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2013年6月24日 (月)

【メモ】紀旭峰『大正期台湾人の「日本留学」研究』

紀旭峰『大正期台湾人の「日本留学」研究』(龍渓書舎、2012年)

 教育を受ける権利が実質的には不平等な立場に置かれていた植民地・台湾。そうした境遇から脱け出そうとするかのように留学生が帝国日本の中枢・東京へと渡った大正期は、日本においても時代の転機にあたっていた。ロシア革命の衝撃、朝鮮半島の三一独立運動や中国の五四運動など民族自決の国際的機運、日本国内においても米騒動、そして大正デモクラシー。また、東京では朝鮮や中国からの留学生と出会う機会もあった。排除と包摂が同時進行する植民地支配を経験する中でアイデンティティーの葛藤を抱え込んでいた台湾人留学生は、こうした内外の刺激から触発され、啓蒙的な運動へと乗り出していった。本書は、大正期に東京へ留学した台湾人の動向を調べ上げ、精神史的な位相の下で彼らの経験がどのように位置づけられるのかを検討していく。

 以下はメモ書き。

(第1部 台湾人「日本留学」の歴史的展開)
・台湾は日本帝国に組み込まれていたにもかかわらず、「内地日本」へ進学した台湾人は、1932年に「内地在学者」と改称されるまで「外国人留学生」「植民地人学生」として扱われていた。外国からの留学生でもなく、地方からの上京者でもなく、それより下の植民地人という身分。
・第一段階:明治後期から大正3(1914)年の板垣退助の訪台(台湾同化会の設立)まで:植民地経営の人材育成→実業学校への進学、地方名士への優遇・懐柔政策→内地の小中学校への編入。
・第二段階:大正3年から大正8(1919)年の「声応会」設立まで:大学専門部への留学が次第に増加。総督府国語学校を卒業していったん就職した後に留学するため、20代半ばから30代前半という年齢層が多い。
・第三段階:大正8年から大正14(1925)年の治安維持法公布まで:「日台共学の実施」により小学校への留学は次第に減少。1922年には台湾総督府高等学校が設置されたが、定員数が限られていたため、内地日本の高等学校へ留学する者も一定数いた。

・台湾で教育機関が整備されていなかった当時、小学校→中学校→高等学校→大学という進学ルートに必要な高等学校受験資格を獲得するため、内地の中学校への入学・編入が必要だった。実際には難しく、大正期までの台湾人の帝国大学進学者は限定的。台湾総督府国語学校(師範学校に相当)から大学専門部への進学は可能。
・台湾人が内地に留学すると排日思想に染まるのではないか?という警戒心→総督府は台湾人の内地留学を望まず。ただし、地方名士からの要望や教員養成等の必要から、厳しい条件を課し、身辺調査を行うなどした上で認可。
・他方で、地方名士など富裕層の子弟の留学は懐柔策として活用(林本源家一族など)→留学生の選抜的な意味を持ち、特権階級を形成→彼らは留学先でも啓蒙運動にあまり加わらず。
・長老教会の推薦で同志社中学に進み、さらに内地の大学や海外留学するルート:林茂生、廖文奎・廖文毅兄弟など。また、盲唖学校への留学もあった。
・台湾総督府は台湾協会(後に東洋協会)に留学生の管理・監督を委嘱。留学生の親睦団体として高砂青年会が形成されたが、当初は留学生監督側に主導権があったものの、1920年前後から台湾人留学生の方が主導権を持つようになり、台湾青年会と改称された。

(第2部 在京台湾人留学生)
・留学生の増加→危険思想に触れることを警戒→管理・監督のため、東洋協会専門学校(現在の拓殖大学)の構内に台湾人留学生向けに台湾総督府官営高砂寮寄宿舎を建設(1912年)。内地語(日本語)使用、和服着用、起床消灯、外出外泊など細かな規定→規律意識・時間意識・秩序意識を内面化する装置。張深切、林呈禄、蔡培火、羅萬俥、陳炘、黄呈聡、蔡式穀などの学生がおり、林献堂、蔡惠如、陳懐澄、連雅堂などがよく訪問→知的交流の場ともなった。
・高砂寮が設置される以前、台湾人留学生はどこで暮らしたか?→①台湾現地の日本人地方長官の紹介で東京の名士の家に寄宿。②東洋協会専門学校の寄宿舎南北寮。③一般の下宿屋(物価の高騰で経済的負担が重い)。④親の知人宅に下宿。⑤東洋協会専門学校の台湾人教師(郭廷俊・柯秋潔)の自宅に下宿。⑥所属学校の寄宿舎。小石川、神田、本郷、牛込のあたりに集中。
・台湾人=蕃人=首狩りという誤解。また、「チャンコロ」という差別用語→民族意識に目覚めるきっかけの一つ。
・在京台湾人は、「台湾は日本帝国の一部であると同時に台湾人の台湾でもある」という意識の下、日本語を通じて台湾の将来や台湾人アイデンティティーを模索。

・当時の台湾人に高級官僚への道はほとんどあり得なかったので、専門部医科、政治経済学科、法科に集中。また、明治大学と早稲田大学が多い。政治経済科の早稲田、法科の明治。
・『早稲田学報』(1897年創刊)での台湾関連の論説は台湾への帝国憲法適用をめぐるテーマのものが多かった。また、留学生たちの雑誌『台湾青年』『台湾』には安部磯雄、内ヶ崎作三郎、河津暹、北澤新次郎、小林丑三郎、五来欣造、佐野学、杉森孝次郎、武田豊四郎、平沼淑郎、帆足理一郎、山本忠興など早稲田大学教員が寄稿。明治大学の泉哲も植民地政策・植民地自治について寄稿。
・早稲田の台湾人留学生を見ると、台湾総督府国語学校卒業生で占められていた。また、入学年齢が20代半ばから30代にかけての人が多い。
・当時、「国会演習」(模擬国会)という科目があった→台湾議会設置請願運動を推進する台湾人留学生も議会制度の基礎を学んだことだろう。
・『台湾青年』の編集を担当し、台湾議会設置請願運動にも深くかかわった林呈禄は明治大学法科の出身。田川大吉郎の回想によると、台湾議会請願趣意書は林呈禄が作成。

(第3部 台湾人留学生と近代台湾の啓蒙運動) 
・東京の留学生たちによる雑誌『台湾青年』『台湾』は台湾にも伝わり、啓蒙的役割を果たす。
・1919年に在京中国人と連携して声応会を設立したが、間もなく自然消滅。中国人側から参加した馬伯援は早稲田大学政治経済科を卒業、キリスト教青年会で活動、台湾人グループと親交を持つ。
・同年12月27日に結成された啓発会は林献堂を会長に迎えたが、間もなく解散。1920年1月11日に新民会を設立。第一回台湾議会設置請願運動請願書に署名した178名のうち留学生は140名(留学生全体の78.8%)。
・1924年から3年間、林献堂自宅で行われた夏季学校では日本留学経験者も講師となる。また、一般民衆向けの巡回講演→文化的啓蒙だけでなく、民族意識の喚起。
・台湾人留学生による投稿は『革新時報』、『青年朝鮮』、『亜細亜公論』、『福音新報』(植村正久が主宰)などにも散見される。『亜細亜公論』は1922年5月に創刊、日本(石橋湛山、三浦銕太郎など)、朝鮮、中国、台湾、インド出身者が寄稿。『亜細亜公論』の執筆者には佐野学、内ヶ崎作三郎、安部磯雄、杉森孝次郎、帆足理一郎、武田豊四郎など『台湾青年』『台湾』に寄稿した早稲田大学教員が見られる。『亜細亜公論』創刊号に林献堂の漢詩による祝辞。戴季陶も執筆。『亜細亜公論』社は早稲田鶴巻町にあった。
・蔡培火をはじめとした台湾人留学生は富士見町協会の植村正久の紹介で日本のキリスト教系知識人の支援を得られた。植村の紹介で田川大吉郎と出会う。日本知識人、在京朝鮮人・中国人などアジア知識人たちとのネットワークづくりで蔡培火は重要な役割を果たす。
・1920年7月、蔡培火や林呈禄たちが『台湾青年』を創刊。
・1920日本社会主義同盟の姉妹団体として創立されたコスモ倶楽部の講演会・懇親会に台湾人も参加。
・中華第一楼は、台湾人だけでなく中国人・朝鮮人も出入りしており、彼らの出会いの場となっていた。1916年にはここで新亜同盟党の旗揚げ。

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