中川右介『国家と音楽家』
中川右介『国家と音楽家』(七つ森書館、2013年)
音楽に国境はない、とよく言われる。しかしながら、国民国家という枠組みの中であらゆる人々をの政治動員を図る時代的状況を「近代」とするなら、音楽もまた文化的・精神的動員、政治的プロパガンダの有効なツールとみなされ、音楽家といえどもそうした動向から決して無縁ではありえなかった。高名であればあるほど政治的態度の表明を迫られ、芸術性とは異なる位相から評価のまなざしを向けられる。為政者の御用音楽家となるか、ファシズム・コミュニズムなど全体主義に抵抗した英雄となるか――ことは単純に善悪二元論で片付けられるような問題ではない。
ドイツ第三帝国の音楽家たち。イタリア・ファシズムに抗したトスカニーニ。カタルーニャへの郷土愛からフランコ体制に抗したカザルス。ドイツ占領下フランスにいたコルトーとミュンシュ。スターリニズムを生きぬいたショスタコーヴィチ。ショパン、パデレフスキ、ルービンシュタインというポーランド亡命ピアニストの系譜。「プラハの春」をめぐる指揮者たち。アメリカ大統領にもたじろがなかったバーンスタイン――音楽への情熱という一点は例外なく共通する。だが、その情熱が政治とどのように関わりを持ったのかは個々のパーソナリティーによって大きく違ってくる。そうした音楽家たちがある種の宿命に翻弄される群像劇は、あたかも連作小説集を読むように緊張をはらんだドラマを感じさせる。
本書がドイツのバイロイト音楽祭をめぐる人々から語り起こし、イスラエルにおけるワーグナーへの拒絶感でしめくくっているように、ワーグナーとナチズムとの関係には政治と音楽との葛藤の最も典型的な例が表われている。ワーグナー家の若き未亡人ヴィニフレート・ワーグナーはヒトラーと個人的に親しく、バイロイト音楽祭の運営への協力をとりつけた。それはナチスにとって格好な宣伝材料となった一方、ヴィニフレートはユダヤ人音楽家を守るためヒトラーに直接話をつけたというのが興味深い。フルトヴェングラーもまたナチスの体制内でユダヤ人音楽家を守ろうとしたが、体制内に残ったこと自体が戦後は批判の的となる。なお、カラヤンはナチスの党員となったが、ヒトラーから嫌われており、そのことが戦後になると免罪符となったらしい。
ホロコーストの記憶が国家的アイデンティティーに刻み込まれたイスラエルにおいて、ワーグナーはナチズムを連想させるがゆえにタブーとなった。芸術的価値を政治に従属させてしまうのはナチズムと同じではないか?とリベラル派から疑念があがってもタブーを打ち破ることはできず、イスラエルで初めてワーグナーを演奏したバレンボイムは激しい批判にさらされてしまった。
政治によって音楽は窒息させられてしまわねばならないのか。大国政治に翻弄され続けてきたチェコは、ナチスの占領支配から解放されたのも束の間、1948年の共産党クーデターによって今度は共産主義体制のくびきにあえぐこととなる。この時、指揮者のラファエル・クーベリック(1914~96)はイギリスへ亡命、さらに1968年のいわゆる「プラハの春」が鎮圧されるとやはり指揮者のカレル・アンチェル(1908~73)はカナダへ亡命した。その後、チェコ・フィルの指揮者にはヴァーツラフ・ノイマン(1920~95)が就任する。1989年のビロード革命を受けて、その翌年、クーベリックは42年ぶりにようやくプラハへ戻ることができた。出迎えた人々の中にノイマンの姿を認めると、二人は歩み寄ってあつく抱擁を交わす。
体制に反発して海外亡命を選んだクーベリック。体制と折り合いをつけながら活動を続けたノイマン。自分たちの音楽を決して絶やしてはいけないという思いを二人は共有していたからこそ、お互いの立場の相違を理解し合うことができていたというエピソードが実に印象深い。
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