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2013年6月18日 (火)

先崎彰容『ナショナリズムの復権』、白川俊介『ナショナリズムの力──多文化共生世界の構想』

 戦後日本においては一般的に言って、ナショナリズムの評判は芳しくない。ネイションという枠組みによって人々を結集・動員するものとみなされ、それは内にあっては個人の持ち味を押し殺し、外に向けては好戦的な挑発をしかねないという懸念があるからだろう。しかし、そもそもナショナリズムをどのように捉えるのか、その定義自体が極めて論争的である。むしろ着眼点の置き方によっては建設的な意義を汲み取ることもできるのかもしれない。

 先崎彰容『ナショナリズムの復権』(ちくま新書、2013年)は、アレント、吉本隆明、柳田國男、江藤淳、丸山真男などのテクストを読み解きながら「ナショナリズム」にまとわりつく誤解を解きほぐそうとする。ナショナリズムをめぐって解かれるべき誤解の一つとして、ナショナリズムは宗教ではない、という論点が示されているが、本書では死生観とナショナリズムとの関わりもテーマとなっているだけに、宗教と疑似宗教との相違について論じられていないのが気になった。

 保守主義思想の要諦は、長い年月にわたって繰り返されてきた試行錯誤が凝縮した“智慧=伝統”に立脚してこそ人は生きていけるという考え方にある。ところが、時間的には歴史とのつながりが断たれ、空間的には横の関係が分断された中、人はその場の不安を紛らわそうと、まがいものの思想にも飛びつきやすくなる。

 歴史とのつながりを失ったとき、私たちは場当たり的な価値を世界すべてに通用する「普遍的価値」だと信じては裏切られる。孤独になると、不安を解消しようとして「強大なもの」にすがりつきたくなる。だが、それではいけない。地に足の着いた判断基準の回復、そこにナショナリズムの復権という問題意識の照準が向けられている。佐伯啓思『倫理としてのナショナリズム』(NTT出版)は経済思想の観点からグローバリズム批判をする中でナショナリズムに着目していたが、そうした方向性を本書は日本思想史の文脈で思索を進めていると言えるだろうか。

 白川俊介『ナショナリズムの力──多文化共生世界の構想』(勁草書房、2012年)は、欧米の政治理論研究におけるリベラリズム批判の議論を受ける形でナショナリズムに注目している。

 異なる価値観を持つ者同士がいかに共存を図っていくのか、そのための社会構成原理を模索するのがリベラリズムの基本的な発想である。特定の価値観の押しつけになってはいけない。そこで、リベラル・デモクラシーは中立的な政治システムを構想し、そこにおいては理性的な個人が成員として想定される。ところが、リバタリアン・コミュ二タリアン論争から浮かび上がったように、「負荷なき個人」という抽象的な人間モデルは現実にはあり得ない。どんな人間であっても生まれ育った社会や文化の色合いが根深く刻み込まれており、そうした要因を切り離して抽象的に判断できるわけではない。

 本書の立脚点であるリベラル・ナショナリズムはコミュ二タリアニズムの側に立つ。異なる価値観の共生に向けて模索を続ける点ではリベラリズムが前提となるが、他方で「負荷なき個人」はあり得ないという批判をむしろ肯定的に捉え直す。つまり、自由・平等・民主主義といったリベラルな価値に基づく政治制度は、その担い手たる人々の間に連帯意識があってはじめて安定的に機能する。こうしたナショナルな連帯意識こそがリベラリズムの前提になるという洞察をもとに、ネイションの「棲み分け」による世界の構想を示す。

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コメント

はじめまして。僕もちょうど「ナショナリズムの復権」を読了したところです。

投稿: くにたち蟄居日記 | 2013年7月15日 (月) 09時27分

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