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2013年6月27日 (木)

【メモ】林献堂のこと(1)梁啓超との出会い

 台湾独立運動を行っていた頃の邱永漢が書いた作品に「客死」という小説がある。日本の敗戦後、台湾は中華民国に接収された。植民地支配のくびきから脱し、待望の祖国に戻った──そうした喜びもほんの束の間、国民党政権による乱脈な政治は台湾人を失望させた。二・二八事件をはじめとした暴力によって多くの人々が命を落とし、あるいは海外へと逃亡せざるを得なくなった。「客死」という小説には二人の人物が登場する。一人は、かつて抗日運動のリーダーだったが、国民党政権に対する暗黙の抗議として東京へ移住していた老人。もう一人は、独立運動に身を投じたが、不遇のうちに東京で死んだ若者。老人が若者を見守るまなざしには、自前の政府を持てない悲哀がにじみ出る。そして、この老人も再び台湾の土を踏むことはなかった。

 小説の老人は、林献堂(1881~1956)をモデルとしている。台湾五大家族の一つに数えられる名家、霧峰林家の当主である。清朝末期に生まれた彼は伝統的な儒学教育を受けていたが、15歳だった1895年に台湾は日本へ割譲された。日本統治下に入っても彼は植民地当局に迎合することなく漢民族的なライフスタイルを維持し、穏健な抗日運動の指導者として多くの人々から慕われる。1945年の日本敗戦に伴って台湾が中華民国に編入されると、当初は国民党政権と積極的に協力しようとした。しかし、その失政と腐敗に失望した末、台湾を離れ、かつての抗争相手であったはずの日本へと移住して、この地で客死することになる。

 林献堂は、穏健派とはいえ抗日運動の指導者でありつつも、台湾総督府や東京の中央政界から一目置かれる存在であった。また、国民党政権に対する不満から東京で事実上の亡命生活を送りながらも、国民党政権との関係が絶たれたわけではなく、台湾に戻るよう熱心な要請が繰り返し届いた。台湾随一の名望家として彼の存在感は台湾統治を進める上で無視できず、あわよくば利用しようという思惑が当然ながらあっただろう。同時に、彼の温厚な人格とバランス感覚が立場を超えて信用を得ていたところも大きい。

 彼が生きた時代は伝統社会から近代社会への急激な転換期にあたり、また清朝、日本、中華民国と政権が三つも交代するのを目の当たりにした。「一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し」と記したのは福沢諭吉だが、林献堂の場合には「一身にして三生を経るが如く」といったところだろうか。台湾近代史を一人の人物に代表させて描くとするならまさに林献堂こそがうってつけだと言ってもいいくらいに台湾史で最も重要なキーパーソンの一人だが、日本でその名はあまり知られていない。

 彼の生涯の概略を以下にまとめてみる。事跡については主に黄富三《林献堂伝》(修正訂版、国史館台湾文献館、2006年)に依拠した。

 霧峰林家の祖籍は福建省の漳州にあり、18世紀の乾隆年間に台湾中部へ渡って開拓を始めた林石が台湾における開祖となる。「蕃界」、つまり原住民の居住空間との境界近辺で開拓を進め、また渡来した漢族同士でも「分類械闘」が頻繁に繰り返されていた時代背景を考えると、ある種の「尚武の気風」があったのかもしれない。その後、一族は霧峰に移住し、大土地経営や樟脳などの交易で財産を築き上げ、その後は太平天国の乱、清仏戦争などで軍功を立てたため、台湾でも有数の名家としての地位を確立する。こうした財力と名声は、後に林献堂が政治運動を展開する上で重要なバックボーンとなった。

 林献堂の父である林文欽は清仏戦争に出陣したが、政争に巻き込まれ、台湾省巡撫となった劉銘伝から睨まれて失脚した。文欽はもともと学問好きだったので、これを機会に武を棄てて文によって身を立てようと決意する。社会事業に力を入れて劉銘伝との関係を回復し、さらに科挙を受けて1893年には挙人となった。台湾が日本へ割譲された後、文欽は日本の植民地当局から招きを受けても距離を置いていたが、1900年に滞在先の香港で病死してしまう。まだ46歳であった。長男の献堂は弱冠20歳にして家を継がざるを得なくなった。

 1881年に生まれた林献堂は父の影響で早くから伝統的な儒学を中心とした教育を受け、日本による植民地統治下に入った後も伝統的な学問を深めた。そうした傾向は死ぬまで一貫しており、彼の風格は伝統的教養人そのものであったが、だからと言って近代化を否定したわけではない。彼は新式の学校教育を受ける機会はなかったが、漢訳書を通して内外の事情に広く通じていた。将来を担う若者には留学を奨励して支援し、自らの子弟も日本や欧米へ留学させていた。林献堂の場合、儒学的教養がアナクロニズムに陥ることはなかった。士大夫的な自負は政治活動へと駆り立てる原動力となったし、古典を深く学んだことによる人格陶冶は多くの人々を受け入れる包容力につながっていたのかもしれない。

 1907年、27歳のときに林献堂は初めて東京へ行く。戊戌の政変に敗れて日本へ亡命していた梁啓超と是非面会したいと思い、横浜の「新民叢報」社を訪問したが、あいにくなことに不在。ところが、台湾へ帰る途中に寄った奈良で、旅行中だった梁啓超と偶然に出会う。二人は言葉が通じないため筆談で語り合ったが、この出会いは林献堂のその後にとって大きな意味を持つ。彼は植民地台湾における苦境を訴えたが、梁の返答はこうだった。「中国には今後30年間、台湾人を助ける力はない。だから、台湾同胞は軽挙妄動していたずらに犠牲を増やすべきではない。むしろ、大英帝国におけるアイルランド人のやり方を見習って、日本の中央政界の要人と直接結び付き、その影響力を利用して台湾総督府を牽制する方が良い」──当時、アイルランド自治法案の可決に努めていたイギリス自由党のグラッドストン内閣を念頭に置いていたのだろう。

 林献堂の熱心な招待を受けて梁啓超は1911年3月に台湾を訪れた。梁の心づもりとしては自らの立憲運動や新聞事業のための募金集めが目的であった。林献堂は連雅堂を伴い、日本からの船が着く基隆まで出迎えて汽車に同乗、台北駅では多くの人々の熱烈な歓迎を受ける。梁は台湾各地を回って名士と語り合った。言葉は通じないので筆談となるが、儒教的伝統の知識人は詩文を取り交わすのが習わしだから問題はない。しかし、在地の知識人は総督府の専制政治への不満を訴えるものの、梁はむしろ日本統治による近代化を評価しており、両者の思いは必ずしも一致していなかった。ただし、梁が示した平和的・漸進的に政治改革を進めるべきだという示唆は一定の影響を及ぼす。

 中国の伝統的な知識人としての自負があった林献堂は、檪社という詩文グループに属していた。檪とはすなわち無用の木、すなわち日本統治下では無用の人間という意味合いが込められていることから分かるように、清朝遺民の気風を持つ知識人が多く集まっていた。台中の檪社の他、台北の瀛社、台南の南社が有名で、こうした人的ネットワークが梁啓超歓迎の際にも機能したのだろう。なお、林献堂は後に東京で暮らしていたとき、在京の台湾人を集めて留東詩友会を主宰し、そこで唱和された詩をまとめて『海上唱和集』として1940年に岩波書店から刊行している(自費出版的なものだろうか)。

 梁啓超が台湾を去った1911年、辛亥革命が勃発する。1912年には中華民国が成立し、この機会に乗じて清朝の皇帝を退位させた袁世凱が自ら大総統の地位に就く。梁啓超は袁世凱の招きを受けて財政総長に就任した。林献堂は1913年に北京へ赴き、また袁世凱政権と対立関係にあった国民党の要人とも接触する。中国の実情を自ら観察した林献堂は、確かに梁啓超が言うとおり、中国はこのように混乱している以上、台湾を助けるどころではないことが分かった。そうなると、台湾人は自助努力によって目標を達成しなければならない。林献堂は、①武力で日本の統治者に抵抗するのは難しい、②中国に台湾を解放する能力はない、③日本統治による近代化は成功している──こうした認識を踏まえると、日本統治を当面の前提とした上で権利の向上を図るのが次善の策になると考え、そこで台湾人の地位や待遇を日本人と同等にするよう求めることに民族運動の最初の照準を合わせた。

(続く)

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