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2013年6月

2013年6月29日 (土)

【メモ】林献堂のこと(3)光復、失望、客死

(承前)

 1945年8月15日、日本敗戦の報を受けて林献堂は「嗚呼! 五十年来以武力建致之江山、亦以武力失之也」と日記に記している。日本による植民地統治から解放され、長年の宿願である祖国への復帰がようやくにして叶うことになった。

 喜びに浸る間もなく、彼はただちに動き始める。台湾人有力者と連れ立って安藤利吉・台湾総督、諌山春樹・台湾軍参謀長たちを訪問し、治安問題など今後の対策を話し合い、中華民国による接収に向けた準備を進めていく。8月23日に左派の傾向が強い楊逵、李喬松の来訪を受けているのも興味深いが、軽挙妄動するなと忠告した。8月31日には中華民国側と折衝するため、許丙、辜振甫(辜顕栄の息子)たちと共に上海へ飛んだ。

 9月9日には南京で日本軍の受降式典が開催されることになっている。何應欽を経由して、林献堂、羅萬俥、林呈禄、陳炘、蔡培火、蘇維樑も参加せよ、という連絡を受けた。ところが、上海に来ていた台湾軍の諌山参謀長から「自分も式典には参加するが、他の人が来るとは聞いていない」と言われたため、式典へ行くのは見合わせる。翌日、何應欽と面会したとき、「なぜ式典に来なかったのか?」と問われ、諌山にまんまと騙されたことに気付いたという。

 台湾省行政長官の陳儀は10月24日に台北の松山空港に到着し、林献堂も他の台湾人有力者と共に出迎えた。翌日には台湾における受降式典が行われ、中華民国台湾省行政長官公署が正式に発足する。林献堂は国民党への入党を申請し、翌年には許可された。12月からは国語(中国語)の勉強を始めている。林献堂も含めて台湾の漢族の多くは閩南語や客家語を話し、普通話は分からないからである。彼は日本統治期には敢えて日本語を勉強しなかったことと比較すると態度の相違がはっきりしており、それほどまでに国民党政権を歓迎していた様子がうかがえる。1946年3月には台湾省参議員に選出された。

 台湾における新体制が発足したものの、課題は山積している。日本軍の大陸や南洋への展開に伴って徴発された台湾人が海南島、広東、上海などにそのまま放置され、帰れないばかりか、現地では差別的な待遇を受けて飢餓に瀕していた。そうした惨状を複数のルートから伝え聞いた林献堂は早速、行政長官公署の関係者に働きかけた。また、治安悪化と食糧不足も大きな問題であった。1946年3月14日、林献堂のおひざ元である霧峰で国民党軍の蔡継琨少将の命令により軍人たちが武器を携行して倉庫から米・粟を強奪するという事件まで起こっている。こうした事件が起こっても、台湾人には抵抗する術はなく、されるがままとするしかなかった。

 林献堂は積極的に陳儀の新体制を支えようと努力しが、行政長官公署にいくらかけあっても埒が明かない。そればかりか、台湾人有力者に「漢奸」容疑がかけられ身柄を拘束されるケースが相次いでいた。林献堂も狙われたが、国民党員である丘念台(父親は1895年の台湾民主国が壊滅した後に大陸へ逃れた丘逢甲)のとりなしで何とか逃れることができた。いずれにせよ、陳儀から煙たがられていることは明らかだった。何よりも、政策の失敗や官員の腐敗が目にあまる。双方の思惑の相違はあまりにも大きく、あからさまな態度は見せないものの、林献堂の心中では疑念が募り始めていた。

 1947年2月28日の午後、台湾省財政処の指導下で行われた彰化商業銀行創立の株主総会に林献堂も出席していた。この日、台北で勃発したいわゆる二・二八事件はたちまち台中地区にも及ぶ。外省人には危害が加えられるおそれがあったため、財政処長として出張していた厳家淦を林献堂は霧峰の自宅にかくまった。厳家淦は財政のテクノクラートとして蒋父子からの信任が厚く、後に副総統となり、蒋介石の死後は蒋経国にバトンタッチするまでのポイントリリーフとして総統にもなった人物である。二・二八事件では多くの台湾人有力者が殺害され、林献堂もブラックリストに載っていたと言われるが、厳家淦を助けたことは一つの「アリバイ」となった。

 台北へ向かった林献堂は、大陸から派遣されてきた白崇禧・国防部長をはじめ国民党有力者のもとを訪れて寛大な処置を説いて回った。やがて陳儀は更迭され、台湾省行政長官公署は解体、新たに台湾省主席として魏道明が赴任する。台北にいる政治関係者の間では陳儀の留任を望む声もあったが、林献堂は明らかに陳儀の失政が原因だと断じて反対した。人を非難することが滅多にない彼としては珍しい。浙江省主席に転じた陳儀は共産党と内通したとして逮捕され、処刑される。後に陳儀の処刑を知った林献堂は、林茂生、陳炘(この二人についてはこちらを参照のこと)をはじめ多くの有為な人材の命が奪われた痛恨を思い返し、当然のことだと日記に記している。

 林献堂は祖国・中国への復帰を熱望していた。しかし、理想と現実の落差はあまりにも大きかった。彼が求めていたのは聯省自治である。つまり、主権は中国にあっても、台湾を自ら選出した代表によって自ら統治する自治区とすることであった。それは、国民党の中央集権的な政治体制とは明らかに相容れない。結局、外来の政権によって抑え込まれてしまう点では日本統治期と何ら変わらず、そうした失望は彼の内心で国民党政権に対する反感を強めていくことになる。また、新たに台湾省主席となった陳誠が実施した「三七五減租」「耕者有其田」といった政策は地主層の経済力にとって大きな打撃となり、霧峰林家の影響力も低下した。

 林献堂は政治に関わっていく熱意を失った。1949年9月、彼は日本事情の視察や病気療養を名目として日本へ行く許可を得たが、そのまま滞在を延長し、結局、死ぬまで台湾へ戻ることはなかった。居留申請には日本、中華民国の他、GHQでも手続きをせねばならず、煩雑であったため、1951年には日本に永住申請を出した。申請上の名目を立てねばならなかったため、政治難民という身分になったのも皮肉なことである。

 失意のうちにあったとはいえ林献堂の存在感は大きく、彼のもとへ様々な人々の往来は絶えなかった。一方では、廖文毅をはじめ台湾独立運動の活動家たちが足しげく通い、彼を引き入れようとしていたが、ラディカルな方法を好まない彼はなかなか肯んじなかった。独立運動家たちがそれほど人数もいないのに派閥争いにかまけているのは馬鹿馬鹿しいとと思っていたのかもしれない。そもそも、林献堂は台湾独立を望んでいたのだろうか? 彼の温容な表情の裏にどのような思いが秘められていたのか、なかなか窺いしれないところもあるが、1952年2月、台湾人にとっての希望は何か?と問われた際、「フィリピンのように独立すること」と答えたという。

 他方で、彼は国民党との関係も壊してはおらず、国民党政権から蔡培火、丘念台、何應欽などの関係者もたびたび彼のもとを訪れ、台湾へ帰るよう説得を繰り返していた。林献堂が台湾独立派に傾いてしまうと国民党の台湾統治にとってマイナスになるという判断による政治工作で、背後では蒋経国が指揮を取っていたらしい。当時、蒋経国は反共統一戦線工作の対象に台湾独立派も含めていた。圧政に対する暗黙の抗議として台湾を離れて東京に引っ込んだ林献堂を、他ならぬ圧政を敷いている側が呼び戻し工作をしている点で、国民党政権と日本の台湾総督府とに共通する構図が見えてくる。

 言質を取られないよう政治的な話題は避けていた林献堂だが、1955年10月14日に蔡培火と会ったとき、「危邦不入、乱邦不居」と語った。危うい国へ入るわけにはいかず、乱れた国に居るつもりはない──『論語』泰伯篇第八にある言葉である。これを聞いた蔡培火は林献堂の真意を悟り、台湾への帰国を促すことをやめた。

 1952年以降、林献堂は杉並区久我山に居を構えていたが、1956年9月8日、老衰に肺炎を併発して死去する。76歳であった。遺体は台湾へ送られ、蔡培火や厳家淦たちに見守られながら葬儀が行われた。総統の蒋介石や副総統の陳誠からも葬儀にあたって一筆贈られている。

 林献堂は文化的アイデンティティーの面では漢民族としての自覚を死ぬまで維持していた。だからこそ、日本統治下にあっても日本語を敢えて学ばず、戦後は台湾の中華民国への帰属を歓迎していた。ただし、中国の台湾に対する主権は認めたものの、政治経済的地位については自治が望ましいと考えていた。日本統治下において台湾議会設置請願運動を展開し、国民党政権下に入った後も聯省自治を求めたように、台湾の自治という考えでは戦前・戦後を通して一貫していた。

 林献堂のリーダーシップを一言で表わすなら調整型と言えるだろう。例えば、留学生たちの議論を踏まえて六三法撤廃運動から台湾議会設置請願運動に転換した裁定にもうかがわれるように、自らの主張をトップダウンで押しつけるのではなく、ボトムアップの意見集約によって一つの方向へとまとめ上げていくやり方に特徴があった。また、このような調整型の政治手法は、台湾総督府や国民党の要人とパーソナルな信頼関係を取り結ぶことによって相手側の軟化を引き出すところにも表われている。彼の人格的な存在感があったからこそ、運動の急進化を抑え、総督府による弾圧の緩衝材となり、非暴力的な民族運動の持続を可能にしたと言える。

 逆に言うと、妥協の積み重ねは、急進派には物足りない。また、彼の人格的な声望を受け容れない相手には通用しない。階級闘争路線を標榜して台湾文化協会を乗っ取った左派からすれば、彼は打倒すべきブルジョワに過ぎなかった。日本人の超国家主義者からすれば、彼は皇民化に反対する逆賊であった。新たに台湾を接収した陳儀のような外省人からすれば、彼はただの漢奸であり、利権漁りの邪魔者に過ぎなかった。そうした「話の通じない」相手が出てきてしまうと、林献堂の持ち味である調整はうまくいかず、身を引くことで暗黙の抗議を示す以外に方法はなかった。そして、戦後の土地改革によって地主層の経済的・社会的威信が低下すると、彼の発言の重みはますます低下していくことになった。

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2013年6月28日 (金)

【メモ】林献堂のこと(2)台湾民族運動の展開

(承前)

 日本統治期に林献堂が展開した台湾民族運動は次の四つの時期に区分される。当時の政治情勢や先進的思潮との関わりの中で運動のあり方も変化していった様子が見て取れるだろう。
①1910年代~20年:差別撤廃を要求(台湾同化会、六三法撤廃運動)
②1920~30年:民族自決を追求(台湾議会設置請願運動→左右の対立で分裂)
③1931~36年:地方自治へと軌道修正
④1937~45年:戦時下の鬱屈期

 林献堂は東京で板垣退助や大隈重信と面会し、1914年には二度にわたって板垣を台湾へ招いた。彼の話を聞いて板垣は台湾人の置かれた境遇に同情したが、他方で日本の南進政策や「日支親善」の架け橋となることを台湾人に期待していた。権利向上を求める台湾人側の思いとは同床異夢だったかもしれないが、いずれにせよ、板垣の肝いりで同年12月20日に台湾人差別の撤廃を目指した「台湾同化会」が成立する。こうした動きを台湾総督府は警戒していたが、板垣の名声を前にしておいそれとは手が出せない。林献堂は「中央政界の要人と手を組め」という梁啓超のアドバイスを実行したわけである。ただし、板垣が帰ると、翌年の1915年2月に「台湾同化会」は解散させられてしまった。

 1910年代以降、日本へ留学する台湾人が増えつつあった。植民地台湾とは異なり比較的自由な東京で先進的な知識や思想に出会った彼らは植民地体制の矛盾をますます認識するようになり、そうした気運は台湾民族運動を新たな方向へと導いた。1918年8月、東京へ来た林献堂は、留学する子弟のため巣鴨に邸宅を購入した。「雨声庵」と名付けられたここには留学生も頻繁に訪れ、集会所としての役割を果たすようになる。

 「雨声庵」で留学生が議論を交わした最重要のテーマは「六三法撤廃」問題であった。台湾も大日本帝国の版図に含まれた以上、本来ならば日本人と同様に帝国臣民としての権利を享受できるはずである。ところが、日本政府は植民地統治の特殊性に鑑みて台湾における憲法の施行を保留し、明治29年法律第63号(通商、六三法。その後、明治39年法律第31号に引き継がれる)によって台湾総督の栽量による法律制定を可能にしていた。つまり、台湾総督府の専制的統治を批判し、台湾も憲政の枠内に組み入れるよう求めるのが「六三法撤廃」問題の要点である。こうした考えから林献堂たちは「六三法撤廃期成同盟」を設立して運動を展開した。

 ところで、六三法を撤廃して台湾を日本の憲法の枠内に組み込むと、台湾人を権利面で同等な立場に引き上げることはできるかもしれない。しかし、他方で台湾人は日本人に吸収=同化されてしまうことにならないか? ちょうど第一次世界大戦が終わり、ウィルソンの提唱した民族自決の原則が世界中で話題となっていた時期である。留学生たちはむしろ台湾自治のための議会設立を優先させるべきだと考えた。こうした論争を受けて、1920年11月に六三法撤廃運動をやめて、台湾議会設置請願運動へ転ずると林献堂は裁決する。同年12月に行われた最初の請願では178名の署名者のうち160人以上を留学生が占めていた。3月に留学生たちが結成していた「新民会」の会長には林献堂が推挙され、機関誌として『台湾青年』も発行される(1922年4月からは『台湾』と改称)。こうした動きからは、留学生主導で運動が進められ、彼らの意見に耳を傾ける林献堂が全体のまとめ役になるという関係がうかがえる。

 憲法を台湾に施行して台湾人にも日本人と同様の権利・義務を持たせる考え方を内地延長主義といい、六三法撤廃運動はこれに依拠していた。しかし、こうした方向性は民族主義的な立場からすると日本人への同化主義と捉えられる。対して、台湾の特殊性を理由として日本内地とは別建ての統治システムを実施することを特別統治主義という。六三法によって憲法を棚上げした台湾総督の統治はその具体化であった。他方で、台湾の特殊性を認めるという意味では、同化を拒む民族主義的な立場からは自治への方向性読み取ることも可能である。日本人か、台湾人かという立場の相違、専制的統治か民主的統治かという方向性の相違によって解釈が異なり、議論が複雑になってしまうが、いずれにせよ、六三法撤廃運動から台湾議会設置請願運動への方針転換は、権利向上重視から民族的独自性重視への思潮の変化として捉えることができる。

 唐突に始まった台湾議会設置請願運動に台湾総督府は慌てたが、あくまでも合法的な活動である以上、取り締まることはできない。しかし、直接・間接に様々な手段を用いて妨害を図った。例えば、1923年12月には請願運動を指導していた蒋渭水たちが治安警察法違反の名目で検挙される、いわゆる「治警事件」が起こった。また、林献堂一族の経営する事業にも盛んに横やりが入った。

 その一方、大正デモクラシーという時代風潮の後押しもあって、東京帝国大学教授の矢内原忠雄や代議士の田川大吉郎、神田正雄といった日本人の積極的な支援者も現れる。また、林献堂は台湾総督府に盾突いてばかりというわけでもない。台湾総督府・台湾軍関係者のもとをたびたび訪れて一定の人脈を築いてもいたし、中には元台湾総督の伊澤多喜男のように良好な関係が続いた人物もいる。例えば、霧峰林家と共に台湾五大家族の一つに数えられる林本源家の番頭格、許丙は金品をばらまいて総督府や東京の中央政界と幅広い人脈を築いていた(許丙についてはこちらを参照のこと)。そこにはもちろん利権絡みの思惑もあっただろうが、同時に台湾全体の権利向上を意図していたことも間違いない。許丙ほどではないにせよ、林献堂も官僚・政治家に対してはある程度まで金品を贈っていたのではないかとも想像される。

 台湾議会設置請願運動の母体となった組織が台湾文化協会である。1921年7月、台湾総督府医学専門学校(当時の台湾では一番のエリート校)に通う蒋渭水などの学生たちが林献堂に面会を求め、文化協会を組織する計画を相談したところ、林はまさに自らの意に叶うと賛同して激励、同年10月17日に台湾文化協会が設立された。林献堂が総理となり、蒋渭水と東京での運動で活躍していた蔡培火の二人が運営の中心となる。1923年10月には機関誌として『台湾民報』が創刊された(1930年に『台湾新民報』)。また、台湾各地で巡回講演会が行われ、一般民衆への啓蒙活動として大きな成果をあげた。

 台湾議会設置請願運動は台湾全土を巻き込んで盛り上がったが、運動の拡大は同時に内部分裂の兆しでもあった。台湾文化協会は大まかに言って、三つのグループに分けられる。第一に林献堂・蔡培火などの民主派(台湾派)=右派、第二に蒋渭水など民族主義派(祖国派)=中間派、第三に連温卿・王敏川など社会主義派=左派である。

 この頃、台湾各地で小作争議や労働争議が頻発、例えば二林事件(1925年)という農民問題では労働農民党から弁護士の布施辰治が派遣された。連温卿は山川均と親しく、日本内地から流入したマルクス主義の階級闘争論は台湾でも流行思想となっていた。こうした風潮に乗って左派の鼻息が荒くなり、三民主義を奉ずる蒋渭水も孫文の容共方針に則って労働運動に同情的となっていた。1927年1月の大会で組織的な動員を行った左派が文化協会の主導権を握り、蔡培火たち右派や蒋渭水たち中間派は離脱する。同年3月、左派に乗っ取られた文化協会は正式に階級革命路線を採択し、これ以降は新文協と通称される。さらに、謝雪紅らが1928年に結成した台湾共産党(日本共産党台湾民族支部)によって新文協は乗っ取られ、連温卿は追い落とされるが、こうした新文協の急進化は台湾総督府による弾圧を招いた。

 左派主導に反発して文化協会から離れた蔡培火・蒋渭水など右派・中間派は台湾民衆党を結成した。しかし、労働組合運動に傾斜して急進的な方針を取ろうとする蒋渭水に対して、蔡培火は総督府をいたずらに刺激するのは得策ではないと反対するなど、民衆党もまた最初から分裂含みであった。内部対立を繰り返し、台湾議会設置請願運動も下火になっていく中、林献堂は文化協会や民衆党に顧問として名を連ねながらも政治活動には消極的となる。台湾民衆党結成をめぐって揉めていた1927年5月、さっさと世界一周旅行に出かけてしまった。旅行から戻っても引き続き東京で暮らし、1929年1月まで台湾には戻らなかった。

 温厚な人格者でことさらに敵を作らないところに林献堂の一番の持ち味があった。彼のリーダーシップは、議論百出しても人々の意見を幅広く受け入れ、落とし所を見計らいながら全体を一つの流れへまとめあげていくというやり方である。名望家出身という背景は超然たる調停者・裁定者としての役割を権威づけていた。そうした敵を作らないバランス感覚は、日本の植民地当局や戦後の国民党政権とも険悪にならない程度に関係を維持することを可能にした。他方で、対立する人々が妥協できないくらいに亀裂が深まっても、能動的なイニシアティブで収拾に動くことはない。受け入れがたい政治的摩擦が起こると、それを正面から批判するのではなく、身を引くことで暗黙の意思表示をするという行動パターンを林献堂はこの後もたびたび繰り返す。

 台湾民衆党もやがて左右に分裂した。右派は1930年8月に台湾地方自治聯盟を結成して楊肇嘉が運営の中心となる。右派の離脱を見計らっていた総督府は1931年2月に台湾民衆党の解散命令を出す。同年8月には民衆党のシンボル的存在であった蒋渭水が病死してしまい、求心力を失った(蒋渭水についてはこちらを参照のこと)。台湾議会設置請願運動への署名者も減少の一途をたどり、1934年の第16回請願を最後として、同年9月2日、運動の終了を申し合わせた。

 1935年10月には地方自治が実施される。州市議会の半分を民選、納税額による選挙資格制限といった不十分な条件であり、台湾議会による自治を目指してきた大がかりな運動の割に、成果はごくごくささやかなものに過ぎなかった。ただし、台湾人が初めて選挙活動を自ら行い、目の当たりにしたことは貴重な体験になったと言える。

 林献堂は1936年2月から4月まで『台湾新民報』が組織した華南考察団の一員として廈門、福州、汕頭、香港、広東、上海の各地を回った。上海での歓迎会の折、スピーチで「祖国に帰ってきました」と発言したことが『上海商報』に掲載されたため、台湾の日本人社会を刺激した。とりわけ台湾軍の荻洲立兵・参謀長による嫌がらせがひどかった。同年6月、台湾始政記念日の園遊会で「愛国政治同盟員:賣間善兵衛」と名乗る者がこの発言をなじって林献堂を殴るという騒ぎが起こる。このいわゆる「祖国事件」には荻洲による唆しがあったと言われる。また、荻洲たちの圧迫で『台湾新民報』漢文欄が廃止されたことは、皇民化運動による台湾文化抑圧の象徴とも言える(『台湾新民報』は1942年に『興南新聞』と改称され、1944年には『台湾新報』に統合された)。1937年に日中戦争がはじまると台湾でも戦時色が濃厚となり、台湾地方自治聯盟は8月に解散した。

 こうした険悪な情勢に嫌気がさした林献堂は東京へ行き、台湾にはしばらく戻らなかった。この間、伊澤多喜男(元台湾総督)、矢内原忠雄、岩波茂雄などと会ったが、みな「祖国事件」で彼に同情していたという。伊澤からは台湾問題について近衛文麿首相と話すので資料を提供して欲しいと言われ、葉栄鐘にまとめさせた。

 台湾総督府としては、台湾の有力者が東京に逃げているというのは実に体面が悪い。荻洲は戦地へ転任しており、総督府側から林献堂に戻って欲しいという意向が伝えられてきたため、1938年12月になってようやく台湾へ帰った。1941年4月には大政翼賛会の台湾版とも言うべき皇民奉公会が成立する。林献堂も単に名目に過ぎないとはいえ役職に就かざるを得なかった。敗戦間際の1945年には許丙、簡朗山と共に貴族院議員に勅選される(ただし、登院する機会は一度もなかった)。他方で、改姓名には極力反対、漢文を書き、台湾服の着用を続けた。日本語は話さず、日本的な生活様式とは一線を画すこと自体が、漢民族アイデンティティーを維持する彼の暗黙の態度表明となっていた。

(続く)

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2013年6月27日 (木)

【メモ】林献堂のこと(1)梁啓超との出会い

 台湾独立運動を行っていた頃の邱永漢が書いた作品に「客死」という小説がある。日本の敗戦後、台湾は中華民国に接収された。植民地支配のくびきから脱し、待望の祖国に戻った──そうした喜びもほんの束の間、国民党政権による乱脈な政治は台湾人を失望させた。二・二八事件をはじめとした暴力によって多くの人々が命を落とし、あるいは海外へと逃亡せざるを得なくなった。「客死」という小説には二人の人物が登場する。一人は、かつて抗日運動のリーダーだったが、国民党政権に対する暗黙の抗議として東京へ移住していた老人。もう一人は、独立運動に身を投じたが、不遇のうちに東京で死んだ若者。老人が若者を見守るまなざしには、自前の政府を持てない悲哀がにじみ出る。そして、この老人も再び台湾の土を踏むことはなかった。

 小説の老人は、林献堂(1881~1956)をモデルとしている。台湾五大家族の一つに数えられる名家、霧峰林家の当主である。清朝末期に生まれた彼は伝統的な儒学教育を受けていたが、15歳だった1895年に台湾は日本へ割譲された。日本統治下に入っても彼は植民地当局に迎合することなく漢民族的なライフスタイルを維持し、穏健な抗日運動の指導者として多くの人々から慕われる。1945年の日本敗戦に伴って台湾が中華民国に編入されると、当初は国民党政権と積極的に協力しようとした。しかし、その失政と腐敗に失望した末、台湾を離れ、かつての抗争相手であったはずの日本へと移住して、この地で客死することになる。

 林献堂は、穏健派とはいえ抗日運動の指導者でありつつも、台湾総督府や東京の中央政界から一目置かれる存在であった。また、国民党政権に対する不満から東京で事実上の亡命生活を送りながらも、国民党政権との関係が絶たれたわけではなく、台湾に戻るよう熱心な要請が繰り返し届いた。台湾随一の名望家として彼の存在感は台湾統治を進める上で無視できず、あわよくば利用しようという思惑が当然ながらあっただろう。同時に、彼の温厚な人格とバランス感覚が立場を超えて信用を得ていたところも大きい。

 彼が生きた時代は伝統社会から近代社会への急激な転換期にあたり、また清朝、日本、中華民国と政権が三つも交代するのを目の当たりにした。「一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し」と記したのは福沢諭吉だが、林献堂の場合には「一身にして三生を経るが如く」といったところだろうか。台湾近代史を一人の人物に代表させて描くとするならまさに林献堂こそがうってつけだと言ってもいいくらいに台湾史で最も重要なキーパーソンの一人だが、日本でその名はあまり知られていない。

 彼の生涯の概略を以下にまとめてみる。事跡については主に黄富三《林献堂伝》(修正訂版、国史館台湾文献館、2006年)に依拠した。

 霧峰林家の祖籍は福建省の漳州にあり、18世紀の乾隆年間に台湾中部へ渡って開拓を始めた林石が台湾における開祖となる。「蕃界」、つまり原住民の居住空間との境界近辺で開拓を進め、また渡来した漢族同士でも「分類械闘」が頻繁に繰り返されていた時代背景を考えると、ある種の「尚武の気風」があったのかもしれない。その後、一族は霧峰に移住し、大土地経営や樟脳などの交易で財産を築き上げ、その後は太平天国の乱、清仏戦争などで軍功を立てたため、台湾でも有数の名家としての地位を確立する。こうした財力と名声は、後に林献堂が政治運動を展開する上で重要なバックボーンとなった。

 林献堂の父である林文欽は清仏戦争に出陣したが、政争に巻き込まれ、台湾省巡撫となった劉銘伝から睨まれて失脚した。文欽はもともと学問好きだったので、これを機会に武を棄てて文によって身を立てようと決意する。社会事業に力を入れて劉銘伝との関係を回復し、さらに科挙を受けて1893年には挙人となった。台湾が日本へ割譲された後、文欽は日本の植民地当局から招きを受けても距離を置いていたが、1900年に滞在先の香港で病死してしまう。まだ46歳であった。長男の献堂は弱冠20歳にして家を継がざるを得なくなった。

 1881年に生まれた林献堂は父の影響で早くから伝統的な儒学を中心とした教育を受け、日本による植民地統治下に入った後も伝統的な学問を深めた。そうした傾向は死ぬまで一貫しており、彼の風格は伝統的教養人そのものであったが、だからと言って近代化を否定したわけではない。彼は新式の学校教育を受ける機会はなかったが、漢訳書を通して内外の事情に広く通じていた。将来を担う若者には留学を奨励して支援し、自らの子弟も日本や欧米へ留学させていた。林献堂の場合、儒学的教養がアナクロニズムに陥ることはなかった。士大夫的な自負は政治活動へと駆り立てる原動力となったし、古典を深く学んだことによる人格陶冶は多くの人々を受け入れる包容力につながっていたのかもしれない。

 1907年、27歳のときに林献堂は初めて東京へ行く。戊戌の政変に敗れて日本へ亡命していた梁啓超と是非面会したいと思い、横浜の「新民叢報」社を訪問したが、あいにくなことに不在。ところが、台湾へ帰る途中に寄った奈良で、旅行中だった梁啓超と偶然に出会う。二人は言葉が通じないため筆談で語り合ったが、この出会いは林献堂のその後にとって大きな意味を持つ。彼は植民地台湾における苦境を訴えたが、梁の返答はこうだった。「中国には今後30年間、台湾人を助ける力はない。だから、台湾同胞は軽挙妄動していたずらに犠牲を増やすべきではない。むしろ、大英帝国におけるアイルランド人のやり方を見習って、日本の中央政界の要人と直接結び付き、その影響力を利用して台湾総督府を牽制する方が良い」──当時、アイルランド自治法案の可決に努めていたイギリス自由党のグラッドストン内閣を念頭に置いていたのだろう。

 林献堂の熱心な招待を受けて梁啓超は1911年3月に台湾を訪れた。梁の心づもりとしては自らの立憲運動や新聞事業のための募金集めが目的であった。林献堂は連雅堂を伴い、日本からの船が着く基隆まで出迎えて汽車に同乗、台北駅では多くの人々の熱烈な歓迎を受ける。梁は台湾各地を回って名士と語り合った。言葉は通じないので筆談となるが、儒教的伝統の知識人は詩文を取り交わすのが習わしだから問題はない。しかし、在地の知識人は総督府の専制政治への不満を訴えるものの、梁はむしろ日本統治による近代化を評価しており、両者の思いは必ずしも一致していなかった。ただし、梁が示した平和的・漸進的に政治改革を進めるべきだという示唆は一定の影響を及ぼす。

 中国の伝統的な知識人としての自負があった林献堂は、檪社という詩文グループに属していた。檪とはすなわち無用の木、すなわち日本統治下では無用の人間という意味合いが込められていることから分かるように、清朝遺民の気風を持つ知識人が多く集まっていた。台中の檪社の他、台北の瀛社、台南の南社が有名で、こうした人的ネットワークが梁啓超歓迎の際にも機能したのだろう。なお、林献堂は後に東京で暮らしていたとき、在京の台湾人を集めて留東詩友会を主宰し、そこで唱和された詩をまとめて『海上唱和集』として1940年に岩波書店から刊行している(自費出版的なものだろうか)。

 梁啓超が台湾を去った1911年、辛亥革命が勃発する。1912年には中華民国が成立し、この機会に乗じて清朝の皇帝を退位させた袁世凱が自ら大総統の地位に就く。梁啓超は袁世凱の招きを受けて財政総長に就任した。林献堂は1913年に北京へ赴き、また袁世凱政権と対立関係にあった国民党の要人とも接触する。中国の実情を自ら観察した林献堂は、確かに梁啓超が言うとおり、中国はこのように混乱している以上、台湾を助けるどころではないことが分かった。そうなると、台湾人は自助努力によって目標を達成しなければならない。林献堂は、①武力で日本の統治者に抵抗するのは難しい、②中国に台湾を解放する能力はない、③日本統治による近代化は成功している──こうした認識を踏まえると、日本統治を当面の前提とした上で権利の向上を図るのが次善の策になると考え、そこで台湾人の地位や待遇を日本人と同等にするよう求めることに民族運動の最初の照準を合わせた。

(続く)

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2013年6月24日 (月)

【メモ】紀旭峰『大正期台湾人の「日本留学」研究』

紀旭峰『大正期台湾人の「日本留学」研究』(龍渓書舎、2012年)

 教育を受ける権利が実質的には不平等な立場に置かれていた植民地・台湾。そうした境遇から脱け出そうとするかのように留学生が帝国日本の中枢・東京へと渡った大正期は、日本においても時代の転機にあたっていた。ロシア革命の衝撃、朝鮮半島の三一独立運動や中国の五四運動など民族自決の国際的機運、日本国内においても米騒動、そして大正デモクラシー。また、東京では朝鮮や中国からの留学生と出会う機会もあった。排除と包摂が同時進行する植民地支配を経験する中でアイデンティティーの葛藤を抱え込んでいた台湾人留学生は、こうした内外の刺激から触発され、啓蒙的な運動へと乗り出していった。本書は、大正期に東京へ留学した台湾人の動向を調べ上げ、精神史的な位相の下で彼らの経験がどのように位置づけられるのかを検討していく。

 以下はメモ書き。

(第1部 台湾人「日本留学」の歴史的展開)
・台湾は日本帝国に組み込まれていたにもかかわらず、「内地日本」へ進学した台湾人は、1932年に「内地在学者」と改称されるまで「外国人留学生」「植民地人学生」として扱われていた。外国からの留学生でもなく、地方からの上京者でもなく、それより下の植民地人という身分。
・第一段階:明治後期から大正3(1914)年の板垣退助の訪台(台湾同化会の設立)まで:植民地経営の人材育成→実業学校への進学、地方名士への優遇・懐柔政策→内地の小中学校への編入。
・第二段階:大正3年から大正8(1919)年の「声応会」設立まで:大学専門部への留学が次第に増加。総督府国語学校を卒業していったん就職した後に留学するため、20代半ばから30代前半という年齢層が多い。
・第三段階:大正8年から大正14(1925)年の治安維持法公布まで:「日台共学の実施」により小学校への留学は次第に減少。1922年には台湾総督府高等学校が設置されたが、定員数が限られていたため、内地日本の高等学校へ留学する者も一定数いた。

・台湾で教育機関が整備されていなかった当時、小学校→中学校→高等学校→大学という進学ルートに必要な高等学校受験資格を獲得するため、内地の中学校への入学・編入が必要だった。実際には難しく、大正期までの台湾人の帝国大学進学者は限定的。台湾総督府国語学校(師範学校に相当)から大学専門部への進学は可能。
・台湾人が内地に留学すると排日思想に染まるのではないか?という警戒心→総督府は台湾人の内地留学を望まず。ただし、地方名士からの要望や教員養成等の必要から、厳しい条件を課し、身辺調査を行うなどした上で認可。
・他方で、地方名士など富裕層の子弟の留学は懐柔策として活用(林本源家一族など)→留学生の選抜的な意味を持ち、特権階級を形成→彼らは留学先でも啓蒙運動にあまり加わらず。
・長老教会の推薦で同志社中学に進み、さらに内地の大学や海外留学するルート:林茂生、廖文奎・廖文毅兄弟など。また、盲唖学校への留学もあった。
・台湾総督府は台湾協会(後に東洋協会)に留学生の管理・監督を委嘱。留学生の親睦団体として高砂青年会が形成されたが、当初は留学生監督側に主導権があったものの、1920年前後から台湾人留学生の方が主導権を持つようになり、台湾青年会と改称された。

(第2部 在京台湾人留学生)
・留学生の増加→危険思想に触れることを警戒→管理・監督のため、東洋協会専門学校(現在の拓殖大学)の構内に台湾人留学生向けに台湾総督府官営高砂寮寄宿舎を建設(1912年)。内地語(日本語)使用、和服着用、起床消灯、外出外泊など細かな規定→規律意識・時間意識・秩序意識を内面化する装置。張深切、林呈禄、蔡培火、羅萬俥、陳炘、黄呈聡、蔡式穀などの学生がおり、林献堂、蔡惠如、陳懐澄、連雅堂などがよく訪問→知的交流の場ともなった。
・高砂寮が設置される以前、台湾人留学生はどこで暮らしたか?→①台湾現地の日本人地方長官の紹介で東京の名士の家に寄宿。②東洋協会専門学校の寄宿舎南北寮。③一般の下宿屋(物価の高騰で経済的負担が重い)。④親の知人宅に下宿。⑤東洋協会専門学校の台湾人教師(郭廷俊・柯秋潔)の自宅に下宿。⑥所属学校の寄宿舎。小石川、神田、本郷、牛込のあたりに集中。
・台湾人=蕃人=首狩りという誤解。また、「チャンコロ」という差別用語→民族意識に目覚めるきっかけの一つ。
・在京台湾人は、「台湾は日本帝国の一部であると同時に台湾人の台湾でもある」という意識の下、日本語を通じて台湾の将来や台湾人アイデンティティーを模索。

・当時の台湾人に高級官僚への道はほとんどあり得なかったので、専門部医科、政治経済学科、法科に集中。また、明治大学と早稲田大学が多い。政治経済科の早稲田、法科の明治。
・『早稲田学報』(1897年創刊)での台湾関連の論説は台湾への帝国憲法適用をめぐるテーマのものが多かった。また、留学生たちの雑誌『台湾青年』『台湾』には安部磯雄、内ヶ崎作三郎、河津暹、北澤新次郎、小林丑三郎、五来欣造、佐野学、杉森孝次郎、武田豊四郎、平沼淑郎、帆足理一郎、山本忠興など早稲田大学教員が寄稿。明治大学の泉哲も植民地政策・植民地自治について寄稿。
・早稲田の台湾人留学生を見ると、台湾総督府国語学校卒業生で占められていた。また、入学年齢が20代半ばから30代にかけての人が多い。
・当時、「国会演習」(模擬国会)という科目があった→台湾議会設置請願運動を推進する台湾人留学生も議会制度の基礎を学んだことだろう。
・『台湾青年』の編集を担当し、台湾議会設置請願運動にも深くかかわった林呈禄は明治大学法科の出身。田川大吉郎の回想によると、台湾議会請願趣意書は林呈禄が作成。

(第3部 台湾人留学生と近代台湾の啓蒙運動) 
・東京の留学生たちによる雑誌『台湾青年』『台湾』は台湾にも伝わり、啓蒙的役割を果たす。
・1919年に在京中国人と連携して声応会を設立したが、間もなく自然消滅。中国人側から参加した馬伯援は早稲田大学政治経済科を卒業、キリスト教青年会で活動、台湾人グループと親交を持つ。
・同年12月27日に結成された啓発会は林献堂を会長に迎えたが、間もなく解散。1920年1月11日に新民会を設立。第一回台湾議会設置請願運動請願書に署名した178名のうち留学生は140名(留学生全体の78.8%)。
・1924年から3年間、林献堂自宅で行われた夏季学校では日本留学経験者も講師となる。また、一般民衆向けの巡回講演→文化的啓蒙だけでなく、民族意識の喚起。
・台湾人留学生による投稿は『革新時報』、『青年朝鮮』、『亜細亜公論』、『福音新報』(植村正久が主宰)などにも散見される。『亜細亜公論』は1922年5月に創刊、日本(石橋湛山、三浦銕太郎など)、朝鮮、中国、台湾、インド出身者が寄稿。『亜細亜公論』の執筆者には佐野学、内ヶ崎作三郎、安部磯雄、杉森孝次郎、帆足理一郎、武田豊四郎など『台湾青年』『台湾』に寄稿した早稲田大学教員が見られる。『亜細亜公論』創刊号に林献堂の漢詩による祝辞。戴季陶も執筆。『亜細亜公論』社は早稲田鶴巻町にあった。
・蔡培火をはじめとした台湾人留学生は富士見町協会の植村正久の紹介で日本のキリスト教系知識人の支援を得られた。植村の紹介で田川大吉郎と出会う。日本知識人、在京朝鮮人・中国人などアジア知識人たちとのネットワークづくりで蔡培火は重要な役割を果たす。
・1920年7月、蔡培火や林呈禄たちが『台湾青年』を創刊。
・1920日本社会主義同盟の姉妹団体として創立されたコスモ倶楽部の講演会・懇親会に台湾人も参加。
・中華第一楼は、台湾人だけでなく中国人・朝鮮人も出入りしており、彼らの出会いの場となっていた。1916年にはここで新亜同盟党の旗揚げ。

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2013年6月20日 (木)

リ・ハナ『日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩』

リ・ハナ『日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩』(アジアプレス出版部、2013年)

 日本で暮らす「脱北者」の話──となると、何か重そうで身構えてしまうかもしれない。ところが、本書でつづられているのは、異国の環境、気負い立った大学生活に馴染めない女子大生の悩み。もともとはブログを書籍化したものである。「脱北者」の問題はどうしても北朝鮮の政治体制における負の側面の象徴として政治的言説に絡め取られやすい。しかし、友達に相談するような自然体は、こうした次元とは関係なく、彼女も自分も身近なところで一緒に暮らしている者同士なんだという気持ちにさせてくれる。

 著者は中朝国境の町、新義州に生まれた。両親は日本生まれ、祖父母は韓国・済州島の出身。帰国事業もそろそろ下火になりつつあった1970年代の後半に一家は北朝鮮へ移住した。日本での学生生活を謳歌していた父は嫌がったが、両親に押し切られ、やむなく同行したのだという。医科大学を卒業して医者となった父だが、北朝鮮での生活には早くから幻滅しており、体をこわして40歳代の若さで亡くなった。その後、親戚が罪を犯したため農村への強制移住が決定(北朝鮮には前近代的な連座制がある)、絶望した母は子どもたちを連れて中国へと向け命がけで国境の川を渡る。脱北に成功はしたものの、公安に見つかったら北朝鮮へ強制送還されかねない。中国東北地方で転々と生活するうちに家族ともはぐれてしまった。不安におびえ、生活に追われ、将来も見えない日々。やがて来日し、関西の大学に通うことになった。なお、来日の経緯は公にすると差しさわりがあるようで、詳細は語られていない。

 折に触れて様々な人々の助けがあった一方、やはり個人レベルでは解決のできない問題も大きい。彼女の場合、幸いにしてUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の奨学支援プログラムによって大学に進学できたが、難民として異国にある人が自前で生活できるよう環境整備を進める上で公的な支援が望まれる。

 「私は脱北者です」とカミングアウトするのもなかなか難しい。韓国籍を取得したものの、胸を張って「韓国人です」とも言いづらい。自分は一体、どこの国の人間なんだろう?──戸惑いがいつも脳裏から離れない。北朝鮮の過酷な抑圧体制は確かに悲惨である。他方、そうした中でも日々の生活には喜びや悲しみがあり、甘く切ない思い出があった。生まれ育ち、気持ちに馴染んだ故郷はやはり忘れがたいものだろう。いつの日か、彼女が大手を振って故郷へ戻れる日が来るのだろうか? その可能性は少なくとも近い将来には見込めないだけに、なおさらのこと、この日本で一生懸命に生きて欲しいと思う。

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2013年6月18日 (火)

先崎彰容『ナショナリズムの復権』、白川俊介『ナショナリズムの力──多文化共生世界の構想』

 戦後日本においては一般的に言って、ナショナリズムの評判は芳しくない。ネイションという枠組みによって人々を結集・動員するものとみなされ、それは内にあっては個人の持ち味を押し殺し、外に向けては好戦的な挑発をしかねないという懸念があるからだろう。しかし、そもそもナショナリズムをどのように捉えるのか、その定義自体が極めて論争的である。むしろ着眼点の置き方によっては建設的な意義を汲み取ることもできるのかもしれない。

 先崎彰容『ナショナリズムの復権』(ちくま新書、2013年)は、アレント、吉本隆明、柳田國男、江藤淳、丸山真男などのテクストを読み解きながら「ナショナリズム」にまとわりつく誤解を解きほぐそうとする。ナショナリズムをめぐって解かれるべき誤解の一つとして、ナショナリズムは宗教ではない、という論点が示されているが、本書では死生観とナショナリズムとの関わりもテーマとなっているだけに、宗教と疑似宗教との相違について論じられていないのが気になった。

 保守主義思想の要諦は、長い年月にわたって繰り返されてきた試行錯誤が凝縮した“智慧=伝統”に立脚してこそ人は生きていけるという考え方にある。ところが、時間的には歴史とのつながりが断たれ、空間的には横の関係が分断された中、人はその場の不安を紛らわそうと、まがいものの思想にも飛びつきやすくなる。

 歴史とのつながりを失ったとき、私たちは場当たり的な価値を世界すべてに通用する「普遍的価値」だと信じては裏切られる。孤独になると、不安を解消しようとして「強大なもの」にすがりつきたくなる。だが、それではいけない。地に足の着いた判断基準の回復、そこにナショナリズムの復権という問題意識の照準が向けられている。佐伯啓思『倫理としてのナショナリズム』(NTT出版)は経済思想の観点からグローバリズム批判をする中でナショナリズムに着目していたが、そうした方向性を本書は日本思想史の文脈で思索を進めていると言えるだろうか。

 白川俊介『ナショナリズムの力──多文化共生世界の構想』(勁草書房、2012年)は、欧米の政治理論研究におけるリベラリズム批判の議論を受ける形でナショナリズムに注目している。

 異なる価値観を持つ者同士がいかに共存を図っていくのか、そのための社会構成原理を模索するのがリベラリズムの基本的な発想である。特定の価値観の押しつけになってはいけない。そこで、リベラル・デモクラシーは中立的な政治システムを構想し、そこにおいては理性的な個人が成員として想定される。ところが、リバタリアン・コミュ二タリアン論争から浮かび上がったように、「負荷なき個人」という抽象的な人間モデルは現実にはあり得ない。どんな人間であっても生まれ育った社会や文化の色合いが根深く刻み込まれており、そうした要因を切り離して抽象的に判断できるわけではない。

 本書の立脚点であるリベラル・ナショナリズムはコミュ二タリアニズムの側に立つ。異なる価値観の共生に向けて模索を続ける点ではリベラリズムが前提となるが、他方で「負荷なき個人」はあり得ないという批判をむしろ肯定的に捉え直す。つまり、自由・平等・民主主義といったリベラルな価値に基づく政治制度は、その担い手たる人々の間に連帯意識があってはじめて安定的に機能する。こうしたナショナルな連帯意識こそがリベラリズムの前提になるという洞察をもとに、ネイションの「棲み分け」による世界の構想を示す。

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2013年6月16日 (日)

【雑感】張良澤・作、丸木俊・画『太陽征伐──台湾の昔ばなし』

張良澤・作、丸木俊・画『太陽征伐──台湾の昔ばなし』(小峰書店、1988年)

 少々古い絵本だが、「世界の昔ばなし」シリーズの1冊。前半は原住民族の伝説を、後半は平地の漢民族の伝説を昔話風にリライトしている。台湾の主だった伝承を手軽に知ることができる。

 昔、二つの太陽があった。昼夜を問わず照り続けるため、疲れ果てた人々は、片方を弓矢で射落とそうと考えた。選ばれた勇者たちは、はるかかなた、太陽を求めて歩き続けるが、中途にして力尽きて倒れていく。太陽征伐の使命は次の世代に引き継がれ、ようやくにして射落とすことに成功した──本書の表題作は、台湾原住民の一つ、タイヤル族に伝わる伝説である。

 この話は、以前に読んだ黄煌雄《兩個太陽的臺灣:非武裝抗日史論》(台北:時報出版、2006年)という本で知っていた(→こちらで取り上げた)。黄煌雄は蒋渭水の評伝も書いており、サブタイトルから分かるように、日本統治時期台湾における民族運動史をテーマとしている。「二つの太陽」という表現には、日本という支配者=政治勢力と、台湾在住漢民族という被支配者=社会勢力と二つの太陽が台湾には輝いている、しかし二つの太陽が並び立つことはできず、いずれかが射落とされなければならない、という意味合いが込められており、これは賀川豊彦が台湾について原住民の神話を引きながら書いた文章に由来するそうだ。賀川は何度か台湾へ伝道旅行に出かけているから、その折に「太陽征伐」の伝説を耳にしたのだろうか。「太陽征伐」のモチーフそのものは、北米インディアンなどの伝説にも見られるらしい。

 パスタアイ(矮人祭)はサイシャット族に現在も伝わる祭礼だが、肌が黒く、背丈の小さな先住民・タアイにまつわる。彼らは農耕など先進的技術を教えてくれたが、悪さも過ぎたため、あるとき、皆殺しにされてしまった。タアイの霊を慰めるために行われるようになったのがパスタアイだと言われている。色黒の小人を皆殺しにしたという伝承は台湾各地にあり、例えば、そうしたヴァリエーションの一つが伝わる小琉球の烏鬼洞を私も以前に訪れたことがある(→こちら)。

 娘が鹿と婚姻を結び、それを知った父親が鹿を殺してしまったというアミ族の説話は、柳田國男『遠野物語』にも見えるオシラサマの伝承と似ている。ちなみに、台湾の人類学的調査で知られる伊能嘉矩は遠野の出身である。蛇足ついでに書くと、藤崎慎吾『遠乃物語』(光文社、2012年)は、台湾から戻った伊能と、『遠野物語』の語り部となった佐々木喜善の二人を主人公にイマジネーションをふくらませた小説である。

 台湾各地にある城隍廟に入ってみると、背高ノッポとおチビさんの二人組みの神像が印象に強く残る。七爺八爺、ノッポの七爺は謝将軍、背の低い八爺は范将軍、という。二人はもともと親友同士だったが、ある日、橋のたもとで待ち合わせたとき、七爺は事情があって戻って来れなかった。やがて大雨で川が氾濫し、友は必ず戻ると信じていた八爺はそのまま溺れ死んでしまった。そのことを知った八爺は責任を感じて自殺してしまう。こうした二人の関係は信義の象徴として神に祭り上げられた。七爺がアッカンベーしているのは首吊りしたから。八爺の顔が赤黒いのは水死したから。そう言えば、黄氏鳳姿『七爺八爺』という作品があったが、私はまだ読んでいない。黄氏鳳姿は日本統治時代の台湾でその文才を池田敏雄によって見出され、綴方教室で有名な豊田正子と同様の天才少女として知られるようになった人。

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2013年6月15日 (土)

鬼頭春樹『実録 相沢事件──二・二六への導火線』

鬼頭春樹『実録 相沢事件──二・二六への導火線』(河出書房新社、2013年)

 1935年8月12日、じっとりと暑い真夏の盛りに三宅坂の陸軍省の中で軍務局長・永田鉄山が惨殺された。鮮血の飛び散った局長室内の惨状にさしもの陸軍中枢も大騒ぎするという前代未聞の不祥事であった。折りしも怪文書が乱れ飛び、青年将校たちが昭和維新を呼号する物騒な世情であったが、あにはからんや、犯人は相沢三郎・陸軍中佐。分別盛りのはずの45歳であった。

 寡黙で訥弁、不器用だからこそ生真面目で純情一本やりだった相沢三郎。対して、ややもすると精神論に傾きがちな軍人が多かった当時の陸軍の中では珍しく合理的思考のできた永田鉄山。こうした対極的な二人の不幸な邂逅は、ある意味、この時代の精神史的位相を端的に表していたと言えるだろうか。

 それにしても、相沢の振る舞いは異様である。白昼堂々と一人の人間を惨殺しておきながら、そのまま異動を内示されていた台湾へ向かおうとしていたのだから。当時から、精神異常ではないか?ともささやかれていた。仮に青年将校たちと同様に純情な義憤に駆られた行動であったとしても、動機がいまひとつ分かりづらい。

 二・二六事件は日本近現代史で最も人気のあるテーマの一つであり、関連書はいまだに汗牛充棟のごとく生み出されつつある。いみじくも「二・二六産業」と表現したのは現代史家の秦郁彦であった。本書もサブタイトルから分かるように、二・二六事件へとつながっていく一連の流れ、とりわけ統制派と皇道派という軍閥間の抗争の中で相沢による永田惨殺事件を位置づけて史料検証を進める。相沢のパーソナリティーをしっかり捉えた上で史料の欠落を推論的に補い、彼を激発的な行動へと後押しした原因、そして彼が落ち込まざるを得なかった悲劇を浮き彫りにしていく。

 相沢は純情一徹な性格だったとはいえ、単なる馬鹿でもない。彼を知る末松太平の印象が本書でたびたび引用されているように、いかがわしい人間の言葉を盲信するようなことはなかった。ただし、信頼する同志の言葉のみは信じた。では、彼の義憤に火をつけた、言い換えると犯行を教唆したのは一体誰であったのか?

 軍法会議にかけられた相沢は死刑判決を受け、翌年の1936年7月に銃殺刑となった。処刑の直前に面会した石原莞爾に向かって相沢は「統帥権は干犯されておりませんでした」と自らの間違いを認めていたという。1935年7月に皇道派の真崎甚三郎が陸軍三長官の一つ、教育総監のポストから更迭されたことは天皇の意向を無視した統帥権の干犯にあたり、首謀者の永田鉄山は許せない──実際は永田のせいではないのだが、これが相沢による永田惨殺の大義名分であった。それを死の直前になって撤回したのである。

 相沢は真崎に私淑していた。他方、真崎は自らの政治的野心のため老獪に陰謀をめぐらす人物であり、本書は決定的な確証は得られないながらも、真崎による教唆の可能性を浮かび上がらせていく。相沢の脳裡には、自分の行為の正しさは陸軍上層部に認められているのだから恩赦もあり得る、という考えもあったのかもしれない。真崎は二・二六事件を背後で操っていたとして一時身柄を拘束されたが、証拠がないため逃げ切り、そして戦犯の訴追も免れ、戦後まで生き延びた。二・二六事件で処刑された渋川善助は最後にこう叫んだという──「国民よ皇軍を信用するな!」

 主観的な純情は方向を誤ると、得てして政治利用されやすい。それは本人にとっても、そして後代の人々にとっても、二重の意味で悲劇であったとしか言いようがない。

 なお、永田鉄山は政治のわかる軍人として当時では稀有な存在であったが、近年になって研究が進んでいる。彼の国家構想については川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社選書メチエ、2009年→こちら)、同『戦前日本の安全保障』(講談社選書メチエ、2013年→こちら)で論じられている。また、森靖夫『永田鉄山──平和維持は軍人の最大責務なり』(ミネルヴァ書房、2011年)も私は入手してあるのだが、本棚の奥に紛れ込んでしまい、見つからなくて併読できず。読みたいときに見つからないというジンクス(苦笑)。

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2013年6月13日 (木)

【雑感】ロジャー・ケースメントの亡霊が、ドアを激しく叩いている

 アイルランドを代表する詩人の一人、ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865~1939)は1938年に「ロジャー・ケースメントの亡霊」と題した詩を発表している。
  The Ghost of Roger Casement
  Is beating on the door.
というリフレインが印象的である(作品そのものはこちらを参照のこと)。

 第一次世界大戦の真最中にあった1916年のロンドンで、叛逆罪に問われたロジャー・ケースメント(1864~1916)は処刑された。戦争というチャンスを利用してアイルランド独立へ向けた援助を求め、ドイツへ渡っていた彼は、武器と共にアイルランドへ上陸したところをイギリス警察に逮捕されていたのである。

 ケースメントが逮捕されたのは、いわゆるイースター蜂起の直前であった。ドイツ軍による直接の支援は期待できないと気付いていた彼は、アイルランド義勇軍同志に武装蜂起を思いとどまるよう伝えようとしたが、それもかなわず、準備不足で同調者も思うように増えない中で予定通りに強行され、やがてイギリス軍によって鎮圧されることになる。裁判で有罪判決を受けたケースメントについて助命嘆願の世論も沸き起こり、そうした中にはイェイツの姿もあった。

 しかし、ホモセクシュアルであるという彼のプライバシーが警察から意図的にリークされ(彼がつけていた日記、いわゆるBlack Diariesがタイプ打ちされて公開された)、ヴィクトリア朝的な倫理道徳がいまだ根強く残っていた当時において、これは致命的であった。Black Diariesについては、当時から捏造という批判も根強かったが、ケースメントについての最新かつ詳細な評伝であるSéamas Ó Síocháin, Roger Casement: Imperialist, Rebel, Revolutionary(Lilliput Press, 2008)は本物と判断し、史料として採用している。捏造説には彼に着せられた汚名を雪ぎたいという意識が働いていると思われるが、価値観が多元化した現代においてまで当時の判断基準に囚われて捏造説の是非に固執する必要もないだろう。

 私がロジャー・ケースメントの名前を初めて知ったのは、Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost: A Story of Greed, Terror and Heroism in Colonial Africa(Pan Books, 2006:アダム・ホックシールド『レオポルド王の亡霊:植民地アフリカにおける強欲、恐怖、そして英雄たちの物語』)を読んだときだった(→以前にこちらで取り上げた)。ベルギー国王レオポルド2世の私有地と化していたコンゴ自由国において、現地住民がいかに搾取され、虐待されているか、その実態を訴えて国際世論を動かした一人としてケースメントの名前が挙げられていた。

 ケースメントは1864年、ダブリンの近くに生まれた。父親はプロテスタント、母親はカトリックである。早くに両親を亡くし、親戚のもとに預けられた。学校を出てすぐ入った貿易商社で事務員をしていたが、1884年に初めてコンゴへ派遣される。その後、友人の紹介でイギリス外務省に採用され、1892年にニジェール海岸保護領の領事となったのを皮切りに外交官としてアフリカ各地を転々とすることになる。現地採用のノンキャリ専門職といったところだろうか。

 彼の人生で大きな転機となったのがコンゴ問題である。ベルギー国王レオポルド2世はコンゴ自由国からもたらされる莫大な富を独り占めする体制を築き上げていた。現地住民を力ずくで強制労働に駆り立て、服従しない者に対しては殺戮も厭わず、「文明の福音」という大義名分の下で行われていた収奪システムは実に残虐であった。ケースメントは当初、イギリス領出身者に対する虐待の調査から本国政府にコンゴ問題を打電していたが、やはり商社員としてコンゴ駐在経験を持ち、ジャーナリストに転身したエドモンド・モレル(1873~1924)と協力して世論喚起に努める。コンゴ自由国はレオポルド王の私有地だから他人のチェックを受けることがない。そこで、世論のチェックを受けるベルギー政府の統治下へ置くことでこれ以上の残虐行為を防止すべきであると提言し、コンゴ改革協会を設立した。この運動にはコナン・ドイルなど著名人も加わって国際世論を大きく動かし、コンゴ自由国は1908年に廃されることとなった。

 ポルトガル領アンゴラなどの駐在経験も持つケースメントは、1906年にブラジルへ転任し、1912年に外交官を辞めるまでパラ、サントス、リオデジャネイロの領事を務める。この間、彼はアマゾン奥地のプトゥマヨ川沿いに住む原住民が虐待されている問題を調査し、告発した。こうした彼の一連の活動はイギリス本国政府からも評価されており、1912年にはナイトに叙勲された。

 ケースメントは大英帝国の外交官としてそれなりに出世をしているが、他方で葛藤も大きかった。彼は当初、帝国主義そのものには疑いを持たず、大英帝国の権益を守る職務を忠実にこなそうとしていた。ところが、コンゴ問題やプトゥマヨ問題を調査するうちに、植民地システムがはらむ過酷な矛盾に否応なく気づかされることとなる。それは、レオポルド王やスペイン人・ポルトガル人入植者といった他者の問題であるばかりではない。南アフリカ戦争(ボーア戦争)に職務上関わった彼は、他ならぬ大英帝国もまた同様の問題を抱えていることをじかに目の当たりにした。同時に、ケースメントの祖国アイルランドもまた大英帝国の支配下にあって民族的プライドが奪い取られた状態にある。白人が有色人種に共感を示すというのはまだ珍しい時代であったが、彼の場合には抑圧された民族の一人として、アフリカや南米の現地住民が受けている抑圧を自らの問題として考える契機をも持ち得ていた。抑圧者でもあり、かつ被抑圧者でもあるアイルランド人──そうした矛盾したポジションへの自覚をますます深めた彼は、敢えて被抑圧者の側に立とうと決意し、公務を辞してアイルランド独立運動へと身を投ずる。

 ケースメントがアイルランド・ナショナリズムへの信念を強めるようになったのは1904年以降のことである(Séamas Ó Síocháin, Roger Casement: Imperialist, Rebel, Revolutionary. Lilliput Press, 2008, p.212)。彼は1903年末にアフリカから帰国、1906年にブラジルへ赴任するまでの間、故郷で暮らしていた。当時のアイルランドではゲール語やケルトの古代文化を見直すアイルランド文芸復興の動きが活発となりつつあり、ケースメントもそうした運動から生み出された著作に読みふけり、担い手となった学者や作家たちと交際を深めていた。

 自由党のグラッドストン内閣以来、大英帝国の枠内という制限つきながらも徐々にアイルランドの自治へ向けた改革が行われつつあった。他方で、大英帝国からの分離に反対するプロテスタントを中心としたユニオニストは警戒感を強めて義勇兵を結成、これに対して独立派も義勇兵を募り、緊張感が高まっていた。外交官を辞めてアイルランド独立運動に本腰を入れるようになったケースメントは、アイルランド系アメリカ人の援助を求めて渡米した。アメリカのアイルランド独立組織はドイツとの連携を模索しており、ケースメントもそうした人脈につながっていく(例えば、ドイツの駐米大使館付武官だったフランツ・フォン・パーペン[後に首相]とも会っていた)。

 第一次世界大戦が始まると、ケースメントはドイツへのシンパシーを強く示すようになった。当時、アメリカで彼に会ったイェイツによると、それは主にイギリスに対する反感によるものだったという(Ibid, p.386)。ケースメントはドイツへ渡り、捕虜となったアイルランド人兵士を義勇軍に編成する仕事に取り掛かるが、うまくいかない。アイルランド独立に向けたドイツ軍の軍事的支援が見込めないことも分かった。その頃、彼はドイツ軍を通じてイースター蜂起の計画を知る。ドイツ軍の支援がなければ武装蜂起をしても成功の見込みはないと考えていた彼は慎重な態度を取った。しかし、彼がどう思おうと計画は進行している。ならば、自分もやるしかない。彼は武器を積載した船に乗ってアイルランドへ渡ったが、前述のとおり逮捕された。

 敵の敵は味方という論理で動いたところは、第二次世界大戦においてドイツ・日本と手を組んでインド独立を目指したスバス・チャンドラ・ボースと共通したところも認められるかもしれない。

 イギリスによるアイルランド支配は、アジア・アフリカといった遠隔地における植民地支配とは異なり、文化的に比較的近い民族を相手としていた点で、日本による朝鮮半島や台湾の植民地化と関連付けて語られることがしばしばある。

 例えば、台湾で穏健な民族運動を展開したことで知られる林献堂は、1907年に日本で梁啓超と会った際、彼から「中国は今後30年間、台湾人が自由を求めるのを助けることはできない。軽挙妄動するのではなく、むしろアイルランド人のやり方を見習い、中央政府の有力政治家と結びついて、台湾総督府の横暴を牽制する方が良い」と言われた(黄富三《林献堂傳》修訂再版、国史館台湾文献館、2006年、24頁)。おそらく、アイルランド議会党がグラッドストンなど自由党の進歩派と協力して漸進的な改革を引き出していったことが梁啓超の念頭にあったのだろう。その後、林献堂は台湾議会設置請願運動へ乗り出していく。

 大日本帝国という枠組みの中において朝鮮人として軍人の道を歩んだ洪思翊もアイルランドの例を強く意識していた(山本七平『洪思翊中将の処刑』)。

 また、朝鮮半島出身の文化人類学者、崔吉城は「大英帝国の大逆罪人となったケースメント」(『交渉する東アジア──崔吉城先生古稀紀念論文集』風響社、2010年)という論文を書いている。日本による近隣諸国の植民地化を考えるにあたってイギリスとアイルランドの関係に注目している。支配/被支配という分析枠組みはともすると単純な二項対立に落ち込みやすく、歴史的な事象をうまく汲み取れないことがある。植民者であり、同時に被植民者でもあったというケースメントの複雑な二面性は、そうした二項対立を乗り越えながら考えるきっかけになり得るということから彼に関心を抱いているようだ。

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2013年6月 9日 (日)

河野啓『北緯43度の雪──もうひとつの中国とオリンピック』

河野啓『北緯43度の雪──もうひとつの中国とオリンピック』(小学館、2012年)

 1972年2月、札幌で開催された冬季オリンピックに、南国の台湾から参加したスキー選手の姿があった。ほとんど最下位レベルで成績はふるわない。それもそのはず、彼らは2年間ほどの特訓を受けて送り込まれたばかり。世界レベルの技量には到底追いつかないまま本番に臨まねばならなかったのだから仕方がない。

 参加することに意義がある──オリンピックと言えば必ず引き合いに出される、もはや陳腐なくらいに言い古された言葉だが、彼ら台湾のスキー選手たちの場合もまさに、参加することに意義があった。メダルなど最初から期待されていない。途中で転倒したりしてしまうと記録は残らない。目標は、とにかく完走して中華民国代表選手がオリンピックに出場したという記録を必ず残すこと。つまり、中華人民共和国と「一つの中国」原則をめぐって外交的承認の取り付けを競い合っていた中でのオリンピック参加であった。

 台湾にも唯一、合歓山にスキー場があるにはあったが、特訓には向かない。国民党政権上層部からの指示によって急遽スキー選手に仕立て上げられた若者たちは、日本のスキー指導者のもとへ送られ、国家的使命としてこの不慣れなスポーツをマスターしなければならなかった。しかしながら、目立った成績を残していない以上、報道されることもなく、彼らの努力が世に知られることはなかった。本書は、この時、にわか仕立てのオリンピック選手となった若者たちを取材して、冬季オリンピックをめぐる台湾の政治的思惑の背後にあった彼らの想いとその後の人生を描き出していく。

 1点だけ気になったこと。冬季オリンピックへ参加するにしても、スキーの他にスケートという選択肢もあった。スケートリンクを整備すれば訓練はできるのだから、スケートの方が潜在的可能性はあったとも考えられるわけだが、それにも関わらず、なぜスキーが選ばれたのか。本書では軍事目的、宣伝効果などいくつかの説を検討した上で、宣伝効果説がとられる。しかし、私にはむしろ軍事目的説の方が説得力があるように思われる。

 スキー競技参加の決定は蒋介石が下している。かつて日本へ留学していた蒋介石は1910年から陸軍の高田連隊に配属され、1911年10月、辛亥革命勃発の報に接して帰国するまで高田の地にいた。ところで、日本において初めて本格的なスキー指導を行ったレルヒ少佐は1910年11月に来日し、まさに蒋介石がいた当時の高田連隊に来ていた(この縁でレルヒ少佐は新潟県の「ゆるキャラ」に仕立て上げられている)。当時の日本陸軍は、八甲田山での雪中遭難事件の生々しい記憶からスキーに注目していた。そうした事情は、当時高田連隊にいた蒋介石も当然ながら知っていたはずである(著者は台湾現代史にはあまり詳しくない様子で、こうした接点までは検討していない)。あらゆる政策的プライオリティーを大陸反攻に置いていた蒋介石の発想からすれば、あり得べき将来における軍事作戦が大陸の寒冷地に及ぶことを見越してスキーを選んだと考える方が妥当であろう。

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2013年6月 4日 (火)

【メモ】『自由中国』の雷震と殷海光

 五四運動/新文化運動の特徴の一つは啓蒙的リベラリズムにあるが、そうした思潮が台湾へ流れ込んだルートの一つとして雑誌『自由中国』に集った知識人たちが挙げられる。

 『自由中国』は1949年11月20日、台北で創刊された。胡適を名義上の発行人としているが、実際の編集実務は雷震(1897~1979)が取り仕切っていた。雷震自身、旺盛に執筆していたが、寄稿者の中でもとりわけ活躍した一人として殷海光(1919~1969)の名前も逸することはできない。

 雷震は浙江省の生まれ。1916年に日本へ留学し、京都帝国大学では森口繁治や佐々木惣一のもとで憲法学を学ぶ。雷震が憲政重視の姿勢をとるようになったきっかけはこの日本留学にあったと考えられるだろう。1917年に東京で開催された五九国恥記念会で知り合った張継と戴季陶の紹介により中華革命党に参加、1926年に中国へ帰国すると蒋介石の側近となった。抗日戦争から国共内戦にかけての時期には民主諸党派との調整役として奔走する。その後、国民党の台湾撤退に同行したが、たびたび香港へ渡って民主人士の来台を促すため遊説に回ったという。

 殷海光はまさに五四運動が盛り上がった1919年の生まれであり、本人も「自分は五四時期後の人間だ」とよく語っていたという。武昌で過ごした中学生の頃から論理哲学に夢中となった。西南聯合大学を卒業し、清華大学哲学研究所でも学ぶ。伯父が辛亥革命に参加していたという経緯もあって熱烈な国民党支持者であった。しかし、新聞記者となって、国共内戦時の淮海戦役を取材していたとき、報道と実際の情況との食い違いに気付いたことをきっかけに蒋介石政権に対する疑問が出てきたという。1949年に台湾大学哲学系教授となって以降、西洋の思想家の著作を熱心に学び、例えばハイエク《到奴役之路》(The Road to Serfdom、隷属への道)の中国語訳も出している。

 憲政による政治改革を志した雷震、自由主義を基本とした哲学者の殷海光をはじめ、リベラルだが共産主義にも賛同できない知識人たちが集まって創刊されたのが『自由中国』であった。旗頭に担がれた胡適は言うまでもなく五四運動/新文化運動を代表する知識人であり、五四の精神の系譜を引くという自覚が彼らの共通項になっていたと言えよう。

 ところで、1951年を境として、その前後で『自由中国』の論説内容は大きく異なる。創刊当初は、蒋介石政権支持、反共主義の姿勢を鮮明にしていた。『自由中国』が自由主義や民主主義を主張していたことは国際的に印象が良く、当時、アメリカから見捨てられるのではないかと不安がっていた蒋介石政権には、対米関係改善をアピールするため『自由中国』を利用しようという思惑があった。そのため、この時期の『自由中国』は国民党政権と良好な関係を持っていた。

 朝鮮戦争が勃発し、冷戦構造が定着しつつある情勢下、アメリカは反共政権へのテコ入れを強化し、蒋介石政権は安定する。しかし、それは強権的な抑圧による見せかけの安定に過ぎなかった。雷震たちからすれば政権の腐敗と権力濫用が目にあまる。そこで批判的論説を次々と発表したため、政権との関係は冷え込んでいった。1956年に蒋介石は70歳の誕生日を迎えた際、「反攻大陸の機が熟しつつある今、誕生日なんかで浪費させるつもりはない、それよりも国策への提言を広く募りたい」と表明した。これを受けて、同年10月の『自由中国』祝壽専号(お誕生日祝い特集号)は政府批判の論説を掲げたため、いっそう政権から睨まれるようになった。

 五四の精神を受け継ぎつつ大陸に残ったリベラリストも1957年の反右派闘争以降、抑圧されていた。『自由中国』が国民党によって弾圧されたのとほぼ同じ時期である。なお、雷震が政府批判を行った論点の一つとして軍隊の国家化という問題がある。軍隊が一つの党に忠誠を誓っているようでは政権交代などあり得ず、従って民主的な国家運営は望むべくもない。大陸においても人民解放軍の国軍化が時折話題にのぼるが、軍事力によって政権を獲得したという成り立ちや党の政府に対する優位性など、国共両党には一定の同質性がうかがえる。思えば、蒋経国が戒厳令の解除を決断し、李登輝が民主化へと舵を切ったのは、1989年に起こった天安門事件の直前の時期であった。イデオロギーこそ違えども似通った政治体質を持った国民党と共産党、二つの政党の民主化に対しての態度の相違には、比較すると興味深い論点が色々とあり得る。

 雷震は当初、台湾における国民党の政権基盤安定を優先させるため人権問題には目をつぶっていた。しかし、国民党政権との対決姿勢を鮮明にして以降、特務の迫害を受けて窮状を訴える人々が『自由中国』社を次々と訪れ、彼らの話を聞いているうちに人権問題へ積極的な関心を向けるようになる。雷震の批判は、中華民国はすでに憲法を持っているのだから、憲政の本義に立ち返れば民主国家を実現できるはずだという点にあった。司法の独立により法治が実現されなければ、人権を保障することはできない。

 また、蒋介石が呼号する反攻大陸の非現実性を問題視し、むしろ台湾に腰を据え、時間をかけて民主国家建設に努力すべきだと主張した。「中華民国在台湾」の路線を先取りしていたと言えようか。台湾規模の政治単位を前提とすると、今度は本省人との関係をきちんと考えなければならない。雷震は当初、台湾人エリートが主導権を握ることに警戒心を抱いていたという(胡適の方がむしろ台湾人エリートとの提携を考えていたらしい)。しかし、1950年代末以降の内外の情勢変化を見て考え方を切り替え、提携関係を持つようになる。雷震の周囲には後に民進党を結成する人々も集まっていた。

 雷震は1960年に野党「中国民主党」の結成に向けて奔走したため、逮捕された。すでに64歳であった。『自由中国』も発禁処分を受ける。アメリカにいた胡適は公正な裁判を受けさせるよう蒋介石に働きかけ、現代新儒家の一人として著名な張君勱は釈放を要求、国内では殷海光を始めとした知識人たちが雷震擁護の論陣を張ったが、そうした甲斐もなく、即決裁判で禁錮10年の有罪判決が下された。比較的に重い量刑には蒋介石の意向が強く働いていたらしい。

 10年の刑期を満了した後、政治活動はしないという条件で雷震は釈放されたが、硬骨漢たる彼の熱情はおさまらない。1971年には《救国図存献議》を発表し、その中では民主化を進めた上で国号を「中華台湾民主国」へ変更するよう主張した。

 なお、西洋志向のリベラリズムを特色とする『自由中国』に、現代新儒家の徐復観が寄稿していたり、張君勱が雷震釈放を求めたり、こうしたつながりは何によるものなのか興味がある。

 『自由中国』の雷震と殷海光について日本語による手頃な文献が見つからなかったので、とりあえず《台湾人物百年史2》(玉山社、2005年)から雷震と殷海光それぞれに関する章を訳出してみた(下記にリンク)。本書は台湾の公共電視台で放映されたドキュメンタリー・シリーズを書籍化したもので、関係者や研究者へのインタビューを織り込みながら構成されている。

・「貴ぶべきは度胸、必要なのは魂──雷震」http://docs.com/TDCQ

・「自由思想家──殷海光」http://docs.com/TDCR

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2013年6月 2日 (日)

岩崎育夫『物語シンガポールの歴史──エリート開発主義国家の200年』、田村慶子『多民族国家シンガポールの政治と言語──「消滅」した南洋大学の25年』他

 シンガポールはもともと出稼ぎ移民の寄り集まりに過ぎなかった。歴史的・社会的な背景に基づいて国家が現われたのではなく、国家が成立してからその内部としての社会が形成された点では、世界史的に見て独特である。いわば無から国家が立ち現われていく上で、リー・クワンユー(李光耀)のイニシアティヴが極めて大きかった。人材以外にこれといった資源もない狭小な島国が生き残るため徹底した効率性を求める統治スタイルは、リー・クワンユーを創業者とする株式会社に見立てると分かりやすい。

 岩崎育夫『物語シンガポールの歴史──エリート開発主義国家の200年』(中公新書、2013年)はこの国の歴史を叙述する中で経済立国の特徴を明らかにしてくれる。

 最先端の金融センターとして高層ビルが建ち並ぶシンガポールも、200年前にはほとんど人もいないジャングルに覆われた小島に過ぎなかった。貿易拠点としての将来性に目をつけた東インド会社のラッフルズは独断でこの島を取得、自由港として開港すると、近隣のマレー系住民ばかりでなく、華僑やインド系など各地から様々な人々がビジネス・チャンスを求めて集まってきた。経済的繁栄と人種的多様性というシンガポールの特徴はこの頃からうかがえる。

 第二次世界大戦でシンガポールは日本軍に占領された。華人系住民の虐殺など過酷な占領統治に反感を募らせる一方、逃げ出したイギリス人には幻滅する。自分たちの生活は自分たち自身で守るしかない──独立の気運が高まる中に若きリー・クワンユーの姿もあった。

 華人が75%を占めるほか、マレー系、インド系など多民族の織り成す都市。リー・クワンユー自身は英語を話す植民地エリートであって、華人としての民族意識は持ち合わせていない。しかし、政治的基盤としての大衆組織が必要であったため、華人の共産系グループと手を組んで人民行動党を結成した。1959年、英連邦内自治州となるのに合わせて実施された総選挙で人民行動党は勝利、リーは州首相に就任する。

 将来を見越した経済建設のため彼は工業化を推進する。そのためには市場が必要だが、シンガポールは小さい。そこで、隣のマレーシアを市場とするため合併を目指す。1963年9月に合併を果たしたものの、マレーシアのラーマン首相は共産化を懸念しており、人民行動党内の共産系グループは離党して社会主義戦線を結成。リーはマレーシア政府と連携してこれを弾圧し、人民行動党の優位を確立した。

 しかしながら、リーは立て続けに手ひどい挫折を味わうことになる。第一に、もう一つの市場と想定したインドネシアとの関係である。シンガポールがマレーシアに入ると、華人系の人口がマレー系を若干上回ることになり、ブミプトラ(マレー人第一)政策にとって都合が良くない。そこでマレーシアのラーマン首相は、マレー系人口の優位を保つため、ボルネオの英領サバ・サラワク二州を併合してマレーシア連邦を成立させた。ところが、サバ・サラワクはインドネシア領だと主張するスカルノが武力も辞さないマレーシア対決政策を打ち出し、シンガポールの対インドネシア貿易はストップしてしまった。1965年の九・三〇事件でスカルノが失脚してこの問題は片付いたものの、今度は第二の問題に直面する。シンガポールの突出した経済力はマレーシア中央政府との軋轢を生じさせ、1965年にラーマン首相はシンガポールの追放を決定、否応なく独立を迫られた。記者会見でリーは泣いたという。悲しみに打ちひしがれながらいやいや独立するなんて珍しい。いずれにせよ、シンガポールは逆境の中、なりふりかまわず生き残り戦略を追求せざるを得ず、それが結果として高度な経済立国を実現させることになるのは皮肉である。

 それでも、隣国マレーシア、インドネシアとの関係は死活問題であり、協調関係に腐心する。さらにASEANの活用、イスラエルをモデルとした国防体制、最後の保険としてのアメリカ依存など、外交・安全保障には周到な注意を払っている。

 小国が生き残るために手段を選ばないのがシンガポールの政治方針である。政権与党・人民行動党は特定の政治イデオロギーや政治理念など持たず、とにかく徹底したプラグマティズムから現実的な政策立案・実行能力を持つことを唯一の特徴とする。希少な資源を有効活用するため官僚主導の開発体制を構築し、党・政府・企業が事実上一体となった形で経済運営が行われる。他方で、党の意向に逆らうことは許されず、選挙制度を持つ民主主義国家でありながら、野党は弾圧されて議席を持つことは極めて難しい。華人系企業家はかつて人民行動党と対立したため完全に自助努力だという。リーは華人意識を持たないが、その一方で中国との経済関係が重要となれば、シンガポールの「華人国家」としての性格を強調する。民族意識も経済発展の武器となるならドライに割り切って使いこなすあたり、プラグマティズムが徹底している。

 国民には能力主義が求められ、常に最新の経済モデルを追求し続けなければならないなど、ある種の息苦しさも感じられる。資源のない小国にとって、人間の頭脳は貴重な資源である。そこで人民行動党は優秀な人材を育成・リクルートするシステムを張り巡らしている。その様子は田村慶子『頭脳国家シンガポール──超管理の彼方に』(講談社現代新書、1993年)にうかがわれるが、学歴至上主義、時には遺伝子主義による人材選別など(例えば、高学歴者同士の結婚を奨励する一方、低学歴者には避妊を推奨)、かなり極端である。リー・クワンユー自身の家族がみなエリートで「優秀さ」の具体例となっており、彼はこの方針に確信を持っているという。また、シンガポールに際立った文化はない。これもやはり、文化を無用の長物と考える彼のプラグマティズムの表われであろう。

 経済的なプラグマティズムと政治的な権威主義の組み合わせがリー・クワンユーのスタイルである。しかし、そうした彼の手法は、時代が変わるにつれて国民意識との乖離も目立ってくる。人民行動党は建国以来、常に国会の議席をほぼ独占していたが、2011年の総選挙では全議席87のうち野党に6議席を許してしまった。野党には政権担当能力が期待できないため、人民行動党政権が揺らぐわけではない。国民の大多数も経済発展がなければ自分たちの生活が危ういことは理解しており、こうした批判票は政権交代を求めているのではなく、不満の意思表示であったと考えられる。リーの権威主義的政治手法が上からの一方通行であったのに対し、こうした批判票によって政府に方針転換を迫る、つまり双方向的な政治コミュニケーションへ変化していると捉えられるようだ。

 シンガポールは多民族国家として英語、華語、マレー語、タミル語に優劣がないのが建前であるが、マレーシアとの統合を前提としていたのでマレー語が国語であり、事実上の公用語は英語となっている。華人の中でもリー・クワンユーなど政治エリートは英語に基づく国民形成を図ったが、そこには「華人」色が強く出てしまうと、近隣諸国から警戒されるという懸念も背景にあった。

 他方で、華語や中国の伝統文化を保持しながら、他民族との協調を図ろうと考える人々もいた。華人グループの指導者であったタン・ラークサイ(陳六使)は華語を話す若者のための教育機関がないことを憂えて1956年に南洋大学を創設した。中国以外で華僑が設立した唯一の大学である。田村慶子『多民族国家シンガポールの政治と言語──「消滅」した南洋大学の25年』(明石書店、2013年)は、南洋大学をめぐる政府当局とのせめぎ合いに注目し、人口では多数を占める華語派が、政治権力を握る英語派によって周縁化されていく過程を浮き彫りにする。華人系には共産系グループの力も大きく、南洋大学は「共産主義の温床」になるという警戒心もあったため、タン・ラークサイは初代学長として国民党支持者の林語堂を招いたが、大学の運営方針をめぐって仲違いしてしまったらしい。

 なお、タン・ラークサイを引き上げた華人実業家のタン・カーキー(陳嘉庚)はシンガポールで成功した後、故郷で廈門大学を創設したほか、抗日戦争で中国共産党に資金援助をしており、中華人民共和国の成立後、中国へ戻っている。その後をついでシンガポールの華人指導者になったのがタン・ラークサイであった。 

 南洋大学は英語大学として再編されながら、最終的には1980年、国立シンガポール大学に併合された(跡地には現在の南洋理工大学が設立された)。南大消滅後になって華語を奨励する「多讲华语,少说方语」運動が始まったのも皮肉である。これには、第一に、華語とはいっても出身地ごとに様々な方言が話されており、華人同士でもコミュニケーションがうまくいかないケースがあったのでそれを普通話に統一させること、第二に華語を通して「アジア的価値」による道徳意識を植え付けようとしたこと、第三に対中国経済交流が意図されていたという。

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