新井政美編著『イスラムと近代化──共和国トルコの苦闘』
新井政美編著『イスラムと近代化──共和国トルコの苦闘』(講談社選書メチエ、2013年)
イスラム過激派によるテロが世界中を騒がせ、「アラブの春」による独裁政権の崩壊後、イスラム勢力の拡大も話題となる中、イスラム的価値観は自由主義・民主主義など近代的価値観とは相容れないのではないかという不安をもらす傾向も散見される。他方で、トルコのエルドアン政権がイスラム色を出しながらも一定の成果をあげていることを考えると、そんな単純な問題ではないことは明らかだろう。イスラム圏の中でも様々な葛藤があるし、その中から見え隠れする輻輳した可能性を、一方的なレッテル貼りで済ませてしまうのは、むしろ見る者としての我々自身が抱えている西欧基準のバイアスの問題ではないのか──それこそ、エドワード・サイード『オリエンタリズム』以来、繰り返し提起されてきた問題系ではあるが。
イスラム的価値観と「近代」的価値観とのせめぎ合いを軸にトルコの現代政治史をたどり返す本書は、こうした問題を具体的に考える取っ掛かりになるだろう。
ケマル・アタチュルクの指導によって成立したトルコ共和国で国是となった「世俗主義」はトルコ語で「ライクリッキ」(laiklik)という。フランス語で政教分離の世俗主義を指すライシテ(laïcité)に関わる語源を持つことから分かるように、西欧由来の概念である。ヨーロッパの場合、教会権力との闘争を通じて国家という世俗的政治主体が権力を握るプロセスが「政教分離」をもたらした。他方、教会組織のないイスラム世界において、「政教分離」とは宗教的動機による政策決定はしないという態度を意味するだけで、そこには解釈の幅が大きい。「政教一致」が大前提となるイスラムにおいて「政教分離」は本来的に問題にはならないのだが、ケマルによって「政教分離」が導入された言説空間において、宗教的価値を語ること自体があたかも反動であるかのような雰囲気が生み出されてきた。つまり、「政教一致」を前提とするイスラムの国家において、西欧由来の「政教分離」を無理やりに導入しようとしたところに生じたねじれを捉え返すのが本書のテーマとなる。
オスマン帝国改革期、西欧の近代的科学技術や制度の受容を図った知識人たちは、同時にイスラム的価値観に何ら疑いを抱いていなかった。イスラムこそ世界の最先端という世界認識を持つ彼らからすれば、周縁から勃興したヨーロッパ文明の勢いは一時的なものに過ぎず、そもそも彼らの文明もイスラム文明から取り入れた文物知識をもとにして発展したものである。それを導入するのはむしろ当然のことで、西欧近代文明の導入とイスラム的価値観とは矛盾なく両立すると彼らは考えていた。
ところが、第一次世界大戦、オスマン帝国やカリフ制の解体、そしてケマルの主導でトルコ共和国が成立する一連の流れの中で状況が大きく変化する。徹底的な西洋化を目指したケマルのリーダーシップも大きいが、共和国成立の過程で自らに敵対する勢力を「反動」として攻撃し、イスラム=後進性というシンボル操作によって世俗主義が推進されていく。宗教的な迷信に陥りかねない国民を「啓蒙」するために国家が宗教を管理する体制が取られた点では、西欧とはむしろ逆に、世俗主義のためにこそ「政教一致」が制度化されたという逆説も指摘される。
第二次世界大戦後、ケマルの創設した共和人民党を割る形で民主党が発足し、トルコ共和国は複数政党制に移行する。それまでは教え導くべき対象とされてきた国民がいまや有権者となった。国民の間にはイスラム的価値観が根強く残っており、世俗主義がたとえ国父ケマル・アタチュルクによって打ち立てられた国是であるとはいえ、有権者の意向を無視するわけにはいかない。「イスラム」票を取り込むため、宗教政策が緩和される中から後のイスラム政党につながる動向も現われてくる。
ここで注目されるのが、トルコ共和国のイスラム主義者は自らを敢えて「反動」のポジションに置いて共和国の「世俗主義」への批判を世論に向けて訴えたことだ。その点だけを取り上げると、あたかも「政教分離を国是とする共和国の理念」に異議を唱える「イスラム主義者の台頭」のように見えるかもしれない。ただし、彼らは近代的な科学技術や制度を決して否定しておらず、むしろ両立できると考えている。その意味で、現代トルコにおけるイスラム主義者は、共和国成立以前(つまり、「世俗主義」という概念のまだなかった時代の)オスマン改革派知識人と同様の立場にあると考えることができる。あくまでも共和国が設定した「世俗主義」という基準に沿って「反動」というレッテルが貼り付けられたに過ぎず、内実を見れば偏狭な要素はない。それどころか、「世俗主義」の守護者を以て自任する軍部がクーデターで政治介入する「反動」性を持つにもかかわらず、「世俗主義」を標榜するがゆえに「進歩派」として西欧世界から是認されてきたという逆説すら見て取れる。
Vali Nasr, Forces of Fortune: The Rise of the New Muslim Middle Class and What It Will Mean for Our World(Free Press, 2009→以前にこちらで取り上げた)は、イスラム世界における民主主義や資本主義にとって世俗主義は絶対的な要件とは言えず、むしろ資本主義の進展と共にイスラム圏の人々は心の拠り所を伝統的・宗教的価値に求めるようになり、そうした動向は矛盾するどころか両立するという見通しを示していたが、その代表的な事例はトルコである。また、「世俗主義」を標榜する軍部の方こそ権威主義的な反動に陥りかねない危険をはらんでいたことについては、Philip H. Gordon and Omer Taspinar, Winning Turkey: How America, Europe, and Turkey Can Revive a Fading Partnership(Brookings Institution Press, 2008→以前にこちらで取り上げた)で論じられていた。
| 固定リンク
「中東・イスラム世界」カテゴリの記事
- 大嶋えり子『ピエ・ノワール列伝──人物で知るフランス領北アフリカ引揚者たちの歴史』(2018.02.22)
- 高橋和夫『イランとアメリカ──歴史から読む「愛と憎しみ」の構図』(2013.04.19)
- 新井政美編著『イスラムと近代化──共和国トルコの苦闘』(2013.02.27)
- ヤコヴ・M・ラブキン『イスラエルとは何か』(2013.02.18)
- まだ読んでない本だけど(2012.04.01)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント