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2013年9月 2日 (月)

小谷汪之『「大東亜戦争」期 出版異聞──『印度資源論』の謎を追って』

小谷汪之『「大東亜戦争」期 出版異聞──『印度資源論』の謎を追って』(岩波書店、2013年)

 著者の名前はインド史の研究者として記憶していたが、それがなぜ「大東亜戦争」期の出版事情なのか。きっかけは、戦前・戦中期の日本におけるインド研究書を調べているうちに見つけたP・A・ワディ、G・N・ジョシ共著『印度資源論』(聖紀書房、1942年)という一冊の本。訳者名は小生第四郎(こいけ・だいしろう)となっている。だから何?と素人なら気にも留めずにスルーしてしまうところだが、著者はインド研究界隈で小生第四郎などという名前は見たことがなかったので違和感を抱いたことから調査を始めた。

 小生第四郎とは何者なのか? 大正・昭和初期の思想・文芸関係、とりわけ社会主義思想史やプロレタリア文学などに知識のある人なら小生夢坊という名前に見覚えがあるだろう。堺利彦の売文社にも出入りして、風刺のきいたイラストや文筆で知られていた夢坊というのは小生第四郎のペンネームである。小生夢坊はインド経済にも造詣が深かった…わけがない。これはあくまでも名前貸し。『印度資源論』が出版されたのは戦時下のこと。何かキナ臭い事情があるはずだ。

 では、本当の訳者は誰であったのか? 論証を積み重ねながらたどり着いたのは、満鉄調査部にいた枝吉勇という人物である。帝国大学を出たエリートでも左翼運動の経歴のため就職先がなく、仕方なく大陸に流れ、満鉄調査部に潜り込んだ人々がいた。左翼前歴のある彼らはマルクス経済論を分析に応用したため日本内地とは違った雰囲気を持ち、「満鉄マルクス主義」とも呼ばれるが(小林英夫『満鉄調査部──「元祖シンクタンク」の誕生と崩壊』平凡社新書、2005年)、枝吉もまさにそうした典型だった。

 『印度資源論』刊行前後の時期、枝吉も含め多くの調査部員が関東軍の憲兵隊によって一斉検挙されており(満鉄調査部事件)、枝吉自身の名前で訳書を刊行することなど覚束ない。そこでまわりまわって聖紀書房に原稿が持ち込まれた。小生に名前貸しを頼んだのは荒畑寒村らしい。

 そもそも、社会主義者として知られた荒畑寒村自身、自らの名前で本を出すわけにはいかず苦しい生活を送っており、他人名義で書くこともあった。聖紀書房社長の藤岡淳吉も左翼傾向があったが戦時下の圧迫の中でも書籍を出し続けるためやむを得ず転向・再転向を繰り返し、その結果として本人の意図とは関わりなく後ろ指差されることになってしまった。『印度資源論』のように政治色の薄い学術書であっても、左翼のレッテルを貼られてしまっただけで自分の名前で刊行することのできなかった難しい時代の様子が具体的に見えてくる。

 最初の着眼は派生的なものに過ぎないが、追及していくとそれが思いもかけず時代の一つの特徴をくっきり浮かび上がらせるテーマに広がっていく意外性が面白い。私自身の関心としては、小生第四郎(夢坊)が戦時中、「新亜細亜主義」を掲げて内地・朝鮮・台湾・満洲・蒙古から少年を二人ずつ集める興亜十人塾なるものを神奈川県高座郡に設立していたのは初めて知った。台湾出身の塾生とは戦後もつながりを持っていたらしい。
 
 

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