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2013年12月

2013年12月25日 (水)

森常治『台湾の森於菟』

森常治『台湾の森於菟』(ミヤオビパブリッシング、2013年)

 森鷗外の長男・森於菟(1890~1967)は解剖学者。1936年に台北帝国大学で医学部が新設された折、当時、東京帝国大学医学部で助教授だった於菟は解剖学第一講座教授として赴任する。後に医学部長にも選ばれた。日本敗戦後も留用されて中華民国における新制台湾大学医学院で教鞭をとり、1947年に日本へ帰国。父・鷗外についてなど随筆でも知られている。

 著者は於菟の息子で、台北で育った。父から聞いた話や、台北帝国大学医学部出身者を中心とした同窓会組織・東寧会の会報誌に掲載された当事者の回想録が引用され、それを踏まえて描き出された於菟をめぐる人物群像が興味深い。於菟の専攻した解剖学は形質人類学とつながり、さらには広義の人類学・民族学への好奇心が触発される。父・鷗外の影響で文化的な関心も強く、こうしたあたりは同僚の解剖学者でやはり博物学的なディレッタント・金関丈夫ともウマが合ったようだ。

 植民地統治は支配者(日本人)と被支配者(台湾人)との構造的差別を否応なく生み出してしまい、さらには戦時色が強まるにつれて軍部は大学にもさかんに横車を押してくる。そうした難しい環境の中でもアカデミズムの中立性を保ちつつ、学問上の師弟もしくは同志として協力関係をとれるものだろうか? 森於菟をはじめとした日本人教官たちが学問・教育で示した真摯な熱意は、感情的にもつれやすい壁をしっかり乗り越えていた。それはもちろん、台湾人の学生たちも教官が求める能力水準を見事にクリアしていたからある。また、於菟が医学部長に推挙されたのは、陸軍軍医総監(中将相当)森林太郎の息子という「親の七光り」が陸軍の圧力に対して都合が良いと考えられていたふしがある。

 台北帝国大学医学部におけるこうした師弟の信頼関係は二つの点で文化史的な意義を持つ。第一に、森鷗外の遺品・資料が守られたこと。於菟は台湾へ赴任するにあたり、長男として父の遺品を守らなければいけないという思いからこれらを帯同した。その後、東京の家が火災・戦災に見舞われたことを考えると、台湾へ持ち出したのは賢明な選択であったと言える。ただし、戦後の混乱期、引き揚げにあたって無事に持ち帰れる保証はなかった。そもそも、台湾人にとって森鴎外などどうでもいい。於菟への個人的な信頼感があったからこそ遺品の保管・搬送に協力してくれたわけである。

 第二に、日本の植民地支配から中華民国へと体制が転換されるに際して大学の学知的資産をスムーズに引き継がせたこと。ここでは、唯一の台湾人教授であった杜聡明(新制台湾大学で初代医学院長)との協力関係が不可欠であった。植民地の大学という、異なる民族的背景を抱える学生たちが集まった特殊な環境において、アカデミックな協力関係がいかに成り立つのか。そうしたテーマを考える一つの参照例として、本書は単に台湾史というだけでなくより広いコンテクストでも有益であろう。

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2013年12月22日 (日)

【映画】「フォンターナ広場――イタリアの陰謀」

「フォンターナ広場――イタリアの陰謀」

 1969年12月12日、ミラノのフォンターナ広場に面した全国農業銀行が爆破され、死者17名、重傷者多数を出す大惨事となった。折りしもイタリアでは学生運動や労働運動が高潮してテロも頻発、いわゆる「鉛の時代」を迎えており、フォンターナ広場の爆破事件でもアナキスト・グループのメンバーが容疑者として逮捕された。しかし、事件の経過には不自然な点が目に付く。そもそも、これほどの大惨事であったにもかかわらず、その後に有罪判決を受けた者がいない。

 冷戦は国際社会の色分けを規定しただけでなく、各国内で左右の対立を引き起こしており、イタリアの隣国ギリシアではクーデターで反共軍事政権が成立したばかり。イタリア国内の極右組織やタカ派政治家の中には、社会不安を煽り立てることで政府に非常事態宣言を出させ、それに乗じたクーデターを画策する者もいた。左翼グループには極右からの偽装転向者が潜り込み、彼らが爆破事件を主導した可能性が高い。

 政府首脳、軍諜報部、警察、検察、極右グループ、極左グループ、マスコミ――様々な背景の当事者が織り成すこの映画のストーリー構成は分かりづらいかもしれない。犯人探しよりも、むしろ事件の迷宮構造そのものを描くところに監督の意図があったと言える。

 諜報部が事件のもみ消しに動いているところから、例の特定秘密保護法をめぐる問題と結びつけて捉える向きもあるだろう。ただ、そうした問題以上に、異なる思惑が複雑に絡まり合ったとき、個々の当事者ではコントロールできない形で事件そのものが一人歩きするようにのしかかってくる、そうした得も言われぬ非人格的な凄みの方が強く印象付けられた。誰かが起こした事件であったのは間違いない。しかし、それを国家なるものの単独の意志として単純化した陰謀論に収斂させてしまうわけにはいかない。

 事件の容疑者として尋問される鉄道員のピネッリは下層労働者として日々感じる社会的矛盾への憤りを動機として左翼活動に身を投じていたが、非暴力主義を信念としている。彼を取り調べるカラブレージ警視は職務に忠実に動いているが、他方で内偵活動で知り合っていたピネッリの人格は尊敬しており、彼がこんな無差別テロをやるはずはないと内心では考えている。左翼活動家と警察、そうした対立関係にありながらも、互いの信念や職務的忠実さは理解しているという現場ではあり得た人間関係が、仲間の背信や組織の論理によってつぶされていく。そして、二人とも不慮の死を遂げることになってしまう。こうした人間ドラマが織り込まれているからこそ、事件の陰惨さがいっそう際立ってくる。

 キリスト教民主党のアルド・モーロ外相(後に首相)は、非常事態宣言を主張する内相に反対して、クーデターの目論見を未然に抑え込んだ良心派政治家として描かれている。そのモーロもまた1978年に極左テロ組織「赤い旅団」に誘拐され、殺害された。モーロは共産圏に対して融和的な態度を取っていたため、誘拐事件当時の首相で政敵であったアンドレオッティは釈放交渉の条件を意図的に拒んだと言われている。モーロ誘拐殺害事件についてはマルコ・ベロッキオ監督「夜よ、こんにちは」で描かれている。

【データ】
原題:Romanzo di una strage
監督・原案・脚本:マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ
2012年/イタリア・フランス/129分

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2013年12月 9日 (月)

中川右介『国家と音楽家』

中川右介『国家と音楽家』(七つ森書館、2013年)

 音楽に国境はない、とよく言われる。しかしながら、国民国家という枠組みの中であらゆる人々をの政治動員を図る時代的状況を「近代」とするなら、音楽もまた文化的・精神的動員、政治的プロパガンダの有効なツールとみなされ、音楽家といえどもそうした動向から決して無縁ではありえなかった。高名であればあるほど政治的態度の表明を迫られ、芸術性とは異なる位相から評価のまなざしを向けられる。為政者の御用音楽家となるか、ファシズム・コミュニズムなど全体主義に抵抗した英雄となるか――ことは単純に善悪二元論で片付けられるような問題ではない。

 ドイツ第三帝国の音楽家たち。イタリア・ファシズムに抗したトスカニーニ。カタルーニャへの郷土愛からフランコ体制に抗したカザルス。ドイツ占領下フランスにいたコルトーとミュンシュ。スターリニズムを生きぬいたショスタコーヴィチ。ショパン、パデレフスキ、ルービンシュタインというポーランド亡命ピアニストの系譜。「プラハの春」をめぐる指揮者たち。アメリカ大統領にもたじろがなかったバーンスタイン――音楽への情熱という一点は例外なく共通する。だが、その情熱が政治とどのように関わりを持ったのかは個々のパーソナリティーによって大きく違ってくる。そうした音楽家たちがある種の宿命に翻弄される群像劇は、あたかも連作小説集を読むように緊張をはらんだドラマを感じさせる。

 本書がドイツのバイロイト音楽祭をめぐる人々から語り起こし、イスラエルにおけるワーグナーへの拒絶感でしめくくっているように、ワーグナーとナチズムとの関係には政治と音楽との葛藤の最も典型的な例が表われている。ワーグナー家の若き未亡人ヴィニフレート・ワーグナーはヒトラーと個人的に親しく、バイロイト音楽祭の運営への協力をとりつけた。それはナチスにとって格好な宣伝材料となった一方、ヴィニフレートはユダヤ人音楽家を守るためヒトラーに直接話をつけたというのが興味深い。フルトヴェングラーもまたナチスの体制内でユダヤ人音楽家を守ろうとしたが、体制内に残ったこと自体が戦後は批判の的となる。なお、カラヤンはナチスの党員となったが、ヒトラーから嫌われており、そのことが戦後になると免罪符となったらしい。

 ホロコーストの記憶が国家的アイデンティティーに刻み込まれたイスラエルにおいて、ワーグナーはナチズムを連想させるがゆえにタブーとなった。芸術的価値を政治に従属させてしまうのはナチズムと同じではないか?とリベラル派から疑念があがってもタブーを打ち破ることはできず、イスラエルで初めてワーグナーを演奏したバレンボイムは激しい批判にさらされてしまった。

 政治によって音楽は窒息させられてしまわねばならないのか。大国政治に翻弄され続けてきたチェコは、ナチスの占領支配から解放されたのも束の間、1948年の共産党クーデターによって今度は共産主義体制のくびきにあえぐこととなる。この時、指揮者のラファエル・クーベリック(1914~96)はイギリスへ亡命、さらに1968年のいわゆる「プラハの春」が鎮圧されるとやはり指揮者のカレル・アンチェル(1908~73)はカナダへ亡命した。その後、チェコ・フィルの指揮者にはヴァーツラフ・ノイマン(1920~95)が就任する。1989年のビロード革命を受けて、その翌年、クーベリックは42年ぶりにようやくプラハへ戻ることができた。出迎えた人々の中にノイマンの姿を認めると、二人は歩み寄ってあつく抱擁を交わす。

 体制に反発して海外亡命を選んだクーベリック。体制と折り合いをつけながら活動を続けたノイマン。自分たちの音楽を決して絶やしてはいけないという思いを二人は共有していたからこそ、お互いの立場の相違を理解し合うことができていたというエピソードが実に印象深い。

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2013年12月 7日 (土)

【映画】「ハンナ・アーレント」

「ハンナ・アーレント」

 ハンナ・アーレントがアイヒマン裁判(1961年)に関わった時期に焦点をしぼって、家族や友人たちと触れ合う中で彼女が葛藤する姿が描かれる。この映画でアーレントが格闘したのは、二つのタイプの「無思考」だと言えるだろう。

 一つは、彼女がアイヒマン裁判を傍聴して書き上げた『イェルサレムのアイヒマン』の副題となった有名なテーゼ「悪の陳腐さ」をめぐって。本物のアイヒマンを目の当たりにして彼女が驚いたのは、彼が特別に兇悪なモンスターなどではなく、ただの平凡な小役人に過ぎなかったこと。世紀の犯罪者であるにもかかわらず、悪魔的な深みすら見出せないのはなぜなのか? 上意下達の指揮命令系統への服従を美徳と考える彼には、ユダヤ人への同情を持たない一方、ことさらな憎悪も抱いてはいなかった。命令された仕事を忠実に実行しただけ。つまり、自らの判断を放棄していたので、良心の呵責を感ずることもなかった。こうした多くのアイヒマン的な人間による業務分担がシステム化されていたからこそ、ナチスによるホロコーストが可能となったのである。言い換えると、平凡な一個人であっても、自らの思考を放棄したとき、容易に殺戮者となり得てしまう――こうした「悪の陳腐さ」という逆説は、アイヒマン一人のせいにして済ませることはできない。むしろ近代文明そのものがはらむ矛盾として問題提起したところに、彼女が単なる裁判傍聴記に終らせなかった政治思想史家としての面目躍如たるものがあった。

 映画の中でアイヒマンが登場するシーンでは当時の記録映像が用いられている。俳優にアイヒマンを演じさせなかったのは一つの工夫である。演技にはその人物の特徴を強調してしまう作用があることを考えると、「悪さ」にせよ、「平凡さ」にせよ、どうしても不自然な演出になってしまう恐れがある。そうなると、アーレントの「悪の陳腐さ」という意図がうまく伝わらない。アイヒマン本人に「演じて」もらうのが一番良いという判断だろう。

 アーレントの記事が『ニューヨーカー』誌に掲載されると、ユダヤ人社会を中心に猛烈な非難の合唱が巻き起こった。これはアイヒマン免罪論ではないのか、と。さらに、ユダヤ人社会の一部の指導者が、自分たちが助かるためにナチスと取引をしていた事実にも触れたことが、火に油を注いでしまった。アーレントはホロコーストの犠牲者を冒涜している――抗議の電話や脅迫状が次々と舞い込んできた。彼女の書いた記事をきちんと読めば、そんな意図は全くないと分かるはずだが、こうした印象論が一人歩きを始めてしまうと、彼らは一切聞く耳を持たない。記事を読むことすら汚らわしいという反応が返ってくる。もう一つの「無思考」である。

 友人たちの議論を、アーレントがタバコをくゆらせながら睥睨するように見つめる表情に貫禄があって印象的だ。どうでもいいことだけど、もし反禁煙ファシズム映画大賞なんてものがあったら、「ハンナ・アーレント」と「風立ちぬ」をノミネートしたい。

【データ】
監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ
ドイツ・ルクセンブルク・フランス/2012年/114分
(2013年12月7日、岩波ホールにて)

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2013年12月 6日 (金)

重田園江『社会契約論――ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』、仲正昌樹『〈法と自由〉講義――憲法の基本を理解するために』

 一定の社会秩序が成立すれば必ず制約が生まれるが、他方で一人ひとりの多様なあり方を押しつぶしてしまっては社会的な活力が失われてしまう。自由と秩序の両立という政治思想上の根本的なアポリアに対してどのような解答を与えるか? 社会契約論はそうした課題から編み出された卓抜な概念装置と言える。現実における諸々のノイズがシャットアウトされた原初状態という舞台だからこそ原理論的考察が可能となる。

 社会科学のあらゆる古典についても言えることだが、社会契約論として提示された結論だけを見てもあまり意味はない。むしろ、そうした結論を導き出すに至った個々の思想家たちの思考過程はどうであったのか、社会構想をめぐる葛藤を追体験していくところに思想史の醍醐味がある。そこから受ける知的刺激は、現代に生きる我々の社会の仕組みを再検討する判断基準を組み立てなおすことにもつながるだろう。そうした意味で、重田園江『社会契約論――ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』(ちくま新書、2013年)と仲正昌樹『〈法と自由〉講義――憲法の基本を理解するために』(作品社、2013年)は、社会契約論をめぐる思想家たちの内在論理を汲み取ろうとする姿勢があって興味深く読んだ。

 重田園江『社会契約論』は、理解しきれないもどかしさも率直に読者へ投げかけた上で自らの読み方を語りかけてくる誠実さに好感を持った。本書は社会契約論を「はじまりの約束」「約束の思想」として読み解く。まずホッブズの思想について、人と人との約束そのものが双方を拘束する関係性の力、アソシエーションの政治思想として読み直し、次にヒュームによる社会契約論批判を検討した上で、話をルソー、ロールズへとつなげていく。

 一般意志は特殊意志の総和ではない――ルソーの社会契約論における「一般意志」は数多の論者が議論を重ねる焦点となってきた難題である。社会契約を結ぶ当事者は、特殊意思としての自分と一般意志としての政治体であり、なおかつ後者の一般意志には他ならぬ自分自身も含まれているというからややこしい。自分と、自分自身も含まれる政治体とが契約する。どういうことか。普通の人、ただの人としての自分と政治的公共性を自覚した自分とが一人の中で共存していると考えれば理解しやすそうだ。「つまり、人が両方の視点に立てること、そしてふだんはただの人でしかない共同体のメンバーが、政治に参加するときには市民となること、すなわち全体の一部としての「一般的な」視点に立つことが、ルソーの政治社会にとって必須なのである。人は、政治体の参加者あるいは主権者としては一般的な視点に立ち、一般意志に従って行為しなければならない」(重田、184ページ)。

 では、一般的な視点に立つとはどのようなことなのか? ロールズの正義論は社会契約論の現代的焼き直しということはよく知られているが、ルソーの社会契約論から見出された「一般的な視点」を、ロールズの「無知のヴェール」の議論へつなげていくところに説得力がある。「…こうして人は、情報の制約下で多様な立場を想像することを強いられる。そのプロセスを通じて、意図せずして社会的観点、社会的公正を考慮する視点に立つようになる。自己滅却や自己犠牲ではなく、自分が誰かわからない、あるいは誰でもありうるという状況下での「一般的エゴイズム」に基づく思考プロセスが、社会的公正を選ばせるのだ」(重田、252ページ)。

 
 仲正昌樹『〈法と自由〉講義』はルソーの社会契約論からもたらされた思想的影響の圏域において法というテーマに焦点を合わせ、ルソー『社会契約論』、ベッカリーア『犯罪と刑罰』、そしてカント「啓蒙とは何か」等の諸論文を取り上げている。他の思想家たちとの関り方や影響関係、さらにキーワードの語源的な解釈が適宜交えられており、ゼミ形式で講読するような気持ちで読み進められる。

 上掲の重田『社会解約論』を読みながら、万人の万人に対する闘争という自然状態から社会契約を結ぶにあたって最初に武器を捨てるのは誰か?というホッブズ問題、ルソーの社会契約における一般意志として「一般的な視点に立つ」こと、そしてロールズの「無知のヴェール」という思考実験における想像力はなぜ成り立つのか、つまり、そもそもそうした思考を敢えて行えるのはなぜなのか、そこのあたりをどのように考えればいいのか、気になっていた。熟慮に基づく理性、公共的理性、カント的な実践理性、色々な表現はあると思うが、一言でいえば社会契約として公共性に参与するときの一人ひとりの「自律」はどのようにして可能なのかという問いはさらに考え続けなければならないテーマであろう。

 その点では、仲正書で社会契約論の一般意志をめぐって「人民」が自らの「一般意志」の現れである「法」を介して自らに規律を課しているという指摘に関心を持った。ホメロス『オデュッセイア』にあるセイレーンの誘惑のエピソードを引き合いに出して、「「法」というのは、人民が、自らが将来、危機的な状況、異常な状況に遭遇した時、バカなことをしでかさないよう、自分の行動を予め縛るものだというわけです。ある時点での冷静な「私」が、別の時点でバカなことをしそうな「私」の行動を抑止しているわけです。…私が私を縛ることがあるように、「私たち=人民」が、「私たち=人民」自身を縛っているわけです」(仲正、91ページ)と語っている。なお、セイレーンの誘惑というエピソードはアドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法──哲学的断章』(岩波文庫)で論じられている。

 社会契約における一般意志として一定のルールを定め、そこに自発的に従う形で道徳的自由=自律を目指していたとしても、実際の人間はそこから逸脱しかねない。従って、一般意志に従うようにタガをはめる必要が出てくる。それが「法」として表現された。ベッカリーア『犯罪と刑罰』は罪刑法定主義や死刑廃止論といった議論で後世に大きな影響を与えているが、罪刑法定主義の考え方では法の内容をみんなが理解していることが前提となる。つまり、理性的な熟慮によって社会契約に参画していなければならないという点で「自律」→「自由」が前提となっていると言える。

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