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2013年9月

2013年9月27日 (金)

浅野智彦『「若者」とは誰か──アイデンティティの30年』

浅野智彦『「若者」とは誰か──アイデンティティの30年』(河出ブックス、2013年)

 自分探し、ゆとり世代、オタク──様々に語られる「若者論」。上の世代としての「大人」たちが「若者」をネガティブに語ること自体は有史以来珍しくはない。ただ、このような語り口が紋切り型としてこわばればこわばるほど、ある大きな社会的変化を捉えられなくなっているのではないか? 本書は、1960年代以降の「若者論」を検討しながら、そうした安易な言説によって覆い隠されてきたアイデンティティの変容過程を浮かび上がらせようとしている。

 コミュニケーションの乏しさ、確固たるアイデンティティの希薄さ──ある種の若者について、こうした物足りなさを社会的病理として語る向きも見られる。だが、そもそもアイデンティティなるものを普遍的に通用する概念と考えて良いものだろうか?

 エリクソンのアイデンティティ論では、人生の発達段階における課題の解決を通して自我が統合されると考え、統合できなかった場合を病理とみなしている。統合された単一性としての近代的主体は、内面的な一貫性を前提として、外界へ働きかける。これは伝統社会から切り離されると同時に、勤勉さなどの規律を内面化した社会組織に適合的なモデルだったと言えるだろう。他方で、リースマン『孤独な群衆』は社会のあり方を伝統志向、内部志向、他人志向と分類した上で、1950年代におけるアメリカ社会については他人志向への変化を指摘していた。これは、経済のあり方が生産中心から消費中心へと変化していく様相を反映している。

 大雑把な言い方になってしまうが、「自分らしさ」を前提とした主体が社会へと働きかけるのが生産中心の社会であったとするなら、消費活動を通して「自分らしさ」を確証しようとするのが消費社会である。言いかえると、消費社会は外的状況への反応として主体が措定されるという特徴を持っている。ところで、1980年代の日本ではこうした消費社会論の文脈で若者が語られたが、1990年代以降はコミュニケーション論の文脈が中心になってきたという。二つの論点のちょうど結節点に位置していたのがオタク論だったという指摘が興味深い。

 オタクは引きこもってアニメばかり見て、他人との交流は苦手──こうしたステレオタイプは実は誤りである。オタクは関心を共有する人々の間ではむしろ活発なコミュニケーションを行っている。他方で、関心を共有しない人々との関係には積極的にならない(宮台真司「仲間以外はみな風景」)。このようなコミュニケーションにおける過少と過剰の併存は、人間関係の使い分けと捉えることができる。そして、人間関係の使い分けに応じて、そこに対応する自己の側も多元化しているという状況が、オタクに限らず現代の若者世代で広く観察されるという。

 相手に応じて異なった振る舞いをするというだけなら、そんなに珍しい話ではない。実際、確固たる主体を前提として他者と向き合うという欧米的な理念型を基準として日本社会を批判する議論もかつてはしばしば見受けられた。しかしながら、従来の日本社会では使い分けの規則について共通了解があって、全体的な見通しがきいた。ところが、現在の若者世代の使い分けの場合、関係性のコンテクストによって規則が異なるため、コンテクストを共有していない人には見通しがつかない。こうしたコミュニケーションの多元化が、「大人」世代からすれば不気味に感じられるということなのかもしれない。

 主体と外界との関係を一対一のものと考えれば済んだ時代(ソリッドな近代)はすでに終わり、外界の流動性が高まるにつれて、主体の側も流動性への適応を迫られている時代(リキッドな近代)へと徐々に変化しつつある。アンソニー・ギデンズの言う「前期近代/後期近代」にせよ、ジグムント・バウマンの言う「ソリッドな近代/リキッドな近代」にせよ、こうした対比によって「近代」の変化を特徴づけていた(バウマンについてはこちらで触れた)。本書もまた、日本の「若者論」というローカルな話題を切り口としつつも、アイデンティティの多元化に注目することで、こうした「近代」なる時代状況の変容過程を捉える射程を示そうとしている。

 アイデンティティの多元化がすでに進行している以上、それを所与の条件として生きていかねばならない若者たちの現実をまず肯定するところから出発すべきだという著者の見解には基本的に賛成である。ただ、自分自身がどこまで追いついていけるのか、心もとないというのも正直なところだ。

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2013年9月 4日 (水)

井上勝生『明治日本の植民地支配──北海道から朝鮮へ』

井上勝生『明治日本の植民地支配──北海道から朝鮮へ』(岩波現代全書、2013年)

 1995年7月、北海道大学の古い歴史的な建物で段ボール箱の中に無造作に入れられた6体の頭蓋骨が見つかった。そのうちの一つには「東学党首魁」と墨で書かれており、添えられていた書付には1906年に韓国珍島で「採取」されたと記されている。1895年、日本軍の掃討作戦により東学農民軍は珍島まで追い詰められていた。その時に殺されてさらし首となった指導者の遺骨であった。こんなものを誰が持ってきて、なぜここにあったのか? 杜撰なのか意図的だったのか、北大には記録がないため事情は分からない。調査委員となった著者は韓国側の関係者と連絡を取りながら遺骨を返還し、背景事情を調べ上げていくが、それは同時に近代日本の暗部に否応なく直面する旅であった。

 書付には明治39(1906)年の日付があり、署名は佐藤政次郎となっている。佐藤は札幌農学校出身の農業技師で、この頃、珍島にも近い木浦へ韓国統監府技師として赴任していた。目的は棉花栽培の指導であったが、現地の農業慣行を無視して無理やり土地を収用するような日本の棉花栽培事業に対して朝鮮農民の反発は当然ながら根強い。そこには東学農民軍が虐殺されたことへの憤怒も重ねあわされていたはずだ。実際、棉花栽培試験場の職員は銃を携行し、警察官や守備兵に護衛されるものものしい出で立ちで綿花栽培の「奨励」事業にあたっていたという。そうした雰囲気の中で、かつてさらし首となった東学農民軍指導者の遺骨が持ち去られたのである。頭蓋骨の形状で民族的優劣を判断しようとする骨相学など疑似科学的な関心があったのかもしれない。

 札幌農学校と言えばキリスト教的ヒューマニズムというイメージが強いが、他方で植民地当局の幹部を多数輩出したことでも知られている。例えば、新渡戸稲造は後藤新平の招きで台湾糖業の基本プランを立案しており、佐藤政次郎の赴任先であった韓国にも棉花事業の視察に行っている。札幌農学校には植民政策論の講座があった。日本人の農業拡大を意図した佐藤昌介の植民論に比べれば、「文明の伝播」を唱導した新渡戸のそれはまだ人道主義的色彩がうかがえるのかもしれない。他方で、新渡戸は韓国視察時に、停滞した過去の国といった感じの印象を記し、すでに亡国の状況にあるのだから急進的な植民化を進めるよう提案していた。遅れた民だから、植民化は正当化されるという考え方である。

 なお、本書では台湾について言及されていないが、新渡戸は台湾糖業の振興策を立案した際にも、児玉源太郎・台湾総督に向かって、農民の意識改革を促すため反対があってもフレデリック大王のように果敢に断行するように、と語りかけていたが、同様の発想で一貫していたことが分かる。人道主義的な植民論として矢内原忠雄から敬意を表され、台湾糖業の父として現在の台湾で評価されている新渡戸のこうした別の一面をどのように整合的に捉えたらいいのか、私は少々気にかかっている。

 そもそも、札幌農学校のお膝元である北海道では1892年に十勝アイヌ民族の請願、1894~95年には中川郡アイヌ民族組合の結成、といった流れでアイヌ民族運動の進展が見られていたが、日本政府側は「無知蒙昧」な民族に過ぎないと取り合わなかった。ちょうど本書の発端となった遺骨の主が東学農民戦争で殺害されたのと同じ時代である。相手に対する蔑視感情を基に植民支配を正当化しようとする発想は時代的にも共振していたことがうかがわれる。

 本書の最終章では、徴兵されて東学農民戦争の鎮圧に動員され、あまりな殺戮のあり様にもだえ苦しんだ日本の一般人の姿も描き出されている。「近代」は先進的な文明と後進的な野蛮という二項対立の中で自らの優位を強調する一方、先進的な兵器や組織は一方的な殺戮をも可能とした。こうした形で近代へと展開していく時代状況の中、不幸な邂逅をせざるを得なかった問題をどのように捉えていくのか、論点はまだまだ尽きない。

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2013年9月 3日 (火)

平瀬礼太『彫刻と戦争の近代』

平瀬礼太『彫刻と戦争の近代』(吉川弘文館、2013年)

 戦時下とはすなわち国民生活のすべてが戦争という国家目的に向けて動員された時代であり、個性の発露に価値を置く近代的な芸術観からすれば、確かに不毛の時代であったとも言えるのかもしれない──それこそ、かつては「緑色の太陽」を描いても構わないと個性尊重を謳い上げた高村光太郎が、戦争の興奮状態の中で個人主義を捨てて戦争協力を唱えたように──。

 しかし、作品が制作されていなかったならともかく、この時代にも当時なりの制作活動があった以上、価値観的にどう評価するかは別として、美術史的に空白のままにしておくわけにはいかない。そうした問題意識から本書は戦時下における彫刻家たちの動向をたどっているが、明治以降の時代的流れの中から捉えているので、そもそも彫刻の歴史に疎い私にとっては勉強になった。

 戦時色が濃厚となるにつれ、展覧会で展示するような芸術作品としての彫刻よりも、軍神を称揚するようなモニュメンタルな銅像が制作されるようになった(ただし、1943年以降、銅像を供出する方針が示される)。抽象的な美よりもメッセージの目的を明確にした具体性が重要になっていくわけだが、見方を変えれば、戦意高揚を意図した銅像作品は闘争的政治意識を打ち出したプロレタリア芸術の写実性と、少なくとも表現技法の面では同一地平にあったと言える。実際、大正教養主義の風潮の中で賞賛されたベルギーの彫刻家・ムーニエが1940年代に労働礼賛のシンボルとして復活するなど奇妙な共鳴現象が見られる。

 健民彫塑展示会というのを大政翼賛会が後押ししていた(本書、83ページ~)。男は良い兵士に、女は健康な子供を生むように奨励され、健康の美徳を説く趣旨で行われたものだが、北村西望が男性美の表現だけでは淋しいと女性美も加えようとしたところ、翼賛会から全裸女性だけは遠慮してくれとクレームがついたらしい。当時のナチス・ドイツでも同様に健康という美徳から肉体美が称揚されており(例えば、田野大輔『愛と欲望のナチズム』講談社選書メチエ、2012年)、ナチスほど「先進的」ではなかったにせよ、似たような発想が日本にもあったのが興味深い(なお、日本では1920年代でも男性裸体像はタブーで、検閲で「局部切断」なんてこともあったらしい)。

 日本の敗戦後、「軍国主義」的な銅像は当然ながら撤去の対象となった。しかし、あらゆる芸術作品につきものの問題だが、基準はどうしても曖昧なものとなってしまう。日名子実三の「八紘之基柱」(あめつちのもとはしら)は1946年に「平和の塔」と改名された上でそのまま残され、しかも1965年には「八紘一宇」の文字が復元されている。このように戦意高揚のモニュメントが、平和のシンボルにすり替わってそのまま残存している例は少なくないらしい。そもそも、長崎の「平和祈念像」で有名な北村西望はかつて戦争協力に積極的な彫刻家の一人であったという。私としてはこうした点を断罪するつもりはないが、様々な意味合いで歴史的な連続性を確認できるところに興味が引かれる。

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2013年9月 2日 (月)

小谷汪之『「大東亜戦争」期 出版異聞──『印度資源論』の謎を追って』

小谷汪之『「大東亜戦争」期 出版異聞──『印度資源論』の謎を追って』(岩波書店、2013年)

 著者の名前はインド史の研究者として記憶していたが、それがなぜ「大東亜戦争」期の出版事情なのか。きっかけは、戦前・戦中期の日本におけるインド研究書を調べているうちに見つけたP・A・ワディ、G・N・ジョシ共著『印度資源論』(聖紀書房、1942年)という一冊の本。訳者名は小生第四郎(こいけ・だいしろう)となっている。だから何?と素人なら気にも留めずにスルーしてしまうところだが、著者はインド研究界隈で小生第四郎などという名前は見たことがなかったので違和感を抱いたことから調査を始めた。

 小生第四郎とは何者なのか? 大正・昭和初期の思想・文芸関係、とりわけ社会主義思想史やプロレタリア文学などに知識のある人なら小生夢坊という名前に見覚えがあるだろう。堺利彦の売文社にも出入りして、風刺のきいたイラストや文筆で知られていた夢坊というのは小生第四郎のペンネームである。小生夢坊はインド経済にも造詣が深かった…わけがない。これはあくまでも名前貸し。『印度資源論』が出版されたのは戦時下のこと。何かキナ臭い事情があるはずだ。

 では、本当の訳者は誰であったのか? 論証を積み重ねながらたどり着いたのは、満鉄調査部にいた枝吉勇という人物である。帝国大学を出たエリートでも左翼運動の経歴のため就職先がなく、仕方なく大陸に流れ、満鉄調査部に潜り込んだ人々がいた。左翼前歴のある彼らはマルクス経済論を分析に応用したため日本内地とは違った雰囲気を持ち、「満鉄マルクス主義」とも呼ばれるが(小林英夫『満鉄調査部──「元祖シンクタンク」の誕生と崩壊』平凡社新書、2005年)、枝吉もまさにそうした典型だった。

 『印度資源論』刊行前後の時期、枝吉も含め多くの調査部員が関東軍の憲兵隊によって一斉検挙されており(満鉄調査部事件)、枝吉自身の名前で訳書を刊行することなど覚束ない。そこでまわりまわって聖紀書房に原稿が持ち込まれた。小生に名前貸しを頼んだのは荒畑寒村らしい。

 そもそも、社会主義者として知られた荒畑寒村自身、自らの名前で本を出すわけにはいかず苦しい生活を送っており、他人名義で書くこともあった。聖紀書房社長の藤岡淳吉も左翼傾向があったが戦時下の圧迫の中でも書籍を出し続けるためやむを得ず転向・再転向を繰り返し、その結果として本人の意図とは関わりなく後ろ指差されることになってしまった。『印度資源論』のように政治色の薄い学術書であっても、左翼のレッテルを貼られてしまっただけで自分の名前で刊行することのできなかった難しい時代の様子が具体的に見えてくる。

 最初の着眼は派生的なものに過ぎないが、追及していくとそれが思いもかけず時代の一つの特徴をくっきり浮かび上がらせるテーマに広がっていく意外性が面白い。私自身の関心としては、小生第四郎(夢坊)が戦時中、「新亜細亜主義」を掲げて内地・朝鮮・台湾・満洲・蒙古から少年を二人ずつ集める興亜十人塾なるものを神奈川県高座郡に設立していたのは初めて知った。台湾出身の塾生とは戦後もつながりを持っていたらしい。
 
 

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