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2013年5月23日 (木)

陳培豊『日本統治と植民地漢文──台湾における漢文の境界と想像』

陳培豊『日本統治と植民地漢文──台湾における漢文の境界と想像』(三元社、2012年)

 表意文字の体系としての漢字漢文は、発音できなくても目で見て意味内容を把握することが可能であるため、異言語・異民族間で意思疎通を図る上で有効なツールとなった。そもそも一言で中国語といっても「方言」的な差異が極めて大きく、文化的まとまりとしての「中国」が維持され得たのも、他ならぬ書き言葉としての漢字漢文によるところが大きい。日本、朝鮮半島、ヴェトナムなど東アジア諸国にも伝播していた漢字漢文は、19世紀以降も重要な役割を果たす。近代文明の受容を積極的に開始した日本は、西欧の文献を翻訳するにあたり、漢語を使って新たな語彙を作り出した。近代化に一歩遅れた中国はこうした和製漢語を近代文明受容の手掛かりとし、新知識を摂取するツールとして漢字漢文は東アジア近代における文化的インタラクションの軸になったと言える。

 こうした漢字漢文の特性は、日清戦争後に台湾を領有した日本の植民地経営においても重要なカギとなった。本書は、日本統治期の台湾で漢文のスタイルがどのように変遷していったのかをたどりながら、漢字漢文を用いる台湾人の意識のあり方を分析していく。

 漢字漢文は和製漢語を通して近代文明を摂取し、東アジアにおけるコミュニケーション・ツールとしての役割を担っていた。他方、近代社会は識字率を高めるため言文一致を求める志向性も顕著に認められる。多言語社会の台湾にとって、それは根本的な矛盾をはらむ問題であった。台湾語の書き言葉化が試みられたが、うまくいかない。中国の白話文は北京語を基準としているため、台湾人には縁遠い。漢字漢文の口語化・台湾化で「台湾人の漢文」として独自の展開を示すと、日本人にも中国人にも理解しがたいものとなった。漢字漢文は境界横断的な性格を持ちつつも、その文体解釈のあり方によっては自他を弁別する境界をも生み出していく。台湾を舞台にそうした言語境界が伸縮していく複雑な様相を本書は浮かび上がらせている。

 東アジア近代における漢文の役割、日台中の関係史における言語の問題を考える上でとても興味深い研究で、関心を持った箇所を下記にメモしておく。

・日本は台湾を領有した後、中国語の通訳を帯同したものの、台湾に北京語の話せる人はほとんどおらず、通じなかった。多言語社会の台湾で意思疎通を図るツールとして、目で見て読んで理解できる漢文を利用する。伊沢修二は漢字漢文を媒介として同化教育を推進。漢文で筆談、日本人も一緒に漢詩を唱和。『台湾日日新聞』の漢文欄を章炳麟が、『台湾日報』では内藤湖南が担当。日本本土で漢文は時代遅れとなりつつあったが、台湾での漢詩グループは大正期がむしろ最多となる。

・伝統的な漢文は、儒教的世界観・価値観の担い手としての役割が中心で、近代的啓蒙の知識を伝達するには不向きだった。近代的知識に見合った新しい語彙をどうするか?→「帝国漢文」(大日本帝国憲法のような漢文読み下しの日本文)に用いられる和製漢語から摂取し、そうした影響の中で植民地漢文が現れてくる。『台湾教育会雑誌』の漢文欄には植民地漢文による投稿。国語学校出身者など国語(日本語)教育と関係のある読者層。

・植民地漢文は漢文のクレオール現象と言えるが、いわゆるクレオールとは相違点もある。統治者と被統治者とが文体理解の文化的基盤を共有しており、漢字を生み出した中華文明の方がもともと優位にあった。そうした点で、被統治者が文化的に劣勢だったわけではなく、統治上のヘゲモニーがそのまま文化面に反映されたわけではない。

・広東語を話す梁啓超が台湾に来たとき、閩南語を話す台湾知識人と支障なく意思疎通できた。梁啓超は亡命先の日本で漢文訓読体=「帝国漢文」に触れ、そこから近代的語彙を摂取することで「新民体」を編み出しており、それは台湾の植民地漢文と同源関係→一定の類似性。つまり、日中台が1つの文体解釈共同体を維持していた。

・中国の白話文運動は言文一致を目指していたが、その基準となった口語は北京語であり、台湾語とはかなり違う。台湾で白話文運動に共感した人の文体を見ると、実際には台湾式漢文、和製漢語、和式漢文、正則漢文に新たに北京語の口語体がミックスされた台湾自生の混成漢文となっていた→植民地漢文とあまり変わらない。従来の研究では、中国滞在経験者が「中国白話文」を台湾に持ち帰った影響とされていたが、彼らが実際に中国へ渡ったのは1920年代末期以降のことで、その時点までにはすでに「中国白話文」と称して文章を発表していた。植民地漢文で書きながら「中国白話文」というマントをくるんだだけの錯覚に過ぎなかったのではないか。むしろ、植民地漢文のおかげで彼らは中国へ行っても意思疎通に困らなかったのではないか。

・「中国白話文」を積極的に使おうとした背景には台湾の反植民地意識。しかしながら、「中国白話文」は台湾の言葉から乖離していた→台湾の言葉を「中国白話文」へ近づけるのか? それとも台湾の言葉に見合った書き言葉を作るのか? 台湾話文の表記はどうするのか? そうした問題意識の中から、郷土文学と台湾話文運動が提起される。台湾話文とは、台湾語で読み上げられる文章である。しかし、郷土文学とされる作品の多くで描写の部分は中国白話文に近く、台湾語では読み下せない。叙事的な部分は中国白話文で書き、会話などの部分を台湾話文で書くという「一篇多語」の分業形式。リアリズムや社会的問題意識から、会話の部分には悪罵、恨みつらみなど社会の底辺の貧しさや悲惨さをにじませる→「中国白話文」は典雅、台湾話文は低俗という言語意識が刷り込まれていく。

・近代文学の担い手となり得るためには、翻訳経験の有無が重要。しかし、台湾では日本語に習熟した人の増加→近代的知識を日本語の文献で読む。また、中国白話文の刊行物も多数流入→植民地母国としての日本と文化的祖国としての中国と「二重の同文関係」→台湾人自らが翻訳する必要なし。「中国白話文」を用いようとした人々の動機としては、中国ナショナリズムだけでなく、近代的・啓蒙的知識を摂取するチャネルの拡大など様々な側面を考えなければならない。

・郷土/台湾話文論争では、賛否両派のそれぞれが自らの主張する中国白話文、台湾話文を用いて応酬していたが、日本語・台湾語を体得した台湾知識人のバイリンガルな性格から双方の文章が分かるので、翻訳という手順を経なくても議論は成立していた→両者が「解釈共同体」というコンテクスト内に収まった。「解釈共同体」の境界線をどこに求めるのか?そうした伸縮現象として台湾における言語文体の問題を考える。

・他方で、植民地漢文が口語化・台湾化するに従って、こうした「解釈共同体」から日本人を排除した異文としての台湾人独自の文体が現れてきた。それは、中国から来訪した知識人の江亢虎にも理解しがたく、梁啓超が来台した頃とは明らかに事情が異なる。このようなた植民地漢文の変容に日本人の検閲体制が追いつかなくなり、1937年に各紙の漢文欄が廃止される。1920年代に蔡培火が台湾語のローマ字表記を提唱した際には弾圧された一方、中国白話文による台湾人雑誌メディアは許容されていた→漢字漢文(正則漢文)を媒介として日本語とのつながりの有無によって判断→後者は日本人にも共有された正則漢文の知識で読解できたが、前者は断絶。漢字漢文が日本の国体イデオロギーの中に取り込まれる中、植民地漢文の口語化・台湾化(=台湾語の漢文)は国体イデオロギーの最低ラインを越えていくものとみなされて弾圧の対象となる。

・「日華親善」「日満提携」の触媒、「東亜新秩序建設」「南進」の尖兵として台湾人を使おうとする日本の国策に合致するか否か、という基準も台湾における漢文の位置付けに影響→台湾人同士にしか分からない植民地漢文は不要だが、正則漢文や中国白話文を復活させる。軍隊の通訳は通常の軍夫よりも地位や待遇が上なので中国白話文は立身出世の手段となる。台湾人は中国や日本をコンテクストとした漢文解釈共同体から離脱しようとしていたが、日本は日本語中心の「同化」政策を推進する一方で、大陸進出の方便として台湾を中国の漢文解釈共同体へ引き戻そうとする矛盾。

・戦後は、中国から移住してきた一部の知識人が書く正統的な中国白話文が絶対的な権威となり、これまで台湾人が書いていた「中国白話文」は野暮ったくなった。また、台湾話文派や日本語派も事実上の「文盲」となり、「失語の世代」→かつて抵抗していた日本語を拠り所として外省人との間に一線を画そうとする。

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