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2013年7月

2013年7月23日 (火)

月村太郎『民族紛争』

月村太郎『民族紛争』(岩波新書、2013年)

 本書は、第Ⅰ部でスリランカ、クロアチアとボスニア、ルワンダ、ナゴルノ・カラバフ、キプロス、コソヴォの6つの具体的な紛争事例について紹介し、これらの事例を通して一般論として抽出できる論点を第Ⅱ部で考察するという構成になっている。

 「民族」なる概念の定義がそもそも一義的なものではあり得ない以上、抽象概念として「民族紛争」という言葉を使うにしても、ケース・バイ・ケースの具体的な関係性から捉え直していくしかない。そうした意味で、一般論にまとめてしまうのは困難であろう。だが、一定の枠組みを設定しないと問題点は見えてこないわけで、たたき台をつくる必要はある。内容的にはおのずと、紛争一般をモデル化する中で「民族」的要素がどのように関わり合っているのかを整理するものとなる。

 民族紛争にはどのような発生要因があるのだろうか。複数民族の居住密度が近いと「陣取り合戦」が起こりやすい。体制変動、とりわけ民主化により、それまで権力を独占していた少数派が支配的地位から転落しかねない場合、報復を恐れて態度を硬化させかねない(現在のシリア情勢が想起される)。経済情勢の悪化も紛争の要因となるが、貧困そのものよりも、他者との比較により自身の惨めさを強調する「相対的剥奪」によって、自分が惨めである理由を他民族に投影する「犯人捜し」の方が顕著に見られる。また、領土紛争に見られるように、歴史主義的な言説も往々にして援用される。

 なお、宗教的相違も民族紛争で見られるのは確かだが、それだけで紛争が発生するわけではない。「むしろ、我々が民族紛争の構図を単純化して理解しようとする場合に、宗教が持ち出されることが多いのである。そして、単純化はしばしば正しい理解を妨げることにもなる」と指摘される。

 こうした要因が昂じていくと、相手民族に対して単に敵意があるというレベルを超えて、こちらがいつ攻撃されるか分からないという恐怖が芽生えてくる。敵対意識によってコミュニケーションが不十分であるため、相手に対する恐怖が相互反応的に拡大していくプロセスが「安全保障ジレンマ」として説明される。民衆の間には不安や不満が鬱積し始め、そうしたエネルギーがエリートによって特定の方向へと誘導され、民族紛争として燃え上がっていく。

 指導者のリーダーシップが脆弱だと、強硬論が台頭したときに抑え込むことができず、紛争が発生・長期化しかねない。他方で、セルビアのミロシェヴィッチのように強硬なナショナリズムを煽動することでリーダーシップを獲得したケースもあり、リーダーシップは両刃の剣という印象も受ける。なお、民族紛争では相手民族を殺戮するばかりでなく、自民族内の穏健派が「裏切り者」として真っ先に殺害されるケースが頻繁に見られる。

 紛争終結後の平和構築においては民主化が目指される。ただし、民主主義が万能というわけではない。多数派民族は選挙を通じて自らの独占的支配を正当化しかねず、そうした懸念や利権争いから、途上国では民主化へ向けた選挙がかえって暴力を誘発しかねない(例えば、Paul Collier, Wars, Guns, and Votes: Democracy in Dangerous Places, HarperCollins, 2009[邦訳はポール・コリアー『民主主義がアフリカ経済を殺す』甘糟智子訳、日経BP社、2010年]を参照のこと)。

 このような「民主主義のパラドックス」に対しては、民族的対立を超えた次元で政治的正統性を担保する国民国家の形成が必要とされる。つまり、選挙を実施する以前に、同じ一つの国家に暮らしているという自覚が求められる。価値的対象としてではなく、社会制度を円滑に進めるインフラとしての国民国家を活用しようという考え方である(コリアーがアフリカの事例をもとに主張している)。これを実現するには、それぞれの民族的アイデンティティーを前提としつつも、共通の国民意識を社会化・内面化していく必要がある。他方でこれは、作り上げられた国民意識が上からのアイデンティティーの押し付け、多数派への同化圧力へと転化して、少数派の民族的アイデンティティーを抑圧してしまう可能性も否定できないのではなかろうか(例えば、中国における民族問題が想起される)。

 少数派民族が独立を図れば中央政府と衝突するし、まだら模様に混住している場合には紛争が泥沼化する。そうしたことを考え合わせると、多民族主義が望ましいのは確かである。だが、多数派民族の独走が常に懸念される一方、少数派への配慮が国家全体の有効な意思決定を阻害してしまうこともしばしばあり得る。文化的アイデンティティーが分立し、言語的なコミュニケーションが複雑化すると、国家としての統一感も保てなくなるかもしれない。

 解き難いアポリアをどのように考えたらいいのか。一般論があり得ない以上、解決の糸口もケース・バイ・ケースとしか言いようがない。武力紛争が当面終結したからと言って、火種がくすぶっていれば解決からは程遠い。何を以て解決に成功したとみなすのかは難しいが、例えば、多民族主義がビルトインされた社会のあり方も成功例として事例分析に加えていく方が、民族紛争というテーマをよりトータルな視野で理解するのに資するかもしれない。

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2013年7月21日 (日)

今野晴貴『生活保護──知られざる恐怖の現場』

今野晴貴『生活保護──知られざる恐怖の現場』(ちくま新書、2013年)

 生活保護のサイクルをおおまかに捉えると、①申請→②保護の開始→③保護の終了となるが、それぞれについて①申請を受け付けない「水際作戦」、②受給者の人格を否定するハラスメント、③無理やり追い出しを図る、といった問題がある。役所の窓口や現場のケースワーカーの裁量によるところが大きく、明らかに違法なケースが多々見られるが、具体的な実態は本書を読んでもらいたい。もちろん、真摯に良心的な取り組みをしているケースワーカーもいるが、担当者が誰であるか、その自治体の姿勢がどうであるかによって運不運が左右されてしまう。

 ここのところ、不正受給をめぐる報道がなされ、某政党の一部議員には生活保護バッシングの言動も目立つ。しかし、実際には資産を使い果たしていなければ支給は開始されず、コスト削減のため追い出しを図る行政の実態がある。印象論ばかりが先行して議論が進んでしまうことにはやはり不安を感じざるを得ない。

 生活保護は最後のセーフティーネットと位置づけられる。単に困窮者の救済というのではなく、自立した生活へと軌道に乗せるよう支援していくところに本来の意義を持つ。生きて働いていく一番の源泉は尊厳であろう。しかし、怠惰な落伍者というレッテルを張られて尊厳を奪われてしまうことで自立に向けた気力がますます損なわれてしまうという悪循環がある。

 社会の再活性化のためには人材が必要であり、再び仕事をしていける方向へ向けた支援が機能していないならば、近視眼的なコスト削減がより大きな社会的コストへつながってしまう矛盾の方が深刻である。そもそも、社会的なひずみから本人の意図とは関係ない次元で困窮してしまうケースがある。働けなくなったら生きていけないという絶望は社会的な不安定感を大きくする。問題の圏域は生活保護という制度そのものにあるのではなく、より広い社会政策を構想する上で本書が提起している問題点を汲み取っていく必要がある。

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2013年7月19日 (金)

【メモ】リチャード・C・ケーガン『台湾の政治家:李登輝とアジアのデモクラシー』

Richard C. Kagan, Taiwan's Statesman: Lee Teng-hui and Democracy in Asia, Naval Institute Press, 2007

・李登輝へのインタビューや関係者の証言も踏まえて書かれた伝記である。著者はアメリカ・ミネソタ州のHamline University名誉教授で、台湾大学留学中に彭明敏や殷海光などと知り合い、その後も民主化運動や人権問題に関わったため国民党から睨まれた経験を持つらしい。本書は羅福全(陳水扁政権の元駐日代表)たちから勧められて執筆したとのことで、当然ながら台湾独立派に同情する視点が顕著に見られる。アメリカは日本と同様、中国の「一つの中国」政策への配慮から台湾に対して冷淡であり、「李登輝は台湾海峡を緊張させるトラブルメーカーだ」と発言する国務省高官もいたが、そうしたアメリカの台湾政策には批判的である。

・伝記的な事実関係については日本語で出ている李登輝関係書の方が詳しい。ただ、視点の置き方の違うところに関心を持って読んだ。例えば、李登輝の思想的背景。彼は日本統治期の若い頃、岩波文庫など日本語の翻訳書を通して西洋世界の思想や知識を得たことを常々語っている。とりわけドイツの哲学や文学(ゲーテとニーチェがとりわけ好きだったようだ)、社会主義関係、あるいは自己超克を目指して禅やキリスト教など宗教関係へ目を向ける読書傾向はいわゆる旧制高校的な教養主義に特徴的である。こうした点で日本では彼の「親日」的な部分が強調されるが、本書ではむしろ、中国・台湾以外の広い世界へ目を向けることで「国際人」と自己規定するきっかけになった点が強調される。

・李登輝は1960年代にコーネル大学へ留学して農業経済学で博士号を取得する。当時のアメリカの大学では学生運動が活発で、学生たちが積極的に政治問題を議論している姿を目の当たりにしたことは、彼の民主主義観に影響した(彼自身は国民党のスパイを恐れて政治的発言には気をつけていたが)。また、コーネル大学は農業問題で行政機関へ具体的な助言を行うプログラムを実施しており、李登輝自身も自らの知識を実地に応用したいという希望を抱いたことは、後に国民党へ招かれた際に入党した理由の一つになっている。

・本書では李登輝の思想的特徴を禅とキリスト教の混淆として捉えている。迷ったときや挫けそうになったとき、神に祈って、自らの使命への確信を深める。また、言葉によって固定的に表現された概念の迷妄を打ち砕く思考習慣は禅の影響だと指摘される(東洋的神秘主義を「禅」の一言でまとめてしまうのは大雑把であるが)。そうした思考習慣から「一つの中国」をはじめとした国民党イデオロギーも相対化された。李登輝は多くを語らずにいきなり行動するので知人たちはみな驚き、総統に就任後、国民党内の熾烈な権力闘争を戦い抜いたが、無言のまま絶妙な間合いを掴むところは得意の剣道みたいだとたとえられる。

・李登輝はデモクラシーを、生成変化しつつある具体的な動きを実現させるシステムだという独特な捉え方をしているが、それも「禅」的だという。ただし、彼は東洋的な価値に偏重した捉え方をしようとしているのではなく、「アジアは西洋とは違った価値観がある」として儒教道徳を称揚したリー・クワンユーに対しては権威主義的抑圧を正当化するだけだと批判的である。むしろ、古い権威的な政治道徳を引きずったままの中国に向けて台湾はデモクラシーを発信していけると自負を抱いている。

・李登輝は「新台湾人」という表現を用いた。特定の族群によって打ち立てられたネイションではなく、様々な来歴の人々が避難してきたこの台湾という島で精神的紐帯を築き上げつつある「共生の共同体」。様々な人々が自らの潜在的可能性を自覚し、東西の様々な思想が交錯しつつ発展していく場として台湾を捉える発想には、西田哲学の「場所の論理」が影響しているという。

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2013年7月15日 (月)

【映画】「台湾アイデンティティー」

「台湾アイデンティティー」

 台湾の人々にとっての1945年は、日本とはまた違った意味を持つ。戦争の終わり。束の間の解放感。やがて来る幻滅──「日本人」として教育されてきたにもかかわらず日本からは見捨てられ、新来の統治者である国民党政権の下では二二八事件や白色テロで沈黙を強いられた。いずれの「国家」にも自らをアイデンティファイできない矛盾。台湾の作家、呉濁流は日本の植民地統治下でひそかに書いた小説で「アジアの孤児」と表現したが、そうした状況は戦後の台湾史にも当てはまる。

 映画「台湾アイデンティティー」はいわゆる「日本語世代」の台湾人6人へインタビューを重ねた記録である。

 黄茂己さんは戦時中、日本の高座海軍工廠で働いた。戦後、台湾へ戻って教員となったが、白色テロに怯えた日々を回想する。張幹男さんは独立運動への関与を疑われて火焼島(緑島)の政治犯収容所へ送られた。釈放後、旅行代理店を立ち上げ、働き口のない元政治犯を積極的に受け入れる。火焼島へ送られる前に一時的に収監されていた台北近郊、新店の監獄まで取材班は案内されるが、つらい記憶が蘇ってくるようで、その後、体調を崩してしまったらしい。

 呉正男さんは陸軍の航空通信士として北朝鮮で敗戦を迎え、ソ連軍の捕虜となって中央アジアでの強制労働に従事。日本へ戻り、横浜の中華街で銀行に就職する。長年、日本で暮らし、帰化申請をしようとしところ、役所の人から「帰化申請が却下される場合もあります」と言われた。単に役人としての形式的な発言だったのかもしれない。しかし、本人としては、軍歴もあり、日本語も流暢で日本人と変らないのだから、喜んで受け入れてくれて当然と考えていたため失望し、結局、帰化申請はやめてしまった。「残留日本兵」としてインドネシア独立戦争に参加した宮原永治(台湾名:李柏青、インドネシア名:ウマル・ハルトノ)さんは、「何人として死ぬんですか?」という問いに、自分はインドネシア人だ、と答える。呉正男さんはソ連に抑留されていたので二二八事件に際会することはなかった。宮原永治さんはインドネシアへ進出した日本企業の現地駐在員として働いていたとき、一度だけ台湾へ帰郷したが、家族から「すぐに帰れ」と言われ、それ以降、戻っていない。戒厳令下、いつ連行されるか分からなかったからだ。

 ツォウ族の高菊花さんは、父・高一生の思い出を語る。高一生は原住民の自治を主張していたため国民党から睨まれ、銃殺された(高一生については、《台湾百年人物誌 1》[玉山社、2005年]所収の「高山船長、高一生」を私的に訳出してあるので参照のこと→http://docs.com/PJC2)。残された家族に対しても嫌疑が解かれることはなく、菊花さんは生活のため高雄へ出て歌手となったが、特務による執拗な尋問が続いた。親族の鄭茂李さんは穏やかな人だが、二二八事件に参加している。当然ながら、その後はつらい思いをした。話を聞きながらもらい泣きする監督に鄭茂李さんが「泣かないでください」と涙ながらに声を掛ける姿が印象的だった。

 「時代が悪かった」「これも運命だよ」──こうした言葉をどのように受け止めたらいいのか。つらい仕打ちを噛み締めながら、懸命に生きてきた。同時に、不条理な運命に翻弄されて命を落としていった身近な人々への思いもここには込められているはずだ。

 人はゼロの地点から生きているわけではない。歴史は現在の我々と良くも悪くもつながっている。そのつながりを見失ったとき、自分自身がいま生きているこの世界を見つめる眼差しもあまりに貧弱なものとなってしまうだろう。歴史学者の周婉窈(台湾大学教授)は高一生を追悼した文章で、国民党の統治下で抹殺された歴史の空白とそれによってもたらされた精神的喪失の重大さに驚き、高一生をはじめ失われた数多の人々の思い出を取り戻すことの大切さを説いている(周婉窈〈高一生、家父和那被迫沈默的時代──在追思中思考我們的歷史命題〉《面向過去而生》[允晨文化出版、2009年]→http://docs.com/PHH7に私的に訳出した)。

 戦時下に青春期を過ごした台湾人について、周婉窈は「ロストジェネレーション」と表現している(《海行兮的年代──日本殖民統治末期臺灣史論集》允晨文化出版、2003年→こちらを参照のこと)。日本の植民地統治下で一所懸命に学んだ日本語は1945年を境として敵性言語となった。日本語を公的な場で使うわけにはいかない一方、台湾人が抑圧された国民党の権威主義体制への反発は、日本語に一つの拠り所を求める心理的作用をもたらした。彼らが敢えて日本語で語る言葉には、暗い時代を生き抜いてきた様々な思いが刻み込まれている。その体験的意味は、我々日本人が当たり前のように日本語を用いるのとは明らかに異なっている。日本語を使うからと言って安易に「親日」というカテゴリーで括ってしまうわけにはいかない記憶の余韻、そうした深みまで何とか耳を澄ませられるように努力したい。

 インドネシアの宮原永治さんが「あなたには想像も出来ないだろうけどね」と吐き捨てるようにつぶやいた言葉が耳に痛い。確かに共感できるなんて考えるのはおこがましいかもしれない。だが、「日本語世代」は相当な高齢であり、彼らの話を聞き取るのに残された時間は限られている。「台湾人生」「台湾アイデンティティー」に続き、第3作目の企画も進行中と伝え聞くが、是非成功させて欲しいと願う。

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2013年7月14日 (日)

駒村吉重『山靴の画文ヤ 辻まことのこと』

駒村吉重『山靴の画文ヤ 辻まことのこと』(山川出版社、2013年)

 私は必ずしも辻まことの文章やイラストを好んで読んだり見たりしてきたわけではない。ただ、話術も豊かで誰とでも気軽に付き合い、洒脱でスマートな雰囲気を彼は醸し出していた一方、どことなく暗さも感じさせるのはなぜだろう、そんな不思議な印象も漠然とながら感じていた。

 「彼は辻潤と伊藤野枝のあいだに生まれた。だが彼は自分で自分になったのだ。辻まことは辻まことの独創である」とまことの友人であった矢内原伊作は記している。血筋にからめてお手軽な批評を戒めるという意味では異論はない。だが、ことさらな決め台詞に「なんだか乱暴だなあ…」と著者は違和感をおぼえたというが、私も同感である。

 このブログのタイトル「ものろぎや・そりてえる」とは、まことの父・辻潤の文章から拝借しており、私自身、以前から辻潤という人物に関心を抱いていた。まことは父について語るのを嫌がっていた。ただ、残されたいくつかの回想を読む限り、辻潤のことを誰よりも深く理解していたのは、他ならぬまことだったと思う(以前にこちらで触れた)。逆に言えば、辻まことのことを考えるにしても、辻潤の思想──すなわち彼の人生そのものともまた切り離せない。本書を読みながら、改めてそう実感した。

 辻潤のあまりにも不器用な人生と比べると、まことのスマートさは一見したところ対極的である。ところが、著者がまことをじかに知る人々へ重ねたインタビューでこういう話があったのが目を引く。まことの社交性、言い換えると「世渡り上手」なところに若干の嫌悪感をもらしたところ、「ありゃ、子どものころに身についちゃった『居候』の智恵なんです…」と返ってきた。なるほどと思った。表面的には周囲へ適応しつつ、余人にはなかなかうかがい知れない孤独を抱えていたのも辻まことという人の一つの姿であった。彼の器用に見える社交性は、逆にそこには収まりきれない何かをうっすらと浮かび上がらせてくる。

 辻まことが記した次の一文は、辻潤という人物を見事に的確に表わしていると私は考えている。

「自分自身を生命の一個の材料として最も忠実に観察し、そこに起る運動をありのままに表現する作業、つまり、客体としての自己を透して存在の主観を記述したのが辻潤の作品なのだ。最も確実な個性を、個性的な忠実さで個性的に追求したために、ついに個性などというものを突抜け、人間をつきぬけ、生物一般にまでとどこうとしてしまった存在なのだということができるかも知れない。」(辻まこと「辻潤の作品」『辻まことセレクション2 芸術と人』平凡社ライブラリー、1999年)

 一人の人間が生きるというのは思えば大変なことで、誰一人として同じ人生を生きることはあり得ない。善悪是非の問題とは次元が異なり、一切の前例があり得ない中で、自分の人生をひたむきに生き抜くしかない。社会的な価値判断からすれば「だらしない」とマイナスのレッテルを貼られてしまうような人生であっても、それもまた自らに与えられた必然的な生であると自覚的に捉えなおす。その意味で、存在論的な懊悩をそのままのものとして自らの人生を全うしようとしたところに辻潤という一つの現象の不思議さがあった(そうした生き方を山本夏彦は愛おしさを込めて「ダメの人」と表現している)。辻まことはそうした父の苦しさをよく見ていた。

 辻潤は発狂した。精神病院まで身柄を引き受けに行った辻まことは難儀したことだろう。しかし、その時に父から次のように言葉をかけられたことに衝撃を受けたという。

 「──お互いに誠実に生きよう。
 異常に高揚した精神につきあって私も不眠が続いていて、こっちもすこしはオカシクなりかけていたのだが、この言葉とそのときの冷静な辻潤の面持ちのなかには一片の狂気のカケラもなかった。そして、この言葉は私の心に深く刺さりこんだ。
 直観的に、この言葉が、お互いの関係の誠実という意味ではないことを悟った。彼は私に「自分の人生を誠実に生きる勇気をもて」といっていたのだ。そして自分は「誠実に生きようとしているのだ」といっていたのだ。
 一寸まいったのである。」(辻まこと「父親と息子」同上)

 辻潤と辻まこと──もちろん、パーソナリティーは全く違うし、山と絵を愛したまことの描くものは父親の趣向とは異なる。ただ、まことは時折、「辻潤ならどんなふうに考えたろう」と自問していたという。社会的破綻者であった辻潤に具体的な行動指針を求めることなどできるわけがない。しかし、自分の人生を誠実に生き抜くということ、一般論のあり得ない難しさを引き受けて生きること──「自由」という概念にまとめてしまうとスカスカになりかねない苦しさに迷ったとき、まことは父・辻潤の存在を意識していた。少なくとも私はそのように考えている。

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2013年7月12日 (金)

清水真木『忘れられた哲学者──土田杏村と文化への問い』

清水真木『忘れられた哲学者──土田杏村と文化への問い』(中公新書、2013年)

 土田杏村という名前を知っているのは、①日本画家・土田麦僊の弟として記憶のある絵画史に詳しい人、②よほどの高齢者、③社会思想史や教育学史に関心がある人のいずれかだろうと本書は言うが、私の場合は③に該当して、ある程度の認知はしていた。佐渡へ行った折には土田の出身地の郷土資料館で彼にまつわる展示を見たこともある。ただし、どんな思想家だったのか、と改まって考えてみると、文化主義というキーワードは確かに思い浮かんだものの、茫漠として印象が薄い。

 社会と文化を表裏一体のものと考え、一人ひとりが個別の価値実現のため努力すべきという基本的な発想は、当時の教養主義的なコンテクストから考えると、別に珍しいものとは思わない。ただし、そうした彼の考え方の背景に、新カント主義やフッサールの現象学をはじめドイツ哲学を基にした周到な哲学的考察があったことを解き明かしていくところが、ドイツ哲学を専門としている著者ならではの着眼点である。

 主著『象徴の哲学』が読み解かれていくが、実はこの本、杏村の全集には収録されていない。編者となった友人の務台理作が杏村の思索にまったく無理解で、外されてしまったのだという。それは単に務台の凡庸というにとどまらず、杏村が示そうとしたパースペクティヴについての当時の一般的な無理解が反映されているのだろうという思いが「忘れられた哲学者」というタイトルに込められている。

 博覧強記のジャーナリスティックな文明評論家と思われていた彼は、時事的なものも含めて膨大な著作を残している。単に具体的な事例を集めていたのではなく、大きな哲学的な「物語」へと収束させていく。そうした意味で哲学的な視野を基本に据えつつ文明の姿を総体として捉えようととしていたところに杏村の志向性があった。

 そんな彼がなぜ忘れられてしまったのか、著者も少々考えあぐねているようだ。当時は大流行した新カント主義もハルトマンもシェストフも、現在ではほとんど忘れられていることを考えると、杏村一人が忘れられたからといってそんなに不思議なこととも思わないが、むしろなぜ彼があんなに読まれていたのか、そこを考えていく方が大正・昭和初期の時代思潮を考える上で色々な論点が出てきそうだ、などと思いながら本書を読み終えた。

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2013年7月 7日 (日)

李学俊(澤田克己訳)『天国の国境を越える──命懸けで脱北者を追い続けた1700日』

李学俊(澤田克己訳)『天国の国境を越える──命懸けで脱北者を追い続けた1700日』(東洋経済新報社、2013年)

 警備兵の監視の目をかいくぐって中朝国境を渡り、公安の摘発におびえながら中国に潜伏、何とか東南アジアなど第三国に脱出して韓国大使館に駆け込んでも、外交問題への懸念から必ずしも受け入れられるわけではない──いくつもの関門をくぐり抜けたとしても成功の見通しは覚束ない過酷な脱出行。そうした文字通り命懸けの脱北者支援活動に同行取材した記録である。

 そもそもが非合法な活動であるため、欲得や裏切り、身を切られるような悲しい別れ、人間の様々な姿も見せつけられる。タフな精神力と決意がなければ、やっていけるものではない。そうした中、二つのタイプの人物が目に付く。第一に、キリスト教の伝道師。本人もギリギリの生活をしている上に借金を重ね、すべてを持ち出しながら命懸けの活動に従事する使命感。第二に、現地のブローカー。麻薬密売など非合法ビジネスで荒稼ぎをしていたが、国境越えのルートを熟知しているため脱北者を連れて行くよう依頼された。当初はもちろん報酬目当てだったが、脱北者の苦境をじかに聞き知り、脱北に成功した時の彼らの晴れやかな表情を見たときの達成感から、いつしか利害を度外視して協力するようになったという。

 中国潜伏中に生れた脱北者の子供たちには国籍がない。そこで、欧米の理解ある家庭へ養子に出す活動も行われているが、倫理面も含めて色々と問題はある。また、各国大使館・領事館へ脱北者を集団駆け込みさせ、その様子を撮影して配信するなど、いわゆる企画脱北には政治的パフォーマンスだという批判もある。しかしながら、打てる手が限られている中、毀誉褒貶を度外視してなりふり構わずやれることをやるしかない、そうした苦境は無視できない。

 脱北者が何とか韓国にたどり着けたとしても、安住の地にはならない。政治的判断としての受け入れと、実際に社会的に受け入れられるかどうかは別問題であり、脱北者が韓国社会で味わう疎外感が問題化している。同胞から余計者扱いされるくらいなら第三国で差別されるほうがまだマシだと欧米へ渡ったり、北朝鮮側の工作に応じて戻ってしまうケースすらあるのだという。国境を渡っても、その先には別の形で不条理が待っている──北朝鮮というブルータルな体制の闇は深い。

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2013年7月 5日 (金)

楊海英『植民地としてのモンゴル──中国の官制ナショナリズムと革命思想』

楊海英『植民地としてのモンゴル──中国の官制ナショナリズムと革命思想』(勉誠出版、2013年)

 ナショナリズムがいびつな形をとったとき、対外的には攻撃的な排外主義が煽られ、国境線の内部ではマイノリティーへの抑圧として表われる。近年の中国における愛国主義の昂揚は尖閣問題、南沙問題等にも顕著に見られ、日本においても、それこそ日中友好を願う人々の間ですら懸念は広がっている。

 他方で、こうしたナショナリズムは中国内部の民族的マイノリティーに対してどのように暴力的な作用を示しているのか。本書は、内モンゴル自治区出身のモンゴル人民族学者という立場から中華ナショナリズムの問題点を抉り出そうとしている。

 かつて日本軍が大陸へ侵略したとき、満洲国や蒙古聯合自治政府といった形で内モンゴルを事実上支配していたことがある。その意味で、内モンゴルは日本と中国の両方から植民地化を経験した。「日本刀をぶら下げた奴ら」という表現がある。日本が設立した学校で近代的教育を受けたモンゴル人を指す(例えば、楊海英『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』岩波書店、2009年→こちらを参照)。漢人の支配者からは抑圧しか受けなかった一方、少なくとも近代化の恩恵を伝達した点で日本人に対してモンゴル人は相対的には好意的だったらしい。ただし、そうした「親日」的傾向が、「解放」後になると共産党政権によるモンゴル人知識人粛清の根拠になってしまった。この点で国民党が台湾で引き起こした二二八事件と構図として共通すると指摘される。いずれにせよ、このような形で日本も責任を負っている以上、見過ごしてしまうわけにはいかない。

 失われた伝統文化を何とか再構築したい。そうした思いは民族学者としての仕事の動機となる。だが、そもそも内モンゴルで民族的伝統文化が失われてしまったのはなぜなのか。「解放」という大義名分で隠蔽された下、実質的には漢民族による抑圧や殺戮によってモンゴルの伝統文化が抹殺されてきたし、それは現在進行形でもある。そうした暴力から目を背けてきた点で、民族学者は中国政府と暗黙の共犯関係にあったと手厳しい。

 著者の中国人に対する糾弾の激しさには驚かされる。場合によっては学者としての一線を越えていると思われるかもしれない。しかしながら、『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(岩波書店、上下、2009年;続、2011年→こちらで取り上げた)で具体的に描写されている暴力の凄惨さを想起すれば、こうした怒りもやむを得ないだろう。

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2013年7月 3日 (水)

広中一成『ニセチャイナ──中国傀儡政権 満洲・蒙疆・冀東・臨時・維新・南京』

広中一成『ニセチャイナ──中国傀儡政権 満洲・蒙疆・冀東・臨時・維新・南京』(社会評論社、2013年)

 「大一統」「漢賊並び立たず」といった時代がかった表現を使うかどうかは別として、天下=中国を統べる政権はただ一つ、分立はあり得ない──こうした観念がとりわけ濃厚な中国の歴史観において、政治的正統性をめぐる相克は歴史解釈にそのまま直結している。政権の正統性を主張するにあたって妥協のない苛烈さは、例えば現在の中台関係を見ても明らかだろう。ましてや「傀儡政権」とみなされた場合、もはや抗弁の余地はどこにもない。

 本書が取り上げるのは、満洲国(溥儀)、蒙古聯合自治政府(徳王=ドムチョクドンロプ)、冀東防共自治政府(殷汝耕)、中華民国臨時政府(王克敏)、中華民国維新政府(梁鴻志)、そして汪兆銘政権──いずれも1930年代から日本軍が中国大陸に打ち立てた「傀儡政権」である(他にも小さな政権が多数成立していたことは初めて知った)。

 こうした政権をどのように見るか。日本人としては複雑でもある。彼らは「親日」とみなされたがゆえに「漢奸」として処断された。そのような彼らに関心を持っただけで、「おまえは軍国主義を肯定しているのか!」と非難されてしまいそうで、どうしても躊躇してしまうわだかまりが胸のあたりにひっかかっている。少々居心地が悪い。

 傀儡政権に参加した「漢奸」について、中国では極悪人として断罪され、日本では侵略への負い目意識から、まともに取り上げられる機会はなかなか少なかった。ある意味、知的空白になっていたと言えよう。だからこそ知りたい!というのが私の正直な気持ちである。近年は専門的な研究も蓄積されつつあるが、一般書としてまとめられた類書は見当たらないだけに、興味を持って本書を手に取った。

 漢奸か否か?という評価軸から距離を置いてこの時代を考察する作業も必要である。実際、事情は単純ではない。もちろん、中には欲得ずくで日本軍に協力した輩もいた。他方で、情状酌量の余地を考慮してもいいのではないか。例えば、モンゴル人の徳王には民族の自治や独立を求める切実な思いがあった(このあたりは、楊海英『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』[岩波書店、2009年]、田中克彦『ノモンハン戦争──モンゴルと満洲国』[岩波新書、2009年]なども併読したい)。汪兆銘は抗日戦争の見通しに悲観的となって和平を求めようとしたのが動機であった。戦火にあえぐ中、社会秩序維持のためやむを得ず汚れ役を引き受けざるを得なかったケースもある。しかしながら、そうした個々の思惑が日本軍の工作に絡め取られ、結果として使い捨てられ、裏切られてしまった。そこに悲劇があった。

 「漢奸」を断罪する「倫理的」な評価から離れようとして、逆に「親日」礼賛のように安易な解釈へ収斂させてしまうと、それはそれでおかしな話である。歴史的な実相をいかに眺めていくか、見る側の思考力が試される。いずれにせよ、一面的になりがちな視点とはまた違ったところまで視野を広げながらこの複雑な時代を読み解いていくのはスリリングな作業になるはずだ。

 本書ではそれぞれの政権の特徴と概略が堅実にまとめられている(タイトルはキワモノ的だが、読者層の間口を広げるための工夫であろう)。情熱、保身、謀略、裏切り、様々な思惑が錯綜しながら渦巻く多面的な時代の様相を読み解いていく上で、本書は恰好な手引きとなる。写真が豊富に収録されて資料的にも面白く、辻田真佐憲による傀儡政権の軍歌研究、曽我誉旨生による交通網の解説も合わせて各政権の様子が立体的に浮かび上がってくる。

 それにしても、日本軍がいかに深く中国大陸に食い込んでいたのか、改めて驚かされる。張り巡らされた人脈網を通して中国政界の人材をあちこちからヘッドハンティングし(ただし、二流どころばかり)、統治機構を瞬く間に立ち上げ、銀行の設立、貨幣の発行までしてしまう手際の良さ。しかしながら、中国側の意向を全く無視して、大局では大コケしてしまうのも不様であるが。傀儡政権を立ち上げても税収が確保できず、財政基盤は脆弱であった。そこで、収入を補填するためアヘン密売に手を染めた経緯も見えてくる。こうしたところで、例えば里見甫のような裏社会のフィクサーもうごめいた。

 その一方で、中国人と真面目に向き合おうとする日本人もいた。新民会(北京の中華民国臨時政府の下、満洲国・協和会を模して作られた団体)の職員として現地指導にあたった岡田春生へのインタビューからは、中国人側に立とうとして軍人に抑え込まれた憤りも垣間見える。繆斌の思惑、小沢開作が抱いた不満、青幇への入会など興味が尽きない。

 辛亥革命による清朝崩壊から1949年の中華人民共和国成立に至るまで二十世紀前半の中国史では多くの地方政権や軍閥が興亡しており、全体像はなかなか把握しづらい。1930~40年代については本書がレファレンス本として有用である。1928年の蒋介石による北伐までは杉山祐之『覇王と革命──中国軍閥史 一九一五─二八』(白水社、2012年)が整理しており、読み物としても面白かった。本書『ニセチャイナ』は「20世紀中国政権総覧vol.1」となっているが、こうした軍閥抗争の時代についても続巻を予定しているのだろうか。期待したいところである。

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