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2013年10月15日 (火)

中島岳志『血盟団事件』

中島岳志『血盟団事件』(文藝春秋、2013年)

 1933年、元蔵相の井上準之助と三井財閥の団琢磨が相次いで暗殺された血盟団事件。個人として考えるなら生真面目で純朴な若者たちがなぜ「一人一殺」を掲げるテロリズムへと突っ走ったのか、彼らのカリスマ的指導者となった井上日召は何を考えていたのか。社会的格差が拡大しつつある閉塞感の中でやり場のない鬱屈を抱え込んだ閉塞感。そこに由来するうめき声を、単に過去のものと突き放すのではなく、現代社会における問題と重ね合わせながら描き出そうとする筆致は、著者の『朝日平吾の鬱屈』(筑摩書房、2009年)及び『秋葉原事件──加藤智大の軌跡』(朝日新聞社、2011年)と同様である。

 団琢磨を殺害した菱沼五郎の上申書に見える「神秘的暗殺」という言葉をどのように捉えるか。井上日召の自伝『一人一殺』(日本週報社、1953年)は私もむかし読んだことがある。存在論的な懊悩にもだえ苦しむ若き日召の姿は、いわゆる煩悶青年そのものであった。その後における頓悟を、極度に肥大化した自我意識をもてあました末と考えるなら、それをスピリチュアリズムと呼んで現代的な「自分探し」に引き付けて捉えることも可能なのかもしれない。

 個人的煩悶という「小乗」的レベルから一歩踏み出し、自分を超える「大乗」的な見地から国家のために自らの身を投げ出す──。見ようによっては、「セカイ系」の自己陶酔だ。同じく国家改造を主張するにしても、高畠素之や津久井龍雄の国家社会主義、あるいは北一輝『日本改造法案大綱』に見える設計主義的な発想には違和感を抱き、上杉慎吉や安岡正篤といった学者に対しては極度な反感を示していた。知識人の議論には血が通っていない。国家を変えるには、とにかく死ねばいい。革命の実行主体としての自分が純粋でさえあればそれでいい。彼らはそのように考えるが、論理化されたすべてを拒否するスピリチュアリズムが、常に主観主義という殻の中に閉じこもったままという病理的矛盾は変わらない。

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