松原千振『ジャン・シベリウス──交響曲でたどる生涯』
松原千振『ジャン・シベリウス──交響曲でたどる生涯』(アルテス・パブリッシング、2013年)
1890年、シベリウスが25歳のとき、留学先のウィーンでひもといたフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』。フィンランドの風土を特徴付ける森と湖を舞台に繰り広げられたドラマを通して語りかけてくる、ある種、超自然的な何か。そこからシベリウスは強烈なインスピレーションを受けた。鬱屈した異国の地だからこそ敏感に感じ取った郷土の情景。『カレワラ』はもともと口承のものであったが、19世紀にリョンロートによって記録された。文字化されたものをシベリウスは読んだわけだが、1891年にはラリン・パラスケによる朗誦を聴きに行き、音としての『カレワラ』をも知った。
シベリウスが『カレワラ』を指して「モダン(前衛)である」「叙事詩カレワラは音楽そのものだ。主題があり、変奏がある」と考えたというのが興味深い(本書、21ページ)。同時代における表現としての「近代」を超えて、次代の音楽を指し示す方向性を古層的なものに求める。言い換えると、「古層」と「前衛」とが「近代」を挟撃するという構図は、例えばストラヴィンスキー《春の祭典》などとも共通した感性だと言ってもいいだろうか。
イタリアやドイツを模範としたこれまでの音楽ではなく、自分自身の音楽を作り上げたいという彼の模索はこうした『カレワラ』からの触発によって始まった。あたかも大国の抑圧にあえぐ小国で独立を求める声が高まっている時代である。そうした時代風潮の中で考えると、彼の模索はフィンランド国民学派を形成する端緒になったと言える。当時からシベリウスの音楽が紹介されるとき、「フィンランド、自由への戦い」といったフレーズがかぶせられて政治との関わりが強調されたようであるが、ただし彼自身は政治的なナショナリズムとは距離をおいていた。あくまでも、彼自身が純粋に音楽のあり方を模索する「魂の告白」としての作曲表現であったことを、本書は示してくれる。
私自身、シベリウスの曲は好きで昔からよく聴いていたが、初期の《クッレルヴォ》(1891~92)や《レミンカイネン組曲》(1893~95)といったあたりでは、英雄譚としての物語的な躍動感が面白いと思っていた。その後、7つの交響曲における純粋音楽としての探求を経て、太古の森の神をテーマとした交響詩《タピオラ》(1925~26)では緊張感のみなぎった静寂が印象的であった。こうした軌跡がヴィヴィッドに浮かび上がってくるのを感じながら本書を読み終えた。
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