【メモ】林献堂のこと(3)光復、失望、客死
(承前)
1945年8月15日、日本敗戦の報を受けて林献堂は「嗚呼! 五十年来以武力建致之江山、亦以武力失之也」と日記に記している。日本による植民地統治から解放され、長年の宿願である祖国への復帰がようやくにして叶うことになった。
喜びに浸る間もなく、彼はただちに動き始める。台湾人有力者と連れ立って安藤利吉・台湾総督、諌山春樹・台湾軍参謀長たちを訪問し、治安問題など今後の対策を話し合い、中華民国による接収に向けた準備を進めていく。8月23日に左派の傾向が強い楊逵、李喬松の来訪を受けているのも興味深いが、軽挙妄動するなと忠告した。8月31日には中華民国側と折衝するため、許丙、辜振甫(辜顕栄の息子)たちと共に上海へ飛んだ。
9月9日には南京で日本軍の受降式典が開催されることになっている。何應欽を経由して、林献堂、羅萬俥、林呈禄、陳炘、蔡培火、蘇維樑も参加せよ、という連絡を受けた。ところが、上海に来ていた台湾軍の諌山参謀長から「自分も式典には参加するが、他の人が来るとは聞いていない」と言われたため、式典へ行くのは見合わせる。翌日、何應欽と面会したとき、「なぜ式典に来なかったのか?」と問われ、諌山にまんまと騙されたことに気付いたという。
台湾省行政長官の陳儀は10月24日に台北の松山空港に到着し、林献堂も他の台湾人有力者と共に出迎えた。翌日には台湾における受降式典が行われ、中華民国台湾省行政長官公署が正式に発足する。林献堂は国民党への入党を申請し、翌年には許可された。12月からは国語(中国語)の勉強を始めている。林献堂も含めて台湾の漢族の多くは閩南語や客家語を話し、普通話は分からないからである。彼は日本統治期には敢えて日本語を勉強しなかったことと比較すると態度の相違がはっきりしており、それほどまでに国民党政権を歓迎していた様子がうかがえる。1946年3月には台湾省参議員に選出された。
台湾における新体制が発足したものの、課題は山積している。日本軍の大陸や南洋への展開に伴って徴発された台湾人が海南島、広東、上海などにそのまま放置され、帰れないばかりか、現地では差別的な待遇を受けて飢餓に瀕していた。そうした惨状を複数のルートから伝え聞いた林献堂は早速、行政長官公署の関係者に働きかけた。また、治安悪化と食糧不足も大きな問題であった。1946年3月14日、林献堂のおひざ元である霧峰で国民党軍の蔡継琨少将の命令により軍人たちが武器を携行して倉庫から米・粟を強奪するという事件まで起こっている。こうした事件が起こっても、台湾人には抵抗する術はなく、されるがままとするしかなかった。
林献堂は積極的に陳儀の新体制を支えようと努力しが、行政長官公署にいくらかけあっても埒が明かない。そればかりか、台湾人有力者に「漢奸」容疑がかけられ身柄を拘束されるケースが相次いでいた。林献堂も狙われたが、国民党員である丘念台(父親は1895年の台湾民主国が壊滅した後に大陸へ逃れた丘逢甲)のとりなしで何とか逃れることができた。いずれにせよ、陳儀から煙たがられていることは明らかだった。何よりも、政策の失敗や官員の腐敗が目にあまる。双方の思惑の相違はあまりにも大きく、あからさまな態度は見せないものの、林献堂の心中では疑念が募り始めていた。
1947年2月28日の午後、台湾省財政処の指導下で行われた彰化商業銀行創立の株主総会に林献堂も出席していた。この日、台北で勃発したいわゆる二・二八事件はたちまち台中地区にも及ぶ。外省人には危害が加えられるおそれがあったため、財政処長として出張していた厳家淦を林献堂は霧峰の自宅にかくまった。厳家淦は財政のテクノクラートとして蒋父子からの信任が厚く、後に副総統となり、蒋介石の死後は蒋経国にバトンタッチするまでのポイントリリーフとして総統にもなった人物である。二・二八事件では多くの台湾人有力者が殺害され、林献堂もブラックリストに載っていたと言われるが、厳家淦を助けたことは一つの「アリバイ」となった。
台北へ向かった林献堂は、大陸から派遣されてきた白崇禧・国防部長をはじめ国民党有力者のもとを訪れて寛大な処置を説いて回った。やがて陳儀は更迭され、台湾省行政長官公署は解体、新たに台湾省主席として魏道明が赴任する。台北にいる政治関係者の間では陳儀の留任を望む声もあったが、林献堂は明らかに陳儀の失政が原因だと断じて反対した。人を非難することが滅多にない彼としては珍しい。浙江省主席に転じた陳儀は共産党と内通したとして逮捕され、処刑される。後に陳儀の処刑を知った林献堂は、林茂生、陳炘(この二人についてはこちらを参照のこと)をはじめ多くの有為な人材の命が奪われた痛恨を思い返し、当然のことだと日記に記している。
林献堂は祖国・中国への復帰を熱望していた。しかし、理想と現実の落差はあまりにも大きかった。彼が求めていたのは聯省自治である。つまり、主権は中国にあっても、台湾を自ら選出した代表によって自ら統治する自治区とすることであった。それは、国民党の中央集権的な政治体制とは明らかに相容れない。結局、外来の政権によって抑え込まれてしまう点では日本統治期と何ら変わらず、そうした失望は彼の内心で国民党政権に対する反感を強めていくことになる。また、新たに台湾省主席となった陳誠が実施した「三七五減租」「耕者有其田」といった政策は地主層の経済力にとって大きな打撃となり、霧峰林家の影響力も低下した。
林献堂は政治に関わっていく熱意を失った。1949年9月、彼は日本事情の視察や病気療養を名目として日本へ行く許可を得たが、そのまま滞在を延長し、結局、死ぬまで台湾へ戻ることはなかった。居留申請には日本、中華民国の他、GHQでも手続きをせねばならず、煩雑であったため、1951年には日本に永住申請を出した。申請上の名目を立てねばならなかったため、政治難民という身分になったのも皮肉なことである。
失意のうちにあったとはいえ林献堂の存在感は大きく、彼のもとへ様々な人々の往来は絶えなかった。一方では、廖文毅をはじめ台湾独立運動の活動家たちが足しげく通い、彼を引き入れようとしていたが、ラディカルな方法を好まない彼はなかなか肯んじなかった。独立運動家たちがそれほど人数もいないのに派閥争いにかまけているのは馬鹿馬鹿しいとと思っていたのかもしれない。そもそも、林献堂は台湾独立を望んでいたのだろうか? 彼の温容な表情の裏にどのような思いが秘められていたのか、なかなか窺いしれないところもあるが、1952年2月、台湾人にとっての希望は何か?と問われた際、「フィリピンのように独立すること」と答えたという。
他方で、彼は国民党との関係も壊してはおらず、国民党政権から蔡培火、丘念台、何應欽などの関係者もたびたび彼のもとを訪れ、台湾へ帰るよう説得を繰り返していた。林献堂が台湾独立派に傾いてしまうと国民党の台湾統治にとってマイナスになるという判断による政治工作で、背後では蒋経国が指揮を取っていたらしい。当時、蒋経国は反共統一戦線工作の対象に台湾独立派も含めていた。圧政に対する暗黙の抗議として台湾を離れて東京に引っ込んだ林献堂を、他ならぬ圧政を敷いている側が呼び戻し工作をしている点で、国民党政権と日本の台湾総督府とに共通する構図が見えてくる。
言質を取られないよう政治的な話題は避けていた林献堂だが、1955年10月14日に蔡培火と会ったとき、「危邦不入、乱邦不居」と語った。危うい国へ入るわけにはいかず、乱れた国に居るつもりはない──『論語』泰伯篇第八にある言葉である。これを聞いた蔡培火は林献堂の真意を悟り、台湾への帰国を促すことをやめた。
1952年以降、林献堂は杉並区久我山に居を構えていたが、1956年9月8日、老衰に肺炎を併発して死去する。76歳であった。遺体は台湾へ送られ、蔡培火や厳家淦たちに見守られながら葬儀が行われた。総統の蒋介石や副総統の陳誠からも葬儀にあたって一筆贈られている。
林献堂は文化的アイデンティティーの面では漢民族としての自覚を死ぬまで維持していた。だからこそ、日本統治下にあっても日本語を敢えて学ばず、戦後は台湾の中華民国への帰属を歓迎していた。ただし、中国の台湾に対する主権は認めたものの、政治経済的地位については自治が望ましいと考えていた。日本統治下において台湾議会設置請願運動を展開し、国民党政権下に入った後も聯省自治を求めたように、台湾の自治という考えでは戦前・戦後を通して一貫していた。
林献堂のリーダーシップを一言で表わすなら調整型と言えるだろう。例えば、留学生たちの議論を踏まえて六三法撤廃運動から台湾議会設置請願運動に転換した裁定にもうかがわれるように、自らの主張をトップダウンで押しつけるのではなく、ボトムアップの意見集約によって一つの方向へとまとめ上げていくやり方に特徴があった。また、このような調整型の政治手法は、台湾総督府や国民党の要人とパーソナルな信頼関係を取り結ぶことによって相手側の軟化を引き出すところにも表われている。彼の人格的な存在感があったからこそ、運動の急進化を抑え、総督府による弾圧の緩衝材となり、非暴力的な民族運動の持続を可能にしたと言える。
逆に言うと、妥協の積み重ねは、急進派には物足りない。また、彼の人格的な声望を受け容れない相手には通用しない。階級闘争路線を標榜して台湾文化協会を乗っ取った左派からすれば、彼は打倒すべきブルジョワに過ぎなかった。日本人の超国家主義者からすれば、彼は皇民化に反対する逆賊であった。新たに台湾を接収した陳儀のような外省人からすれば、彼はただの漢奸であり、利権漁りの邪魔者に過ぎなかった。そうした「話の通じない」相手が出てきてしまうと、林献堂の持ち味である調整はうまくいかず、身を引くことで暗黙の抗議を示す以外に方法はなかった。そして、戦後の土地改革によって地主層の経済的・社会的威信が低下すると、彼の発言の重みはますます低下していくことになった。
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