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2013年4月

2013年4月24日 (水)

江文也試論(未定稿)

 小津安二郎生誕百周年に合わせ、台湾ニューシネマの旗手、侯孝賢が監督した映画「珈琲時光」(二〇〇四年)の主な舞台は東京である。さり気ない所作を重視する侯孝賢らしく過剰な演出を排し、東アジアを股にかけて活躍するカメラマン、李屏賓が東京の街並を撮影した映像は穏やかな叙情を湛えている。

 そこにピアノの軽やかなメロディーがかぶさる──江文也が東京で暮らしていた頃に作曲した作品である。

 一青窈が演じるフリーライターは東京での江文也の足跡をたどっている。かつて彼が暮らしていた家の近くにあって彼もよく散歩したという洗足池。そのほとりのテラスで江乃ぶ夫人にインタビューしているシーンも映し出された。

 近親者の記憶には江文也の姿は色あせずに残っている。しかし、東京の変貌は著しい。神保町で古書店を営む知人(浅野忠信)に協力を仰ぎ、あちこち聞き込んで歩くが、目ぼしい情報は得られない。一九三〇年代、江文也・乃ぶ夫婦が足繁く通い、クラシック音楽に耳を傾けながら友人たちと文学や芸術について語り合った銀座の名曲喫茶DATはすでにない。

 それにしても、なぜ江文也だったのか? 侯孝賢が東京を舞台として映画を撮る企画を提案されて、モチーフの一つとして江文也を取り上げたことから分かるように、彼は東京とも縁が深い。彼にまつわる記憶が台湾で蘇ったのは一九八〇年代以降のことである。これほどモダンな感性を持った作曲家が忘却の淵に沈んでいた──そのことの印象がよほど新鮮だったのだろう。大都会・東京で失われた何かを探すというコンセプトを設定するなら、まさにうってつけの題材と考えたのかもしれない。

 植民地支配下の台湾に生まれた江文也は日本へ留学、東京では九年間を過ごした。バリトン歌手として名をあげた後、作曲家へと転身、既存の楽壇に叛旗を翻す若手作曲家の一人として頭角を示した。一九三六年のベルリン・オリンピック音楽部門で「台湾舞曲」が選外佳作(実質的に四位)となり、「日本人」として国際舞台にデビューを果たす。他方、植民地・台湾出身という属性によるエキゾティシズムを売り物にしているという印象を周囲には抱かれていた。日中戦争が始まった後、二十八歳の若さで北京師範大学教授として中国大陸へ渡り、しばらく北京と東京を往復する生活を過ごすようになる。日本の敗戦後も引き続き北京に留まったが、日本の植民地放棄によって彼は「日本人」ではなくなり、「中国人」として祖国へ戻ったとみなされた。冷戦状況によって中国との関係が断絶された中、日本において江文也の名前は忘れられていく。

 江文也の出身地・台湾ではどのように受け止められていたか。植民地支配の中で台湾人は同化を求められていた一方、たとえ能力があっても日本人と対等以上のポジションに上ることは困難であった。江文也が日本音楽コンクールで六回連続入選しながらもついに一位になれなかったことは、植民地差別という疑惑を招くに十分だったろう。それゆえにこそ、彼が日本人の先輩作曲家たちを抑えてベルリン・オリンピック音楽部門で選外佳作となり、ひと足跳びに国際舞台へのデビューを果たしたことは、「二等国民」扱いへの不満を鬱積させていた故郷・台湾の人々から見ると実に快挙であった。日本の敗戦でようやく自分たちのプライドを取り戻したと思ったのも束の間、国共内戦に敗れて台湾へ逃げ込んできた国民党政権が戒厳令を敷く。そうした中、共産党治下の中国に残った人物について語ることはタブーとなり、故郷・台湾においても江文也の名前は忘れられていった。

 江文也は日中戦争の始まった翌年の一九三八年、北京師範大学教授として日本軍政下の北京に渡った。その背景として中国に対して文化工作を進める日本の国策があったのは確かであろう。だが、中国文化をテーマに新しい音楽的表現の可能性を切り開きたいと熱望していた彼は、純粋に芸術的な動機からこのチャンスを利用した。台湾を含めた中華意識から自他ともに「中国人」としての自覚を深めつつあったが、日本の敗戦後、対日協力の経歴のため彼は「漢奸」として投獄されてしまう。ただし、彼の音楽家としての評価は極めて高かった。当時の中国にオーケストラ作品を書ける作曲家はほとんどいなかった一方で、江文也はすでにシンフォニストとして十分な実績を積んでいた。そうした意味で中国音楽史における彼の位置づけは独特であり、釈放された後、中央音楽院教授として活躍の足場を得る。しかしながら、「台湾人」であり、「日本人」であったという彼の過去は政治的にはナーバスであり、音楽という「ブルジョワ趣味」は「右派」として指弾される理由になった。反右派闘争、文化大革命と相次ぐ迫害で心身ともに打ちのめされ、やはり中国においても江文也の名前はタブーとなってしまった。

 日本、台湾、中国、ゆかりのあったそれぞれの国で忘れられていた江文也──その名前が再び蘇ったのは一九七八年に中国で名誉回復されて以降のことである。一九八一年には台湾で江文也にまつわる文章が相次いで発表されたのをきっかけに江文也ブームが巻き起こった。ただし、すでに病床にあって、一九八三年に亡くなってしまった彼がどこまで認識できていたのかは分からないが。一九八七年に台湾で戒厳令が解除されて表現の自由が認められると、彼の作品を収めたCDも出回るようになる。

 他方で、中台関係の焦点が国共対立から台湾独立の是非へと変化していくのに伴い、江文也についても、「中国人」なのか、それとも「台湾人」なのか、という政治的アイデンティティーをめぐる議論が大きく浮上してきた。純粋に音楽家として生きていたくても許されない──そうした政治的桎梏は形を変えながら続いている。

 野性的で生命力に満ち溢れた個性の持ち主であった江文也は、体を打ち震わせるように湧きあがってくる激しいインスピレーションを常に探し求めていた。それは一面において想像的なロマンティシズムを羽ばたかせつつ、もう一面において古代的、土俗的なモチーフへの関心を深めていった。彼は台湾か、中国かといった具体的な民族意識そのものに意義を見出していたのではない。自らの音楽的表現を生み出していく触媒として台湾、中国、日本それぞれの民族の文化に関心を寄せていたのである。

 そうした江文也の情熱を後押ししたのが、亡命ロシア貴族の作曲家、アレクサンドル・チェレプニンであった。西欧近代による文化の均質化傾向が世界規模で拡大することによって各民族固有の音楽文化の豊かさが押しつぶされかねないと懸念していたチェレプニンは、はるか東アジアにまでやって来て中国と日本で若手作曲家の発掘に努めていた。彼の基本的な音楽観は様々な色彩を帯びた音色が豊かに響きあう多文化共生的な発想であって、リゴリスティックで政治的な民族主義とは明らかに異なる。それは弟子の江文也についても同様であった。

 純粋に芸術的な情熱が時代状況の中で政治に絡め取られてしまった悲劇──台湾・日本・中国、複雑な関係が交錯する江文也の生涯は、東アジア現代史を読み解く一つの視点となり得るだろう。

※続きはこちら→ http://docs.com/SC75

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2013年4月19日 (金)

高橋和夫『イランとアメリカ──歴史から読む「愛と憎しみ」の構図』

高橋和夫『イランとアメリカ──歴史から読む「愛と憎しみ」の構図』(朝日新書、2013年)

 イラクのフセイン政権崩壊、「アラブの春」といった激動の中、シリアの内戦が膠着状態にあることに顕著なように先行きがますます不透明になりつつある中東情勢。敵/味方の関係が複雑に入り組んだパズルを読み解くのはなかなか容易ではない。核開発疑惑、イスラエルとの一触即発の対立、こうした問題からアメリカの対中東政策で最もナーバスなのが地域大国イランの存在である。実はイラクやアフガニスタンの安定化を図る上でイランとアメリカが協力できる余地もあったのだが、実際にはすれ違ったままだ。イランの政治外交が持つ複雑な性格を踏まえておかないと、中東情勢の理解は表面的なもので終わってしまう。本書は、そうしたイランの「複雑さ」を歴史的な背景から捉えなおそうとしており、格好な入門書である。

 1979年以降のイラン・イスラム革命自体のプロセスも複雑だ。そもそもシーア派宗教指導者の主流派は政治への関与を否定するのが伝統的考えで、宗教指導者による統治を打ち出したホメイニの方針は独特だった(主流派は政治から一歩引いているからこそ積極的な政治勢力とはなり得ない)。彼は政治への嗅覚が実に鋭かった。宗教者からリベラル派、左派までシャーの抑圧的体制に反対するあらゆる勢力を結集させるシンボルとなる。宗教指導者が革命の実権を握る上でアメリカ大使館人質事件が大きな転換点となった。リベラル派も参画した新政権は対米関係の悪化を望んでおらず、穏便な解決を模索していたが、ホメイニは学生たちにゴーサインを出した。人質事件による対米関係の悪化は、外敵による脅威を演出することになり、さらに隣国イラクのフセイン大統領がイランの混乱に目をつけて侵攻してくると、国民の団結意識がむしろ高まった。こうした過程でリベラル派や左派は追い落とされ、宗教指導者のヘゲモニーが確立する。大使館人質事件は外交的には非理性的だったが、国内での権力掌握という点では政治的に合理性を持っていたとも言える。

 なお、ホメイニが国外追放されるきっかけになった1963年暴動における彼の演説を聞いた革命第一世代(ハメネイ、ラフサンジャニ、ハタミ、ムサビなど)と、イラン・イラク戦争の高揚感の中で育った革命第二世代(アフマディネジャド)との肌合いの相違が、その後の政争の背景にあるという指摘に関心を持った。

 テヘランのアメリカ大使館人質事件はアメリカ世論の心象を極めて悪くした。他方、イラン側としても1953年のモサデク首相失脚のクーデターの背後にCIAがいた。シャーの抑圧体制をアメリカが支えていたことに対する不信感が根強く、アメリカの行動を「邪推する」傾向が定着してしまった。しかしながら、イギリスとロシア(ソ連)とのグレート・ゲームに翻弄される中、アメリカと友好関係を持とうとした時期もあり、イランの人々の対米感情は複雑である。

 いくつか気になったこと。イランはシーア派である。アリーをムハンマドの正統な後継者と考えるシーア派の成り立ちの経緯からして、アブー・バクル、オマル、オスマンは忌避される。これらの名前をシーア派の人がつけることはあり得ない。ところが、中世ペルシアで『ルバイヤート』を書いたのはオマル・ハイヤームはシーア派ではなかった。アラブという多数派に抗する民族主義感情からペルシア人はシーア派を選んだという考え方がトインビー以来、定着していたが、実際にはトルコ系シーア派のサファヴィー朝の時代に改宗したの直接の原因だった。

 シャーのご学友として最側近だった秘密警察シャヴァック長官のファルドゥースト将軍は、イスラム革命後の新政権でも秘密警察シャヴァマ長官として生き残ったらしい(アメリカのフーバーFBI長官を想起させる)。

 それから、日本との関わりでは、イランと国交を結んだ1929年、テヘランに公使館を開設した土地はモサデク家から借り上げたものだった。戦後、モサデク首相が石油会社国有化を宣言する中で日本の商社が石油を求めてイランへ渡ったのは、日本が国交を回復しようとしていたた時期だが、モサデク首相は「テナントの復帰を歓迎する」と冗談を言ったそうだ。

 イラン情勢については以前に下記の本を取り上げたことがあるので、ご参考までに。
吉村慎太郎『イラン・イスラーム体制とは何か』
・レイ・タケイ『隠されたイラン──イスラーム共和国のパラドックスと権力』
・レイ・タキー『革命の守護者:アヤトラたちの時代のイランと世界』
・ジョン・W・リンバート『イランとの交渉:歴史の亡霊に取り組む』
・スティーヴン・キンザー『すべてシャーの臣:アメリカによるクーデターと中東テロの起源』
・スティーヴン・キンザー『リセット:イラン・トルコ・アメリカの将来』
ヴァーリ・ナスル『ザ・シーア・リヴァイバル:イスラム内部の衝突がいかに未来を決めるか』

 また、イラン・イスラム革命においてイスラム信仰とマルクス主義を融合させた思想に熱狂した若者たちの活動が一つの駆動力となっていたが、その思想的指導者だったアリー・シャリーアティー(ただし、イスラム革命前に亡命先で暗殺された)の『イスラーム再構築の思想──新たな社会へのまなざし』も取り上げた。

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2013年4月17日 (水)

永井均『フィリピンBC級戦犯裁判』

永井均『フィリピンBC級戦犯裁判』(講談社選書メチエ、2013年)

 フィリピンは1946年7月4日に独立し、日本軍将兵に対する戦犯裁判を実施した。起訴された151名のうち52%にあたる79名に死刑宣告が下された。他の地域では平均して22%であったのと比べると極刑宣告の比率の高さが際立ち、日本側はフィリピンの裁判は厳しすぎるという印象を抱いた。その一方で、実際に死刑が執行されたのは2割に留まり、他の連合国での執行率が8割だったのとは対照的である。こうした数字の差の背景には、独立国家フィリピンの難しい立場が反映されていた。

 1945年2月のマニラ市街戦ではアメリカ軍の掃討によって日本軍のほとんどが全滅、死者は1万6千人を超えた。だが、この市街戦で巻き添えになった無辜の民間人の犠牲者は10万人にものぼり、その中には追い詰められた日本兵によって殺害されたケースも数多く含まれていた。フィリピン戦線に動員された日本兵61万3600人のうち約80%にあたる50万人近くが落命したが、その大半は餓死であった。こうした苦境から生き残った者たちは、敗戦の悔しさに打ちひしがれ、そこにフィリピン人から罵声を浴びせられ(まさに自分たちが使っていた「バカヤロー」という日本語で)、反感を募らせる。他方で、家族を無残に殺されたフィリピン市民の憎しみは根深い。対日憎悪の世論は極めて険しく、日本人とフィリピン人とではその受け止め方に大きなギャップがあった。

 新たな独立国家として面目を保つため、公正な裁判を心がけねばならない。対日憎悪の世論が盛り上がる一方で、司法当局者は誠実に日本人戦犯と向き合おうとした。そうした真摯な態度は、日本の戦犯の心にも響いたようだ。

 さらに大きな問題がある。冷戦対立が深刻化する中、安全保障の面から日本との外交関係回復がアメリカから求められ、国家再建のためにも日本との経済関係は必要となった。しかしながら、フィリピン国民は戦争の惨禍を忘れていない。そうした政治的要請と国内世論との板ばさみとなった葛藤が、本書ではキリノ大統領に焦点を合わせて描かれる。実は、他ならぬキリノ自身、妻と子供たちをマニラの市街戦で失い、血みどろになった娘の死体をこの手で抱き上げた記憶はいつまでも消し去ることはできない。怒りと赦し、その葛藤は単に公人としての責務というだけでなく、キリスト教信仰によって何とか克服しようとしていた。

 戦犯裁判の規定で死刑については大統領の最終決定を要するとされており、当初から高度な政治判断の余地が残されていた。最終的に対日関係回復のため死刑囚の恩赦が行われた。ただしそれは、冷戦の論理に基づく政治判断であって、一般国民の感情的問題は置き去りにされたままという矛盾は残った。赦すにしても、日本側が自らの責任を認めることが大前提だというフィリピン側の願いはどこまで通ったのだろうか。

 本書は日本軍による残虐行為の状況、戦犯裁判の過程、モンテンルパの刑務所に収容された戦犯たちへのフィリピン司法当局者の態度と日本での戦犯支援運動、そして恩赦に至る政治過程でのキリノ大統領の葛藤を描き出している。マルチアーカイヴァルな手法を駆使した成果だが、それは単に欠落した史料を補うというだけでなく、各国ごとに異なる当事者それぞれの思惑の多元的な様相が浮かび上がってくる。憎しみばかりでなく、心を通わせる信頼関係もあったからこそ物事が動いた側面もあった。そうした政治の論理だけではオミットされかねない当事者の様々な心情の揺れが垣間見える。そこからは同時に、怨念と赦しとが現実政治のロジックによって架橋された「和解」をいかに本物にしていくか、そうした難しく重いテーマを問いかけてくる。

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2013年4月16日 (火)

石弘之・石紀美子『鉄条網の歴史──自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明』

石弘之・石紀美子『鉄条網の歴史──自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明』洋泉社、2013年

 花壇が荒らされて困るから何とかして欲しい──そんなありふれた要望が鉄条網発明のきっかけだった。普通のワイヤーとトゲ付きのワイヤーとを組み合わせて安定化させるというちょっとした工夫から19世紀後半のアメリカで実用化されたグリッデン型鉄条網はあっという間に世界中へと普及していく。

 基本的な原理はシンプルで、その後も特段の技術的発展をするわけではない。だが、このローテクは、様々な場面で要請される応用力を持っていた。本来何もないところに人為的な障壁を作るのが鉄条網の目的である。それが力による排除という意図と結びつくと非常に効果的な作用を示す。本書は、鉄条網に視点を据えて人類の負の歴史を描き出していく。

 アメリカの西部開拓において土地の囲い込みに鉄条網は活用された。しかしながら、鉄条網を境として作り上げられた植生の変化によって生態系が乱されて土壌の悪化をもたらし、土地が荒廃する一因ともなってしまった。また、先住民を排除する上でも鉄条網は使われた。

 戦争でも鉄条網は活躍する。防御に効果的というだけでなく、例えば要塞戦において機関銃と組み合わせると絶大的な威力を発揮した。捕虜を捕獲すれば強制収容所で鉄条網が使われる。さらにはジェノサイドといった人類的犯罪で鉄条網は必須なアイテムとなった。

 陸続きの国境線に鉄条網を張り巡らせると、国境という抽象観念の指標となる。隣り合う国の間で経済的水準の差が大きければ、貧富の格差が浮かび上がってくる。

 このように積み上げられた鉄条網の「実績」は、敵と味方、支配と従属、富者と貧者といった軋轢を可視化させ、そうしたシンボルとして人々の脳裏に刻み込まれていく。例えば、ボスニア紛争において、鉄条網を背景にした人々の映像はジェノサイドを想起させて国際世論の喚起に大きな力を発揮した(PR会社のシンボル操作によってボスニア・ヘルツェゴビナ政府が優位に立った経緯については高木徹『戦争広告代理店』[講談社文庫、2005年]を参照のこと→こちら。ただし、本書『鉄条網の歴史』の著者自身もボスニア紛争の現場を実見しており、ボスニア側が被った被害を過小評価はできないと指摘している)。

 他方で、鉄条網による隔離が思わぬ副産物を作り出したケースも見られる。例えば、南北朝鮮を隔てる軍事境界線の内側には人の立ち入りが禁じられているため、豊かな生態系が出現しているという。「外敵」を排除するために用いられた鉄条網、その「外敵」を他ならぬ人間自身に措定したとき自然環境保護につながり得るというのは皮肉なことではある。道具は使いよう、ということか。

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2013年4月15日 (月)

土屋大洋『サイバー・テロ 日米VS.中国』

土屋大洋『サイバー・テロ 日米VS.中国』文春新書、2012年

 タイトルはやや扇情的だが、別に中国を仮想敵とみなした論陣を張っているわけではない。一般論としてサイバー攻撃のあり得る問題点について一通り見渡すには手頃な内容となっている。以下はメモ。

・国民で電子マネーが普通に行き渡るなど世界でも有数の電子立国を進めているエストニア。大量のアクセスによってサーバーをダウンさせる分散型サービス拒否攻撃(大量迷惑兵器)をロシアから受けた。先進的であればあるほお、情報通信の根幹がやられると社会生活が止まってしまう恐れ。

・サイバー攻撃は人間を直接殺すわけではない。本当に脅威となるのは、通信システムに対するサイバー攻撃と通常兵器による攻撃とが組み合わされた場合である。例えば、イスラエル軍がシリアの核疑惑施設を攻撃した際には、サイバー攻撃で防空監視システムをダウンさせた上で実施されたと言われる。また、イランの核施設を狙ったスタックスネットの例も挙げられる。人工衛星を動かすにも、軍隊を動員するにも通信機能は欠かせない。その意味で現代の戦争は通信システムなしに行うことは不可能だが、それが一つの弱点にもなり得る。例えば、アメリカのステルス無人偵察機がイランに捕獲されたケースでは、遠隔通信で動いているので通信環境からのっとられたる可能性がある。

・サイバー攻撃がこれまでの攻撃と本質的に異なるのは、攻撃があったことすら相手に感づかれないまま被害を与えられること。攻撃主体が匿名の非対称的存在。また、サイバー・パワーは知識と技能さえあれば大国政府のサーバーを攻撃できる。その点でパワーの分散という特徴をジョゼフ・ナイは指摘している。

・冷戦時代の核抑止論は合理的計算のできる政治主体としての米ソ双方の共通理解のもとで成り立っていた。ところが、サイバー戦争では、互いの手の内をひたすら隠し続ける。

・中国人民解放軍にもサイバー軍があり、アメリカにある法輪功関係のサーバーへの攻撃を実演した番組が放映された。中国でサイバー攻撃を行うのは誰か? ①愛国無罪を唱える若者たち。②商業的な利害から機密情報を取得しようとする者。③国家安全保障・軍事的な意図を持つ場合。軍事系でサイバーセキュリティに関係するのは人民解放軍総参謀部第三部。「網軍」は「藍軍」とも言われる。中国の党国体制が長期的に目指す社会的秩序の維持と順調な経済発展という二つの目標を維持できるかぎりは検閲を続けながらもインターネット利用を許可するだろう。逆に言えば、前者の目的を維持するため検閲は今後も精緻化されるだろう。

・調達部品に偽者が紛れ込み、そこにリモートコントロールできる仕掛けがある可能性。また、重要インフラストラクチャーへの攻撃の懸念、海底ケーブルのセキュリティなどにも注意する必要がある。

・サイバー攻撃について国際法上の合意はできていない。ITをめぐる法制度は各国バラバラで、法管轄の壁があるため国際協力の可能性は低い。

・高度な技術はビジネスで稼げるので、政府や軍隊にそうした人材は少なく、どこの国でもサイバー攻撃を仕掛けるのは民兵・傭兵。ギークをいかに政府の味方につけるか。

・専守防衛の日本では、サイバー防衛としてどこまでできるのか。陸上自衛隊のシステム防護隊、海上自衛隊の保全監査隊、航空自衛隊のシステム監査隊のいずれも、国民の生命や財産、国土の安全を守るのではなく、自衛隊の指揮通信などのシステムを守る任務しか与えられていない。

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