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2013年6月13日 (木)

【雑感】ロジャー・ケースメントの亡霊が、ドアを激しく叩いている

 アイルランドを代表する詩人の一人、ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865~1939)は1938年に「ロジャー・ケースメントの亡霊」と題した詩を発表している。
  The Ghost of Roger Casement
  Is beating on the door.
というリフレインが印象的である(作品そのものはこちらを参照のこと)。

 第一次世界大戦の真最中にあった1916年のロンドンで、叛逆罪に問われたロジャー・ケースメント(1864~1916)は処刑された。戦争というチャンスを利用してアイルランド独立へ向けた援助を求め、ドイツへ渡っていた彼は、武器と共にアイルランドへ上陸したところをイギリス警察に逮捕されていたのである。

 ケースメントが逮捕されたのは、いわゆるイースター蜂起の直前であった。ドイツ軍による直接の支援は期待できないと気付いていた彼は、アイルランド義勇軍同志に武装蜂起を思いとどまるよう伝えようとしたが、それもかなわず、準備不足で同調者も思うように増えない中で予定通りに強行され、やがてイギリス軍によって鎮圧されることになる。裁判で有罪判決を受けたケースメントについて助命嘆願の世論も沸き起こり、そうした中にはイェイツの姿もあった。

 しかし、ホモセクシュアルであるという彼のプライバシーが警察から意図的にリークされ(彼がつけていた日記、いわゆるBlack Diariesがタイプ打ちされて公開された)、ヴィクトリア朝的な倫理道徳がいまだ根強く残っていた当時において、これは致命的であった。Black Diariesについては、当時から捏造という批判も根強かったが、ケースメントについての最新かつ詳細な評伝であるSéamas Ó Síocháin, Roger Casement: Imperialist, Rebel, Revolutionary(Lilliput Press, 2008)は本物と判断し、史料として採用している。捏造説には彼に着せられた汚名を雪ぎたいという意識が働いていると思われるが、価値観が多元化した現代においてまで当時の判断基準に囚われて捏造説の是非に固執する必要もないだろう。

 私がロジャー・ケースメントの名前を初めて知ったのは、Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost: A Story of Greed, Terror and Heroism in Colonial Africa(Pan Books, 2006:アダム・ホックシールド『レオポルド王の亡霊:植民地アフリカにおける強欲、恐怖、そして英雄たちの物語』)を読んだときだった(→以前にこちらで取り上げた)。ベルギー国王レオポルド2世の私有地と化していたコンゴ自由国において、現地住民がいかに搾取され、虐待されているか、その実態を訴えて国際世論を動かした一人としてケースメントの名前が挙げられていた。

 ケースメントは1864年、ダブリンの近くに生まれた。父親はプロテスタント、母親はカトリックである。早くに両親を亡くし、親戚のもとに預けられた。学校を出てすぐ入った貿易商社で事務員をしていたが、1884年に初めてコンゴへ派遣される。その後、友人の紹介でイギリス外務省に採用され、1892年にニジェール海岸保護領の領事となったのを皮切りに外交官としてアフリカ各地を転々とすることになる。現地採用のノンキャリ専門職といったところだろうか。

 彼の人生で大きな転機となったのがコンゴ問題である。ベルギー国王レオポルド2世はコンゴ自由国からもたらされる莫大な富を独り占めする体制を築き上げていた。現地住民を力ずくで強制労働に駆り立て、服従しない者に対しては殺戮も厭わず、「文明の福音」という大義名分の下で行われていた収奪システムは実に残虐であった。ケースメントは当初、イギリス領出身者に対する虐待の調査から本国政府にコンゴ問題を打電していたが、やはり商社員としてコンゴ駐在経験を持ち、ジャーナリストに転身したエドモンド・モレル(1873~1924)と協力して世論喚起に努める。コンゴ自由国はレオポルド王の私有地だから他人のチェックを受けることがない。そこで、世論のチェックを受けるベルギー政府の統治下へ置くことでこれ以上の残虐行為を防止すべきであると提言し、コンゴ改革協会を設立した。この運動にはコナン・ドイルなど著名人も加わって国際世論を大きく動かし、コンゴ自由国は1908年に廃されることとなった。

 ポルトガル領アンゴラなどの駐在経験も持つケースメントは、1906年にブラジルへ転任し、1912年に外交官を辞めるまでパラ、サントス、リオデジャネイロの領事を務める。この間、彼はアマゾン奥地のプトゥマヨ川沿いに住む原住民が虐待されている問題を調査し、告発した。こうした彼の一連の活動はイギリス本国政府からも評価されており、1912年にはナイトに叙勲された。

 ケースメントは大英帝国の外交官としてそれなりに出世をしているが、他方で葛藤も大きかった。彼は当初、帝国主義そのものには疑いを持たず、大英帝国の権益を守る職務を忠実にこなそうとしていた。ところが、コンゴ問題やプトゥマヨ問題を調査するうちに、植民地システムがはらむ過酷な矛盾に否応なく気づかされることとなる。それは、レオポルド王やスペイン人・ポルトガル人入植者といった他者の問題であるばかりではない。南アフリカ戦争(ボーア戦争)に職務上関わった彼は、他ならぬ大英帝国もまた同様の問題を抱えていることをじかに目の当たりにした。同時に、ケースメントの祖国アイルランドもまた大英帝国の支配下にあって民族的プライドが奪い取られた状態にある。白人が有色人種に共感を示すというのはまだ珍しい時代であったが、彼の場合には抑圧された民族の一人として、アフリカや南米の現地住民が受けている抑圧を自らの問題として考える契機をも持ち得ていた。抑圧者でもあり、かつ被抑圧者でもあるアイルランド人──そうした矛盾したポジションへの自覚をますます深めた彼は、敢えて被抑圧者の側に立とうと決意し、公務を辞してアイルランド独立運動へと身を投ずる。

 ケースメントがアイルランド・ナショナリズムへの信念を強めるようになったのは1904年以降のことである(Séamas Ó Síocháin, Roger Casement: Imperialist, Rebel, Revolutionary. Lilliput Press, 2008, p.212)。彼は1903年末にアフリカから帰国、1906年にブラジルへ赴任するまでの間、故郷で暮らしていた。当時のアイルランドではゲール語やケルトの古代文化を見直すアイルランド文芸復興の動きが活発となりつつあり、ケースメントもそうした運動から生み出された著作に読みふけり、担い手となった学者や作家たちと交際を深めていた。

 自由党のグラッドストン内閣以来、大英帝国の枠内という制限つきながらも徐々にアイルランドの自治へ向けた改革が行われつつあった。他方で、大英帝国からの分離に反対するプロテスタントを中心としたユニオニストは警戒感を強めて義勇兵を結成、これに対して独立派も義勇兵を募り、緊張感が高まっていた。外交官を辞めてアイルランド独立運動に本腰を入れるようになったケースメントは、アイルランド系アメリカ人の援助を求めて渡米した。アメリカのアイルランド独立組織はドイツとの連携を模索しており、ケースメントもそうした人脈につながっていく(例えば、ドイツの駐米大使館付武官だったフランツ・フォン・パーペン[後に首相]とも会っていた)。

 第一次世界大戦が始まると、ケースメントはドイツへのシンパシーを強く示すようになった。当時、アメリカで彼に会ったイェイツによると、それは主にイギリスに対する反感によるものだったという(Ibid, p.386)。ケースメントはドイツへ渡り、捕虜となったアイルランド人兵士を義勇軍に編成する仕事に取り掛かるが、うまくいかない。アイルランド独立に向けたドイツ軍の軍事的支援が見込めないことも分かった。その頃、彼はドイツ軍を通じてイースター蜂起の計画を知る。ドイツ軍の支援がなければ武装蜂起をしても成功の見込みはないと考えていた彼は慎重な態度を取った。しかし、彼がどう思おうと計画は進行している。ならば、自分もやるしかない。彼は武器を積載した船に乗ってアイルランドへ渡ったが、前述のとおり逮捕された。

 敵の敵は味方という論理で動いたところは、第二次世界大戦においてドイツ・日本と手を組んでインド独立を目指したスバス・チャンドラ・ボースと共通したところも認められるかもしれない。

 イギリスによるアイルランド支配は、アジア・アフリカといった遠隔地における植民地支配とは異なり、文化的に比較的近い民族を相手としていた点で、日本による朝鮮半島や台湾の植民地化と関連付けて語られることがしばしばある。

 例えば、台湾で穏健な民族運動を展開したことで知られる林献堂は、1907年に日本で梁啓超と会った際、彼から「中国は今後30年間、台湾人が自由を求めるのを助けることはできない。軽挙妄動するのではなく、むしろアイルランド人のやり方を見習い、中央政府の有力政治家と結びついて、台湾総督府の横暴を牽制する方が良い」と言われた(黄富三《林献堂傳》修訂再版、国史館台湾文献館、2006年、24頁)。おそらく、アイルランド議会党がグラッドストンなど自由党の進歩派と協力して漸進的な改革を引き出していったことが梁啓超の念頭にあったのだろう。その後、林献堂は台湾議会設置請願運動へ乗り出していく。

 大日本帝国という枠組みの中において朝鮮人として軍人の道を歩んだ洪思翊もアイルランドの例を強く意識していた(山本七平『洪思翊中将の処刑』)。

 また、朝鮮半島出身の文化人類学者、崔吉城は「大英帝国の大逆罪人となったケースメント」(『交渉する東アジア──崔吉城先生古稀紀念論文集』風響社、2010年)という論文を書いている。日本による近隣諸国の植民地化を考えるにあたってイギリスとアイルランドの関係に注目している。支配/被支配という分析枠組みはともすると単純な二項対立に落ち込みやすく、歴史的な事象をうまく汲み取れないことがある。植民者であり、同時に被植民者でもあったというケースメントの複雑な二面性は、そうした二項対立を乗り越えながら考えるきっかけになり得るということから彼に関心を抱いているようだ。

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