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2013年8月

2013年8月26日 (月)

2013年8月12日 台湾・高雄を歩く

 昨日は炎天下の嘉義を歩き回って疲れがたまっていたので、少々遅めの起床。朝から雨が降っており、今日は力を抜いて動けばいい。午前10時頃に宿を出た。MRTに乗って橋頭糖廠車站で下車。ここから歩いてすぐのところに台湾糖業公司の工場がある。現在は操業を終えているが、糖業博物館として一般公開されており、それに合わせてあたり一帯が観光エリアとなっている。MRTの駅構内にはレンタサイクルがあった。それなりの広さがあるのだろう。

 MRTの駅から糖業博物館まで歩いて5分ほど。途中で見かけた中山堂の前に石灯篭が並んでいた(写真)。かつては神社だったのだろうか。日本統治期のものとおぼしき派出所(写真)や防空壕(写真)なども見かけた。防空壕にガジュマルの木が根を張って青々とした葉を広げている風情は歴史の年輪を感じさせる。歴史散策好きとしては期待がふくらんでくる。雨は小降りとなって、歩くのにそれほど支障は感じなくなった。

 台湾ではオランダ統治時代からすでにサトウキビの精製による砂糖作りが行われていた。サトウキビはおそらくオランダ人によってインドネシア経由で移植されたものと考えられる。その後、鄭氏政権の頃は停滞したが、清朝統治の時代には再び台湾の主要な輸出産品となっていく。日本は日清戦争後の下関条約で台湾を領有し植民地化したものの、その維持のため本国政府からの持ち出しが多く、こんな不採算部門は欧米に売り渡した方が良いという議論も浮上していた。植民地台湾を日本本国から財政的に自立させるために産業を振興する必要があり、そこで注目されたのが糖業である。後藤新平・民政長官がヘッドハンティングしてきた新渡戸稲造の献策に基づいて糖業の近代化・機械化が推進された。国策に応じて台湾製糖株式会社(1900年)、塩水港製糖株式会社(1903年)、明治製糖株式会社(1906年)が台湾で設立され、1906年には大日本製糖株式会社が進出してくる。台湾製糖は1902年に橋仔頭工場、すなわち現在の橋頭糖廠を設立し、これは台湾でも最早期の近代的工場と言えよう。日本の敗戦後、製糖会社の在台資産は国民政府によって接収され、国策会社である台湾糖業公司に再編された。1950~60年代における砂糖輸出によって進められた資本蓄積は台湾産業のキャッチアップに重要な役割を果たしたが、近年は糖業の収入力は減退しており、台湾糖業公司は食品業、小売業、畜産業、バイオテクノロジーなど多角経営を進めている。そうした流れの中で橋頭糖廠の操業は停止され、観光ゾーンへ転用されたのだろう。

 写真は橋頭の糖業博物館の入口。構内に入るとヤシの並木道が長く伸びている(写真)。突き当りには日本統治期からあった建物が展示室として使われており(写真)、中には新渡戸稲造の銅像も置かれている(写真)。台座には「台湾砂糖之父」と書かれている。

 後藤新平から台湾総督府への赴任を懇望された新渡戸は、まず海外における糖業の最新動向を調査し、それを基に「糖業改良意見書」をまとめて提出した。「台湾の現地事情を知らないから」と提出を渋る新渡戸に対して、後藤は「最新の理想を知っている頭のままで意見書を書いて欲しい。現場の実際との調整は自分たち政治家がやる」と答え、実際に後藤らしい事業手腕を示した。また、意見書を読んだ児玉源太郎・台湾総督に対して新渡戸は「糖業の近代化を進めると現地の農民から反発があるでしょう。しかし、農民の古い頭を変えるため、フレデリック大王のように断乎たる姿勢で臨んでください」という趣旨のことを語ったらしい。矢内原忠雄は新渡戸の植民政策論は人道主義的だったと評価していたが、近代化のため敢えて蛮勇を振るうよう児玉に進言する新渡戸の姿とは少々ギャップも感じる。

 展示館の裏手に回ると、金木善三郎という人の記念碑がひっそりと残っていた(写真)。日本統治期、台湾製糖の技師だった人らしい。近くには石灯篭も残っているが、刻まれた文字は削り取られている(写真)。日本の敗戦後に削られたのだろう。

 橋頭の糖業博物館構内には日本統治期に建てられた家屋や施設が現存しており、一部は観光用に修築されている。熱帯の青々とした木々の合間にレトロモダンな洋館や木造日本式建築が点在しているのはなかなかの風情だ。写真はたまたま見かけたリス。動きが素早いのでうまく撮れなかった。社宅事務所(写真写真)。工場長宅(写真写真)はきれいに新装なっているが、副工場長宅(写真)は古ぼけたまま。この工場長宅はかつて映画の舞台にもなったらしい(写真)。敗戦で日本人が引き揚げた後、残された建物には大陸から来た外省人が入居するようになった。外省人独特のコミュニティーが形成され、眷村文化と呼ばれるが、ここにもそうした雰囲気があったのかもしれない。

 サトウキビを工場まで運び、精製された砂糖を港まで運び出すため軽便鉄道が敷設されていた。構内のそうした跡地が鉄道公園となっている(写真写真)。鉄道公園の向こうに工場の煙突が見える(写真)。五分車にも乗れるようになっているが、今日は月曜日のため運休。インフラが未整備だった時代、製糖会社は自前で流通網を築き上げる必要があった。台湾中南部のサトウキビが栽培されていた平野部にはかつてこうした軽便鉄道の路線網が広がっており、一部は一般旅客運送も行っていたが、砂糖の減産やモータリゼーションの進展によって次第に廃線となった。当時の名残をこの鉄道公園で見ることができる。

 鉄道公園から工場の方へ向かう途中、軽便鉄道の車庫があった(写真)。さらに行くと倉庫が立ち並んでいる(写真)。かつての倉庫群を利用して現在は十鼓橋糖文創園区というアート空間になっている。この近くに防空壕があった(写真)。説明が丸文字で書かれると、ちょっと雰囲気が違ってくる(写真)。製糖工場は重要な経済拠点であったため爆撃の標的となる恐れがあったらしい。

 煙突が天へと突き出した工場の雄姿(写真)。すでに操業は停止されているが、稼働していた当時の設備がそのまま残っている(写真写真写真)。中に入って見学することもできる。工場マニア、廃墟マニアにとっては面白いスポットかもしれない。工場の脇には機械の修繕所を利用した展示館があり(写真写真)、台湾の製糖業と台湾糖業公司の歴史について解説されている。

 近代的産業形態は未経験であった台湾で大掛かりな工場を建てるとなると、製糖会社は様々なものを自前で準備しなければならなくなった。原料であるサトウキビを収穫する農地と農民が必要であり、精製工場の機械化・近代化が進められると機械のメンテナンスのために機械工業を興し、原料や製品の運搬のため軽便鉄道をはじめとした物流網を敷設し、会社組織が大型化すると管理運営のノウハウが必要とされる。つまり、製糖業がきっかけとなってあらゆる産業部門の近代化が推進されることになった。同時に、小作争議や労働争議も生じることになり、プラス・マイナスの両面で製糖業は台湾における近代化の契機になったと言えるだろう。

 糖業博物館の中を歩きまわっているうちに、いつしか雨もやんだ。雲が垂れこめて湿度も高く、蒸し暑さで汗がじっとり浮かび上がるが、肌を焦がすような日射しはない。涼みがてらアイスクリームを食べてから園区から出る。工場は台湾鉄道に沿って建てられており、線路を渡って反対側の橋頭老街をぶらぶら歩いてからMRTの駅へ戻った。

 高雄駅方向へ戻って適当に遅い昼食をとり、途中でタクシーを拾って次の目的地である寿山の忠烈祠へ向かった。ここは歩いて登るとなるとかなりきつそうだ。蛇行するような登り道の途中、迷彩服を着た集団がへたばっているのとすれ違った。いかにも「疲れた~」という感じに服装も乱れていたから、あるいは訓練がてら忠烈祠を参詣した新兵だったのかもしれない。

 高雄の忠烈祠(写真写真)は市街地や海を見渡せる眺望の良好な場所にある。写真は旗津半島の方向、写真は高雄の中心部の方向。忠烈祠はたいていの場合、日本統治期の神社を転用したもので、高雄の忠烈祠もご多分にもれずかつては高雄神社であった。参詣道は明らかに神社の雰囲気で、奉献塔(写真)や狛犬(写真)も残っている。また、入口あたりにある塔(写真)には「大東亜戦争完遂祈願」と刻み込まれていた(写真)。

 忠烈祠から歩いて山を下った。しばらく歩くと、かつて高雄港まで結ばれていた線路に出る(写真写真写真)。現在は廃線で、残された広い空間は市民の憩いの場となっている。かつての線路の上をまっすぐ歩いて行くと、高雄港駅に出た。操車場跡が広々としている(写真写真)。橋頭など各地の製糖工場で精製された砂糖も鉄道でここまで運ばれて来て、高雄港から日本やその他の国々へ輸出されたわけである。当然ながら現在は廃駅で、打狗鉄道故事館がオープンされているが(写真写真)、今日は月曜日なので休館。そのすぐ前にはMRT西子湾駅がある。高雄港駅の近辺はかつての繁華街で、地元の人々は「哈瑪星」(ハマセン)と呼んでいる(写真)。高雄港線は日本統治期に「浜線」と呼ばれており、これを台湾語的に漢字表記して「哈瑪星」である。

 高雄港の対岸には旗津半島が横たわって内湾を形成しており、その中に港がある。対岸へ渡る連絡フェリーの発着場までMRT西子湾駅から歩いて10分ほど。写真が連絡フェリー。写真は船上から見た鼓山輪渡站。自動車・バイクはフェリーの1階、人間は2階部分に乗り込む。運行本数は割合と多いが、乗客も多いのでいつも混雑しているようだ。旗津半島の発着所まで15分くらいだろうか。写真は船上から見た旗後燈台。写真は停泊している中華民国海軍の艦船。

 旗津半島は高雄の観光スポットの一つで、旗後老街は行楽客でにぎわっている。半島そのものは細長くて横切ってもたいして時間はかからない。老街をまっすぐ進むと海水浴場に出た。老街の屋台からイカ焼きのにおいが漂ってきて、日本の夏の海を思い浮かべる。波打ち際でキャーキャー言っている人はいるが、泳いでいる人はあまり見かけなかった。

 老街の途中で台湾長老教会の旗後教会を見かけた(写真写真)。随分と立派な建物である。19世紀の半ば、イングランド長老教会から派遣された宣教師のマクスウェルは(James Laidlaw Maxwell、馬雅各、1836~1921)は当初、台南で布教と医療の活動を始めたが、排外的雰囲気の中で伝教所兼医院が襲撃されるという事件が起こった。マクスウェルは打狗(高雄)のイギリス領事館の保護を受けてここ旗後に移転、活動を再開し、台湾南部布教の基礎を築くことになる。

 旗津半島の西端は小高い丘となっている。ここは高雄港への航路をにらむ要衝で、外海に向いて旗後砲台、内湾に向いて旗後燈台がある。とりあえず、旗後砲台まで登った(写真)。1874年、明治政府による台湾出兵に驚いた清朝政府は台湾の防備を固めるため沈葆楨を派遣、そのときに旗後砲台も建造された。下関条約によって台湾が日本へ割譲されたとき、それを認めない人々が激しく抵抗したが、旗後砲台でも日本の艦船との間で砲戦が交わされた。

 次に旗後燈台へも行ってみたが、すでに17時を過ぎていたので中には入れなかった(写真)。見晴らしの良い場所に座って一休み。ペットボトルの飲料でノドを潤しながら高雄の風景を見渡した。高雄のランドマーク、高雄85大楼が目立つ。足元の旗後の街並みからはゴミ収集車の機械音的なメロディーや、情感を込めすぎたこぶしがかえって素人っぽく聞こえるカラオケなどが耳に入ってくる。

 連絡フェリーに乗って西子湾の発着場に戻り、歩いて打狗英国領事館官舎まで行った。アロー戦争(第2次アヘン戦争)に敗れた清朝は1858年に天津条約を結び、その中で開港地に指定されたうちの一つが打狗(高雄)である。1864年に打狗は正式に開港され、同年末頃にはイギリスが領事館を設置した。領事館邸は鼓山に連なる小高い丘の上に建てられた一方、日常業務を執り行う領事館はその麓にあった。こうした二段構えの構造はいざというときの防備を考えていたのだろうか。

 丘の上の打狗英国領事館官舎は赤レンガが鮮やかな印象を残す(写真)。高雄で観光客が集まるスポットの一つである。1879年に建造されたもので、台湾に現存する西洋建築としては最も古い。日本統治期には水産試験場の施設として利用されたらしい。夜の21時まで開館しており、ここから見る夕焼けは人気があるという。建物内部では東西交流史における高雄の位置づけに関するパネル展示が行われており、イギリス最初の台湾領事として赴任したロバート・スウィンホー(Robert Swinhoe、史温侯、1836~1877)が博物学者であったことにちなんで生物多様性をテーマとした内容も含まれていた。

 打狗英国領事館官舎は中国人の団体観光客であふれかえっていた。外で声高にしゃべりながら写真を撮ったりしているのだが、建物の中でパネル展示を読む人は一人も見かけなかった。たまに入り込んできても、目立つ絵図のパネルを1,2枚ほど写真に撮ってさっさと出て行ってしまう。私としては落ち着けて良かったのだが。おそらく、ツアーとして組まれたから来ただけで、ここがどのような史蹟であるのかまるで興味もないのだろう。

 売店で冷たい紅茶を買い、打狗英国領事館官舎のバルコニーから高雄の夜景をしばし眺めた。タクシーを拾ってMRT西子湾駅へ行き、三多商圏駅まで出て、誠品書店高雄店で書棚を眺めてからホテルに戻る。結局、夜21時を過ぎていた。

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2013年8月23日 (金)

2013年8月10日 台北・胡適紀念館、殷海光故居など

 8月10日の土曜日、午前8:55羽田発の飛行機に乗り、現地時間11:00には台北松山空港へ到着した。空港の入国ゲートを通ってすぐのところにコイン・ロッカーがあったので荷物を預ける。3時間70元。預け入れボックスはたくさん並んでいるが、入金操作は1区画につき1か所のみ。荷物を入れたボックスの番号をコントロールパネルで入力、お金を投入すると、レシートが出てくる。このレシートには荷物を出す際に必要な暗証番号が記されているので紛失しないように注意。リュックサックだけ背負って空港を出る。

 MRT文湖線、松山機場站のホームに降り立った時点ではまだ11:30を回ったばかり。MRT文湖線は基本的に高架路線なので眺望が良好。旅行前に確認した週間予報では雨がちな様子だったが、幸いなことに青空が見えている。松山機場の北側に横たわる山並みの緑が鮮やかに映える。終着駅の南港展覧館で下車。駅前でタクシーを拾い、胡適公園まで行くように指示した。

 胡適公園は中央研究院から道を挟んだ向かい側にある(写真)。写真は胡適の銅像。この一帯は台北市の東のはずれで、民家も少ない。雑木林に覆われた小高い丘の中腹に胡適のお墓があった(写真)。他にも、甲骨文字研究で知られる考古学者の董作賓(写真写真)、物理学者で中央研究院長を務めた呉大猷の墓所もあり、林の中を縫うように舗装された散歩道でつながれている。観光地というよりも、近場に住む人たちが散歩に訪れる自然公園といったおもむきだ。

 中央研究院の敷地内にある胡適紀念館へ行く。日・月曜日休館で、免費。中央研究院に在職していた晩年に暮らした旧居が保存されており、それに隣接する形で彼の生涯と思想を紹介する展示館も新たに増設されている(写真写真写真)。展示館では胡適の自筆原稿や愛用していた遺品を見ることができる。

 胡適(1891~1962)は上海の出身。スペンサーの社会進化論に関心を持ち、名前の「適」は「適者生存」から取って改名したものである。1910年にアメリカへ渡り、コーネル大学を経てコロンビア大学で哲学を学んだ。とりわけジョン・デューイのプラグマティズムから大きな影響を受ける。

 1917年、陳独秀の依頼で『新青年』に発表した「文学改良芻義」が評判となり、蔡元培の招聘で胡適は同年9月から北京大学で教鞭を執り始めた。過去の伝統から脱却し、合理的な思考方法を広めるためにはまず教育が必要である。まず人々の考え方を変えることで、一人ひとりの責任によって下から社会を変えていこうとする漸進主義の立場から彼は白話運動を主導し、五四運動直前の中国言論界に大きな影響を与え、「新文化運動」といわれる啓蒙主義活動の重要な立役者の一人となった。

 しかしながら、マルクス主義に傾きつつあった陳独秀や李大釗との論争を契機に、『新青年』からは離れる。胡適がプラグマティズムによって提示した議論は当時の中国の思想界に一時代を画すほど重大なインパクトを与えたにもかかわらず、当時流行していたマルクス主義の興隆を前にして、その存在感は色あせていった。胡適の啓蒙主義は旧世界の思想秩序を崩すのに大きな役割を果たした。では、次はどうするのか? 具体的な対案を胡適は提示できなかった。と言うよりも、方法論的科学性を意識するあまり価値観の問題には抑制的であったため、それが傍観者的態度として血気にはやる若い世代には魅力が感じられなくなっていたとも指摘される(余英時《中國近代思想史上的胡適》聯経出版、1984年)。

 胡適は共産主義には与しない一方、国民党の強権性や伝統回帰的なナショナリズムに対しても批判的であった。しかし、日本の中国侵略に直面して蒋介石支持にまわり、1938年からは駐米大使となって抗日工作の根回しに努力する。展示館には胡適がホワイトハウスの大統領執務室でF・D・ローズヴェルトと談笑している写真も展示されている。

 ただし、彼は無条件で蒋介石を支持したわけではない。もちろん、日本の侵略には抵抗しなくてはならない。しかしながら、抵抗運動を組織化する過程で偏狭なナショナリズムが煽動され、戦争指導を目的として権威主義的体制が正当化されてしまうと、これまで努力してきた啓蒙活動の知的成果が無に帰してしまうというジレンマを抱えていた。戦後の1946年、胡適は北京大学総長に就任。しかし、国共内戦で共産党が勝利するとアメリカへ亡命する。

 私が胡適紀念館を訪れたときには「胡適與蔣介石:道不同而相為謀」という特別展が開催されていた。二人の関係はつかず離れずの微妙なものであった。胡適の啓蒙主義は中国の伝統文化を破壊してしまうと蒋介石の著書『中国之命運』(実際の執筆者は陶希聖)は厳しく批判しているし、展示の解説によると「あいつは狂人だ」と蒋介石日記に記されていたらしい。他方で、アメリカで受けの良い胡適の存在は、「自由中国」をアピールしてアメリカからの支援を引き出したい蒋介石政権にとって貴重なカードでもあった。1957年の末、中央研究院院長を選出する投票で過半数を得てアメリカにいた胡適が推薦され、蒋介石もこれを認めた。来台した胡適は1962年に逝去するまでその任にあった。

 それまで中央研究院では院長公邸のようなものは用意されていなかった。図書館をすぐに利用できる場所で暮らしたいという胡適の要望を受けて敷地内に自宅が建てられ、前述の通り、これが現在の胡適紀念館となっている。旧居内では解説員が待機していたが、私は中国語の聞き取りに難があるので案内を辞退した。こじんまりとしているが、使い勝手は良さそうだ。ただし、ここで彼が暮らしたのは実質的には5年にも満たない。

 せっかく中央研究院まで来たのだから、このまま帰るのはもったいない。歴史語言研究所附属の歴史文物陳列館と民族学研究所附属の民族学博物館にも入ってみた(写真の左側が民族学博物館、奥の方が歴史文物陳列館)。いずれも免費だが、内容的には充実している。時間があれば半日くらいかけてゆっくり見ていきたいところだ。

 中央研究院が設立されたのは1928年であり、当然ながら歴史語言研究所が対象とするのは中国史全体であり、例えば殷墟専門の展示室などもあった。他方で、歴史文物陳列館に入ってすぐは台湾史関連の展示で、台湾原住民族の歴史に配慮しているのが目立つ。漢族が原住民族と接触したばかりの頃に原住民族が狩りをする様子を描いた絵図など見ていたら、江文也作曲「阿里山の歌声」の第1楽章「出草」のメロディーが何となく浮かんできた。もちろん絵図で描かれているのは首狩りではないのだが、あの曲の軽快なメロディーがイメージ的にうまく合っていた。

 民族学研究所附属博物館でも、1940年代に実施された四川・雲南など西南地方での民族学的調査についての展示があったが、台湾漢族の民間信仰や原住民族それぞれの習俗の解説など台湾に関する展示が多くを占めている。中華民国の公定イデオロギーであった中華民族主義的史観から現在の多文化主義的史観への移行がこうした展示構成からうかがうことができる。なお、民族学博物館では「偶的世界、偶的魅力」という人形についての特集展示が行われていた。

 すべて見て回ろうとすると時間が足りないので、早めに切り上げた。中央研究院の前でバスに乗り、MRT南港展覧館駅まで戻る。悠遊卡を持っていると小銭を気にしなくて済むのでバスにも気軽に乗れる。MRT板南線に乗って忠孝新生駅で乗り換え、東門駅で下車。いつもながら観光客で混みあっている鼎泰豊を尻目に、永康街から台湾大学方面へ向かって南下、さらに青田街、温州街のあたりを脇道にそれたりしながらそぞろ歩き。

 この一帯はかつて日本人が暮らす住宅街であった。日本の敗戦と共に日本人は引き揚げたが、入れ替わりで大陸から国民党と一緒にやってきた軍人や公務員に空き家となったこれらの家があてがわれ、支配階層の高級住宅街としての性格は戦後にも受け継がれることになった。現在では大半が高層マンションに建て替えられてしまっているが、崩れそうになりながらもまだ残っている日本式家屋をところどころで見かける。見つけ次第、写真に収めながら歩く(写真写真写真写真写真写真写真)。

 こうした中に殷海光故居がある(写真写真写真写真)。温州街にあるこの建物も、もともとは台北帝国大学関係者の宿舎だったはずだ(写真)。殷海光(1919~1969)は台北帝国大学の後身である台湾大学で教授を務めていた。

 胡適を新文化運動・五四運動を主導した第一世代とするなら、殷海光はまさに五四運動が盛り上がった1919年の生まれであり、本人も「自分は五四時期後の人間だ」とよく語っていたという。西南聯合大学を卒業し、清華大学哲学研究所でも学ぶ。伯父が辛亥革命に参加しという事情もあって当初は熱烈な国民党支持者であったが、徐々に現実の矛盾に気づき始める。新聞記者となり、国共内戦時の淮海戦役を取材していたとき、報道と実際の情況との食い違いに気付いたことをきっかけに蒋介石政権に対する疑問が出てきたという。1949年に台湾大学哲学系教授となって以降、西洋の思想家の著作を熱心に学び、例えばハイエク《到奴役之路》(The Road to Serfdom、隷属への道)の中国語訳も出している。

 1949年、憲政による政治改革を志した雷震(1897~1979)、自由主義を思想的骨格とした哲学者の殷海光をはじめ、リベラルだが共産主義にも賛同できない知識人たちが集まって雑誌『自由中国』が創刊され、旗頭には当時アメリカに亡命していた胡適が担ぎ出された。自由主義や民主主義をモットーとする雑誌の存在は、アメリカからの支援を期待する蒋介石政権にとって都合がよく、創刊当初の『自由中国』もまた共産主義批判のため蒋介石政権支持の姿勢を鮮明にしていた。

 ところが、1950年に朝鮮戦争が勃発、東アジアにおいても冷戦構造が定着するにつれてアメリカは反共政権へのテコ入れを強化した。アメリカから見捨てられる不安が低減した蒋介石政権は台湾における権威主義的支配を強めていく。『自由中国』に集った知識人たちからすれば権力濫用と腐敗が目にあまる。国民党政権に対して批判的な論説を次々と発表したため、政権との関係は冷え込んでいった。1960年には中国民主党結成計画で雷震が逮捕され、『自由中国』は発禁となる。殷海光は文芸雑誌『文星』(1957年創刊)などを舞台に舌鋒鋭く健筆をふるい続けるが、これもまた1965年に停刊へ追い込まれ、1966年には殷海光自身も大学を追われてしまった。

 旅行中に立寄った書店で、復刊されたばかりの殷海光《思想與方法》(第3版、水牛文化、2013年。初版は1986年。オリジナルの初版は文星出版社、1964年)が積み上げられているのを見かけ、彼の故居を訪れたばかりの縁を感じて購入した。パラパラめくっていたら〈論「大胆仮設、小心求証」〉という論文が収録されていたので拾い読み。「大胆仮設、小心求証」とは胡適が提起した命題だが、殷海光はこれをめぐって科学哲学的な論証を進め、結論的にその社会思想的な効用を説いている。懐疑による柔軟な思考態度の欠如した社会の問題点は、言論の自由が封殺された1960年代当時においても切実であり、それは胡適が直面した20世紀初頭からほとんど変わっていないという問題意識が打ち出されている。

 殷海光の自宅前ではいつも特務による監視の目が光っていたという。実際に入ってみると、ここは一個人の邸宅としてはそれなりに広い。しかし、外界との関係を事実上絶たれて自宅にこもるしかなくなってしまった人間にとって、この世界はあまりにも狭い。園芸を趣味にしていた彼は、この庭先で川やプールを掘り、築山を盛り上げ、木や花を植えた(写真写真写真)。権力によって発言を封じられた鬱憤を庭作りに振り向け、誰にも制せられることのない自らの理想をせめてこの狭い庭の中だけでも実現したいというやみにやまれぬ思いがあったのだろう。

 自宅内は展示スペースとなっている。展示されている自筆原稿を見ると、筆跡は意外と丸文字っぽい感じで、妙に親近感がわいた。記帳ノートに私の名前を記してから、外に出る。温州街をくだって、台湾大学へと向かった。殷海光の授業が終わっても、彼を慕う学生たちは温州街の自宅までついて来て、道すがら哲学から時事問題まで様々なテーマについて語り合った。このことを彼はふざけて「ストリート学派」と呼んでいたという。私も逆方向から同じルートをたどり、ちょうどワンテーマ議論できるくらいの距離かな、などと思いながら歩いた。

 台湾大学のキャンパスから大通りの新生南路を挟んだ向かい側は住宅街だが、書店やカフェなども散見される。雰囲気の落ち着いたカフェを窓越しにのぞくと、読書していたりノートパソコンを使っている学生の姿が目につく。南天書局へ行ったが、土曜日はお休み。近くの台湾専門店、台湾e店へ入って色々眺めているうちに何冊か買いこんでしまった(初日から荷物を増やしてどうすんだ…)。

 台湾大学の最寄りである公館駅からMRTに乗って台北駅へ出た。高速鉄道の高雄行き切符を確保してから松山空港へ行き、荷物を回収する。再びMRTに乗って台北駅まで戻ったのだが、カートを引きながら夕方のラッシュに巻き込まれたのは明らかに失敗で、タクシーを拾うべきであったと反省。おまけに弁当を買い忘れたまま高速鉄道の改札を通ってしまい、構内ではセブンイレブンしか見当たらず、仕方なく菓子パンをかじった。高速鉄道で左営へ行ってMRTに乗り換え、高雄の宿舎にたどり着いたのは夜20時過ぎ。

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2013年8月21日 (水)

2013年8月11日 台湾・嘉義を歩く

 変則的だが、台湾旅行の二日目から。8月11日の日曜日。高雄駅を朝8:00に出る自強号に乗って9時14分頃に嘉義駅へ到着した(写真)。前日の天気予報では雨天となっていたが、幸いなことに晴れている。

 嘉義は旧称を諸羅山(ツウロウサン)といい、平埔族(平地に住んでいた台湾原住民)のホアニア族が暮らしていた。漢族が台湾へ移住するにつれて徐々に漢化され、林爽文の乱でこの地の住民が清朝に協力したところ、「嘉其死守城池之忠義」という言葉を賜ったところから嘉義と改称された。市のすぐ南を北回帰線が通っており、これより南は熱帯である。

 地図を見ると、嘉義火車站を嘉義市中心部の西の端とすれば、第一の目的地、嘉義公園は東の端にあたる。早速、駅前でタクシーを拾った。できれば自分の足を使って歩き回りたいが、初めての町だから当然ながら距離感覚が分からない。そこで、駅を降りたら、最初にタクシーもしくはバスを使って一番遠いスポットまで行くことにしている。その時に要した時間や車窓から見える町の雰囲気から、どのような動き方が最適かを考える。

 嘉義公園まで市の目抜き通りである中山路をまっすぐ東へ行き、10分くらいだったか。たいして時間はかからなかったので、十分歩ける範囲だと判断した。

 私は初めての町を歩き回るとき、まずグーグル・マップなどで必要な範囲・大きさの地図をプリントアウトする。これを白地図がわりにして、訪れようと考えているスポットの位置情報を赤ペンで記入し、いわば自分用にカスタマイズされた観光地図を事前に作成しておく。なかなか行く機会のない町で時間があまったらもったいないので、スポット情報はできるだけ多めに書き込んでおく。ただし、一度書き込んでしまうと自分にノルマを課したような気分になってしまい、行かないと気が済まなくなってくるから、その辺はうまく按排すること。

 時間の空いたときにでもこの地図をぼんやり眺めていると、おのずとルートが浮かび上がってくる。こうした作業をしておくことにより、頭の中におおまかな地理感覚が植え付けられ、あとは当日の条件に応じて動き回ればいい。例えば、現地で一定区間を歩いてかかった時間をメモしておき、自分なりの歩行速度を把握しておく。地図を見て、別のスポットへ行くのにかかるおおまかな所要時間を割り出し、その都度行動プランを微調整しながら歩くことになる。

 台湾も日本と同様に地震国である。日本の植民地支配が始まって間もなく、1906年に嘉義一帯は大地震に見舞われた(※震災の様子については、青井哲人研究室のサイトに当時の写真が紹介されている→こちら)。壊滅した市街地に新たな都市計画で街づくりが行われ、その際には耐震構造を意識して日本式の木造家屋が推奨されたという(李欽賢《台灣近代美術創世紀:倪蔣懷、陳澄波與黃土水見證台灣史》台湾書房、2013年、33頁)。嘉義市内では現在でも古い木造日本式家屋が残っているのをよく見かける(写真写真)。1908年には阿里山鉄道の一部区間が開通しており、切り出されたおびただしい木材が嘉義に集積されたことも背景にあるのだろう。

 いずれにせよ、こうした新たな都市計画の一環として1910年に嘉義公園も作られた。台湾に公園という概念が導入されたのは日本統治期に実施された近代的都市計画を通してであり、嘉義公園はそうした中で最も早いものの一つであった(陳柔縉《台灣西方文明初體驗》麥田出版、2005年)。

 午前九時半過ぎ、嘉義公園の前でタクシーを降りた(写真)。当たり前だが、暑い。少し体を動かしただけで汗がじっとりと流れてくる。公園の入り口には中山路の方向を見据えるように孫文像がそびえている(写真写真)。光復以前には日本の政治家の銅像でも立っていたのだろうか。孫文像の背後に木々が鬱蒼と生い茂り、夏の強い日差しを受けると、緑の瑞々しさがいっそう際立って感じられる。木陰を歩くと、いくぶんか暑さもやわらぐ(写真)。

 園内ではイーゼル型の展示パネルを見かけた(写真写真)。合計9ヶ所設置されている。それぞれのパネルでは嘉義出身の画家、陳澄波(1895~1947)の油彩画が紹介されている。嘉義公園は彼が作品のモチーフとした場所の一つであった。嘉義公園に生い茂るガジュマルなど南国独特の木々が縦横に枝葉を広げている様子を見ていると、陳澄波のゴッホを思わせるように大胆な色使いの緑を確かに彷彿とさせる。生命力が横溢するように鮮やかな激しさ、そうした画風は彼の情熱的なパーソナリティーをそのままに表わしているように感じられる。

 陳澄波は1895年、ちょうど日本が下関条約で清朝から台湾を割譲された年に生まれた。母親を早くに亡くし、清代の秀才で漢学者だった父親の陳守愚は学堂の教員として招聘されていつも家にはおらず、そのため祖母のもとで育てられた。家の経済状態は貧しかったので、公費で通える総督府国語学校師範科へ1913年に進学した。

 台湾における近代化と日本化を推進するため総督府は教育を重視しており、国語学校は教員、すなわち日本語教育の担い手の養成を目的として伊澤修二によって設立された(その後、師範学校に改組され、現在は国立台北教育大学)。当時の台湾では総督府医学校と並ぶ最高学府である。近代的教育システムには美術教育も含まれており、国語学校は台湾で初めて西洋美術に触れることができる場となった。

 台湾において西洋美術の種をまいた人物として石川欽一郎(1871~1945)の存在感が大きい。石川は英語に堪能だったため陸軍の通訳官として1907年に来台した。独学ながらも水彩画家として知られていたため、1910年から嘱託として国語学校の美術教員を兼任する。1916年にいったん帰国したが、1924年に再び来台、1932年まで台北師範学校で美術の教鞭をとった。石川は教官に義務付けられていた官服は着用せず、背広に蝶ネクタイというイギリス紳士風のダンディなお洒落で通し、人気があったらしい。彼の啓発で多くの台湾人の若者が美術を志し、台湾人として最初の洋画壇を形成することになる。陳澄波もそうした中の一人であった。

 軍命でやむなく台湾へ来た石川だが、いざ来てみると南国的なエキゾティシズムに目を奪われた。台湾の美しい風物を忘れまいと写生にいそしみ、美術の実習では生徒を外へ連れ出した。伝統的な山水画とは異なり、あるがままの光景を自らの視点を通して描き出す技法を生徒たちは学ぶ。ところで、石川の描くすっきりした水彩画と陳澄波の荒々しい色遣いの油彩画とでは作風は対極的である。画風そのものには石川の影響はほとんど見られない。石川はむしろ彼の独特な才能を見抜き、自由に描かせたようだ。

 陳澄波は国語学校を卒業後、いったん故郷の嘉義へ戻り、公学校(台湾人向けの小学校)の教員となった。恩師の石川と同様、彼も写生のため、たびたび生徒を外に連れ出したという。熱烈な恋愛の末、名家の令嬢とも結ばれた。しかし、絵画への情熱やみがたかった彼は一念発起し、1924年に来日、東京美術学校に合格する。すでに30歳近く、学生としては高齢であった。苦学しながらも1926年には「嘉義街外」で帝国美術院展覧会(帝展、現在の日展)に入選した。国語学校の先輩にあたる黄土水が1920年に彫刻部門ですでに帝展に入選していたが、絵画部門で入選した台湾人は陳澄波が最初である。

 彼の帝展入選は台湾でも大々的に報道され、一躍有名人となった。ただし、絵画だけで家族を養っていくことはできない。そこで、卒業後は上海に渡り、美術の教員となった。上海滞在中には中国画を学び、新たな境地を切り開こうとしていた。ところが1932年に第1次上海事変が勃発し、身の危険を感じて台湾へ戻らざるを得なくなる。1934年には有志と共に台陽美術協会の設立に参加した。

 1945年、日本敗戦。上海で中国画の技法をも摂取した陳澄波にとって、中華民国への復帰は活躍の舞台が広がることでもあり、心から歓迎していた。中国滞在経験を持つ彼は中国語を話せるため国民政府側とのコミュニケーションが図れるし、そもそも画家として著名人だったので、中華民国政府歓迎委員会や嘉義市議会のメンバーに選ばれた。ところが、1947年に二二八事件が起こると、彼の運命は暗転する。二二八事件処理委員会の一員として国民党軍側との交渉に赴いたところ、そのまま拘束され、殺害されてしまった。血まみれとなった彼の遺体は遺族によって写真に残されている。

 歴史学者の周婉窈(台湾大学教授)が著した《臺灣歷史圖說 增訂本》(聯經出版、2009年)の表紙カバーには陳澄波の作品「嘉義公園」が用いられている(→こちら)。周教授も陳澄波と同じく嘉義の出身である。彼女は小学生の頃、絵を描くのが得意だったが、同郷の傑出した画家である陳澄波の名前を、大学院で歴史学を専攻するまで全く知らなかったという。

 絵が大好きな少女に、なぜ大人たちは陳澄波のことを教えてくれなかったのか? 彼は二二八事件で処刑されたため政治的タブーとなり、国民党政権による白色テロを恐れる大人たちは怯えて彼の名前を口に出すことすら憚っていたからである。幼い頃から自らの目に馴染んでいた嘉義の風景をかつて陳澄波という画家が大胆でユニークな色遣いで描き出していたのに、そのことを知るきっかけすら彼女にはなかった。つまり、権威主義体制から押し付けられたタブーによって一つの才能が抹殺・隠蔽され、すぐ身近なところにあったはずの貴重な歴史的記憶を共有することが妨げられていた。

 それは、陳澄波一人に限らない。非業の死を遂げたあまたの人々への追憶が許されない沈黙の時代であった。周教授は〈高一生、家父和那被迫沈默的時代──在追思中思考我們的歷史命題〉(周婉窈《面向過去而生》允晨文化、2009年所収)という文章の中で、ツォウ族のリーダーとして原住民族自治の理念を掲げたために白色テロの犠牲となった高一生を追悼しているが、同様に陳澄波への思いにも重ねて歴史的記憶の断絶がもたらした無念を語っている。陳澄波の「嘉義公園」を自らの著書のカバーに用いたことからは、こうした個人的な体験も踏まえた上で、かつての恐怖政治によって引き起こされた歴史の空白を何とか取り戻したいという切実な問題意識がうかがわれる。

 今や嘉義公園に限らず、市内のあちこちに陳澄波作品の展示パネルが設置されているのを見かける。陳澄波二二八文化館が設立され、嘉義市立博物館には彼について専門コーナーも設けられている。もちろん、民主化以降のことであろう。嘉義市内を歩きながら、隔世の感にうたれた。

 日本統治時代に整備された嘉義公園は、かつて嘉義神社と隣接して一体となっていた。日本の敗戦によって国民党政権の支配下に入ると、神社の本殿を崩した後に忠烈祠が造営される。忠烈祠とは辛亥革命以来の国民革命や抗日戦争で命を落とした人々を祀る施設で、靖国神社の中華民国版といえば分かりやすいだろうか。日本は植民地支配において台湾の人々に神社への参拝を強制していたわけだが、敢えて神社を忠烈祠へ転用したことには権威の交替を印象付ける意図があったと思われる。近くには孔子廟も設けられている(写真)。

 写真は忠烈祠の入り口。記念碑の向こうには狛犬が見える。ここはちょっとした広場で、家族連れの子供たちがゴーカートに乗って遊んでいる。長く伸びた参道の脇には狛犬や奉納塔(写真)、手水舎(写真)、祭器庫(写真)などが現存しており、日本の神社であった過去をしのばせる。社務所だった建物は嘉義市史蹟資料館として活用されている(写真)。

 ところで、忠烈祠の肝心なご本尊は1994年に焼失してしまったという。代わりに建てられたのが、射日塔という高さ12階建ての展望タワーである(写真)。写真は忠烈祠へ向かう途中の門構えだが、奥の方に射日塔が見える。英語ではChiayi(嘉義) Towerと表記されている。1階で料金を支払うと展望階の10階まで上るエレベーターに乗れる。9階部分までは空洞で何もない。10階の床の真ん中部分がガラス張りとなっており、下を見下ろせる。ちょっと恐い。カメラを構えた女性がファインダーを下に向けて撮影していた。11階がカフェ。12階は天空庭園となっており、風に体をさらしながら嘉義市を一望できる(写真)。

 射日塔の「日を射る」とは、台湾原住民の伝説に由来する。昔、二つの太陽があった。昼夜を問わず照り続けるため、疲れ果てた人々は、片方を弓矢で射落とそうと考えた。選ばれた勇者たちは、はるかかなた、太陽を求めて歩き続けるが、中途にして力尽き、倒れていく。太陽征伐の使命は次の世代に引き継がれ、ようやくにして射落とすことに成功した──台湾原住民の一つ、タイヤル族に伝わる伝説とされる。ただし、太陽征伐のモチーフそのものは台湾以外でも見られるらしい。

 「日を射る」、つまり「日本を射る」と読むならば、忠烈祠が前提とする抗日意識に符合する。例えば、蒋渭水の評伝で知られる黄煌雄は《兩個太陽的臺灣:非武裝抗日史論》(台北:時報出版、2006年)という著作も出しているが、サブタイトルから分かるように日本統治時期台湾における民族運動史をテーマとしている。本書で言う「二つの太陽」には、日本という支配者=政治勢力と、台湾在住漢民族という被支配者=社会勢力と二つの太陽が台湾には輝いている、ところが二つの太陽が並び立つことはできず、いずれかが射落とされなければならない、という意味合いが込められている。これは賀川豊彦が台湾について原住民の神話を引きながら書いた文章に由来するそうだ。賀川は何度か台湾へ伝道旅行に出かけているから、その折に「太陽征伐」の伝説を耳にしたのだろうか。

 ただし、嘉義の射日塔に実際にのぼってみても、抗日意識を表現するようなものは何も見当たらなかった。塔には原住民族らしき人物の姿がデザインされている。あるいは、「日を射る」を忠烈祠の本旨たる抗日意識に重ねて読む余地を残してエクスキューズとしながら、太陽征伐の神話を連想させることで原住民族のモチーフを強調しているとも考えられる。

 日本支配の象徴たる神社が国民党政権の支配の象徴たる忠烈祠へと転用され、それが焼失した後に今度は原住民の伝説に由来するモニュメントが建立されたという重層性が現在の台湾らしくて興味深い。園内で社務所を活用した嘉義市史蹟資料館の展示を見ても、原住民(このあたりは平埔族が住んでいた)→漢族の移入→オランダ統治→鄭氏政権→清朝→日本→中華民国という重層性によって嘉義の歴史が説明されている。こうした観点が台湾史について大方のコンセンサスになっていると考えて良いだろう。

 園内の片隅には呉鳳の像もあった(写真)。原住民の首狩りの風習をやめさせるため、自らの首を取らせて反省を促した、とされる漢族の知識人である。この話は国民党政権下ばかりでなく、日本統治期にも教科書に採録されていた。嘉義の中心には呉鳳路という通りがあり、成仁街が並行しているのは意味的に関連付けられているのだろう。正しい目的のため自らを犠牲にする功徳を説いているわけだが、暗黙のうちに原住民蔑視、漢族文化の優位がほのめかされており、そもそも呉鳳伝説が事実だったかどうかもわからないわけで、現在では問題視されている。

 公園の中に小型の砲台のようなものが並んでいて、何だろう?と眺めていたら、通りかかったおじいさんから声をかけられた。よく聞き取れずに目を白黒させていると、向こうから「あなた、日本人?」と尋ねられ、日本語で会話が始まるというのは台湾でよくあるパターン。「ちゃんと勉強してない、だから、難しいこと、分からない。」いえいえ、とてもお上手ですよ。昭和20年生まれだが、ご両親が日本語教育を受けており、家庭の中で使っているのを聞きながら覚えたという。「家の外では日本語使えない。日本と条約を結ぶまで、外で日本語使ったら、撃ち殺されちゃう。」体調を崩して、今は仕事していないと自嘲的におっしゃっていた。お大事に、と声をかけて別れる。

 市の中心部、文化路のロータリー近くにある噴水鶏肉飯というお店へ行った。鶏肉飯はご飯の上にむし鳥を刻んだのをちらし、タレをかけたシンプルな料理。嘉義の名物とされる。席につくと何も言わないうちに鶏肉飯が運ばれてきた。専門店なのだからこれを食べるのが当然ということか。スープはいらないのか?ときかれたので、適当に苦瓜と牛肉のスープを注文した(写真)。

 文化路のロータリーにはお店の由来となった噴水があり、その真ん中の台座の上では奇妙なオブジェがクルクル回っている(写真)。場所的に考えて、以前は「偉人」の銅像が立っていたはずだ。蒋介石像があたりを睥睨していたのだろうか。

 炎天下を汗だくになりながら歩きづめだったので、正直なところ、食欲はあまりなかった。むしろ、飲み物の方がありがたい。街中にフルーツ・ジュースやお茶のお店を色々とみかけ、そういうのを買い飲みしながら歩いた。

 写真はオランダ人の宣教師が掘ったといわれる紅毛井である。鄭成功政権の前だから、17世紀のこと。この井戸にちなんだ蘭井街沿いにある。この蘭井街を西に向かって歩き、国華街と交差するところに陳澄波故居があった(写真)。

 国華街を北上して、中正公園へ行く。さすがにここでは名前の通り、蒋介石像がお出迎え(写真)。他方で、園内には許世賢(1908~1983)という女性の銅像も立っている(写真)。日本統治期に東京女子医専や九州帝国大学に学んだ医師で、台湾人女性として初めて医学博士号を取得した人でもある。台湾へ戻った後、嘉義で開業する。戦後、台湾省議会議員に「党外」として当選して国民党批判を行い、雷震の中国民主党結成計画にも関わった。1982年には嘉義市長に当選。なお、彼女の娘二人も後に嘉義市長となった。

 蛇足ながら、歴代嘉義市長には女性が目立つ。現在の黄敏惠市長(国民党)も女性である。街中で魏徳聖監督と市長のツーショットのポスターをよく見かけた(写真)。KANOというのは魏徳聖がプロデューサーとなって製作されている映画である。戦前、甲子園に出場して好成績を収めた嘉義農林学校の野球チームの活躍が題材となっている。この映画の製作に嘉義市政府も協力したのだろう。

 中正公園の脇には陳澄波の作品展示パネルが並び(写真写真)、道路を挟んで向かい側には陳澄波・二二八文化館がある(写真)。番地が国華街228号となっている。残念なことに日曜日休館で参観できなかった。いずれにせよ、中正公園の蒋介石像を陳澄波や許世賢など独裁体制批判を想起させるモニュメントが取り囲む構図になっているのが興味深い。

 阿里山鉄道北門駅へ行く(写真)。この近辺には日本式家屋が多い。日本人が退去した後には大陸から来た外省人が入居したケースが多く、そうした居住地域は眷村と呼ばれる。北門の近くに軍隊関係の施設があったから、そうした関係者が住んだのだろうか。北門駅近くの一角では新たに日本式木造家屋が集中的に建てられ、観光スポットとして整備中である(写真)。木材の運び出し口として木造家屋を売り物にしているようだ。

 北門駅の近くに嘉義市文化中心があり、ここに陳澄波の銅像がある(写真)。嘉義市立博物館には陳澄波の生涯と作品に関する特集展示も行われている。なお、この博物館には自然史関係の展示もあり、とりわけ地震関連に力が注がれていた。

 市街地を南下。途中で日本統治期から使われていた旧監獄の前を通りかかった。囚人が脱走している感じに人形がぶらさがっており、微妙なブラック・ユーモア(写真)。

 市中心部から言うと東南のはずれにあたる二二八紀念公園まで歩いて行った(写真)。ひっそりと紀念館がたたずんでおり、中では犠牲者の証言を集めたパネルが展示されている。嘉義の南、水上飛行場での攻防戦に関わる話が多かった。

 さらに南へ向かって30分近く歩いて、川のほとりにある二二八紀念塔を見に行く。郊外のロードサイドのように何もない道を歩いていると、このまま阿里山まで行ってしまうのでは?と心配しかけた頃にようやくたどり着いてホッとした。嘉義の二二八紀念塔は1989年に建立されており、台湾全土で最も早いものだという(写真)。当時はまだ政府中央の意向を気にしていたセンシティブな時期で、町はずれの橋のたもとにひっそりと建てるなら見逃してもらえたという感じだろうか。二二八事件の慰霊の折には多くの人が集まるが、市の中心部からは遠いので、観光客でここまで来る人は少ないだろう。

 嘉義市中心部に再び戻る。文化路のロータリーでは「台湾独立建国」「陳水扁釈放」を訴える台独派の人が旗を立てていた。その中の一本はなぜか日本語(写真)。大音声でレミゼラブル、民衆の歌をかけていたので耳についてしまい、何となく口ずさみながらそろそろ人の集まり始めた夕方の夜市に向かう(写真)。文化路では夜市が立つが、並行する共和路には市場があり、両方をぶらぶらと歩いた。

 写真は夕暮れ時の嘉義駅前。二二八事件の際、国民政府側と交渉しようとして捕まった要人たちがここで公開処刑された。龍應台『台湾海峡一九四九』(白水社、2012年)に、行政院長や副総統を歴任した蕭萬長が幼い頃、命の恩人だった潘木枝医師の銃殺を見たと語るシーンがある。蕭萬長といえば国民党のテクノクラート官僚というイメージが強かったので、そうした記憶をずっと心の内に秘めていたというのが印象的だった。

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2013年8月 8日 (木)

中見真理『柳宗悦──「複合の美」の思想』

中見真理『柳宗悦──「複合の美」の思想』(岩波新書、2013年)

 柳宗悦のプロフィールについては今さら説明の必要もないかもしれない。『白樺』派の一人で宗教哲学の研究者として出発、独自の探求のうちに民芸運動へと乗り出し、帝国日本の枠組みにおいて周縁化された植民地、とりわけ朝鮮文化へ愛着を示したことでも知られている。

 彼の思想の特徴は、文化的多元性とお互いの敬意に基づく「複合の美」を求める姿勢にあったと言えるだろう。それは宗教的心情や美的感覚にとどまらず、社会観・世界観に至るまで彼の中で一貫している。著者の専門は国際関係思想史であるが、そうした「複合の美」に着目しながら柳の生涯と思想を描き出し、そこから非暴力的な平和主義を汲み取ろうとするところに本書の眼目が置かれている。

 明治以降の近代化の過程で西欧への模倣に努めてきた日本のあり方に柳は批判的であった。東洋と西洋、それぞれが自らの独自性を示して相互の敬意を図っていく必要がある。では、西洋ではない、日本に独自のものとは何か? このような問いそのものは近代日本思想史を通観すれば頻出するもので、特に珍しいわけではない。ただ、柳の場合に目を引くのは、日本文化の美なるものを探ろうとしても、見当たるのは中国や朝鮮の模倣ばかりという困惑である。そうした懊悩の末に彼が見出したのが木喰仏であり、民芸であった。日常生活の中で普通に用いる器具にこそ、民族の心がじかに表われる。無名の工人が無心に作り続けた工芸には日常生活に根ざした信仰心が込められていると考え、「信」と「美」の一致を見出そうとしたのが柳の直観であった。

 彼が「民芸」として「発見」した日本の民族文化に独特な美があるとすれば、日本以外の民族にもそれぞれの美があるはずである。日本の美が西欧文化の圧倒的な影響力で消えてしまわないように願うならば、同時に日本が植民地支配を行っている地域の文化も尊重しなければならない。そうした思いから柳は、沖縄、アイヌ、朝鮮、台湾など日本による同化政策の圧力にさらされている地域の文化の行く末に危機感を抱いていた。

 神の意志という表現を用いるかどうかは別として、この世に存在するあらゆるものにはそれぞれの意義がある。『相互扶助論』を著したクロポトキン、「一切のものの肯定」を説いたホイットマン、「一枝の花、一粒の砂」にも「底知れない不思議さ」を見出したウィリアム・ブレイク、こうした思想家たちから強い影響を受けた柳の発想の根底には、あらゆる存在が相互に協力し合う中で自らのテンペラメントを開花させていくという考え方があった。グローバリズムが地球上の多様な文化を単一の色に染め上げて画一化してしまうことであるとするならば、そのような無味乾燥さは柳にとって最も耐え難いことである。

 どんな民族も、どんな個人も、それぞれがかけがえのない有意味な存在としてこの世界が構成されているという確信が柳の「複合の美」の前提となっている。そうした着想は、例えばハンナ・アレントの次の指摘を想起させる。

「…世界は複数の観点(パースペクティヴズ)が存在するときに限って出現するのだ。つまり世界は、いついかなる時でも、こんな風にもあんな風にも見られる場合に限り、初めて世俗的事象の秩序として現れるということである。もしある民族や国民が、または世界におけるそれ独自の位置──その由来はともあれ、簡単には複製されえない位置──から発するユニークな世界観を持っているある特定の人間集団が、絶滅させられるなら、それは単に一つの民族なり国民なりが、あるいは一定数の個人が死滅するということではなく、むしろ私たちの「共通世界」の一部が破壊されるということであり、今まで現れていた世界の一側面が二度と再び現れえなくなるということなのである。それゆえ、絶滅は一つの世界の終わりというだけではなく、絶滅を行う側もまた道連れにされるということでもあるのだ。厳密に言えば、政治の目的は「人間」というよりも、人間と人間の間に生起して人間を越えて持続する「世界」なのである。…互いに何かしら個別的な関係を持ち合いながら世界に存在する民族の数が多ければ多いほど、それらの間に生起する世界の数もますます多くなるし、世界はますます大きく豊かになるだろう。ある国家の中に世界を──すべての人々に公平に見え隠れする同一の世界を──見るための観点の数が多くあればあるほど、その国家は世界に対してますます意義深く開かれたものになるだろう。他方で、万が一地球に大地殻変動が起きて、あとにはたった一つの国家しか残されなくなったとしたら、そしてその国家内の誰もがあらゆることを同一の観点から理解して、互いに完全に意見を一致させながら暮らすようになったとしたら、世界は、歴史的‐政治的意味では、終焉したことになるだろう。…掛け値なしの意味で、人間は世界が存在するところでしか生きてゆけないし、また世界は、掛け値なしの意味で、人類の複数性というものが、単一の種の単なる数的増加以上のものであるところでしか、存在しえないのである。」(ハンナ・アレント[ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳]『政治の約束』筑摩書房、2008年、206~207ページ)

 一時期、ポストコロニアルやカルチュラル・スタディーズの流行に伴い、一見良心的に見える言動ではあっても、その中に潜む“植民地的暴力”を暴き立てる研究が目立ったことがある。粗探し、とまでは言わないが、はじめに結論ありきの恣意的な欠席裁判は建設的な仕事とは思えなかった。柳宗悦もカルスタ的な研究動向で俎上にあげられていたが(本書、12~13ページ)、本書はそうした論調とは一線を画している。私自身は『民俗台湾』に集った人々に関心を持っているが、彼らに対しても同様に向けられたカルスタ的な批判への違和感はこちらに記した。

 なお、台湾で工芸運動を起こした画家の顔水龍は柳宗悦から影響を受けている。顔はもともと柳の著作を読んでいただけでなく、柳が1943年に来台し、『民俗台湾』同人の金関丈夫や立石鉄臣に連れられて台南へ来訪した折に顔が柳を案内してから個人的な関係も持ち、戦後になっても二人の交流は続いていた。

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2013年8月 4日 (日)

【メモ】曺喜昖『朴正煕 動員された近代化──韓国、開発動員体制の二重性』

曺喜昖(李泳釆・監訳・解説、牧野波・訳)『朴正煕 動員された近代化──韓国、開発動員体制の二重性』(彩流社、2013年)

・韓国政治における保守派と進歩派の対立は、朴正熙政権に対する評価と密接に連動している。保守派は韓国社会を近代化へ導いた「成功した指導者」として彼の正の側面を礼賛する一方、進歩派からは人権弾圧を行った強権的政権として負の側面が厳しく指弾される。双方が自らの朴正熙政権イメージに合致する一面的な言説ばかりを流通させた結果、分裂した視点が並立してしまっているという。こうした不毛な状況を踏まえ、著者自身は進歩派ではあるが、双方の対立的視点を建設的に取り込みながら朴正熙時代を考察する理論的枠組みを構築しようと試みている。

・近代化へ向けて国家の主導により国民を巻き込んでいく体制を本書では「開発動員体制」と定義づけ、資本主義や社会主義といったイデオロギー上の相違にかかわらず一般的な概念として応用可能な分析視角になり得るという。先進国を念頭に置いて「欠損国家」「欠損国民」という自己認識を持ち、近代化・開発へ向けた民衆の要求に既存の体制が応えられていない状況の中、「正常な状態」へと国家主導で国民が動員される。

・支配の同意的基盤を構成するために動員が行われるが、「強圧」か「同意」かという二者択一のゼロサム・ゲーム的に捉えるのではなく、「強圧」から自発的な「同意」まで幅広いスペクトラムの中で分析しようとするのが本書の特徴である。上からの社会の再組織化によって社会が「近代」化されると同時に、変化を経験した社会は開発動員体制との間に新たな緊張や矛盾を生じさせる。つまり、開発が成功した一方、それがもたらした矛盾で犠牲となった人々の抵抗意識→強圧への反発、民衆の主体化→開発主義の同意創出効果が弱まるというプロセスが見られる。圧縮的な成長を目指したがゆえにもたらされた圧縮的な矛盾が原因となり、成長の力学と危機の力学とが併存する二重性(矛盾的複合性)として朴正熙政権が支持された同意基盤の変動が分析される。

・1950年代は原初的な反共主義が動員の根拠となった。1960年代の朴正熙政権は反共主義を継承しつつ、近代的な開発主義と結びつけることで支配の同意的基盤を拡充する。この「動員された近代化」の中で強圧と同意は二重の相貌として存在した。1972年以降の維新体制では同意的な言説が根拠不足となり、強圧が全面化→同意の分裂の拡大という悪循環が見られるようになった。

・グラムシのヘゲモニー論が援用されている。1960年代の開発動員体制では、開発主義的言説による支配集団の思考の普遍化→産業戦士としての「国民」という集団的アイデンティティ→経済的基盤におけるヘゲモニー。1970年代の維新体制では、開発主義プロジェクトの亀裂→「国民」が分裂し、「民衆の主体化」→階層・階級間の利害関係の接合に亀裂。

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