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2013年6月28日 (金)

【メモ】林献堂のこと(2)台湾民族運動の展開

(承前)

 日本統治期に林献堂が展開した台湾民族運動は次の四つの時期に区分される。当時の政治情勢や先進的思潮との関わりの中で運動のあり方も変化していった様子が見て取れるだろう。
①1910年代~20年:差別撤廃を要求(台湾同化会、六三法撤廃運動)
②1920~30年:民族自決を追求(台湾議会設置請願運動→左右の対立で分裂)
③1931~36年:地方自治へと軌道修正
④1937~45年:戦時下の鬱屈期

 林献堂は東京で板垣退助や大隈重信と面会し、1914年には二度にわたって板垣を台湾へ招いた。彼の話を聞いて板垣は台湾人の置かれた境遇に同情したが、他方で日本の南進政策や「日支親善」の架け橋となることを台湾人に期待していた。権利向上を求める台湾人側の思いとは同床異夢だったかもしれないが、いずれにせよ、板垣の肝いりで同年12月20日に台湾人差別の撤廃を目指した「台湾同化会」が成立する。こうした動きを台湾総督府は警戒していたが、板垣の名声を前にしておいそれとは手が出せない。林献堂は「中央政界の要人と手を組め」という梁啓超のアドバイスを実行したわけである。ただし、板垣が帰ると、翌年の1915年2月に「台湾同化会」は解散させられてしまった。

 1910年代以降、日本へ留学する台湾人が増えつつあった。植民地台湾とは異なり比較的自由な東京で先進的な知識や思想に出会った彼らは植民地体制の矛盾をますます認識するようになり、そうした気運は台湾民族運動を新たな方向へと導いた。1918年8月、東京へ来た林献堂は、留学する子弟のため巣鴨に邸宅を購入した。「雨声庵」と名付けられたここには留学生も頻繁に訪れ、集会所としての役割を果たすようになる。

 「雨声庵」で留学生が議論を交わした最重要のテーマは「六三法撤廃」問題であった。台湾も大日本帝国の版図に含まれた以上、本来ならば日本人と同様に帝国臣民としての権利を享受できるはずである。ところが、日本政府は植民地統治の特殊性に鑑みて台湾における憲法の施行を保留し、明治29年法律第63号(通商、六三法。その後、明治39年法律第31号に引き継がれる)によって台湾総督の栽量による法律制定を可能にしていた。つまり、台湾総督府の専制的統治を批判し、台湾も憲政の枠内に組み入れるよう求めるのが「六三法撤廃」問題の要点である。こうした考えから林献堂たちは「六三法撤廃期成同盟」を設立して運動を展開した。

 ところで、六三法を撤廃して台湾を日本の憲法の枠内に組み込むと、台湾人を権利面で同等な立場に引き上げることはできるかもしれない。しかし、他方で台湾人は日本人に吸収=同化されてしまうことにならないか? ちょうど第一次世界大戦が終わり、ウィルソンの提唱した民族自決の原則が世界中で話題となっていた時期である。留学生たちはむしろ台湾自治のための議会設立を優先させるべきだと考えた。こうした論争を受けて、1920年11月に六三法撤廃運動をやめて、台湾議会設置請願運動へ転ずると林献堂は裁決する。同年12月に行われた最初の請願では178名の署名者のうち160人以上を留学生が占めていた。3月に留学生たちが結成していた「新民会」の会長には林献堂が推挙され、機関誌として『台湾青年』も発行される(1922年4月からは『台湾』と改称)。こうした動きからは、留学生主導で運動が進められ、彼らの意見に耳を傾ける林献堂が全体のまとめ役になるという関係がうかがえる。

 憲法を台湾に施行して台湾人にも日本人と同様の権利・義務を持たせる考え方を内地延長主義といい、六三法撤廃運動はこれに依拠していた。しかし、こうした方向性は民族主義的な立場からすると日本人への同化主義と捉えられる。対して、台湾の特殊性を理由として日本内地とは別建ての統治システムを実施することを特別統治主義という。六三法によって憲法を棚上げした台湾総督の統治はその具体化であった。他方で、台湾の特殊性を認めるという意味では、同化を拒む民族主義的な立場からは自治への方向性読み取ることも可能である。日本人か、台湾人かという立場の相違、専制的統治か民主的統治かという方向性の相違によって解釈が異なり、議論が複雑になってしまうが、いずれにせよ、六三法撤廃運動から台湾議会設置請願運動への方針転換は、権利向上重視から民族的独自性重視への思潮の変化として捉えることができる。

 唐突に始まった台湾議会設置請願運動に台湾総督府は慌てたが、あくまでも合法的な活動である以上、取り締まることはできない。しかし、直接・間接に様々な手段を用いて妨害を図った。例えば、1923年12月には請願運動を指導していた蒋渭水たちが治安警察法違反の名目で検挙される、いわゆる「治警事件」が起こった。また、林献堂一族の経営する事業にも盛んに横やりが入った。

 その一方、大正デモクラシーという時代風潮の後押しもあって、東京帝国大学教授の矢内原忠雄や代議士の田川大吉郎、神田正雄といった日本人の積極的な支援者も現れる。また、林献堂は台湾総督府に盾突いてばかりというわけでもない。台湾総督府・台湾軍関係者のもとをたびたび訪れて一定の人脈を築いてもいたし、中には元台湾総督の伊澤多喜男のように良好な関係が続いた人物もいる。例えば、霧峰林家と共に台湾五大家族の一つに数えられる林本源家の番頭格、許丙は金品をばらまいて総督府や東京の中央政界と幅広い人脈を築いていた(許丙についてはこちらを参照のこと)。そこにはもちろん利権絡みの思惑もあっただろうが、同時に台湾全体の権利向上を意図していたことも間違いない。許丙ほどではないにせよ、林献堂も官僚・政治家に対してはある程度まで金品を贈っていたのではないかとも想像される。

 台湾議会設置請願運動の母体となった組織が台湾文化協会である。1921年7月、台湾総督府医学専門学校(当時の台湾では一番のエリート校)に通う蒋渭水などの学生たちが林献堂に面会を求め、文化協会を組織する計画を相談したところ、林はまさに自らの意に叶うと賛同して激励、同年10月17日に台湾文化協会が設立された。林献堂が総理となり、蒋渭水と東京での運動で活躍していた蔡培火の二人が運営の中心となる。1923年10月には機関誌として『台湾民報』が創刊された(1930年に『台湾新民報』)。また、台湾各地で巡回講演会が行われ、一般民衆への啓蒙活動として大きな成果をあげた。

 台湾議会設置請願運動は台湾全土を巻き込んで盛り上がったが、運動の拡大は同時に内部分裂の兆しでもあった。台湾文化協会は大まかに言って、三つのグループに分けられる。第一に林献堂・蔡培火などの民主派(台湾派)=右派、第二に蒋渭水など民族主義派(祖国派)=中間派、第三に連温卿・王敏川など社会主義派=左派である。

 この頃、台湾各地で小作争議や労働争議が頻発、例えば二林事件(1925年)という農民問題では労働農民党から弁護士の布施辰治が派遣された。連温卿は山川均と親しく、日本内地から流入したマルクス主義の階級闘争論は台湾でも流行思想となっていた。こうした風潮に乗って左派の鼻息が荒くなり、三民主義を奉ずる蒋渭水も孫文の容共方針に則って労働運動に同情的となっていた。1927年1月の大会で組織的な動員を行った左派が文化協会の主導権を握り、蔡培火たち右派や蒋渭水たち中間派は離脱する。同年3月、左派に乗っ取られた文化協会は正式に階級革命路線を採択し、これ以降は新文協と通称される。さらに、謝雪紅らが1928年に結成した台湾共産党(日本共産党台湾民族支部)によって新文協は乗っ取られ、連温卿は追い落とされるが、こうした新文協の急進化は台湾総督府による弾圧を招いた。

 左派主導に反発して文化協会から離れた蔡培火・蒋渭水など右派・中間派は台湾民衆党を結成した。しかし、労働組合運動に傾斜して急進的な方針を取ろうとする蒋渭水に対して、蔡培火は総督府をいたずらに刺激するのは得策ではないと反対するなど、民衆党もまた最初から分裂含みであった。内部対立を繰り返し、台湾議会設置請願運動も下火になっていく中、林献堂は文化協会や民衆党に顧問として名を連ねながらも政治活動には消極的となる。台湾民衆党結成をめぐって揉めていた1927年5月、さっさと世界一周旅行に出かけてしまった。旅行から戻っても引き続き東京で暮らし、1929年1月まで台湾には戻らなかった。

 温厚な人格者でことさらに敵を作らないところに林献堂の一番の持ち味があった。彼のリーダーシップは、議論百出しても人々の意見を幅広く受け入れ、落とし所を見計らいながら全体を一つの流れへまとめあげていくというやり方である。名望家出身という背景は超然たる調停者・裁定者としての役割を権威づけていた。そうした敵を作らないバランス感覚は、日本の植民地当局や戦後の国民党政権とも険悪にならない程度に関係を維持することを可能にした。他方で、対立する人々が妥協できないくらいに亀裂が深まっても、能動的なイニシアティブで収拾に動くことはない。受け入れがたい政治的摩擦が起こると、それを正面から批判するのではなく、身を引くことで暗黙の意思表示をするという行動パターンを林献堂はこの後もたびたび繰り返す。

 台湾民衆党もやがて左右に分裂した。右派は1930年8月に台湾地方自治聯盟を結成して楊肇嘉が運営の中心となる。右派の離脱を見計らっていた総督府は1931年2月に台湾民衆党の解散命令を出す。同年8月には民衆党のシンボル的存在であった蒋渭水が病死してしまい、求心力を失った(蒋渭水についてはこちらを参照のこと)。台湾議会設置請願運動への署名者も減少の一途をたどり、1934年の第16回請願を最後として、同年9月2日、運動の終了を申し合わせた。

 1935年10月には地方自治が実施される。州市議会の半分を民選、納税額による選挙資格制限といった不十分な条件であり、台湾議会による自治を目指してきた大がかりな運動の割に、成果はごくごくささやかなものに過ぎなかった。ただし、台湾人が初めて選挙活動を自ら行い、目の当たりにしたことは貴重な体験になったと言える。

 林献堂は1936年2月から4月まで『台湾新民報』が組織した華南考察団の一員として廈門、福州、汕頭、香港、広東、上海の各地を回った。上海での歓迎会の折、スピーチで「祖国に帰ってきました」と発言したことが『上海商報』に掲載されたため、台湾の日本人社会を刺激した。とりわけ台湾軍の荻洲立兵・参謀長による嫌がらせがひどかった。同年6月、台湾始政記念日の園遊会で「愛国政治同盟員:賣間善兵衛」と名乗る者がこの発言をなじって林献堂を殴るという騒ぎが起こる。このいわゆる「祖国事件」には荻洲による唆しがあったと言われる。また、荻洲たちの圧迫で『台湾新民報』漢文欄が廃止されたことは、皇民化運動による台湾文化抑圧の象徴とも言える(『台湾新民報』は1942年に『興南新聞』と改称され、1944年には『台湾新報』に統合された)。1937年に日中戦争がはじまると台湾でも戦時色が濃厚となり、台湾地方自治聯盟は8月に解散した。

 こうした険悪な情勢に嫌気がさした林献堂は東京へ行き、台湾にはしばらく戻らなかった。この間、伊澤多喜男(元台湾総督)、矢内原忠雄、岩波茂雄などと会ったが、みな「祖国事件」で彼に同情していたという。伊澤からは台湾問題について近衛文麿首相と話すので資料を提供して欲しいと言われ、葉栄鐘にまとめさせた。

 台湾総督府としては、台湾の有力者が東京に逃げているというのは実に体面が悪い。荻洲は戦地へ転任しており、総督府側から林献堂に戻って欲しいという意向が伝えられてきたため、1938年12月になってようやく台湾へ帰った。1941年4月には大政翼賛会の台湾版とも言うべき皇民奉公会が成立する。林献堂も単に名目に過ぎないとはいえ役職に就かざるを得なかった。敗戦間際の1945年には許丙、簡朗山と共に貴族院議員に勅選される(ただし、登院する機会は一度もなかった)。他方で、改姓名には極力反対、漢文を書き、台湾服の着用を続けた。日本語は話さず、日本的な生活様式とは一線を画すこと自体が、漢民族アイデンティティーを維持する彼の暗黙の態度表明となっていた。

(続く)

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