2013年8月10日 台北・胡適紀念館、殷海光故居など
8月10日の土曜日、午前8:55羽田発の飛行機に乗り、現地時間11:00には台北松山空港へ到着した。空港の入国ゲートを通ってすぐのところにコイン・ロッカーがあったので荷物を預ける。3時間70元。預け入れボックスはたくさん並んでいるが、入金操作は1区画につき1か所のみ。荷物を入れたボックスの番号をコントロールパネルで入力、お金を投入すると、レシートが出てくる。このレシートには荷物を出す際に必要な暗証番号が記されているので紛失しないように注意。リュックサックだけ背負って空港を出る。
MRT文湖線、松山機場站のホームに降り立った時点ではまだ11:30を回ったばかり。MRT文湖線は基本的に高架路線なので眺望が良好。旅行前に確認した週間予報では雨がちな様子だったが、幸いなことに青空が見えている。松山機場の北側に横たわる山並みの緑が鮮やかに映える。終着駅の南港展覧館で下車。駅前でタクシーを拾い、胡適公園まで行くように指示した。
胡適公園は中央研究院から道を挟んだ向かい側にある(写真)。写真は胡適の銅像。この一帯は台北市の東のはずれで、民家も少ない。雑木林に覆われた小高い丘の中腹に胡適のお墓があった(写真)。他にも、甲骨文字研究で知られる考古学者の董作賓(写真、写真)、物理学者で中央研究院長を務めた呉大猷の墓所もあり、林の中を縫うように舗装された散歩道でつながれている。観光地というよりも、近場に住む人たちが散歩に訪れる自然公園といったおもむきだ。
中央研究院の敷地内にある胡適紀念館へ行く。日・月曜日休館で、免費。中央研究院に在職していた晩年に暮らした旧居が保存されており、それに隣接する形で彼の生涯と思想を紹介する展示館も新たに増設されている(写真、写真、写真)。展示館では胡適の自筆原稿や愛用していた遺品を見ることができる。
胡適(1891~1962)は上海の出身。スペンサーの社会進化論に関心を持ち、名前の「適」は「適者生存」から取って改名したものである。1910年にアメリカへ渡り、コーネル大学を経てコロンビア大学で哲学を学んだ。とりわけジョン・デューイのプラグマティズムから大きな影響を受ける。
1917年、陳独秀の依頼で『新青年』に発表した「文学改良芻義」が評判となり、蔡元培の招聘で胡適は同年9月から北京大学で教鞭を執り始めた。過去の伝統から脱却し、合理的な思考方法を広めるためにはまず教育が必要である。まず人々の考え方を変えることで、一人ひとりの責任によって下から社会を変えていこうとする漸進主義の立場から彼は白話運動を主導し、五四運動直前の中国言論界に大きな影響を与え、「新文化運動」といわれる啓蒙主義活動の重要な立役者の一人となった。
しかしながら、マルクス主義に傾きつつあった陳独秀や李大釗との論争を契機に、『新青年』からは離れる。胡適がプラグマティズムによって提示した議論は当時の中国の思想界に一時代を画すほど重大なインパクトを与えたにもかかわらず、当時流行していたマルクス主義の興隆を前にして、その存在感は色あせていった。胡適の啓蒙主義は旧世界の思想秩序を崩すのに大きな役割を果たした。では、次はどうするのか? 具体的な対案を胡適は提示できなかった。と言うよりも、方法論的科学性を意識するあまり価値観の問題には抑制的であったため、それが傍観者的態度として血気にはやる若い世代には魅力が感じられなくなっていたとも指摘される(余英時《中國近代思想史上的胡適》聯経出版、1984年)。
胡適は共産主義には与しない一方、国民党の強権性や伝統回帰的なナショナリズムに対しても批判的であった。しかし、日本の中国侵略に直面して蒋介石支持にまわり、1938年からは駐米大使となって抗日工作の根回しに努力する。展示館には胡適がホワイトハウスの大統領執務室でF・D・ローズヴェルトと談笑している写真も展示されている。
ただし、彼は無条件で蒋介石を支持したわけではない。もちろん、日本の侵略には抵抗しなくてはならない。しかしながら、抵抗運動を組織化する過程で偏狭なナショナリズムが煽動され、戦争指導を目的として権威主義的体制が正当化されてしまうと、これまで努力してきた啓蒙活動の知的成果が無に帰してしまうというジレンマを抱えていた。戦後の1946年、胡適は北京大学総長に就任。しかし、国共内戦で共産党が勝利するとアメリカへ亡命する。
私が胡適紀念館を訪れたときには「胡適與蔣介石:道不同而相為謀」という特別展が開催されていた。二人の関係はつかず離れずの微妙なものであった。胡適の啓蒙主義は中国の伝統文化を破壊してしまうと蒋介石の著書『中国之命運』(実際の執筆者は陶希聖)は厳しく批判しているし、展示の解説によると「あいつは狂人だ」と蒋介石日記に記されていたらしい。他方で、アメリカで受けの良い胡適の存在は、「自由中国」をアピールしてアメリカからの支援を引き出したい蒋介石政権にとって貴重なカードでもあった。1957年の末、中央研究院院長を選出する投票で過半数を得てアメリカにいた胡適が推薦され、蒋介石もこれを認めた。来台した胡適は1962年に逝去するまでその任にあった。
それまで中央研究院では院長公邸のようなものは用意されていなかった。図書館をすぐに利用できる場所で暮らしたいという胡適の要望を受けて敷地内に自宅が建てられ、前述の通り、これが現在の胡適紀念館となっている。旧居内では解説員が待機していたが、私は中国語の聞き取りに難があるので案内を辞退した。こじんまりとしているが、使い勝手は良さそうだ。ただし、ここで彼が暮らしたのは実質的には5年にも満たない。
せっかく中央研究院まで来たのだから、このまま帰るのはもったいない。歴史語言研究所附属の歴史文物陳列館と民族学研究所附属の民族学博物館にも入ってみた(写真の左側が民族学博物館、奥の方が歴史文物陳列館)。いずれも免費だが、内容的には充実している。時間があれば半日くらいかけてゆっくり見ていきたいところだ。
中央研究院が設立されたのは1928年であり、当然ながら歴史語言研究所が対象とするのは中国史全体であり、例えば殷墟専門の展示室などもあった。他方で、歴史文物陳列館に入ってすぐは台湾史関連の展示で、台湾原住民族の歴史に配慮しているのが目立つ。漢族が原住民族と接触したばかりの頃に原住民族が狩りをする様子を描いた絵図など見ていたら、江文也作曲「阿里山の歌声」の第1楽章「出草」のメロディーが何となく浮かんできた。もちろん絵図で描かれているのは首狩りではないのだが、あの曲の軽快なメロディーがイメージ的にうまく合っていた。
民族学研究所附属博物館でも、1940年代に実施された四川・雲南など西南地方での民族学的調査についての展示があったが、台湾漢族の民間信仰や原住民族それぞれの習俗の解説など台湾に関する展示が多くを占めている。中華民国の公定イデオロギーであった中華民族主義的史観から現在の多文化主義的史観への移行がこうした展示構成からうかがうことができる。なお、民族学博物館では「偶的世界、偶的魅力」という人形についての特集展示が行われていた。
すべて見て回ろうとすると時間が足りないので、早めに切り上げた。中央研究院の前でバスに乗り、MRT南港展覧館駅まで戻る。悠遊卡を持っていると小銭を気にしなくて済むのでバスにも気軽に乗れる。MRT板南線に乗って忠孝新生駅で乗り換え、東門駅で下車。いつもながら観光客で混みあっている鼎泰豊を尻目に、永康街から台湾大学方面へ向かって南下、さらに青田街、温州街のあたりを脇道にそれたりしながらそぞろ歩き。
この一帯はかつて日本人が暮らす住宅街であった。日本の敗戦と共に日本人は引き揚げたが、入れ替わりで大陸から国民党と一緒にやってきた軍人や公務員に空き家となったこれらの家があてがわれ、支配階層の高級住宅街としての性格は戦後にも受け継がれることになった。現在では大半が高層マンションに建て替えられてしまっているが、崩れそうになりながらもまだ残っている日本式家屋をところどころで見かける。見つけ次第、写真に収めながら歩く(写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真)。
こうした中に殷海光故居がある(写真、写真、写真、写真)。温州街にあるこの建物も、もともとは台北帝国大学関係者の宿舎だったはずだ(写真)。殷海光(1919~1969)は台北帝国大学の後身である台湾大学で教授を務めていた。
胡適を新文化運動・五四運動を主導した第一世代とするなら、殷海光はまさに五四運動が盛り上がった1919年の生まれであり、本人も「自分は五四時期後の人間だ」とよく語っていたという。西南聯合大学を卒業し、清華大学哲学研究所でも学ぶ。伯父が辛亥革命に参加しという事情もあって当初は熱烈な国民党支持者であったが、徐々に現実の矛盾に気づき始める。新聞記者となり、国共内戦時の淮海戦役を取材していたとき、報道と実際の情況との食い違いに気付いたことをきっかけに蒋介石政権に対する疑問が出てきたという。1949年に台湾大学哲学系教授となって以降、西洋の思想家の著作を熱心に学び、例えばハイエク《到奴役之路》(The Road to Serfdom、隷属への道)の中国語訳も出している。
1949年、憲政による政治改革を志した雷震(1897~1979)、自由主義を思想的骨格とした哲学者の殷海光をはじめ、リベラルだが共産主義にも賛同できない知識人たちが集まって雑誌『自由中国』が創刊され、旗頭には当時アメリカに亡命していた胡適が担ぎ出された。自由主義や民主主義をモットーとする雑誌の存在は、アメリカからの支援を期待する蒋介石政権にとって都合がよく、創刊当初の『自由中国』もまた共産主義批判のため蒋介石政権支持の姿勢を鮮明にしていた。
ところが、1950年に朝鮮戦争が勃発、東アジアにおいても冷戦構造が定着するにつれてアメリカは反共政権へのテコ入れを強化した。アメリカから見捨てられる不安が低減した蒋介石政権は台湾における権威主義的支配を強めていく。『自由中国』に集った知識人たちからすれば権力濫用と腐敗が目にあまる。国民党政権に対して批判的な論説を次々と発表したため、政権との関係は冷え込んでいった。1960年には中国民主党結成計画で雷震が逮捕され、『自由中国』は発禁となる。殷海光は文芸雑誌『文星』(1957年創刊)などを舞台に舌鋒鋭く健筆をふるい続けるが、これもまた1965年に停刊へ追い込まれ、1966年には殷海光自身も大学を追われてしまった。
旅行中に立寄った書店で、復刊されたばかりの殷海光《思想與方法》(第3版、水牛文化、2013年。初版は1986年。オリジナルの初版は文星出版社、1964年)が積み上げられているのを見かけ、彼の故居を訪れたばかりの縁を感じて購入した。パラパラめくっていたら〈論「大胆仮設、小心求証」〉という論文が収録されていたので拾い読み。「大胆仮設、小心求証」とは胡適が提起した命題だが、殷海光はこれをめぐって科学哲学的な論証を進め、結論的にその社会思想的な効用を説いている。懐疑による柔軟な思考態度の欠如した社会の問題点は、言論の自由が封殺された1960年代当時においても切実であり、それは胡適が直面した20世紀初頭からほとんど変わっていないという問題意識が打ち出されている。
殷海光の自宅前ではいつも特務による監視の目が光っていたという。実際に入ってみると、ここは一個人の邸宅としてはそれなりに広い。しかし、外界との関係を事実上絶たれて自宅にこもるしかなくなってしまった人間にとって、この世界はあまりにも狭い。園芸を趣味にしていた彼は、この庭先で川やプールを掘り、築山を盛り上げ、木や花を植えた(写真、写真、写真)。権力によって発言を封じられた鬱憤を庭作りに振り向け、誰にも制せられることのない自らの理想をせめてこの狭い庭の中だけでも実現したいというやみにやまれぬ思いがあったのだろう。
自宅内は展示スペースとなっている。展示されている自筆原稿を見ると、筆跡は意外と丸文字っぽい感じで、妙に親近感がわいた。記帳ノートに私の名前を記してから、外に出る。温州街をくだって、台湾大学へと向かった。殷海光の授業が終わっても、彼を慕う学生たちは温州街の自宅までついて来て、道すがら哲学から時事問題まで様々なテーマについて語り合った。このことを彼はふざけて「ストリート学派」と呼んでいたという。私も逆方向から同じルートをたどり、ちょうどワンテーマ議論できるくらいの距離かな、などと思いながら歩いた。
台湾大学のキャンパスから大通りの新生南路を挟んだ向かい側は住宅街だが、書店やカフェなども散見される。雰囲気の落ち着いたカフェを窓越しにのぞくと、読書していたりノートパソコンを使っている学生の姿が目につく。南天書局へ行ったが、土曜日はお休み。近くの台湾専門店、台湾e店へ入って色々眺めているうちに何冊か買いこんでしまった(初日から荷物を増やしてどうすんだ…)。
台湾大学の最寄りである公館駅からMRTに乗って台北駅へ出た。高速鉄道の高雄行き切符を確保してから松山空港へ行き、荷物を回収する。再びMRTに乗って台北駅まで戻ったのだが、カートを引きながら夕方のラッシュに巻き込まれたのは明らかに失敗で、タクシーを拾うべきであったと反省。おまけに弁当を買い忘れたまま高速鉄道の改札を通ってしまい、構内ではセブンイレブンしか見当たらず、仕方なく菓子パンをかじった。高速鉄道で左営へ行ってMRTに乗り換え、高雄の宿舎にたどり着いたのは夜20時過ぎ。
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