【メモ】ジグムント・バウマン+デイヴィッド・ライアン『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について――リキッド・サーベイランスをめぐる7章』
ジグムント・バウマン+デイヴィッド・ライアン(伊藤茂・訳)『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について――リキッド・サーベイランスをめぐる7章』(青土社、2013年)
・ソリッドな近代からリキッドな近代への変容を様々な論点から分析している社会学者ジグムント・バウマン。本書は、情報化社会における監視研究で著名なデイヴィッド・ライアンとの対話で構成されている。バウマンの議論では、モダニティ/ポストモダ二ティという区別はとらない。現在はむしろモダ二ティがますます深化している時代であると考え、そうしたモダニティの変容をソリッド/リキッドという表現で捉えている。
・ベンサムが発明した刑務所の監視システムであるパノプティコンに、フーコーが規律権力の観点から着目し、近代社会を考える重要なキーワードとなった。これはソリッドな近代に適合的なモデルであったが、リキッドな近代へと移行するに従い、現代はポスト・パノプティコンの時代であるというのが基本的な認識となる。選択肢を限定して誘導しながら囲い込むコストをかけて監視するのではなく、自発的に監視へと身を委ねる状況がリキッドな近代の特徴として指摘される。リキッドな近代において長期的な見通しはつかず、その中で生きる人々は社会的矛盾も含めてあらゆる問題を個人的な問題として解決することが求められる点が議論の前提。以下に関心を持った論点をメモ。
・ソリッドな近代におけるパノプティコン的管理→「工業化のプロセスの理想が、事前に設計された通りの動きを繰り返し、その状態を維持する、定常的な機械のパターンに基づいて発想された時代以降、人々を管理することは本来、非常にやっかいな仕事でした。それには細心の綿密で持続的でパノプティコン的な監視が必要であり、管理するものとされるもの双方の創造的な衝動を打ち消すような、単調なルーティンを課す必要がありました。それが退屈の原因となり、常に公然たる衝突につながる恐れのある煮えたぎる怒りを掻き立てました。またそれは「ものごとを仕上げる」上でコストのかかる方法でもありました。すなわち、仕事に従事している被雇用労働者の潜在能力を活かすのではなく、彼らを抑えつけ、働かせ、悪い影響から間乗るための貴重な資源を必要としたのです。」(97ページ)
・リキッドな近代では?→「今では自己規律を期待され、規律を生み出す物質的・心理的コストを負担しているのは、管理規律の対象とされる人々です。彼らは自ら壁を築き、自らの意志でその中にとどまることを期待されています。アメ(あるいはその約束)がムチに取って代わったこと、つまり、誘惑や魅力がかつての規範的な規制機能に取って代わり、欲望を喚起し、高めることが、費用がかさむ上に、異議申し立てを呼び起こす監視に代わったことに伴って、監視塔は(望ましい行動を引き出し、望ましくない行動を除去することを目的とした残りの戦略と同様に)民営化される一方、壁の建築を許可する手続きは規制緩和されています。その犠牲者を追いかける代わりに、隷従の機会を追い求めることは今では自発的(ヴォランタリー)な仕事になっています」(99ページ)。「問題の専門家たちは、ルーティンを束ねる退屈さを監視する時代遅れの管理者というよりも、非常に変化しやすい欲望のパターンや、それらの不安定な欲望によって駆り立てられる行動の追跡者やストーカーです」(100ページ)。
・「近代」とは、イレギュラーなものを除去しながら偶然性を「理性」の管理下に置き、ある終局的な目標の完成を目指そうとした時代→「完成への取り組みには、物事を完全なものにするための計画表に収められない多くのものを根絶したり、拭い去ったり、取り除いたりする作業が欠かせません。破壊と創造は不可分のものでした。つまり、不完全なものを破壊することが完成への地ならしの条件であり、その必要十分条件でした。モダニティの物語と、とりわけその二〇世紀の結末は、創造的な破壊の物語だったのです」(109ページ)。その究極的な具現化がナチズムとコミュニズムであった。
・ナチズムによるホロコーストでは、絶滅されたものと絶滅を実行した者との間の距離感によって「道徳的な中立化」がもたらされた。そのため、問題は技術的なものへと純化され、ホロコーストが粛々と実行されたという点でまさに「近代」の矛盾が露呈した出来事であった(こうした議論については、ジグムント・バウマン『近代とホロコースト』を参照→こちら)。情報技術の発達による「遠隔性、遠隔化、自動化」の進展はこうした「道徳的な中立化」をいっそう促している。「「遠隔性、遠隔化、自動化」を促す技術の進歩のもっとも重大な帰結は、私たちの行動が道徳的な制約からしだいにまたとめどなく解き放たれていくことでしょう。「われわれはそれを行なうことができる、だからそれを行なう」という原則が私たちの選択を支配するようになると、人間の行為とその非人間的な結末について道義的な責任が前提とされなくなったり、それが効果的に実施されなくなってしまうのです。」(114~115ページ)
・「私たちはみな「法令上の個人」ですが、私たちのほとんどが、「事実上の個人」の身分にはほど遠いと考えています(知識や技能や資源の不足のため、あるいはただ単に、私たちが直面している「諸問題」が独力では解決不能であり、多くの人々の一致協力による集合的な形でしか「解決」できないがゆえに)。しかし、私たちは、いわゆる「世論」によっても、私たち自身の(たとえ、社会的に準備されたものであっても)良心によっても、社会的期待(私たちによって内面化されている)と私たちの実践能力のギャップを埋められそうもありません。自尊心やあがないの希望を否定されて、逃れられない、取り戻せない資格剥奪の状態におかれているという、この深くて屈辱的な意味は、「自発的な隷従」(電子的・デジタル的な監視への私たちの協力)の現代版へのもっとも強力な起動力だと思います」(184~185ページ)。こうした問題意識を示した上で、なおかつ行為主体にとっての希望はどのようなものかと問いかけている。
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