浅野智彦『「若者」とは誰か──アイデンティティの30年』
浅野智彦『「若者」とは誰か──アイデンティティの30年』(河出ブックス、2013年)
自分探し、ゆとり世代、オタク──様々に語られる「若者論」。上の世代としての「大人」たちが「若者」をネガティブに語ること自体は有史以来珍しくはない。ただ、このような語り口が紋切り型としてこわばればこわばるほど、ある大きな社会的変化を捉えられなくなっているのではないか? 本書は、1960年代以降の「若者論」を検討しながら、そうした安易な言説によって覆い隠されてきたアイデンティティの変容過程を浮かび上がらせようとしている。
コミュニケーションの乏しさ、確固たるアイデンティティの希薄さ──ある種の若者について、こうした物足りなさを社会的病理として語る向きも見られる。だが、そもそもアイデンティティなるものを普遍的に通用する概念と考えて良いものだろうか?
エリクソンのアイデンティティ論では、人生の発達段階における課題の解決を通して自我が統合されると考え、統合できなかった場合を病理とみなしている。統合された単一性としての近代的主体は、内面的な一貫性を前提として、外界へ働きかける。これは伝統社会から切り離されると同時に、勤勉さなどの規律を内面化した社会組織に適合的なモデルだったと言えるだろう。他方で、リースマン『孤独な群衆』は社会のあり方を伝統志向、内部志向、他人志向と分類した上で、1950年代におけるアメリカ社会については他人志向への変化を指摘していた。これは、経済のあり方が生産中心から消費中心へと変化していく様相を反映している。
大雑把な言い方になってしまうが、「自分らしさ」を前提とした主体が社会へと働きかけるのが生産中心の社会であったとするなら、消費活動を通して「自分らしさ」を確証しようとするのが消費社会である。言いかえると、消費社会は外的状況への反応として主体が措定されるという特徴を持っている。ところで、1980年代の日本ではこうした消費社会論の文脈で若者が語られたが、1990年代以降はコミュニケーション論の文脈が中心になってきたという。二つの論点のちょうど結節点に位置していたのがオタク論だったという指摘が興味深い。
オタクは引きこもってアニメばかり見て、他人との交流は苦手──こうしたステレオタイプは実は誤りである。オタクは関心を共有する人々の間ではむしろ活発なコミュニケーションを行っている。他方で、関心を共有しない人々との関係には積極的にならない(宮台真司「仲間以外はみな風景」)。このようなコミュニケーションにおける過少と過剰の併存は、人間関係の使い分けと捉えることができる。そして、人間関係の使い分けに応じて、そこに対応する自己の側も多元化しているという状況が、オタクに限らず現代の若者世代で広く観察されるという。
相手に応じて異なった振る舞いをするというだけなら、そんなに珍しい話ではない。実際、確固たる主体を前提として他者と向き合うという欧米的な理念型を基準として日本社会を批判する議論もかつてはしばしば見受けられた。しかしながら、従来の日本社会では使い分けの規則について共通了解があって、全体的な見通しがきいた。ところが、現在の若者世代の使い分けの場合、関係性のコンテクストによって規則が異なるため、コンテクストを共有していない人には見通しがつかない。こうしたコミュニケーションの多元化が、「大人」世代からすれば不気味に感じられるということなのかもしれない。
主体と外界との関係を一対一のものと考えれば済んだ時代(ソリッドな近代)はすでに終わり、外界の流動性が高まるにつれて、主体の側も流動性への適応を迫られている時代(リキッドな近代)へと徐々に変化しつつある。アンソニー・ギデンズの言う「前期近代/後期近代」にせよ、ジグムント・バウマンの言う「ソリッドな近代/リキッドな近代」にせよ、こうした対比によって「近代」の変化を特徴づけていた(バウマンについてはこちらで触れた)。本書もまた、日本の「若者論」というローカルな話題を切り口としつつも、アイデンティティの多元化に注目することで、こうした「近代」なる時代状況の変容過程を捉える射程を示そうとしている。
アイデンティティの多元化がすでに進行している以上、それを所与の条件として生きていかねばならない若者たちの現実をまず肯定するところから出発すべきだという著者の見解には基本的に賛成である。ただ、自分自身がどこまで追いついていけるのか、心もとないというのも正直なところだ。
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