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2013年2月 8日 (金)

ジル・ドゥルーズ『スピノザ──実践の哲学』

ジル・ドゥルーズ(鈴木雅大訳)『スピノザ──実践の哲学』(平凡社ライブラリー、2002年)

以下、書き抜きメモ。

・哲学的認識の錯覚
「私たちは、みずからの身体に「起こること」、みずからの心に「起こること」しか、いいかえれば他のなんらかの体がこの私たちの身体のうえに、なんらかの観念がこの私たちの観念〔私たちの心〕のうえに引き起こす結果しか、手にすることができないような境遇に置かれているのだ。そもそも自身の身体や心が、その固有の構成関係のもとにどのように成り立ち、他の体や心または観念が、それら個々の構成関係のもとにどう成り立っているのか、またそうしたすべての構成関係がたがいにどのような法則にしたがって合一や分解をとげるのか──そうしたことは、私たちがみずからの認識や意識の所与の秩序にとどまっているかぎり、何ひとつわからない。要するに、そのままでは私たちは、ものごとの認識においても自身の意識においても、本来の原因から切り離された結果しか、非十全な、断片的で混乱した観念しかもてないようにできているということだ。」(36~37ページ)
「結果しか手にできない意識は、ものごとの秩序〔順序〕を転倒し、結果を原因と取り違えることによって自身の無知をおぎなおうとする(目的因の錯覚)。ある体がこの私たちの身体のうえに引き起こした結果を、意識は逆にそれこそが目的であり、その外部の体がまさにそのためにはたらいた当の原因〔目的因〕だったのだとし、同時のその結果の観念についても、意識はそれを自身がそのためにそうはたらいた目的因だったのだとしようとするのである。そこで意識は自分が第一原因であると思うようになり、身体に対するおのれの支配力〔権力〕にその根拠をもとめるようになる(自由裁量の錯覚)。そして、もはや自分が第一原因であるとも、こうなるようにと自分が意図したのだとも想像することができない局面では、意識はその根拠を神に、──知性と意志をそなえた神、目的因や自由裁量を駆使して、人間に報いとしての賞罰に応じた世を用意している神に、もとめることになる(神学的錯覚)。」(37~38ページ)

・コナトゥス=自己存続の力
「衝動とはまさにそうした個々すべてのものがとる自己存続の努力(コナトゥス)以外のなにものでもない。」(39ページ)
「意識は、他の体や観念との交渉のなかで私たちのコナトゥスが受けるさまざまな変動や決定をものがたっているのである。」(40ページ)

・スピノザの「生」の哲学
「道徳的思考がつねに超越的な価値にてらして生のありようをとらえるのに対して、これはどこまでも内在的に生それ自体のありように則し、それをタイプとしてとらえる類型理解(タイポロジー)の方法である。道徳とは神の裁き〔判断〕であり、〈審判〉の体制にほかならないが、〈エチカ〉はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまう。価値の対立(道徳的善悪)に、生のありようそれ自体の質的な差異(〈いい〉〈わるい〉)がとって代わるのである。こうした道徳的価値の錯覚は、意識の錯覚と軌を一にしている。そもそも意識は無知であり、原因や法則はもちろん各個の構成関係やその合一・形成についても何ひとつ知らず、ただその結果を待つこと、結果を手にすることに甘んじているために、まるで自然というものがわかっていない。ところが、理解していなければ、それだけで簡単にものごとは道徳と化す。法則にしても、それを私たちが理解していなければたちまち道徳的な「………すべし」というかたちをとって現われてくることは明白である。」(44ページ)
「まさしくスピノザには「生」の哲学がある。文字どおりそれはこの私たちを生から切り離すいっさいのものを、私たちの意識の制約や錯覚と結びついて生に敵対するいっさいの超越的価値を告発しているからである。私たちの生は、善悪、功罪や、罪とその贖いといった概念によって毒されている。生を毒するもの、それは憎しみであり、この憎しみが反転して自己のうえに向けられた罪責感である。」(49ページ)
「彼はニーチェに先立って、生に対するいっさいの歪曲を、生をその名のもとにおとしめるいっさいの価値観念を告発したのだった。私たちは生きていない。生を送ってはいてもそれはかたちだけで、死をまぬがれることばかり考えている。生をあげて私たちは、死を礼讃しているにすぎないのだと。」(50ページ)
「人間の内的本質を、その外発的な、わるい出会いの方にもとめるなどということは、恥ずかしいことだといわなければならない。なんであれ、悲しみをうちに含むいっさいのものは、圧制と抑圧の道具となる。悲しみをうちに含むいっさいのものは、わるいものとして、私たち自身の活動力能からこの私たちを切り離してしまうものとして、告発されなければならないのだ。自責の念〔良心の呵責〕や罪の意識ばかりではない。死について考えることばかりではない。希望でさえ、安堵でさえ、そこにはなにがしかの無力感が含まれているのである。」(83ページ)

・「生」を歪める「善悪」
「いい、これはどこまでも一個の存在する様態に対して、どこまでも一個の変動する、いまだ〔形相的に〕所有されていない活動力能に対して、いわれることであり、まさにそれゆえに、これを全体化することはできないのだ。〈善〉〈悪〉というかたちでこのいい・わるいを実体化してしまえば、結局はこの〈善〉を存在理由、活動の理由とし、いやでも目的論的な錯覚に陥ることになって、神からの産出の必然性を歪め、ひいてはこの神のまったき力能に対する私たちの参与の仕方を歪めてしまうことになる。………〈善〉も〈悪〉も、たんなる思考上の存在、想像上の存在にすぎず、さまざまの社会的標徴や、褒賞と懲罰から成る抑圧の体制に、全面的に依存しているのである。」(84~85ページ)

・自らの本質が十全に発揮されるのが「自由」
「『エチカ』の全努力は、自由と意志との伝統的な結びつきを断ち切ることにあった。」
「スピノザの原則は、自由はけっして意志の特質ではない、「意志は自由な原因と呼ばれえない」ということである。意志は、有限であろうと無限であろうと、あくまでも〔思惟の〕一様態であり、他の原因によって決定されている。」
「すべて存在するものは必然的に存在し、必然性以外の様相をもたないから、ただひとつ自由な原因といわれるべきなのは「自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身によってのみ作用へと決定される」原因〔自己原因〕である。」
「自由を自由たらしめているのは「内的な」必然性であり、「自己の」必然性である。人はけっしてその意志や、意志の則るべき規範によって自由なのではなく、その本質や、本質から生じるものによって自由なのである。」
「もろもろの有限様態のなかで最も大きな力能をもつ私たち人間は、みずから自身の活動力能を所有するにいたったとき、いいかえれば自身のコナトゥス〔自存力〕が十全な諸観念によって決定され、そこから能動的な情動、私たち自身の本質によっておのずから開展(=説明)される情動が生じてくるとき、自由となる。様態においてもやはり自由は本質や、本質から生じるものと結びついているのであり、意志やそれを律するものと結びついているのではないのである。」(127~130ページ)

・共通概念→情動同士の関係が構築されていくプロセス。『千のプラトー』で頻出する「アレンジメント」という概念と関係ありそう。
「スピノザによれば、すべて存在するものはそれぞれ本質をもつが、同時にまた個々特有の構成関係をもち、この構成関係をとおしてそれらは存在においてたがいに他のものとひとつに組み合わさったり、分解をとげて他のものに姿を変えてゆく。共通概念とは、まさにそうした複数のもの相互のあいだに成り立つ構成関係の合一の観念である。」(224ページ)
「共通概念とはつねに、各体がその点で適合をみる一致点の観念である。各体はある特定の構成関係のもとに適合し、この構成関係は多少の差こそあれいくつかの体のあいだで具現をみるのである。」(226ページ)
「…共通概念の形成の秩序は情動にかかわり、いかにして精神が「みずからのさまざまな情動を整え、それらを互いに結びつけることができる」かを示しているのである。共通概念はひとつの〈術〉、『エチカ』そのものの数える術なのだ。〈いい〉出会いを組織立て、体験をとおして構成関係を合一させ、力能を育て、実験することである。」(232ページ)

・存立平面で展開する微粒子の動きとして捉えられた「生」→非人称的な存在が生成展開しつつあるプロセスそのものの中に「私」がいる。こうしたイメージは『千のプラトー』のリゾーム論と共通している。
「ひとつの体は微粒子間の運動と静止、速さと遅さの複合関係によって規定される。」
「肝心なことは、生を、生のとるひとつひとつの個体性を、形として、また形態の発展としてではなしに、たがいに遅くなり速くなりしながら微粒子群のあいだに成り立つ微分的な速度の複合関係としてとらえることだ。」
「ひとは速さ、遅さによっていつのまにか物のあいだにはいりこみ、他のものと結びついている。ひとはけっして始めるのではない。白紙に還元するのではない。ひとはいつのまにかあいだに、ただなかにはいっているのであり、さまざまなリズムをともにし、また与えあっているのである。」
「こうした情動群を配分している内在的プラン、この大いなる自然の平面(プラン)に、いわゆる自然的のもの、人工的のものといった区別などまったく存在しないことは明らかである。この自然の内在的プランの上では、どんなものも、それを構成するもろもろの運動、もろもろの情動の組み合い(アジャンスマン)によって規定されるのであり、この組み合いが人工的か自然的かは問題にならない以上、人為的工夫もまた完全にこの自然の一部をなしているからだ。」
「スピノザの〈エチカ〉はモラル〔人間的道徳・倫理〕とは何の関係もない。彼はひとつのエトロジーとして、いいかえれば、そうした内在の平面の上でさまざまの速さと遅さ、さまざまの触発しまた触発される力がとげる構成の問題として、これをとらえているのである。だからこそ彼は真実叫びをあげて言うのだ。君たちは、良きにせよ悪しきにせよ、自分に何ができるか知ってはいない。君たちはひとつの身体、またひとつの心が、ある出会いにおいて、ある組み合いにおいて、ある結びつき合いにおいて、何をなしうるかをあらかじめ知りはしない、と。」
「私たちは、ひとつの体を構成している微粒子群のあいだに成り立つ速さと遅さ、運動と静止の複合関係の総体を、その体の〈経度〉と呼ぶ。ここにいう微粒子(群)は、この見地からして、それら自身は形をもたない要素(群)である。私たちはまた、各時点においてひとつの体を満たす情動の総体を、その体の〈緯度〉と呼ぶ。いいかえればそれは、〔主体化されない〕無名の力(存在力、触発=変様能力)がとる強度状態の総体のことである。こうして私たちはひとつの体の地図をつくりあげる。このような経度と緯度の総体をもって、自然というこの内在の平面(プラン)、結構の平面(プラン)は、たえず変化しつつ、たえずさまざまの個体や集団によって組み直され再構成されながら、かたちづくられていうるのだ。」
「…ここにはもうものの形はない。形をなしていない物質〔素材〕の微細な微粒子群のあいだに成りたつ速度の複合関係があるだけだ。ここにはもう主体はない。無名の力がとる、個体を構成する情動状態があるだけだ。ただ運動と静止しか、力動的な情動負荷しかとどめないこの平面(プラン)は、それが私たちに知覚させるものと一緒に、それに応じて知覚されてゆくのである。」(238~248ページ)

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