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2013年5月 9日 (木)

カール・シュミット『政治思想論集』

カール・シュミット(服部平治・宮本盛太郎訳)『政治思想論集』(ちくま学芸文庫、2013年)

 本書は1974年に社会思想社から刊行された『政治思想論集──付カール・シュミット論』からカール・シュミットの論文6本を抜き出し、別の論文1本と合わせてまとめられている。シュミットが展開した議論の主要論点が随所に見え隠れしており、原典によるコンパクトなシュミット入門として読める構成になっている(大竹弘二による新たな解説「カール・シュミットにおける幾つかの思考モチーフ」が示唆に富む)。以下、一からおさらいするつもりで抜き書きメモ。

・法と倫理との分離
「規範としての法は事実から導き出すことができないという思想は、多くの人々にとって周知の事柄に属する。」「法は倫理に対して独立の存在であり、その尊厳は自己から発するものであって倫理への参与によって得られるものではなく、法とは倫理という内面的自由に対して外面的な条件となるものなのだという関係、つまり、倫理から法への漸次的移行という関係などは承服しかねる、という結論がそれである。」(「法・国家・個人」25~26ページ)

・理念としての法を国家が現実世界へと媒介することで具現化
「国家は、この思想世界を現実の経験的現実と結びつけるものであり、法のエートスの唯一の主体の表われなのである。」(同上、14ページ)

・ロマン主義→政治的決断を下す主体とはなり得ない
「ロマン主義的な世界感情や生活感情というものはきわめて多様な政治状況や相対立する哲学的理論と結びつくことのできるものだ」。「革命の火が燃えている限り政治的ロマン主義は革命的であり、革命の終熄と共に保守的となる。また、政治的ロマン主義は、断固たる反革命的な王政復古期にはそのような状況からですら積極的なロマン主義的感情の側面を引き出すことができるのである。」(「政治理論とロマン主義」47ページ)
「所与の事実は、政治的・歴史的・法的ないし道徳的関連から客観的に考察されるものなどではなく、美的=情念的な関心の対象であり、ロマン主義的熱狂を燃え上がらせるものなのである。このような創造力を左右するのは、大部分、主観的なもの、個体的なもの、すなわち、ロマン主義的自我が自らの独創力で創り出したもうたものなのであるから、正確にみると、客体や対象一般などはもはや問題ではない。そのわけはと言うと、対象が、単なる「きっかけ」に、「端緒」に、「跳躍点」に、「刺激」に、「媒体」に、あるいは、ドイツのロマン主義者たちの間で書き換えられた機因という意味のものになるからである。このことは、外界に対する適合関係を意識的に放棄する、ということである。現実的なものとは、すべて、きっかけとなるものであるにすぎない。客体とは実体も本質も持たないものであり、具体的な点なのであるが、その点の周囲をロマン主義的な人物の活躍する場が回転するのである。それは、いつでも存在はするが、唯一の本質的なロマン主義的像に対して共通の尺度で計ることのできる関係などはもっていないのである。したがって、ある客体を別の客体から客観的に区別することなどもまったくできないことである。そのわけはと言うと、まさに存在するものはもはや客体ではなく、さまざまな機因となるものだけだからである。」(同上、64~65ページ)
「ロマン主義者は意識的に決心して何らかの党派に加担し、決断を下す立場などには立っていないのである。」(同上、67ページ)
「ロマン主義的なもののなかには政治的な創造力はない。」(同上、68ページ)→バーク、メーストル、ボナールといった反革命の理論家たちには正/不正の決断を下す決然たる政治能力があったのに対して、ロマン主義者は受動的に流されていくに過ぎない。
※自由主義の不決断に矛先が向けられているが、カール・レーヴィットなどはシュミットの決断主義そのものが機会便乗的なものになり得るのではないか?と批判している。

・マイネッケが示す法と力という二元論への批判。異常な状態(例外)→決断という契機に国家理性の本質を見出す
「…私には、具体的な状況の正常性とか異常性とかの問題は根本的に重要な問題であるように思われる。異常な状態が存在するということから出発すると、誰でも──その人が世界を徹底的に異常なりとみなすのであれ、特別な状況のみを異常なりと思うのであれ──政治・道徳・法の問題を解決するに際して、何らかの妨害によってかき乱されることがあるにしても、それはささいなものに止まるのだとする原理上の正常さを確信している人とは、違った解決の仕方をするのである。」「異常な状況を容認すると生じてくるのは、特別な類いの、決断主義的な帰結、並びに、次のような意味を認めるということである。すなわち、侵害、表面的に言えばいわゆる「非合理性」(たとえば宗教における予定説)、異常な行動と干渉の承認(たとえば、神により召されたる者a deo excitatusの承認)、さらに独裁、それから主権や絶対主義のような概念、したがってマイネッケが(自らスローガン的に拡張した)国家理性と結びつけようとはしたがその委細については注意を払おうとはしなかった諸観念──の意味を認めるということがそれである。」(「フリードリヒ・マイネッケの『国家理性の理念』に寄せて」85~86ページ)
「…実際において唯一の興味ある問題とは、つねに具体的な場合に何が正当なものなのか、いずこに平和が存するのか、平和を妨げたり危険にさらすものは何か、どういう手段で平和を妨げたり危険にさらしたりする事態が排除されるのか、ある状況が正常で「平和的なの」はいつか、等々を誰が決定するのかということである。」(同上、95ページ)

・多元主義的で機能不全に陥ったヴァイマール国家に対して、強力な全体国家(ファシスト国家)
「このような国家は、その内部で、国家に敵対し、国家の行動を阻止し、あるいは国家を分裂させるような、いかなる勢力の台頭をも許さない。こういう国家は、新たな権力手段を自らの敵や破壊者に明け渡そうなどとは夢にも考えないし、また、自由主義、法治国家、あるいは何と称するつもりであろうとも、ともかく何らかの標語を掲げて、権力を破壊しようなどとも考えない。そのような国家は、友と敵とを区別することができる。」(「ドイツにおける全体国家の発展」111ページ)

・ラジオや映画の出現→世論や国民の一般意思を形成する方法の技術的発展→どのような国家であっても検閲・独占を求めざるを得ず、国家権力の強化をもたらす。また、国家が経済に及ぼす影響の増大(「現代国家の権力状況」)。

・「ナチス法治国」→大竹弘二の要約によると「今日の法治国家は一九世紀以来の自由主義の影響のもとで、単に実定法の遵守を求めるだけの「法律国家」に成り下がっている。だが、実定法という抽象的な規範を守るだけでは、法秩序の安定性は決して確保されない。むしろそのような法的安定性は、実定法体系の基礎にあるより実質的な「具体的秩序」を守ることではじめて保障されるということになる。」しかしながら、「総統の意志」といった恣意的なものに体現させることで、彼自身もまた機会主義に落ち込んでしまったと指摘される。

・服従者から取り付けた同意が権力の源泉?→現代社会において権力は権力者自身をも超えた自律的・客観的存在
「私の言わんとするのは、権力に服従する者すべての完全な同意を得て権力が行使される所でも、権力はやはりある固有の意味をもっているということ、いわば剰余価値をもっている、ということです。権力は、自己が受け取るあらゆる同意の総和以上のものであり、同意の生産物以上のものでもあるのです。今日の分業社会に生きている人間が社会関係にいかに深く縛りつけられているかということを、どうぞ一度なりとも考えてみて下さい! 自然の制約が後景にしりぞいたことは先程みましたが、それに代って社会的な制約が分業社会の現代人に向ってそれだけ一層強く一段と身近にまで迫ってくるのです。そのために、権力への同意をかちとるための動機づけも、一段と強烈なものとなるわけなのです。」(「権力並びに権力者への道についての対話」156ページ)
「権力とは、その時々に権力を掌握するあらゆる人間個人にすら相対立する、客観的で自律的な偉大な存在なのです。」(同上、157ページ)
「次のように言ったところで、少しも歩を進めたことにはなりません。つまり、権力とは技術自身と同じようにそれ自体は善でも悪でもなく中性的なものであるから、権力の性質いかんとは、人間が権力から創り出すものなのだ、と言ったところです。このことは、本来の難事を前にして、つまり、ここで善悪を決定するのは誰かという問題を前にして、問題を回避することにほかなりません。現代の破壊手段の力はこの破壊手段を発明し使用する人間個人の力を凌駕していますが、それは現代の機械自体のもつ、また、その機械が何ごとかを処理するについてもつ能力が、人間の筋肉や脳髄の力をしのぐのと同じことなのです。…権力者個人の権力は、ここでは途方もなく極度に発達を遂げた分業体制から生じてくる状況の、単なる分泌物にすぎないのです。」(同上、178~179ページ)
「万事をとりしきるのは、正真正銘の人間なのではなくて、人間がひき起こした連鎖反応そのものの方なのです。この連鎖反応は、人間の肉体の限界を越えることによって、人間が人間に及ぼすあらゆる考えうる権力の人間間における一切の標準をも越えてしまうのです。この連鎖反応は、保護と服従との関係をもみだしてしまいます。権力の方が技術よりもはるかに人間の手の届かない所にいってしまっておりまして、このような技術上の手段を駆使して他の人びとに権力をふるう人びとは、その権力にさらされている人びととはもはや水いらずの関係などにはないのです。」(同上、179ページ)
「私が言っておりますのは、権力はすべての人にとって、それどころか権力者にとってすらも独立の現実であること、さらにそれはすべての人を権力の弁証法にひっぱり込んでしまうものであること、これだけなのです。権力は、一切の権力への意志よりも強く、いかなる人間の善意よりも強く、また、幸いなことには、いかなる人間の悪意よりも強いのです。」(同上、182ページ)
※権力と責任との関係を曖昧にしてしまう「間接権力」をシュミットは批判していたが、上記の権力論ではまさにシュミット自身がそうした悲観的見解に落ち込んでいると大竹弘二の解説で指摘されている。

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