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2013年9月 4日 (水)

井上勝生『明治日本の植民地支配──北海道から朝鮮へ』

井上勝生『明治日本の植民地支配──北海道から朝鮮へ』(岩波現代全書、2013年)

 1995年7月、北海道大学の古い歴史的な建物で段ボール箱の中に無造作に入れられた6体の頭蓋骨が見つかった。そのうちの一つには「東学党首魁」と墨で書かれており、添えられていた書付には1906年に韓国珍島で「採取」されたと記されている。1895年、日本軍の掃討作戦により東学農民軍は珍島まで追い詰められていた。その時に殺されてさらし首となった指導者の遺骨であった。こんなものを誰が持ってきて、なぜここにあったのか? 杜撰なのか意図的だったのか、北大には記録がないため事情は分からない。調査委員となった著者は韓国側の関係者と連絡を取りながら遺骨を返還し、背景事情を調べ上げていくが、それは同時に近代日本の暗部に否応なく直面する旅であった。

 書付には明治39(1906)年の日付があり、署名は佐藤政次郎となっている。佐藤は札幌農学校出身の農業技師で、この頃、珍島にも近い木浦へ韓国統監府技師として赴任していた。目的は棉花栽培の指導であったが、現地の農業慣行を無視して無理やり土地を収用するような日本の棉花栽培事業に対して朝鮮農民の反発は当然ながら根強い。そこには東学農民軍が虐殺されたことへの憤怒も重ねあわされていたはずだ。実際、棉花栽培試験場の職員は銃を携行し、警察官や守備兵に護衛されるものものしい出で立ちで綿花栽培の「奨励」事業にあたっていたという。そうした雰囲気の中で、かつてさらし首となった東学農民軍指導者の遺骨が持ち去られたのである。頭蓋骨の形状で民族的優劣を判断しようとする骨相学など疑似科学的な関心があったのかもしれない。

 札幌農学校と言えばキリスト教的ヒューマニズムというイメージが強いが、他方で植民地当局の幹部を多数輩出したことでも知られている。例えば、新渡戸稲造は後藤新平の招きで台湾糖業の基本プランを立案しており、佐藤政次郎の赴任先であった韓国にも棉花事業の視察に行っている。札幌農学校には植民政策論の講座があった。日本人の農業拡大を意図した佐藤昌介の植民論に比べれば、「文明の伝播」を唱導した新渡戸のそれはまだ人道主義的色彩がうかがえるのかもしれない。他方で、新渡戸は韓国視察時に、停滞した過去の国といった感じの印象を記し、すでに亡国の状況にあるのだから急進的な植民化を進めるよう提案していた。遅れた民だから、植民化は正当化されるという考え方である。

 なお、本書では台湾について言及されていないが、新渡戸は台湾糖業の振興策を立案した際にも、児玉源太郎・台湾総督に向かって、農民の意識改革を促すため反対があってもフレデリック大王のように果敢に断行するように、と語りかけていたが、同様の発想で一貫していたことが分かる。人道主義的な植民論として矢内原忠雄から敬意を表され、台湾糖業の父として現在の台湾で評価されている新渡戸のこうした別の一面をどのように整合的に捉えたらいいのか、私は少々気にかかっている。

 そもそも、札幌農学校のお膝元である北海道では1892年に十勝アイヌ民族の請願、1894~95年には中川郡アイヌ民族組合の結成、といった流れでアイヌ民族運動の進展が見られていたが、日本政府側は「無知蒙昧」な民族に過ぎないと取り合わなかった。ちょうど本書の発端となった遺骨の主が東学農民戦争で殺害されたのと同じ時代である。相手に対する蔑視感情を基に植民支配を正当化しようとする発想は時代的にも共振していたことがうかがわれる。

 本書の最終章では、徴兵されて東学農民戦争の鎮圧に動員され、あまりな殺戮のあり様にもだえ苦しんだ日本の一般人の姿も描き出されている。「近代」は先進的な文明と後進的な野蛮という二項対立の中で自らの優位を強調する一方、先進的な兵器や組織は一方的な殺戮をも可能とした。こうした形で近代へと展開していく時代状況の中、不幸な邂逅をせざるを得なかった問題をどのように捉えていくのか、論点はまだまだ尽きない。

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