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2013年5月

2013年5月26日 (日)

【雑感】萩谷由喜子『諏訪根自子──美貌のヴァイオリニスト その劇的な生涯』、深田祐介『美貌なれ昭和──諏訪根自子と神風号の男たち』

 戦前の日本で「天才少女」と謳われた二人の才能──ヴァイオリニストの諏訪根自子(1920~1912)とピアニストの井上園子(1915~1986)。「天才」なる表現はあまりにかまびすしく用いられると食傷気味となってげんなりするものではある。しかし、その奏でる調べにうっとりとした恍惚へと誘われるのをじかに体験したとき、聴き手は言葉では表しがたい感動を以てやはり「天才」と言いたくなるものなのだろう。

 生来の天凛が類稀なるものであっても、それを見出し、育て上げるプロセスがなければ、「天才」なるものは世に現われ得ない。彼女たちが生れた当時の日本で洋楽は一般レベルまで普及していたとは言い難く、またその水準も発展途上にあった。そうした中、諏訪根自子が小野アンナ(1890~1979)やアレクサンドル・モギレフスキー(1885~1953)、井上園子がカテリーナ・トドロヴィッチという世界的レベルの演奏家・音楽教育者と出会えたのは実に僥倖であった。

 彼女たちの才能を開花させた僥倖にはそれなりの時代背景がある。小野アンナ、アレクサンドル・モギレフスキー、カテリーナ・トドロヴィッチはいずれもロシア革命を逃れて日本へ亡命していた白系ロシア人であった。あるいは、1930年代に日本や中国へ来て江文也、伊福部昭、早坂文雄、清瀬保二をはじめとした若手作曲家を発掘した亡命ロシア貴族の音楽家、アレクサンドル・チェレプニンのことも想起される。ロシア革命という政治変動による亡命者の流出は、日本の近代音楽発展にとって重要な貢献をしてくれたと言うこともできよう。

 そう言えば、井上園子は江文也のピアノ曲を演奏会でよく取り上げ、戦前に録音もしていた。江乃ぶ夫人は、井上園子の演奏の素晴らしさがいつまでも印象に残っていたらしい(周婉窈〈緣起於江文也、緣起於曹永坤〉《面向過去而生》允晨文化、2009年、324頁)。井上は戦後、若くして演奏活動をやめてしまった。彼女の評伝があれば読んでみたい。

 ヒトラーが称揚したワーグナーの評価をめぐって現在に至るもナチスの影が落ちていることに顕著なように、本来なら別物であるはずの音楽と政治の関係にキナ臭い緊張が見え隠れすることがある。第二次世界大戦の勃発後、ヨーロッパへ留学していた諏訪根自子も時代状況に流されるように駐独大使大島浩夫妻の後援を受け、ベルリンで演奏会を開いた。ナチスの宣伝大臣ゲッベルスから贈呈されたストラディヴァリウスをめぐり、戦後になると彼女は毀誉褒貶にさらされることになる。彼女の手元にあるストラディヴァリウスはナチスの略奪部隊によってユダヤ人から奪われたものだったのではないかという噂が流れた。ストラディヴァリウスを自らの音楽への評価の表われとしてプライドを持っていた彼女からすれば心外なことで、自らも調査を行い、正規のルートで購入されたものであったと反論をしていた。いずれにせよ、彼女のストラディヴァリウスも、ナチスの犯罪究明に熱意を傾ける人々の視野に入っていたわけで、音楽と「政治的正しさ」をめぐる難しい葛藤には頭を悩ませてしまう。

 萩谷由喜子『諏訪根自子──美貌のヴァイオリニスト その劇的な生涯』(アルファベータ、2013年)は、彼女の音楽へ傾けた純粋で誇り高い情熱と、ストラディヴァリウスをめぐる問題とを分けながら彼女の生涯を描き出しており、好感を持った。本書によると、彼女の死後になって愛用のストラディヴァリウスが贋物だと分かった、と根自子の妹でやはりヴァイオリニストの諏訪晶子(もちろん、諏訪内晶子とは別人)から聞かされたという。真偽のほどは謎のままである。逆に言うと、名器であろうとなかろうと、根自子の奏でる音色は他ならぬ彼女自身ものであったという端的な事実に変わりはない。

 諏訪根自子を描いたもう一冊のノンフィクション、深田祐介『美貌なれ昭和──諏訪根自子と神風号の男たち』(文藝春秋、1983年)のタイトルを見ても分かるように、彼女のイメージには必ず「美貌」というキーワードがついてくる。「美人」なるものへの審美的センスは時代によって微妙に変ってくるものだが、若き日の彼女の写真を見ると、確かに現代の感覚からしても思わず見入ってしまうくらいに気品ある美しさが際立っている。

 ところで、深田の本のタイトルにある「美貌」とは、吉川英治が書いた「美貌なれ国家」という文章に由来する。1937年、日本からヨーロッパまで横断する長距離飛行の世界記録を打ち立てた神風号の操縦士・飯沼正明(1912~1945)、機関士・塚越賢爾(1900~1943)の二人が容姿にすぐれて女性に人気のあったことに触れた文章である。神風号がブリュッセルに降りついたときに花束を持って出迎えた一人が、ベルギー留学中だった諏訪根自子であった。三人の邂逅はこの一回きりであったが、深田はこれを軸にそれぞれの人生の軌跡を描き出していく。洋楽にせよ、飛行機技術にせよ、西洋に追いつけ追い越せ一本やりというだけでなく、ひたむきな凛凛しさを湛えた美貌に、一つの時代精神を見出そうというのが深田の意図なのだろう。

 「神風号」というと「神風特攻隊」が想起されてしまうかもしれないが、それは太平洋戦争末期のこと。1937年のこの時点で、「神風号」は飛行技術の向上と溌溂たる冒険心の象徴だったと言える。

 その後、飯沼と塚越は1941年11月に太平洋横断飛行を志すが、日米関係の緊張、そして開戦という時代状況の中で断念せざるを得なくなる。失意のうちにあった飯沼は、プノンペンの飛行場で滑走路に迷い出て飛行機のプロペラに挟まれるという、プロの操縦士としては考えられない事故で死んだ。「空の英雄」であった飯沼の死は「戦死」と公表され、「血染めの操縦桿」という架空の美談まででっち上げられる。塚越もまた戦争中、シンガポールを飛び立ったまま消息を絶った。

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【メモ】阿南友亮『中国革命と軍隊──近代広東における党・軍・社会の関係』

阿南友亮『中国革命と軍隊──近代広東における党・軍・社会の関係』(慶應義塾大学出版会、2012年)

 なぜ中国共産党が国共内戦を勝ち抜くことができたのか、その理由について研究者の間ではいまだにコンセンサスの得られた結論は出ていない。共産党が実施した社会革命によって農民の支持を取り付け、彼らの積極的な参加によって内戦に勝利したというストーリーが公的に定説とされているが、アカデミックな検証を経ているわけではない。

 共産党の社会革命、具体的に言うと土地改革によって土地の分配を受けた農民が革命運動の担い手となったというモデルは、共産党が軍隊を形成し始めた初期の段階から語られている。実際にはどうであったのか? 本書は軍隊に兵員を供給する社会的背景との関係に注目し、1920~30年代の広東省における共産党軍の動向について当時の史料を駆使しながら丹念に検証を進めるている。下記にメモしたように、「革命の論理」が標榜されつつも、その背景には伝統的・土着的社会との連続性が垣間見えてくる。本書の着眼点を地域的・時代的に広げて検証を続ければ、共産党の「建国神話」を相対化し、ひいては中国現代史を大きく描き変える可能性すら感じさせ、興味深い。

・共産党による階級闘争や社会革命の推進によって土地を分配された農民たちが革命戦争へ積極的に加わったというのが従来の通説であった。当時の共産党が党の指導下で動員し得る近代的軍隊の形成を目指していたのは確かである。しかしながら、当時の史料を調べてみると、実際にはうまくいっていない。
・当時の広東省には潤沢な武器弾薬が流れ込み、農民たちが高度に武装して宗族単位で自衛集団が形成されていた。共産党はむしろ、もともと広東に存在していた宗族間の対立関係に乗っかる、つまり、ある宗族が国民党の後ろ盾を得ているなら、敵対する宗族は共産党に従うという伝統的な分類械闘の論理を利用する形で武力を確保した。
・実際に動員された農民たちはあくまでも自分たちの生き残りが目的であった。従って、革命事業の推進という共産党の理念と宗族の生き残りという地元民の伝統的な思惑との二つの論理をかみ合わせることで当時の広東における共産党の軍事力は成立した。地元出身で宗族と血族的な関係のある党員が接着剤となり、二つの論理を読み替えながら共闘関係を作り上げる必要があった。
・社会変革の進行による農民の支持によって軍事力が形成されたのではない。既存の武力を一定レベルまで確保できさえすれば、その武力を後ろ盾に一定の管理・監視権力を行使して住民の徴発が可能となり、軍隊が拡大される。つまり、共産党が試みた土地革命とは関係なく、様々な手段を駆使して既存の武力をかき集められたからこそ、それがその後の活動を展開する基礎となった。

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2013年5月23日 (木)

陳培豊『日本統治と植民地漢文──台湾における漢文の境界と想像』

陳培豊『日本統治と植民地漢文──台湾における漢文の境界と想像』(三元社、2012年)

 表意文字の体系としての漢字漢文は、発音できなくても目で見て意味内容を把握することが可能であるため、異言語・異民族間で意思疎通を図る上で有効なツールとなった。そもそも一言で中国語といっても「方言」的な差異が極めて大きく、文化的まとまりとしての「中国」が維持され得たのも、他ならぬ書き言葉としての漢字漢文によるところが大きい。日本、朝鮮半島、ヴェトナムなど東アジア諸国にも伝播していた漢字漢文は、19世紀以降も重要な役割を果たす。近代文明の受容を積極的に開始した日本は、西欧の文献を翻訳するにあたり、漢語を使って新たな語彙を作り出した。近代化に一歩遅れた中国はこうした和製漢語を近代文明受容の手掛かりとし、新知識を摂取するツールとして漢字漢文は東アジア近代における文化的インタラクションの軸になったと言える。

 こうした漢字漢文の特性は、日清戦争後に台湾を領有した日本の植民地経営においても重要なカギとなった。本書は、日本統治期の台湾で漢文のスタイルがどのように変遷していったのかをたどりながら、漢字漢文を用いる台湾人の意識のあり方を分析していく。

 漢字漢文は和製漢語を通して近代文明を摂取し、東アジアにおけるコミュニケーション・ツールとしての役割を担っていた。他方、近代社会は識字率を高めるため言文一致を求める志向性も顕著に認められる。多言語社会の台湾にとって、それは根本的な矛盾をはらむ問題であった。台湾語の書き言葉化が試みられたが、うまくいかない。中国の白話文は北京語を基準としているため、台湾人には縁遠い。漢字漢文の口語化・台湾化で「台湾人の漢文」として独自の展開を示すと、日本人にも中国人にも理解しがたいものとなった。漢字漢文は境界横断的な性格を持ちつつも、その文体解釈のあり方によっては自他を弁別する境界をも生み出していく。台湾を舞台にそうした言語境界が伸縮していく複雑な様相を本書は浮かび上がらせている。

 東アジア近代における漢文の役割、日台中の関係史における言語の問題を考える上でとても興味深い研究で、関心を持った箇所を下記にメモしておく。

・日本は台湾を領有した後、中国語の通訳を帯同したものの、台湾に北京語の話せる人はほとんどおらず、通じなかった。多言語社会の台湾で意思疎通を図るツールとして、目で見て読んで理解できる漢文を利用する。伊沢修二は漢字漢文を媒介として同化教育を推進。漢文で筆談、日本人も一緒に漢詩を唱和。『台湾日日新聞』の漢文欄を章炳麟が、『台湾日報』では内藤湖南が担当。日本本土で漢文は時代遅れとなりつつあったが、台湾での漢詩グループは大正期がむしろ最多となる。

・伝統的な漢文は、儒教的世界観・価値観の担い手としての役割が中心で、近代的啓蒙の知識を伝達するには不向きだった。近代的知識に見合った新しい語彙をどうするか?→「帝国漢文」(大日本帝国憲法のような漢文読み下しの日本文)に用いられる和製漢語から摂取し、そうした影響の中で植民地漢文が現れてくる。『台湾教育会雑誌』の漢文欄には植民地漢文による投稿。国語学校出身者など国語(日本語)教育と関係のある読者層。

・植民地漢文は漢文のクレオール現象と言えるが、いわゆるクレオールとは相違点もある。統治者と被統治者とが文体理解の文化的基盤を共有しており、漢字を生み出した中華文明の方がもともと優位にあった。そうした点で、被統治者が文化的に劣勢だったわけではなく、統治上のヘゲモニーがそのまま文化面に反映されたわけではない。

・広東語を話す梁啓超が台湾に来たとき、閩南語を話す台湾知識人と支障なく意思疎通できた。梁啓超は亡命先の日本で漢文訓読体=「帝国漢文」に触れ、そこから近代的語彙を摂取することで「新民体」を編み出しており、それは台湾の植民地漢文と同源関係→一定の類似性。つまり、日中台が1つの文体解釈共同体を維持していた。

・中国の白話文運動は言文一致を目指していたが、その基準となった口語は北京語であり、台湾語とはかなり違う。台湾で白話文運動に共感した人の文体を見ると、実際には台湾式漢文、和製漢語、和式漢文、正則漢文に新たに北京語の口語体がミックスされた台湾自生の混成漢文となっていた→植民地漢文とあまり変わらない。従来の研究では、中国滞在経験者が「中国白話文」を台湾に持ち帰った影響とされていたが、彼らが実際に中国へ渡ったのは1920年代末期以降のことで、その時点までにはすでに「中国白話文」と称して文章を発表していた。植民地漢文で書きながら「中国白話文」というマントをくるんだだけの錯覚に過ぎなかったのではないか。むしろ、植民地漢文のおかげで彼らは中国へ行っても意思疎通に困らなかったのではないか。

・「中国白話文」を積極的に使おうとした背景には台湾の反植民地意識。しかしながら、「中国白話文」は台湾の言葉から乖離していた→台湾の言葉を「中国白話文」へ近づけるのか? それとも台湾の言葉に見合った書き言葉を作るのか? 台湾話文の表記はどうするのか? そうした問題意識の中から、郷土文学と台湾話文運動が提起される。台湾話文とは、台湾語で読み上げられる文章である。しかし、郷土文学とされる作品の多くで描写の部分は中国白話文に近く、台湾語では読み下せない。叙事的な部分は中国白話文で書き、会話などの部分を台湾話文で書くという「一篇多語」の分業形式。リアリズムや社会的問題意識から、会話の部分には悪罵、恨みつらみなど社会の底辺の貧しさや悲惨さをにじませる→「中国白話文」は典雅、台湾話文は低俗という言語意識が刷り込まれていく。

・近代文学の担い手となり得るためには、翻訳経験の有無が重要。しかし、台湾では日本語に習熟した人の増加→近代的知識を日本語の文献で読む。また、中国白話文の刊行物も多数流入→植民地母国としての日本と文化的祖国としての中国と「二重の同文関係」→台湾人自らが翻訳する必要なし。「中国白話文」を用いようとした人々の動機としては、中国ナショナリズムだけでなく、近代的・啓蒙的知識を摂取するチャネルの拡大など様々な側面を考えなければならない。

・郷土/台湾話文論争では、賛否両派のそれぞれが自らの主張する中国白話文、台湾話文を用いて応酬していたが、日本語・台湾語を体得した台湾知識人のバイリンガルな性格から双方の文章が分かるので、翻訳という手順を経なくても議論は成立していた→両者が「解釈共同体」というコンテクスト内に収まった。「解釈共同体」の境界線をどこに求めるのか?そうした伸縮現象として台湾における言語文体の問題を考える。

・他方で、植民地漢文が口語化・台湾化するに従って、こうした「解釈共同体」から日本人を排除した異文としての台湾人独自の文体が現れてきた。それは、中国から来訪した知識人の江亢虎にも理解しがたく、梁啓超が来台した頃とは明らかに事情が異なる。このようなた植民地漢文の変容に日本人の検閲体制が追いつかなくなり、1937年に各紙の漢文欄が廃止される。1920年代に蔡培火が台湾語のローマ字表記を提唱した際には弾圧された一方、中国白話文による台湾人雑誌メディアは許容されていた→漢字漢文(正則漢文)を媒介として日本語とのつながりの有無によって判断→後者は日本人にも共有された正則漢文の知識で読解できたが、前者は断絶。漢字漢文が日本の国体イデオロギーの中に取り込まれる中、植民地漢文の口語化・台湾化(=台湾語の漢文)は国体イデオロギーの最低ラインを越えていくものとみなされて弾圧の対象となる。

・「日華親善」「日満提携」の触媒、「東亜新秩序建設」「南進」の尖兵として台湾人を使おうとする日本の国策に合致するか否か、という基準も台湾における漢文の位置付けに影響→台湾人同士にしか分からない植民地漢文は不要だが、正則漢文や中国白話文を復活させる。軍隊の通訳は通常の軍夫よりも地位や待遇が上なので中国白話文は立身出世の手段となる。台湾人は中国や日本をコンテクストとした漢文解釈共同体から離脱しようとしていたが、日本は日本語中心の「同化」政策を推進する一方で、大陸進出の方便として台湾を中国の漢文解釈共同体へ引き戻そうとする矛盾。

・戦後は、中国から移住してきた一部の知識人が書く正統的な中国白話文が絶対的な権威となり、これまで台湾人が書いていた「中国白話文」は野暮ったくなった。また、台湾話文派や日本語派も事実上の「文盲」となり、「失語の世代」→かつて抵抗していた日本語を拠り所として外省人との間に一線を画そうとする。

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2013年5月14日 (火)

佐藤孝一『「中国脅威論」とASEAN諸国──安全保障・経済をめぐる会議外交の展開』

佐藤孝一『「中国脅威論」とASEAN諸国──安全保障・経済をめぐる会議外交の展開』(勁草書房、2012年)

ASEANはもともと隣国同士で紛争の火種がくすぶっていたので域内諸国間の摩擦を鎮静化することを目的として出発し、またベトナム戦争の飛び火も恐れて、1967年にインドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイの5カ国で結成された。ただし、互いの疑心暗鬼は消えておらず、ソ連や中国を刺激したくないという思惑もあったため、拘束力の弱い宣言で設立され、目立つ機構化は避けるという形で出発した。ASEANは弱小国の集まりである。しかし、1国では相手にしてもらえなくても域外大国とも集団交渉で協議を進めてきたのが持ち味であり、さらに交渉相手国に応じて国際会議を分離し、会議外交の重層化・多元化という特徴を示すようになっている。

小国の集まりであるASEANにとって、良くも悪くも巨大な存在感を持つ中国の動向には敏感となる。「中国脅威論」に基づいて提起されたテーマは下記に挙げたように様々であるが、こうした課題に直面したASEAN諸国は「弱者の武器」としての会議外交によってどのように抑え込みを図ってきたのか? 本書では具体的なケースが検討されるが、ASEANの会議外交は能力に見合った成果を挙げているものの、大国相手の限界も同時に浮き彫りにされる。

「中国脅威論」として6つの要素が示されているが、ステージごとに考えると、歴史的問題(1940年代~1989年)→南シナ海紛争・SEANWFZ構想(1974~2005年)→経済問題(1993~2007年)→非伝統的安全保障問題(2003~2007年)という時期区分ができる。つまり、当初は政治的紛争が中心であったが、近年では経済や保健衛生など政治的能力・意思では解決のできない分野へと焦点が移りつつあることがうかがえる。

・「中国脅威論」の要素として何が挙げられるか?
①歴史的要素:中国共産党が東南アジア諸国内の共産党を支援した過去。
②軍事的要素:国防費の増大及び国防の近代化。中国軍の海洋進出。中国の武器移転。
③政治的要素:領土・領海紛争。中国における愛国主義の高まり。「大中華」形成への懸念。華人が多いシンガポールは中国との取引が増えるにつれて中国べったりという印象からASEAN内で孤立する懸念。民主主義・人権問題。
④経済的要素:貿易摩擦。「大中華」経済圏の懸念。中国における人口増大及びエネルギー需要の急増。
⑤非伝統的安全保障要素:環境問題。感染症や食品衛生の問題。
⑥規模の要素:巨大さそのものによる圧迫感。

・ASEANレジームの特徴
①拘束が少なく、政策決定は全会一致とする緩やかな会議形態→最大公約数的な要求しか提起できない一方、域外の交渉相手国(中国)を怒らせないようトーンダウンするケースもある。
② 紛争当事者の間の対話の維持と継続を優先させる。
③国際会議を地域協力の促進の基礎とする。
④必要に応じて新たな国際会議を設立して組織の強化と国際環境への適応を図る。
⑤会議の主催国・議長国を加盟諸国が担当。
⑥非公式協議の活用。

(以下は関心を持った箇所のメモ)
・投資額や出稼ぎ労働者の行き先などを考えるとASEANにとって台湾の経済的重要性は無視できない。当然ながら、対中関係で大きなネックとなるが、中国側の「1つの中国」政策に一貫性がないため、ASEAN側は難しい舵取りを迫られる。例えば、シンガポールは要人の台湾来訪に際して中国側に配慮していたが、突如、中国側の態度が強硬になった。陳水扁政権で中台関係が悪化していた頃で、シンガポールに対する反発というよりは、台湾との交流を抑止する手段としてシンガポールを非難した。裏返せば、中台関係が安定していれば、ASEAN諸国の台湾との関係も安定する。

・南シナ海の領土紛争には多くの当事国の利害が錯綜しており、とりわけスプラトリー諸島には中国、台湾、ベトナム、マレーシア、フィリピン、ブルネイが関わる。ASEAN加盟国同士でも領土対立があるため一枚岩ではない。当然ながら自国の権益を優先して考えるため、会議外交の持ち味を出しづらく、中国は会議外交に応ずるのではなく二国間交渉を進めようとした。これに応じて、例えばマレーシアは、スプラトリー諸島の定義が定まっていないことに着目し、その範囲を狭く定義し直す中で自らの主張する島嶼はそこから外し、その上で中国の主権を認めるという妥協案で中国側と交渉する意向もあったらしい。また、軍事的に劣勢なフィリピンに対しては他の加盟国も容赦ない態度を取った。他方、フィリピンが領有を主張するミスチーフ礁を人民解放軍が占拠した際(1995年)、中国の外交部はその事実を知らなかったという。2002年、強制力のない「南シナ海における係争当事者間の行動宣言」が合意され、2003年に中国はTAC(東南アジア友好協力条約)に域外国として加盟、「平和と繁栄のためのASEAN中国戦略的パートナーシップ宣言」も出された。これは外相主導の合意→中国では外交部と人民解放軍との連携が密ではないため、人民解放軍を加えると交渉が紛糾する恐れがあった。こうした合意に拘束力は弱いとはいえ、中国を国際的監視の下に置けた意味では成果と言える。中・比・越の共同探査も行われたが、中国が今後も融和的な態度を取るかどうかは分からない。

・SEANWFZ(東南アジア非核兵器地帯)構想は冷戦の東西対立巻き込まれるのを回避するために出された1971年のZOPFAN(東南アジア平和・自由・中立地帯)宣言までさかのぼるが、1983年からインドネシア政府の主導で議論され、1997年に条約として発効した。ただし、条約化しても非力なASEAN諸国では実現するのは難しい。なぜ急いで条約化したのか? まず会議外交の結集点としての役割があるだろうが、SEANWFZ条約に含まれる次の2点、すなわち、第一に加盟国領域だけでなく大陸棚や排他的経済水域まで及び、第二に原子力潜水艦の航行が制限されることを考えると、中国向けのメッセージとしての意味合いもあるのではないかと推測される。南シナ海にのびたU字線は中国の領土拡張の意思、ミスチーフ礁の占拠はその具体的な実施、核実験や台湾危機におけるミサイル演習など軍事力の誇示、さらに台湾危機は台湾への出稼ぎにも影響、こういった要因をASEAN側は脅威と受け止めていた。

・東南アジアの華人が市場原理に基づいて対中投資を進めたとしても、他のエスニック・グループから「大中華経済圏」「中国脅威論」の猜疑心を招いてしまうおそれ。華人が多いシンガポールの政治指導者はASEAN内部での孤立を懸念して火消しに躍起になっていた。また、シンガポール製品の輸出市場を中国に独占されるのではないかという要素も強かった。2002年に締結されたACFTA(ASEAN中国自由貿易地域)は中国からの譲歩も得ており、会議外交の成果。

・非伝統的安全保障問題の一例として、中国で発生したSARSの拡大。WHOは中国を非難したため中国の態度は硬くなっていたが、シンガポールのゴー・チョクドン首相のイニシアティブによってWHOとASEAN首脳会議、ASEAN中国首脳会議が連携し、SARS拡散食い止めに尽力。ASEAN側は会議外交の枠組みを通して中国を説得できたが、中国の責任追及まではできなかった。他に、メコン川の水資源配分に関わる環境問題。食品衛生問題では自らの非を認めることはなく、逆に報復措置→ASEANは会議外交の枠組みで粘り強く交渉。相手のメンツをつぶさない会議外交方式は中国相手には一定の効果。中国国内において悪しき官僚主義や秘密主義で横の連携ができないことによる対策や情報伝達の遅れ、不作為も「中国脅威論」の政治的要素となる。

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2013年5月13日 (月)

仲正昌樹『カール・シュミット入門講義』、大竹弘二『正戦と内戦──カール・シュミットの国際秩序思想』

 カール・シュミットについて浩瀚だが内容的に充実した本を2冊読んだ。私はシュミットに関心はあるものの、専門的な議論を展開するような力量はないので、興味を抱いた部分についてのみメモしておく。

 仲正昌樹『カール・シュミット入門講義』(作品社、2013年)は、『政治的ロマン主義』『政治神学』『政治的なものの概念』の3冊を精読する講義形式。補完的に『パルチザンの理論』『大地のノモス』『陸と海と──世界史的考察』なども取り上げ、邦訳では分かりづらい箇所は適宜、ドイツ語原書にあたって丁寧に読みくだかれていく。シュミットの問題提起は何だったのかを明確にした上で、彼の組み立てたロジックを講義受講者(=読者)と一緒に読み解いていく構成だから、読み手自身の問題意識に応じて読むと理解しやすいだろう。

 論敵や批判対象との議論の要点が整理されているので、思想史的な背景におけるシュミットの位置付けが明確となる。そこから、現代思想の論点と共通する部分まで見えてくるのが面白い。例えば、
・「政治的ロマン主義」への批判、つまり価値観的な判断を保留して議論の実質を先送りしている言論状況への批判という点では、ドイツ・ロマン主義とポストモダン思想(エクリチュールの戯れ!)とで共通する。
・ケルゼンなど法実証主義は中立性・客観性を標榜するが、そもそもなぜ法が成立したのかという核心に触れることはできない。中立性という装いの背景にも実際には何らかの価値観が潜んでおり、そうした欺瞞をひきはがそうとする点でシュミットとポストモダン左翼の立ち位置は共通している。
・「友/敵」概念が明確にされていた頃は戦争が枠づけされ、際限なくエスカレートしていくのが防止された。ところが、普遍的正義を標榜すると、相手を「正しい敵」とみなすのではなく、道徳的な意味での無法者として断罪することになり、それがかえって果てしない闘争につながってしまう。こうしたシュミットの論点は、現代におけるアメリカ的普遍主義に対する批判と共通する。

 シュミット思想の主要論点はヴァイマール共和政の機能不全という具体的な政治状況を目の当たりにする中から研ぎ澄まされており、シュミット研究もおおむねこの時期に集中する傾向がある。そうした中、大竹弘二『正戦と内戦──カール・シュミットの国際秩序思想』(以文社、2009年)は彼の国際秩序思想に注目する中で、ヴァイマール以前の初期から戦後の晩年にいたるまでシュミット思想の特徴や変化を総体的に捉えた力作である。本書を論評する力量は私にはないが、「普遍性」に対する論争的性質に着目している箇所に関心を持った。私の関心に応じて以下にメモだけしておく。

・シュミットの視座には、法概念や言説規範をめぐる闘争という特徴がある。つまり、言説を支配する者こそが政治的支配をも獲得すると考えたとき、理念的で普遍性を志向する規範主義は、むしろ概念を通した帝国主義支配としての力を持つ。しかしながら、保護と服従の直接的な関係に政治支配の具体性があるとすれば、概念的規範を通じた「間接権力」は、保護の責任を持つ政治的主体が見えないという欠点をさらけ出す。ドイツは西欧自由主義を受け入れることで精神的な自立性を失ってしまっており、自前の概念的規定を持つことこそが政治的自立につながると彼は考えていた。

・人間のあらゆる行為において何らかの事態に直面したときの一回的な応答をいかに考えるかという問題意識がシュミットの思考の基本にある。政治的実践における、普遍的なものには回収され得ない具体的な一回性、それをいかに取り戻すのか? 『政治的なものの概念』でシュミットが「友/敵」結束に着目したのは、抗争という具体的なコンテクストの中に「政治」の本質が見えてくるという洞察であったが、戦後のシュミットはパルチザンの土地的な性格に注目した。冷戦状況下、土地に根ざしたパルチザンも闘争上の支援を得るため米ソなど「利害ある第三者の関与」が必要不可欠となる。ところが、そうした「第三者」と関わりを持つと、パルチザンの土地的・具体的一回性という闘争の性質が、イデオロギー対立という抽象性・一般性の中に絡めとられてしまう困難。

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2013年5月11日 (土)

平岡昭利『アホウドリと「帝国」日本の拡大──南洋の島々への進出から侵略へ』

平岡昭利『アホウドリと「帝国」日本の拡大──南洋の島々への進出から侵略へ』(明石書店、2012年)

 日本の場合もそうだが、海上における国境紛争は島の領有権をめぐる争いとして具体化する。そうした島々は、人が住むのに適さない荒涼たる小島であることが多い。漁業資源や埋蔵資源を確保するため領海を出来る限り広げておきたいという思惑があるのはもちろんだが、そもそもこうした島々を領有化したきっかけは何だったのだろうか? ある意味、山師の投機的行動が領土拡大のきっかけになったと言えるのかもしれない。

 幕府によって領有されていた小笠原諸島は幕末・維新の混乱の中でいったん放棄されていたが、1876年から再統治されることになった。この時に小笠原へ派遣された人員の一人だった八丈島の大工、玉置半右衛門は開墾事業を進める中、アホウドリの羽毛は高値で売れることに目をつけた。乱獲でアホウドリが減少すると、さらなる富を求めて1906年には南大東島を開拓する。玉置の成功は一攫千金を狙う山師的な人々を駆り立てた。彼らは南鳥島や尖閣諸島をはじめアホウドリのいそうな島を求めて血眼になり、南洋進出の直接的なきっかけとなる。本書では「バード・ラッシュ」と表現されるが、こうした動向は明治後期に盛り上がった南進論とも連動して、志賀重昂や榎本武揚なども支援していた。日本人の密猟者はミッドウェー諸島やウェーク島にまで上陸し、アメリカと外交問題になったばかりか、乱獲に対する批判的な世論がアメリカ側で盛り上がったという。

 彼らの行く先々で、繁殖のサイクルを無視した乱獲が繰り返されるうちにアホウドリはいなくなっていく。他方、こうした島々には肥料の原料となるグアノ(鳥糞)・リン鉱があることが注目された。グアノ・リン鉱を運ぶには運搬船が必要だし、肥料を製造する工場も建設しなければならない。それまでの山師的な投機行動は組織的な経営形態へと転換されていく。玉置は南大東島でサトウキビ栽培を始めたが、その事業が東洋精糖(後に大日本精糖に合併)へ転売されると、島単位で独占資本の所有・経営によるプランテーションが展開された。そこでは会社─八丈島出身者─沖縄出身者という階層構造で事業が行われたらしい。また、東沙島に上陸した西澤吉治はここを西澤島と名づけて大々的な開発に乗り出したため(「西澤島通用引換券」という独自通貨を発行するなど島単位の経済圏を作っていた)、清朝との間で外交問題を引き起こし、西澤は退去することになった。

 第一次世界大戦でドイツ領南洋諸島を日本軍は占領したが、この作戦を実施した海軍軍務局長の秋山真之は西澤島事件の際に西澤と関わりを持って以来、リン鉱の重要性に目をつけていた。秋山を介して結びついた西澤と三井物産の山本条太郎は南洋経営組合を設立、南洋諸島におけるリン鉱の開発を進めたが、一民間企業と海軍との結びつきが批判され、やがてリン鉱事業は海軍直営に移管されることになる。

 著者は人文地理学を専門としており、そもそも無人島へ上陸した動機を解明しようというのが研究のきっかけだったという。山師の投機行動という民間の経済活動が無人島への上陸という形で領土拡張のきっかけを作り出し、それが経営スタイルの変化に応じて国策的南進へと質的に転換していく動態が興味深い。

 無人島への上陸は、水や食糧の補給がままならない当時、単に冒険者的な勇気では済まされない。玉置のような事業経営者はアホウドリ捕殺作業のため労働者を送り込んだが、補給船が来ないまま、事実上、置き去りにされて餓死した事件も起こっている。交代要員を送り込む際に採取された羽毛だけを回収しており、置き去りも意図的だったのかもしれない。そのように死んでいった人々の存在はそのまま忘れ去られていった。日本の国策的南進に先立って、例えば「からゆきさん」など無名の民間人の足取りがあったことも知られているが、そうしたコンテクストの中で見ると、「南進」の歴史に埋もれた「無告の民」の悲劇の一例とも言えよう。

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石剛 編著・監訳『「牛鬼蛇神を一掃せよ」と文化大革命──制度・文化・宗教・知識人』

石剛 編著・監訳『「牛鬼蛇神を一掃せよ」と文化大革命──制度・文化・宗教・知識人』(三元社、2012年)

 文化大革命そのものよりも、これを現出させることとなった中国社会の内在的要因の解明を目指し、社会制度的・思想構造的な観点からアプローチした論文が集められている。目次は以下の通り。

・王毅(浜田ゆみ訳)「「牛鬼蛇神を一掃せよ」が「文革」の綱領となる過程及びその文化的根源」:文化大革命のスローガンの後景に、打倒相手を妖魔化する原始的・深層意識的なレトリックを指摘。
・印紅標(光田剛訳)「紅衛兵「破四旧」の文化と政治」
・楊麗君「文革期における集団的暴力行為の制度的要因」:私的領域と公的領域を分けるのが近代社会の特徴とするなら、中国では私的領域がなく、公的領域が生活を覆い尽くしている→退出する道がないためあらゆる場面で闘争が拡大したことを指摘。
・王力雄(渡辺祐子訳)「チベット問題に対する文化的懸検証」「チベット仏教の社会的機能とその崩壊」
・張博樹(藤井久美子訳)「中国現代「党化教育」制度化の過程」
・謝泳(浜田ゆみ訳)「思想改造運動の起源及び中国知識人への影響」
・呉廸(浜田ゆみ訳)「ユートピアの実験──毛沢東の「新人と新世界」」
・干春松(光田剛訳)「1973年の梁漱溟と馮友蘭」
・単世聯(桑島久美子訳)「1949年以後の朱光潜──自由主義からマルクス主義へ」

 私は梁漱溟にちょっと関心があるので、干春松論文の概要を以下にメモしておく。梁漱溟については、Guy S. Alitto, The Last Confucian: Liang Shu-ming and the Chinese Dilemma of Modernity, 2nd edition, University of California Press, 1986(ガイ・S・アリット『最後の儒者:梁漱溟と近代をめぐる中国のジレンマ』)を読んだときのメモをこちらにアップしてある。

・儒学研究の大家として知られた梁漱溟と馮友蘭。批林批孔運動にあたって、節度を曲げなかった梁と政治的風潮に迎合して孔子批判を行った馮、この二人を崇高さ/卑小さといった個人的な節度の問題として捉えるだけで良いのだろうか?
・梁漱溟は学問に退避していたのではなく、むしろ政治・社会の問題に強い関心を持っていた。晩年に彼の話を聞きにいった景海峰によると、彼は自らの文化的著述への執着はあまりなかったが、むしろ国共両党の間を取り持とうと奔走した時期の筆墨文章は後世に残したいと念を押していたという。
・知識分子について、独立的な立場からの批評者としての役割という啓蒙的な基準から評価する考え方だけでは、中国の知識階層のイメージをつかむのは難しい。伝統的な中国の知識階層の考え方は、自分の考え方の実現を聖明な君主への期待に寄託するというもの。儒家の立場と現実政治とのあいだの関連を調整しようとした立場で馮を考えてもいいだろう。梁と馮の二人とも、順応的な時もあれば抗争的な時もあった。
・梁漱溟は1949年以前から民主人士として知られ、毛沢東から何度も政府に参加するよう求められたのに対して、彼は「政府の外側にとどまる」ことを希望した経緯がある。対して馮友蘭は、国民党代表大会の代表に加わっていたことがある→過去の過ち→1949年に毛沢東に改悛の手紙を送り、「誠実であれ」という返信→以後の政治活動の基調を決定。
・毛沢東というカリスマの位置→知識分子に新しい秩序を受け入れさせた要素。
・1949年以後の新政権は、過去の社会との断絶を強調した新たな権力体系で、これが中国社会を近代化へと推し進めていると認識したとき、従来から持っていた考え方の無力感→旧説を捨て、新しい権威の要求に一致するような解釈を構成していく。

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2013年5月 9日 (木)

カール・シュミット『政治思想論集』

カール・シュミット(服部平治・宮本盛太郎訳)『政治思想論集』(ちくま学芸文庫、2013年)

 本書は1974年に社会思想社から刊行された『政治思想論集──付カール・シュミット論』からカール・シュミットの論文6本を抜き出し、別の論文1本と合わせてまとめられている。シュミットが展開した議論の主要論点が随所に見え隠れしており、原典によるコンパクトなシュミット入門として読める構成になっている(大竹弘二による新たな解説「カール・シュミットにおける幾つかの思考モチーフ」が示唆に富む)。以下、一からおさらいするつもりで抜き書きメモ。

・法と倫理との分離
「規範としての法は事実から導き出すことができないという思想は、多くの人々にとって周知の事柄に属する。」「法は倫理に対して独立の存在であり、その尊厳は自己から発するものであって倫理への参与によって得られるものではなく、法とは倫理という内面的自由に対して外面的な条件となるものなのだという関係、つまり、倫理から法への漸次的移行という関係などは承服しかねる、という結論がそれである。」(「法・国家・個人」25~26ページ)

・理念としての法を国家が現実世界へと媒介することで具現化
「国家は、この思想世界を現実の経験的現実と結びつけるものであり、法のエートスの唯一の主体の表われなのである。」(同上、14ページ)

・ロマン主義→政治的決断を下す主体とはなり得ない
「ロマン主義的な世界感情や生活感情というものはきわめて多様な政治状況や相対立する哲学的理論と結びつくことのできるものだ」。「革命の火が燃えている限り政治的ロマン主義は革命的であり、革命の終熄と共に保守的となる。また、政治的ロマン主義は、断固たる反革命的な王政復古期にはそのような状況からですら積極的なロマン主義的感情の側面を引き出すことができるのである。」(「政治理論とロマン主義」47ページ)
「所与の事実は、政治的・歴史的・法的ないし道徳的関連から客観的に考察されるものなどではなく、美的=情念的な関心の対象であり、ロマン主義的熱狂を燃え上がらせるものなのである。このような創造力を左右するのは、大部分、主観的なもの、個体的なもの、すなわち、ロマン主義的自我が自らの独創力で創り出したもうたものなのであるから、正確にみると、客体や対象一般などはもはや問題ではない。そのわけはと言うと、対象が、単なる「きっかけ」に、「端緒」に、「跳躍点」に、「刺激」に、「媒体」に、あるいは、ドイツのロマン主義者たちの間で書き換えられた機因という意味のものになるからである。このことは、外界に対する適合関係を意識的に放棄する、ということである。現実的なものとは、すべて、きっかけとなるものであるにすぎない。客体とは実体も本質も持たないものであり、具体的な点なのであるが、その点の周囲をロマン主義的な人物の活躍する場が回転するのである。それは、いつでも存在はするが、唯一の本質的なロマン主義的像に対して共通の尺度で計ることのできる関係などはもっていないのである。したがって、ある客体を別の客体から客観的に区別することなどもまったくできないことである。そのわけはと言うと、まさに存在するものはもはや客体ではなく、さまざまな機因となるものだけだからである。」(同上、64~65ページ)
「ロマン主義者は意識的に決心して何らかの党派に加担し、決断を下す立場などには立っていないのである。」(同上、67ページ)
「ロマン主義的なもののなかには政治的な創造力はない。」(同上、68ページ)→バーク、メーストル、ボナールといった反革命の理論家たちには正/不正の決断を下す決然たる政治能力があったのに対して、ロマン主義者は受動的に流されていくに過ぎない。
※自由主義の不決断に矛先が向けられているが、カール・レーヴィットなどはシュミットの決断主義そのものが機会便乗的なものになり得るのではないか?と批判している。

・マイネッケが示す法と力という二元論への批判。異常な状態(例外)→決断という契機に国家理性の本質を見出す
「…私には、具体的な状況の正常性とか異常性とかの問題は根本的に重要な問題であるように思われる。異常な状態が存在するということから出発すると、誰でも──その人が世界を徹底的に異常なりとみなすのであれ、特別な状況のみを異常なりと思うのであれ──政治・道徳・法の問題を解決するに際して、何らかの妨害によってかき乱されることがあるにしても、それはささいなものに止まるのだとする原理上の正常さを確信している人とは、違った解決の仕方をするのである。」「異常な状況を容認すると生じてくるのは、特別な類いの、決断主義的な帰結、並びに、次のような意味を認めるということである。すなわち、侵害、表面的に言えばいわゆる「非合理性」(たとえば宗教における予定説)、異常な行動と干渉の承認(たとえば、神により召されたる者a deo excitatusの承認)、さらに独裁、それから主権や絶対主義のような概念、したがってマイネッケが(自らスローガン的に拡張した)国家理性と結びつけようとはしたがその委細については注意を払おうとはしなかった諸観念──の意味を認めるということがそれである。」(「フリードリヒ・マイネッケの『国家理性の理念』に寄せて」85~86ページ)
「…実際において唯一の興味ある問題とは、つねに具体的な場合に何が正当なものなのか、いずこに平和が存するのか、平和を妨げたり危険にさらすものは何か、どういう手段で平和を妨げたり危険にさらしたりする事態が排除されるのか、ある状況が正常で「平和的なの」はいつか、等々を誰が決定するのかということである。」(同上、95ページ)

・多元主義的で機能不全に陥ったヴァイマール国家に対して、強力な全体国家(ファシスト国家)
「このような国家は、その内部で、国家に敵対し、国家の行動を阻止し、あるいは国家を分裂させるような、いかなる勢力の台頭をも許さない。こういう国家は、新たな権力手段を自らの敵や破壊者に明け渡そうなどとは夢にも考えないし、また、自由主義、法治国家、あるいは何と称するつもりであろうとも、ともかく何らかの標語を掲げて、権力を破壊しようなどとも考えない。そのような国家は、友と敵とを区別することができる。」(「ドイツにおける全体国家の発展」111ページ)

・ラジオや映画の出現→世論や国民の一般意思を形成する方法の技術的発展→どのような国家であっても検閲・独占を求めざるを得ず、国家権力の強化をもたらす。また、国家が経済に及ぼす影響の増大(「現代国家の権力状況」)。

・「ナチス法治国」→大竹弘二の要約によると「今日の法治国家は一九世紀以来の自由主義の影響のもとで、単に実定法の遵守を求めるだけの「法律国家」に成り下がっている。だが、実定法という抽象的な規範を守るだけでは、法秩序の安定性は決して確保されない。むしろそのような法的安定性は、実定法体系の基礎にあるより実質的な「具体的秩序」を守ることではじめて保障されるということになる。」しかしながら、「総統の意志」といった恣意的なものに体現させることで、彼自身もまた機会主義に落ち込んでしまったと指摘される。

・服従者から取り付けた同意が権力の源泉?→現代社会において権力は権力者自身をも超えた自律的・客観的存在
「私の言わんとするのは、権力に服従する者すべての完全な同意を得て権力が行使される所でも、権力はやはりある固有の意味をもっているということ、いわば剰余価値をもっている、ということです。権力は、自己が受け取るあらゆる同意の総和以上のものであり、同意の生産物以上のものでもあるのです。今日の分業社会に生きている人間が社会関係にいかに深く縛りつけられているかということを、どうぞ一度なりとも考えてみて下さい! 自然の制約が後景にしりぞいたことは先程みましたが、それに代って社会的な制約が分業社会の現代人に向ってそれだけ一層強く一段と身近にまで迫ってくるのです。そのために、権力への同意をかちとるための動機づけも、一段と強烈なものとなるわけなのです。」(「権力並びに権力者への道についての対話」156ページ)
「権力とは、その時々に権力を掌握するあらゆる人間個人にすら相対立する、客観的で自律的な偉大な存在なのです。」(同上、157ページ)
「次のように言ったところで、少しも歩を進めたことにはなりません。つまり、権力とは技術自身と同じようにそれ自体は善でも悪でもなく中性的なものであるから、権力の性質いかんとは、人間が権力から創り出すものなのだ、と言ったところです。このことは、本来の難事を前にして、つまり、ここで善悪を決定するのは誰かという問題を前にして、問題を回避することにほかなりません。現代の破壊手段の力はこの破壊手段を発明し使用する人間個人の力を凌駕していますが、それは現代の機械自体のもつ、また、その機械が何ごとかを処理するについてもつ能力が、人間の筋肉や脳髄の力をしのぐのと同じことなのです。…権力者個人の権力は、ここでは途方もなく極度に発達を遂げた分業体制から生じてくる状況の、単なる分泌物にすぎないのです。」(同上、178~179ページ)
「万事をとりしきるのは、正真正銘の人間なのではなくて、人間がひき起こした連鎖反応そのものの方なのです。この連鎖反応は、人間の肉体の限界を越えることによって、人間が人間に及ぼすあらゆる考えうる権力の人間間における一切の標準をも越えてしまうのです。この連鎖反応は、保護と服従との関係をもみだしてしまいます。権力の方が技術よりもはるかに人間の手の届かない所にいってしまっておりまして、このような技術上の手段を駆使して他の人びとに権力をふるう人びとは、その権力にさらされている人びととはもはや水いらずの関係などにはないのです。」(同上、179ページ)
「私が言っておりますのは、権力はすべての人にとって、それどころか権力者にとってすらも独立の現実であること、さらにそれはすべての人を権力の弁証法にひっぱり込んでしまうものであること、これだけなのです。権力は、一切の権力への意志よりも強く、いかなる人間の善意よりも強く、また、幸いなことには、いかなる人間の悪意よりも強いのです。」(同上、182ページ)
※権力と責任との関係を曖昧にしてしまう「間接権力」をシュミットは批判していたが、上記の権力論ではまさにシュミット自身がそうした悲観的見解に落ち込んでいると大竹弘二の解説で指摘されている。

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2013年5月 6日 (月)

福田円『中国外交と台湾──「一つの中国」原則の起源』

福田円『中国外交と台湾──「一つの中国」原則の起源』(慶應義塾大学出版会、2013年)

 現在の東アジア情勢を複雑にしている焦点の一つは台湾海峡にある。そして、「一つの中国」という外交原則が中台関係のみならず、日本を含めて双方と関わりを持とうとする国々の態度を難しくしていることは周知の通りであろう。しかしながら、蒋介石政権は「漢賊並び立たず」という時代がかった表現で「一つの中国」を主張していた一方、中国政府の側で「一つの中国」言説が頻出するようになったのは1970年代以降のことだという。

 列強に侵略された屈辱の記憶から主権回復の象徴として「一つの中国」がしばしば語られる。ただし、実際の政治的経緯を見てみると、中国政府にとって「一つの中国」という原則は必ずしもアプリオリな所与ではなく、むしろ国際情勢の中でのせめぎ合いを通してプラグマティックに形成されたものなのではないか? そうした問題意識をもとに、本書は中台及び関係諸国の外交文書を活用したマルチアーカイヴァルの手法によって検証を進め、「台湾解放」の論理が「一つの中国」原則へと変容していく過程を明らかにする。

 国共内戦の延長として中国政府は「台湾解放」を目指していたが、台湾の国府はアメリカのバックアップを受けている以上、おいそれとは手が出せない。戦略的焦点は「台湾解放」から金門・馬祖の「解放」へと向けられたが、アメリカ側の出方が読めず、膠着状態に陥っていた。1954年9月の金門砲撃(第1次台湾海峡危機)にはアメリカ側の意図や中国国内での反応をうかがう情報収集としての側面があったらしい。

 毛沢東は、金門・馬祖を蒋介石の手元に残し、台湾・澎湖と一括して「解放」することを長期目標に据えて先送りした。また、アメリカも蒋介石が呼号する「大陸反攻」に巻き込まれてしまうことを懸念しており、台湾海峡は冷戦構造における境界線の一つとして既成事実化していく。中国の指導者は冷戦構造を利用して、「解放」できないながらも後退もしないギリギリのバランスを保とうとした。だが、それは蒋介石の「大陸反攻」を抑え込むことになった一方で、こうした分断状態は中台という政治主体が並び立つ、いわゆる「二つの中国」が国際社会にそのまま受け入れられかねない風潮も生み出すことになった。

 中ソ対立、インドシナ情勢など1960年代に国際情勢が新たな展開を示す中、毛沢東は「二つの中間地帯論」を提起する。つまり、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの第一中間地帯、西欧諸国・カナダ・日本など第二中間地帯との関係構築を模索することで米ソの覇権主義に対抗するという方針である。本書では、ラオス連合政府、フランス、旧仏領アフリカ諸国との交渉が分析されるが、いずれも国府との関係をすでに持っており、これらの諸国との外交関係樹立は対応を誤ると「二つの中国」を具現化しかねない恐れがあった。しかし、外交的局面の打開を急いでいた中国は、フランスに対しては譲歩せざるを得なかったものの、ラオスやアフリカ諸国に対しては「唯一の合法政府」としての地位を認めさせることに成功した。こうした交渉の中から中国は「一つの中国」という外交原則を明確にしていく。

 本書では、「台湾解放」の実現が見通せなくなった中、「台湾解放」を諦めないながらも実質的にはそれに代わる論理として「一つの中国」原則が形成されたと捉えている。ただ、「台湾解放」へのこだわりそのものが「一つの中国」意識の暗黙的意思表示なのではないのだろうか? こうした疑問について明確には説明されていないのだが、外交原則としての顕在化には軍事的攻勢から外交的攻勢への転換が伴っている点に注目していると理解していいのだろうか? 

 いずれにせよ、時代を通じて妥協の余地の無い所与の前提と考えられている「一つの中国」論でも、過去の経緯を検証してみると、時代的・国際的条件とのすり合わせの中で徐々に形成されてきたことを実証的に示そうとしたのが本書の特色である。とするならば、現時点で政治交渉を難しくしている原則であっても可変性が皆無とは言えない。環境整備の進め方をどのように工夫するか、そうした政策面での建設的な含意を読み取ることもできるだろう。

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2013年5月 5日 (日)

下斗米伸夫『ロシアとソ連 歴史に消された者たち──古儀式派が変えた超大国の歴史』、中村逸郎『ろくでなしのロシア──プーチンとロシア正教』

下斗米伸夫『ロシアとソ連 歴史に消された者たち──古儀式派が変えた超大国の歴史』(河出書房新社、2013年)

 ロシア革命前後の時期、宗教的・オカルト的な雰囲気が政治史の随所に見られることはよく知られているが、本書が注目するのは古儀式派である。ボルシェヴィキ指導層でも、例えばカリーニン、ルイコフ、キーロフ、モロトフ、グロムイコ、スースロフなど多くの人々に古儀式派との関連がうかがわれるという。レーニンはボンチ=ブルエビッチを通して古儀式派との連携を模索したこともあったし、彼がテロを避けて晩年をすごした屋敷は古儀式派の村にあった(そこではプーチンの祖父が料理人をしていた)。ところが、マルクス主義的な無神論のため、そうした記録はたいてい抹消された。本書は史料的制約を補いながら論証を進め、宗教という観点からソ連史を描きなおす。

 1666年、ロシア正教会のニーコン総主教は儀式をギリシャ風に統一する改革を行った。当時はオスマン帝国によって1453年に東ローマ帝国が滅ぼされ、1683年には第2次ウィーン包囲が行われるという時代状況にあり、オスマン帝国の進撃を抑えるために新興勢力ロシアを利用しようというギリシャ系聖職者たちの目論みがニーコン改革の背景にあった。キリスト教世界全体の危機感から彼らはカトリックとの連携も深め、カトリックの影響が強いウクライナをロシアに統一させようとする構想も浮上する。つまり、対外的にはイスラム勢力の拡大を防ぐためロシアの大国化が期待され、ロシア内部においては正教会の国家に対する優位を確立しようとする思惑から儀式改革が実施された。

 ところが、ニーコン改革に対して伝統派が猛反発し、正教会から分離した彼らは古儀式派(分離派)と呼ばれる。さらに17世紀のピョートル大帝による西欧化改革によって伝統的政治機構が解体され、ロシアがユーラシア全域に向けて拡大するに伴い、正教会は帝国の拡張と多民族化をイデオロギー的に支えることによって帝政との一体化を進める一方、ロシア人の自己疎外という状況も現れる。国家に従わない古儀式派は弾圧され、ロシア社会において正教会や国家に抵抗する心性を生み出していった。ピョートル改革によってもたらされた政治機構を「アンチクリスト」とみなし、それへの抵抗精神が宗教的メシアニズムと結びついて革命、ニヒリズム、共産主義につながったとベルジャーエフは捉えていた。

 国家から疎外されていた古儀式派の人々は生きていくため自前の経済活動を行わなければならなかったが、その中から実業面での成功者も現われた。古儀式派の終末論的世界観は現世否定のエートスをもたらし、それがマックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘されたのと同様の経済倫理として作用していたというのが興味深い。また、古儀式派は教会スラブ語を典礼で用いていたので識字率が比較的高かったという。こうして成長した古儀式派資本家は革命派に資金提供をした。また、革命派は古儀式派の地下出版ネットワークと協力関係にあった。古儀式派も様々な宗派に分かれていたが、ソビエトという共同体組織も私有財産を否定して共同生活する宗派に求めることもができるらしい。

 もちろん、古儀式派がそのまま共産主義革命に流れ込んだわけではなく、複雑な動向がそこには絡まりあい、同床異夢の関係にあった。スターリン時代に集団化政策が進められると、古儀式派もつぶされていく(ただし、第二次世界大戦でドイツ軍に攻め込まれた、いわゆる「大祖国戦争」において、愛国主義を鼓舞するため古儀式派への抑圧は緩和され、動員が図られた)。帝政時代にはロシア正教会に従わなかったため、ソ連時代には無神論イデオロギーによって古儀式派は抑圧されてきたが、ソ連崩壊によるロシアとウクライナとの分離は、ニーコン改革以前の状態に戻ったことになる。古儀式派自身が政治的影響を与えたかどうかは分からないが、ロシアという版図の枠組み、伝統と近代の葛藤、帝政期からソ連崩壊に至るまでの様々な問題が古儀式派を補助線として引いてみると浮かび上がってくる。

 中村逸郎『ろくでなしのロシア──プーチンとロシア正教』(講談社、2013年)は現代ロシアと正教会との関係に焦点を当てている。ソ連崩壊後、宗教的自由は認められたものの、ロシア正教会は信者数の低迷で財政難にあえいでいた。そこで現在の総主教、キリール1世は正教会がビジネスに手を染めることを表明、政府に頼み込んで優遇措置を受けたが、利権の巣窟として政商や政治家が群がる事態となっている。また、プーチン政権に頭が上がらないまま、愛国主義の高揚など政権の思惑に利用されているという。

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2013年5月 4日 (土)

赤松美和子『台湾文学と文学キャンプ──読者と作家のインタラクティブな創造空間』

赤松美和子『台湾文学と文学キャンプ──読者と作家のインタラクティブな創造空間』(東方書店、2012年)

 台湾の人口は2300万人で、日本の5分の1程度。当然ながら、日本と比べると読書市場も小さい。その割には台湾の書店を眺めると読書文化はなかなか盛んなお国柄という印象を漠然とながら抱いていた。本書を読んで、なるほど、そういうメカニズムが働いていたのか、と納得。

 本書はピエール・ブルデューが提示した「文学場」、つまり「文学に関わる全ての人々が構成する、芸術、政治、市場、及びそれらの組織、規則などあらゆる影響を受けながら変容する多層的、複合的な構造体」という分析概念をもとに、戦後台湾において文学の創作や読者層に厚みを持たせた条件を明らかにしていく。発端は1952年の蒋経国が創設した中国青年反共救国団である。これは言うまでもなく、反共主義や中華文化復興といったイデオロギーを広め、国民党を担う人材の養成を目指した組織である。救国団は文藝教育を重視し、学校教育と連動することで反共文学の創作者や読者層の組織化を目指した。そうした活動の一環として、作家と読者とが合宿する文学キャンプも実施された。

 発端は国策であった。しかし、ここで面白いのは、反共イデオロギーが形骸化した後も文学教育機能は維持されたことだ。学校教育の中で創作、投稿、発表の場が設定されると、他人より良い作品を書き上げて認められたいという欲望が公認され、単なる個人的趣味というレベルを超えた「文化資本」としての価値を持つようになる。著者自身も文学キャンプに実際に参加し、その体験記が本書に収録されているが、参加者には「憧れの作家に会いたい」「友達を作りたい」といった声が多く、コミュニケーションの場としての機能を果たしていることが分かる。作家と読者とが目の見える直接的な関係を持つことで文学の創作がより身近なものとなり、読者の側から作者の方へ移行する契機も格段に大きくなる。

 もともとは国民党の国策として始まった文学キャンプだが、本土派もこの活動形式を模倣し始める。さらに客家、原住民の文学のコースも設置され、マイノリティー意識を逆に持つようになった外省人第二世代、またフェミニズムや同性愛者など様々な問題意識による文学的営為も展開されていく。本来は国民党の支配体制を支えるために構築された文学的インフラが、時代的変遷に応じて「国語」(中国語)優位が意図されていたメインストリームを解体するかのように作用していく逆説が実に興味深い。

 「時報文学賞」(中国時報)と「聯合小説賞」(聯合報)という台湾の二大文学賞の性格の相違の指摘も含め、台湾の文学事情を知るとっかかりとして勉強になった。

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2013年5月 1日 (水)

【映画】「セデック・バレ 太陽旗編/虹の橋編」

「セデック・バレ 太陽旗編/虹の橋編」

 台湾における日本の植民地支配が安定しつつあるように思われていた1930年10月、原住民族セデック族の頭目、モーナ・ルダオが率いる約300人が台湾中部の霧社で武装蜂起した。駐在所を襲撃した後、その日に開催されていた運動会の会場に乱入、集まっていた日本人を次々と殺害し、首をはねていった。犠牲者は約140人に及ぶ。驚愕した日本側はただちに警官隊や軍隊を動員して反撃に出たが、山地を駆け回るセデック族の戦士たちは神出鬼没、ゲリラ戦では彼らの方が圧倒的に強い。攻めあぐねた日本軍は当時としては最新鋭の機関銃や大砲、飛行機、さらには毒ガスまで投入し、またモーナ・ルダオと反目するセデックの別の部族も動員して同年12月までにほぼ鎮圧した。蜂起したセデック族の多くが戦死したばかりか、残された家族も自殺して果てた。いわゆる霧社事件である。

 日本軍の圧倒的な戦力を前にして勝ち目のないことは最初から分かっていた。それにもかかわらず、なぜモーナ・ルダオは日本人襲撃を決意したのか? 直接的には、息子の婚礼の席で無礼な態度をとった日本人警官が部族の人々から暴行を受け、態度を硬化させた彼からの報復を覚悟したことがきっかけになっている。さらには、建設工事の木材運びなどに駆り出された苦役の大きな負担、日本人からの蔑視、伝統的な生活への侵食、領台以来の日本軍による平定作戦で親族や仲間が殺害されていたことなど、様々に鬱積していた不満を抑え切れなくなっていた。日本化を強制されて自分たちの習俗が否定される中、このままではセデック族として生きていくことはできない──プライドをかけた戦いが始まる。 

 魏徳聖監督は霧社事件をテーマとした映画のアイデアを長年温めていたが、「海角七号」の大ヒットで企画の目途が立ち、ようやく実現したのがこの映画「セデック・バレ」(賽德克・巴萊/Seediq Bale)である。セデック・バレとは「真の人」という意味。第一部「太陽旗」、第二部「虹の橋」に分かれ、それぞれが二時間を超える大作だ。太陽旗は日本の来台を、虹の橋はセデック族の信仰世界で祖霊の住む地へ渡ることを表している。なお、セデック族はかつてタイヤル族に含められていたが、現在では独立した民族として認定されている。

 劇映画として盛り上げるためかなり脚色されており、もちろん史実そのものが忠実に再現されているわけではい。キレの良いアクションで日本兵がバッタバッタとなぎ倒されていくが、実際にやられたのは20数名で、あれほど多くはない。日本軍が国際法上禁止された毒ガスを使用したかどうかについては研究者の間でもまだ一致した結論が出ておらず(周婉窈『図説 台湾の歴史 増補版』平凡社、2013年)、毒性の強い催涙ガスを使用したと考えるのが妥当なようだ(春山明哲『近代日本と台湾』藤原書店、2008年)。また、翌年の1931年、投降した者たちが隔離された収容所を、日本人警官によって煽動されたセデック族の別部族が襲撃し、多数の犠牲者を出したが(第二次霧社事件)、こうした残忍な報復については映画の最後にテロップで説明するにとどめられている。あまりに陰惨な事件なのでストーリーに織り込むのが難しかったのだろう。

 日台関係を好意的に考えるとき、日本の植民地統治の良好な部分を強調する傾向も見られるが、領台以降、統治が安定化するまでは抵抗運動に対して苛烈な弾圧政策が進められていた。また、無理な統治政策のひずみも重なっており、そうした日本の植民地統治の負の側面は映画の前史の部分で概観される。

 ジャレド・ダイアモンドの近著『昨日までの世界──文明の源流と人類の未来』(日本経済新聞出版社)の表現を借りるなら、セデック族社会はまさに「昨日までの世界」であった。蜂起前、飲んだくれている原住民の姿も映画では描き込まれている。急速な近代化で無力感にとらわれ、原住民社会でアルコール中毒や自殺の割合が高まる現象は世界各地で観察されている。セデック族が抱いた不満は、日本の植民地統治に対するものであると同時に、そこに重ねられている「近代」がもたらした矛盾として考えることもできる。

 「昨日までの世界」は、自らを文明的とみなす「近代人」からは「野蛮人」として軽蔑の対象でしかなかった。もしくは、別世界のユートピアとして夢想の対象でしかなかった。台湾においては日本の植民地統治期にせよ、戦後の国民党政権期にせよ、原住民文化の自律性を認めず、指導を受けるべき後進民族とみなす期間が長きにわたっていた。人類文化の多様にあり得るヴァリエーションの一つとして彼らの社会を価値観的に対等に扱う視点が広まるのは、文化人類学や多文化主義の考え方が定着して以降のことである。

 映画「セデック・バレ」は単なる抵抗の物語ではない。セデック族自身が抱いていた自律的な世界観を踏まえ、そこから一つのストーリーを紡ぎあげているのがこの映画の特徴である(もちろん、脚色されているにしても)。

 そこには様々な葛藤があった。映画では、日本の警官になった花岡一郎(ダッキス・ノビン)が「「文明人」になって日本人から見下されないようになりたい。それにはもっと辛抱が必要だ」という趣旨のことを語るが、それは同時にセデック族として生きることの自己否定につながる。「出草」(首狩り)の風習は、我々の観点からすれば獰猛な前近代性として受け入れがたい。しかし、彼ら自身の精神世界においては、勇者として一人前になる証しでもある。勇気を示さなければ「虹の橋」を渡ることはできない。結果は自滅しかないのが明白で、我々からすれば不可解な行動であっても、これは尊厳を賭けた戦いに他ならなかった(見ようによっては、ハリウッド映画「ラスト・サムライ」と同様の構図かもしれない)。「昨日までの世界」が近代社会と不幸な邂逅をしたときに繰り広げられた様々な悲劇の要素がこの映画からも見出せる。

 戦いが終わった後、日本側の指揮官であった鎌田弥彦が「彼らの勇猛果敢な精神には、我々日本人がすでに失った武士道精神を見出せるのかもしれない」という意味のことをつぶやく。ある意味、陳腐な発言ではあるが、彼らの精神文化の自律性を認めてやりたいという現代の製作者の意図がこのセリフに込められているのかもしれない。

 同時に、次のことにも注意しておかねばならない。霧社事件でセデック族が示した勇猛さは日本人に大きな印象を残し、戦時下、台湾原住民の尚武の気風は日本の武士道精神と似ているという言説が、高砂義勇隊として彼らを集める際にも語られていた。霧社事件の生き残りにも高砂義勇隊に参加した人がいる(林えいだい『証言 台湾高砂義勇隊』草風館、1998年)。また、霧社事件の抗日という側面は戦後における国民党政権の歴史観に一つの位置付けが与えられた(例えば、台北の忠烈祠に莫那魯道=モーナ・ルダオが祀られているのを見たことがある)。いずれも原住民蔑視の発想を残して同化政策を進めながら、都合の良い部分だけ利用したわけである。霧社事件はそれだけで完結しているのではなく、歴史の前後の脈絡の中で考えていく必要がある。

 台湾において原住民文化の自律性が認められるようになったのはようやく二十世紀も終わり近くになってからのこと。そうした風潮が定着してようやく、娯楽性を備えた歴史大作映画として「セデック・バレ」が大ヒットをとばすことになったのである。それが可能になった社会一般における歴史観の変遷という観点からこの映画の位置付けを考えてみてもいいのかもしれない。

公式サイト→http://www.u-picc.com/seediqbale/index.html

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