にかけて農民出身の自分を軽蔑していた、と怒っているのも印象的だった。

 ポル・ポト派においてオンカー(組織)の命令は絶対であった。他方で、徹底した秘密主義は組織内部に疑心暗鬼を生じさせ、内紛の種は早い段階から萌していた。ポル・ポト派を離脱したヘン・サムリンたちはベトナム軍と共にプノンペンを制圧、ポル・ポト派はタイ国境近くのジャングルへ根拠地を置く。最初にカンボジア政府軍へと投降したのはイエン・サリである。国防相として軍事面の実力者であったソン・センはカンボジア政府との連絡が「裏切り」とみなされてポル・ポトの指示により一家皆殺し。自らも粛清されるのを恐れたタ・モク参謀総長はポル・ポトを逮捕、人民裁判にかけて軟禁した上で最高実力者を自称。1998年4月にポル・ポトが死ぬと(死因は謎のまま)、ヌオン・チアとキュー・サムファンが投降。翌年にはタ・モクが拘束されて、ポル・ポト派は消滅する。

 チャン・クリスナーは自らの両親がポル・ポト派に殺害されたにもかかわらず、何くれとなくヌオン・チア夫妻の面倒を見るのは不思議な光景だ。実は、クリスナーの父親はロン・ノル政権軍の司令官、母方の祖父はシアヌーク政権で首相を務めており、二人とも左派に対して過酷な弾圧を指揮する当事者であった。彼はそうしたことを包み隠さずヌオン・チアに話し、父と祖父のことを謝罪した上で、家族が殺された恨みをも語る。ヌオン・チアもまた彼の率直さを信じたようだ(ポル・ポト派では徹底した秘密主義を敷くためにこそ、嘘偽りを見抜くのに敏感だったという)。

 殺す者、殺される者が複雑な因果をなしている。人間はどの側にいようとも、心の奥底に残酷さを秘めている、とクリスナーはつぶやく。「あまりにも多くの人がかかわっていて、どの人を憎めばいいのか分からない」。そうした因果を断ち切り、将来に繰り返さないためにこそ、彼は真相を知りたいと願っている。「真実はあるが、正義はない」というヌオン・チアの発言も気にかかる。もちろん、彼の場合には自らの「信念」を正当化する意図があるのは確かだが、他方で、当時の国際政治的な力学がポル・ポト政権を成立させた側面も否定はできず、彼らのみに責任を帰して問題が解決するわけではない。

 2003年、ポル・ポト派幹部を裁く特別法廷は国際法廷ではなく、国内法廷(つまり、カンボジア政府の影響力を行使できる状態)を支援する形で成立したが、これにはカンボジア国内の政局も関わっているようだ。2007年に上述のヌオン・チア、イエン・サリ、キュー・サムファン、イエン・チリトを含む最高幹部が逮捕されたが、体調の問題で判決の見通しは立っていない。

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