鬼頭春樹『実録 相沢事件──二・二六への導火線』
鬼頭春樹『実録 相沢事件──二・二六への導火線』(河出書房新社、2013年)
1935年8月12日、じっとりと暑い真夏の盛りに三宅坂の陸軍省の中で軍務局長・永田鉄山が惨殺された。鮮血の飛び散った局長室内の惨状にさしもの陸軍中枢も大騒ぎするという前代未聞の不祥事であった。折りしも怪文書が乱れ飛び、青年将校たちが昭和維新を呼号する物騒な世情であったが、あにはからんや、犯人は相沢三郎・陸軍中佐。分別盛りのはずの45歳であった。
寡黙で訥弁、不器用だからこそ生真面目で純情一本やりだった相沢三郎。対して、ややもすると精神論に傾きがちな軍人が多かった当時の陸軍の中では珍しく合理的思考のできた永田鉄山。こうした対極的な二人の不幸な邂逅は、ある意味、この時代の精神史的位相を端的に表していたと言えるだろうか。
それにしても、相沢の振る舞いは異様である。白昼堂々と一人の人間を惨殺しておきながら、そのまま異動を内示されていた台湾へ向かおうとしていたのだから。当時から、精神異常ではないか?ともささやかれていた。仮に青年将校たちと同様に純情な義憤に駆られた行動であったとしても、動機がいまひとつ分かりづらい。
二・二六事件は日本近現代史で最も人気のあるテーマの一つであり、関連書はいまだに汗牛充棟のごとく生み出されつつある。いみじくも「二・二六産業」と表現したのは現代史家の秦郁彦であった。本書もサブタイトルから分かるように、二・二六事件へとつながっていく一連の流れ、とりわけ統制派と皇道派という軍閥間の抗争の中で相沢による永田惨殺事件を位置づけて史料検証を進める。相沢のパーソナリティーをしっかり捉えた上で史料の欠落を推論的に補い、彼を激発的な行動へと後押しした原因、そして彼が落ち込まざるを得なかった悲劇を浮き彫りにしていく。
相沢は純情一徹な性格だったとはいえ、単なる馬鹿でもない。彼を知る末松太平の印象が本書でたびたび引用されているように、いかがわしい人間の言葉を盲信するようなことはなかった。ただし、信頼する同志の言葉のみは信じた。では、彼の義憤に火をつけた、言い換えると犯行を教唆したのは一体誰であったのか?
軍法会議にかけられた相沢は死刑判決を受け、翌年の1936年7月に銃殺刑となった。処刑の直前に面会した石原莞爾に向かって相沢は「統帥権は干犯されておりませんでした」と自らの間違いを認めていたという。1935年7月に皇道派の真崎甚三郎が陸軍三長官の一つ、教育総監のポストから更迭されたことは天皇の意向を無視した統帥権の干犯にあたり、首謀者の永田鉄山は許せない──実際は永田のせいではないのだが、これが相沢による永田惨殺の大義名分であった。それを死の直前になって撤回したのである。
相沢は真崎に私淑していた。他方、真崎は自らの政治的野心のため老獪に陰謀をめぐらす人物であり、本書は決定的な確証は得られないながらも、真崎による教唆の可能性を浮かび上がらせていく。相沢の脳裡には、自分の行為の正しさは陸軍上層部に認められているのだから恩赦もあり得る、という考えもあったのかもしれない。真崎は二・二六事件を背後で操っていたとして一時身柄を拘束されたが、証拠がないため逃げ切り、そして戦犯の訴追も免れ、戦後まで生き延びた。二・二六事件で処刑された渋川善助は最後にこう叫んだという──「国民よ皇軍を信用するな!」
主観的な純情は方向を誤ると、得てして政治利用されやすい。それは本人にとっても、そして後代の人々にとっても、二重の意味で悲劇であったとしか言いようがない。
なお、永田鉄山は政治のわかる軍人として当時では稀有な存在であったが、近年になって研究が進んでいる。彼の国家構想については川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社選書メチエ、2009年→こちら)、同『戦前日本の安全保障』(講談社選書メチエ、2013年→こちら)で論じられている。また、森靖夫『永田鉄山──平和維持は軍人の最大責務なり』(ミネルヴァ書房、2011年)も私は入手してあるのだが、本棚の奥に紛れ込んでしまい、見つからなくて併読できず。読みたいときに見つからないというジンクス(苦笑)。
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