森常治『台湾の森於菟』
森常治『台湾の森於菟』(ミヤオビパブリッシング、2013年)
森鷗外の長男・森於菟(1890~1967)は解剖学者。1936年に台北帝国大学で医学部が新設された折、当時、東京帝国大学医学部で助教授だった於菟は解剖学第一講座教授として赴任する。後に医学部長にも選ばれた。日本敗戦後も留用されて中華民国における新制台湾大学医学院で教鞭をとり、1947年に日本へ帰国。父・鷗外についてなど随筆でも知られている。
著者は於菟の息子で、台北で育った。父から聞いた話や、台北帝国大学医学部出身者を中心とした同窓会組織・東寧会の会報誌に掲載された当事者の回想録が引用され、それを踏まえて描き出された於菟をめぐる人物群像が興味深い。於菟の専攻した解剖学は形質人類学とつながり、さらには広義の人類学・民族学への好奇心が触発される。父・鷗外の影響で文化的な関心も強く、こうしたあたりは同僚の解剖学者でやはり博物学的なディレッタント・金関丈夫ともウマが合ったようだ。
植民地統治は支配者(日本人)と被支配者(台湾人)との構造的差別を否応なく生み出してしまい、さらには戦時色が強まるにつれて軍部は大学にもさかんに横車を押してくる。そうした難しい環境の中でもアカデミズムの中立性を保ちつつ、学問上の師弟もしくは同志として協力関係をとれるものだろうか? 森於菟をはじめとした日本人教官たちが学問・教育で示した真摯な熱意は、感情的にもつれやすい壁をしっかり乗り越えていた。それはもちろん、台湾人の学生たちも教官が求める能力水準を見事にクリアしていたからある。また、於菟が医学部長に推挙されたのは、陸軍軍医総監(中将相当)森林太郎の息子という「親の七光り」が陸軍の圧力に対して都合が良いと考えられていたふしがある。
台北帝国大学医学部におけるこうした師弟の信頼関係は二つの点で文化史的な意義を持つ。第一に、森鷗外の遺品・資料が守られたこと。於菟は台湾へ赴任するにあたり、長男として父の遺品を守らなければいけないという思いからこれらを帯同した。その後、東京の家が火災・戦災に見舞われたことを考えると、台湾へ持ち出したのは賢明な選択であったと言える。ただし、戦後の混乱期、引き揚げにあたって無事に持ち帰れる保証はなかった。そもそも、台湾人にとって森鴎外などどうでもいい。於菟への個人的な信頼感があったからこそ遺品の保管・搬送に協力してくれたわけである。
第二に、日本の植民地支配から中華民国へと体制が転換されるに際して大学の学知的資産をスムーズに引き継がせたこと。ここでは、唯一の台湾人教授であった杜聡明(新制台湾大学で初代医学院長)との協力関係が不可欠であった。植民地の大学という、異なる民族的背景を抱える学生たちが集まった特殊な環境において、アカデミックな協力関係がいかに成り立つのか。そうしたテーマを考える一つの参照例として、本書は単に台湾史というだけでなくより広いコンテクストでも有益であろう。
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