2013年8月12日 台湾・高雄を歩く
昨日は炎天下の嘉義を歩き回って疲れがたまっていたので、少々遅めの起床。朝から雨が降っており、今日は力を抜いて動けばいい。午前10時頃に宿を出た。MRTに乗って橋頭糖廠車站で下車。ここから歩いてすぐのところに台湾糖業公司の工場がある。現在は操業を終えているが、糖業博物館として一般公開されており、それに合わせてあたり一帯が観光エリアとなっている。MRTの駅構内にはレンタサイクルがあった。それなりの広さがあるのだろう。
MRTの駅から糖業博物館まで歩いて5分ほど。途中で見かけた中山堂の前に石灯篭が並んでいた(写真)。かつては神社だったのだろうか。日本統治期のものとおぼしき派出所(写真)や防空壕(写真)なども見かけた。防空壕にガジュマルの木が根を張って青々とした葉を広げている風情は歴史の年輪を感じさせる。歴史散策好きとしては期待がふくらんでくる。雨は小降りとなって、歩くのにそれほど支障は感じなくなった。
台湾ではオランダ統治時代からすでにサトウキビの精製による砂糖作りが行われていた。サトウキビはおそらくオランダ人によってインドネシア経由で移植されたものと考えられる。その後、鄭氏政権の頃は停滞したが、清朝統治の時代には再び台湾の主要な輸出産品となっていく。日本は日清戦争後の下関条約で台湾を領有し植民地化したものの、その維持のため本国政府からの持ち出しが多く、こんな不採算部門は欧米に売り渡した方が良いという議論も浮上していた。植民地台湾を日本本国から財政的に自立させるために産業を振興する必要があり、そこで注目されたのが糖業である。後藤新平・民政長官がヘッドハンティングしてきた新渡戸稲造の献策に基づいて糖業の近代化・機械化が推進された。国策に応じて台湾製糖株式会社(1900年)、塩水港製糖株式会社(1903年)、明治製糖株式会社(1906年)が台湾で設立され、1906年には大日本製糖株式会社が進出してくる。台湾製糖は1902年に橋仔頭工場、すなわち現在の橋頭糖廠を設立し、これは台湾でも最早期の近代的工場と言えよう。日本の敗戦後、製糖会社の在台資産は国民政府によって接収され、国策会社である台湾糖業公司に再編された。1950~60年代における砂糖輸出によって進められた資本蓄積は台湾産業のキャッチアップに重要な役割を果たしたが、近年は糖業の収入力は減退しており、台湾糖業公司は食品業、小売業、畜産業、バイオテクノロジーなど多角経営を進めている。そうした流れの中で橋頭糖廠の操業は停止され、観光ゾーンへ転用されたのだろう。
写真は橋頭の糖業博物館の入口。構内に入るとヤシの並木道が長く伸びている(写真)。突き当りには日本統治期からあった建物が展示室として使われており(写真)、中には新渡戸稲造の銅像も置かれている(写真)。台座には「台湾砂糖之父」と書かれている。
後藤新平から台湾総督府への赴任を懇望された新渡戸は、まず海外における糖業の最新動向を調査し、それを基に「糖業改良意見書」をまとめて提出した。「台湾の現地事情を知らないから」と提出を渋る新渡戸に対して、後藤は「最新の理想を知っている頭のままで意見書を書いて欲しい。現場の実際との調整は自分たち政治家がやる」と答え、実際に後藤らしい事業手腕を示した。また、意見書を読んだ児玉源太郎・台湾総督に対して新渡戸は「糖業の近代化を進めると現地の農民から反発があるでしょう。しかし、農民の古い頭を変えるため、フレデリック大王のように断乎たる姿勢で臨んでください」という趣旨のことを語ったらしい。矢内原忠雄は新渡戸の植民政策論は人道主義的だったと評価していたが、近代化のため敢えて蛮勇を振るうよう児玉に進言する新渡戸の姿とは少々ギャップも感じる。
展示館の裏手に回ると、金木善三郎という人の記念碑がひっそりと残っていた(写真)。日本統治期、台湾製糖の技師だった人らしい。近くには石灯篭も残っているが、刻まれた文字は削り取られている(写真)。日本の敗戦後に削られたのだろう。
橋頭の糖業博物館構内には日本統治期に建てられた家屋や施設が現存しており、一部は観光用に修築されている。熱帯の青々とした木々の合間にレトロモダンな洋館や木造日本式建築が点在しているのはなかなかの風情だ。写真はたまたま見かけたリス。動きが素早いのでうまく撮れなかった。社宅事務所(写真、写真)。工場長宅(写真、写真)はきれいに新装なっているが、副工場長宅(写真)は古ぼけたまま。この工場長宅はかつて映画の舞台にもなったらしい(写真)。敗戦で日本人が引き揚げた後、残された建物には大陸から来た外省人が入居するようになった。外省人独特のコミュニティーが形成され、眷村文化と呼ばれるが、ここにもそうした雰囲気があったのかもしれない。
サトウキビを工場まで運び、精製された砂糖を港まで運び出すため軽便鉄道が敷設されていた。構内のそうした跡地が鉄道公園となっている(写真、写真)。鉄道公園の向こうに工場の煙突が見える(写真)。五分車にも乗れるようになっているが、今日は月曜日のため運休。インフラが未整備だった時代、製糖会社は自前で流通網を築き上げる必要があった。台湾中南部のサトウキビが栽培されていた平野部にはかつてこうした軽便鉄道の路線網が広がっており、一部は一般旅客運送も行っていたが、砂糖の減産やモータリゼーションの進展によって次第に廃線となった。当時の名残をこの鉄道公園で見ることができる。
鉄道公園から工場の方へ向かう途中、軽便鉄道の車庫があった(写真)。さらに行くと倉庫が立ち並んでいる(写真)。かつての倉庫群を利用して現在は十鼓橋糖文創園区というアート空間になっている。この近くに防空壕があった(写真)。説明が丸文字で書かれると、ちょっと雰囲気が違ってくる(写真)。製糖工場は重要な経済拠点であったため爆撃の標的となる恐れがあったらしい。
煙突が天へと突き出した工場の雄姿(写真)。すでに操業は停止されているが、稼働していた当時の設備がそのまま残っている(写真、写真、写真)。中に入って見学することもできる。工場マニア、廃墟マニアにとっては面白いスポットかもしれない。工場の脇には機械の修繕所を利用した展示館があり(写真、写真)、台湾の製糖業と台湾糖業公司の歴史について解説されている。
近代的産業形態は未経験であった台湾で大掛かりな工場を建てるとなると、製糖会社は様々なものを自前で準備しなければならなくなった。原料であるサトウキビを収穫する農地と農民が必要であり、精製工場の機械化・近代化が進められると機械のメンテナンスのために機械工業を興し、原料や製品の運搬のため軽便鉄道をはじめとした物流網を敷設し、会社組織が大型化すると管理運営のノウハウが必要とされる。つまり、製糖業がきっかけとなってあらゆる産業部門の近代化が推進されることになった。同時に、小作争議や労働争議も生じることになり、プラス・マイナスの両面で製糖業は台湾における近代化の契機になったと言えるだろう。
糖業博物館の中を歩きまわっているうちに、いつしか雨もやんだ。雲が垂れこめて湿度も高く、蒸し暑さで汗がじっとり浮かび上がるが、肌を焦がすような日射しはない。涼みがてらアイスクリームを食べてから園区から出る。工場は台湾鉄道に沿って建てられており、線路を渡って反対側の橋頭老街をぶらぶら歩いてからMRTの駅へ戻った。
高雄駅方向へ戻って適当に遅い昼食をとり、途中でタクシーを拾って次の目的地である寿山の忠烈祠へ向かった。ここは歩いて登るとなるとかなりきつそうだ。蛇行するような登り道の途中、迷彩服を着た集団がへたばっているのとすれ違った。いかにも「疲れた~」という感じに服装も乱れていたから、あるいは訓練がてら忠烈祠を参詣した新兵だったのかもしれない。
高雄の忠烈祠(写真、写真)は市街地や海を見渡せる眺望の良好な場所にある。写真は旗津半島の方向、写真は高雄の中心部の方向。忠烈祠はたいていの場合、日本統治期の神社を転用したもので、高雄の忠烈祠もご多分にもれずかつては高雄神社であった。参詣道は明らかに神社の雰囲気で、奉献塔(写真)や狛犬(写真)も残っている。また、入口あたりにある塔(写真)には「大東亜戦争完遂祈願」と刻み込まれていた(写真)。
忠烈祠から歩いて山を下った。しばらく歩くと、かつて高雄港まで結ばれていた線路に出る(写真、写真、写真)。現在は廃線で、残された広い空間は市民の憩いの場となっている。かつての線路の上をまっすぐ歩いて行くと、高雄港駅に出た。操車場跡が広々としている(写真、写真)。橋頭など各地の製糖工場で精製された砂糖も鉄道でここまで運ばれて来て、高雄港から日本やその他の国々へ輸出されたわけである。当然ながら現在は廃駅で、打狗鉄道故事館がオープンされているが(写真、写真)、今日は月曜日なので休館。そのすぐ前にはMRT西子湾駅がある。高雄港駅の近辺はかつての繁華街で、地元の人々は「哈瑪星」(ハマセン)と呼んでいる(写真)。高雄港線は日本統治期に「浜線」と呼ばれており、これを台湾語的に漢字表記して「哈瑪星」である。
高雄港の対岸には旗津半島が横たわって内湾を形成しており、その中に港がある。対岸へ渡る連絡フェリーの発着場までMRT西子湾駅から歩いて10分ほど。写真が連絡フェリー。写真は船上から見た鼓山輪渡站。自動車・バイクはフェリーの1階、人間は2階部分に乗り込む。運行本数は割合と多いが、乗客も多いのでいつも混雑しているようだ。旗津半島の発着所まで15分くらいだろうか。写真は船上から見た旗後燈台。写真は停泊している中華民国海軍の艦船。
旗津半島は高雄の観光スポットの一つで、旗後老街は行楽客でにぎわっている。半島そのものは細長くて横切ってもたいして時間はかからない。老街をまっすぐ進むと海水浴場に出た。老街の屋台からイカ焼きのにおいが漂ってきて、日本の夏の海を思い浮かべる。波打ち際でキャーキャー言っている人はいるが、泳いでいる人はあまり見かけなかった。
老街の途中で台湾長老教会の旗後教会を見かけた(写真、写真)。随分と立派な建物である。19世紀の半ば、イングランド長老教会から派遣された宣教師のマクスウェルは(James Laidlaw Maxwell、馬雅各、1836~1921)は当初、台南で布教と医療の活動を始めたが、排外的雰囲気の中で伝教所兼医院が襲撃されるという事件が起こった。マクスウェルは打狗(高雄)のイギリス領事館の保護を受けてここ旗後に移転、活動を再開し、台湾南部布教の基礎を築くことになる。
旗津半島の西端は小高い丘となっている。ここは高雄港への航路をにらむ要衝で、外海に向いて旗後砲台、内湾に向いて旗後燈台がある。とりあえず、旗後砲台まで登った(写真)。1874年、明治政府による台湾出兵に驚いた清朝政府は台湾の防備を固めるため沈葆楨を派遣、そのときに旗後砲台も建造された。下関条約によって台湾が日本へ割譲されたとき、それを認めない人々が激しく抵抗したが、旗後砲台でも日本の艦船との間で砲戦が交わされた。
次に旗後燈台へも行ってみたが、すでに17時を過ぎていたので中には入れなかった(写真)。見晴らしの良い場所に座って一休み。ペットボトルの飲料でノドを潤しながら高雄の風景を見渡した。高雄のランドマーク、高雄85大楼が目立つ。足元の旗後の街並みからはゴミ収集車の機械音的なメロディーや、情感を込めすぎたこぶしがかえって素人っぽく聞こえるカラオケなどが耳に入ってくる。
連絡フェリーに乗って西子湾の発着場に戻り、歩いて打狗英国領事館官舎まで行った。アロー戦争(第2次アヘン戦争)に敗れた清朝は1858年に天津条約を結び、その中で開港地に指定されたうちの一つが打狗(高雄)である。1864年に打狗は正式に開港され、同年末頃にはイギリスが領事館を設置した。領事館邸は鼓山に連なる小高い丘の上に建てられた一方、日常業務を執り行う領事館はその麓にあった。こうした二段構えの構造はいざというときの防備を考えていたのだろうか。
丘の上の打狗英国領事館官舎は赤レンガが鮮やかな印象を残す(写真)。高雄で観光客が集まるスポットの一つである。1879年に建造されたもので、台湾に現存する西洋建築としては最も古い。日本統治期には水産試験場の施設として利用されたらしい。夜の21時まで開館しており、ここから見る夕焼けは人気があるという。建物内部では東西交流史における高雄の位置づけに関するパネル展示が行われており、イギリス最初の台湾領事として赴任したロバート・スウィンホー(Robert Swinhoe、史温侯、1836~1877)が博物学者であったことにちなんで生物多様性をテーマとした内容も含まれていた。
打狗英国領事館官舎は中国人の団体観光客であふれかえっていた。外で声高にしゃべりながら写真を撮ったりしているのだが、建物の中でパネル展示を読む人は一人も見かけなかった。たまに入り込んできても、目立つ絵図のパネルを1,2枚ほど写真に撮ってさっさと出て行ってしまう。私としては落ち着けて良かったのだが。おそらく、ツアーとして組まれたから来ただけで、ここがどのような史蹟であるのかまるで興味もないのだろう。
売店で冷たい紅茶を買い、打狗英国領事館官舎のバルコニーから高雄の夜景をしばし眺めた。タクシーを拾ってMRT西子湾駅へ行き、三多商圏駅まで出て、誠品書店高雄店で書棚を眺めてからホテルに戻る。結局、夜21時を過ぎていた。
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