河野啓『北緯43度の雪──もうひとつの中国とオリンピック』
河野啓『北緯43度の雪──もうひとつの中国とオリンピック』(小学館、2012年)
1972年2月、札幌で開催された冬季オリンピックに、南国の台湾から参加したスキー選手の姿があった。ほとんど最下位レベルで成績はふるわない。それもそのはず、彼らは2年間ほどの特訓を受けて送り込まれたばかり。世界レベルの技量には到底追いつかないまま本番に臨まねばならなかったのだから仕方がない。
参加することに意義がある──オリンピックと言えば必ず引き合いに出される、もはや陳腐なくらいに言い古された言葉だが、彼ら台湾のスキー選手たちの場合もまさに、参加することに意義があった。メダルなど最初から期待されていない。途中で転倒したりしてしまうと記録は残らない。目標は、とにかく完走して中華民国代表選手がオリンピックに出場したという記録を必ず残すこと。つまり、中華人民共和国と「一つの中国」原則をめぐって外交的承認の取り付けを競い合っていた中でのオリンピック参加であった。
台湾にも唯一、合歓山にスキー場があるにはあったが、特訓には向かない。国民党政権上層部からの指示によって急遽スキー選手に仕立て上げられた若者たちは、日本のスキー指導者のもとへ送られ、国家的使命としてこの不慣れなスポーツをマスターしなければならなかった。しかしながら、目立った成績を残していない以上、報道されることもなく、彼らの努力が世に知られることはなかった。本書は、この時、にわか仕立てのオリンピック選手となった若者たちを取材して、冬季オリンピックをめぐる台湾の政治的思惑の背後にあった彼らの想いとその後の人生を描き出していく。
1点だけ気になったこと。冬季オリンピックへ参加するにしても、スキーの他にスケートという選択肢もあった。スケートリンクを整備すれば訓練はできるのだから、スケートの方が潜在的可能性はあったとも考えられるわけだが、それにも関わらず、なぜスキーが選ばれたのか。本書では軍事目的、宣伝効果などいくつかの説を検討した上で、宣伝効果説がとられる。しかし、私にはむしろ軍事目的説の方が説得力があるように思われる。
スキー競技参加の決定は蒋介石が下している。かつて日本へ留学していた蒋介石は1910年から陸軍の高田連隊に配属され、1911年10月、辛亥革命勃発の報に接して帰国するまで高田の地にいた。ところで、日本において初めて本格的なスキー指導を行ったレルヒ少佐は1910年11月に来日し、まさに蒋介石がいた当時の高田連隊に来ていた(この縁でレルヒ少佐は新潟県の「ゆるキャラ」に仕立て上げられている)。当時の日本陸軍は、八甲田山での雪中遭難事件の生々しい記憶からスキーに注目していた。そうした事情は、当時高田連隊にいた蒋介石も当然ながら知っていたはずである(著者は台湾現代史にはあまり詳しくない様子で、こうした接点までは検討していない)。あらゆる政策的プライオリティーを大陸反攻に置いていた蒋介石の発想からすれば、あり得べき将来における軍事作戦が大陸の寒冷地に及ぶことを見越してスキーを選んだと考える方が妥当であろう。
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