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2013年1月 6日 (日)

萱野稔人『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』、その他

 萱野稔人『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書、2011年)を読んでいたら、私自身の以前の関心と結びついてくるところがあった。そのことに触れる前に、まず本書のキモを以下に並べておく。

・「私がナショナリズムを肯定するのは、基本的に「国家は国民のために存在すべきであり国民の生活を保障すべきである」と考えるところまでだ。もしナショナリズムが「日本人」というアイデンティティのシェーマ(図式)を活性化させて、「非日本人」を差別したり「日本的でないもの」を排除しようとするなら、私はそのナショナリズムを明確に否定する。私がナショナリズムを支持するのは、あくまでも国家を縛る原理としてのナショナリズムであり、アイデンティティのシェーマとしてのナショナリズムではない。」(29~30ページ)

・人間の集団的意思決定にあたって言語の共通性が前提とした上で、「国家(政府)は国民の生活に責任をもたなくてはならない」(24~25ページ)。「それぞれの民族は固有の政府をもつべきであり、それこそが正統な政治の枠組みとする政治的原理」(51ページ)。「国家は国民によって国民のために運営されなければならない」という原理をかかげることで、ネーション(国民)となったその地域の住民たちが主権の行動に関与しうる可能性を歴史的に切りひらいてきた。(148ページ)

・アーネスト・ゲルナーの議論に基づき、かつての農耕社会は差異化のベクトルによって成り立っていた秩序であったのに対し、産業社会における人びとは特定の土地や仕事から切り離されて流動化していったことを指摘。コミュニケーションの抽象化に伴い、共通の言語や基礎的技能が必要となる。そうした産業社会の要請に従って国家は領域内の言語の統一・標準化、教育制度の整備を進め、文化的に同質化した集団へとまとめ上げていった。「国民国家は、国家がみずからの内部を、労働力が自由に移動し、資本が自由に投下されるような社会空間につくりかえることで成立したのである」(168ページ)。言い換えると、資本主義を内在化させることで国民国家が成立した。

・国家が人びとに「基礎的な労働習慣」を身につけさせるよう標準化を進めた点については、フーコーの「規律・訓練」の議論を援用する。暴力による威嚇ではなく、身体的な規律化によって秩序形成が進められ、国家に備わる暴力が後景化した点を指摘。

・国民国家を否定するのは難しい。「一つは、国民国家がなくなったからといって私たちが暴力の問題から自由になることはありえないからだ。マルチチュードによる民主主義を実現するためですらマルチチュードによって民主的に組織された軍隊による総力戦が必要となることはすでにみた。あるいは、もしみずからの独立と自治をめざさないのであれば、別の統治権力による暴力のもとにとどまるほかない。」「いずれにせよ私たちは暴力の問題から逃れることができない以上、問われるべきは統治の暴力を自分たちでコントロールできるかどうかということになる。」「問われるべきは暴力の「規模」ではない。暴力をコントロールできるかどうかという「形態」だ。」(202~203ページ)

・もう一つの問題はファシズムの可能性だが、「労働市場のグローバル化をつうじた国内経済の崩壊によってナショナリズムが排外主義へと向かうことを防ぐには、ナショナルな経済政策や社会政策によって国内経済の崩壊を食い止めることが必要だ」。「ナショナリズムがファシズムに向かわないようにするには、ナショナリズムのなかにとどまってナショナリズムそのものを加工していくことが必要なのである。」(210ページ)

 さて、私の以前の関心を思い出したというのは次の箇所。

・「国家をなくすことはできるかという問題は、つまるところ、物理的暴力行使にもとづいてみずからの意思決定を社会に貫徹しようとする運動そのものをなくせるか、という問題」であって、「善い・悪い」では割り切れない(97ページ)。
・「国家をなくすためにすら国家を反復しなければならないという逆説」(115ページ)

 以前、大正・昭和初期の思想史的状況について調べていたとき、高畠素之という人物に関心を持った。彼はマルクス『資本論』を初めて全訳した人物として記憶されている。ところが、その翻訳作業の最中から国家社会主義を主張し始めたため、社会主義者からは裏切り者呼ばわりされ、逆に右翼陣営からは社会主義者のくせして天晴れな奴じゃ、みたいに受け止められた。戦後のある時期まで、社会主義シンパが主流となった思想史研究では、彼は進歩的な理想についていけず土着的ナショナリズムへ先祖がえりした反動主義者なのだという受け止め方が一般的となった。もちろん、現在の思想史研究ではそれほどのバイアスはないと思うが、ただマルクス主義との対抗関係で高畠を位置づける視点がすでに定着してしまったため、それ以上掘り下げて考えようという契機はない。他方、高畠の極めて論理的・合理的な思考様式は右翼的な感性とも全く異質であり、従って右翼からも鬼っこ扱いされた。左右いずれからも異端視されるという、ある種のエアポケットに落ち込んでしまったと言えよう。

 高畠がマルクス主義に疑問を投げかけたのが、まさに国家の問題であった。例えば、レーニン『国家と革命』が、プロレタリア革命によって国家は揚棄され、暫定的に「半国家」が現れるがいずれ消滅する、と論じていたのに対して、「半国家」だろうが何だろうが国家であることに変わりないじゃないか、とかみついた。人間集団が存在するかぎり、国家と権力の問題は決して無視できない。マルクス研究だけでは不十分で、国家の問題も理論的に考えておかなければ現実問題に対して有効な社会科学とはなり得ない、というのが高畠のいわゆる「転向」の理由である。

 善悪の価値判断を保留して、とにかく論理的に考えようとするのが高畠というパーソナリティーの特徴である。価値中立的な法秩序としての国家を考えるため、彼が高く評価したのがハンス・ケルゼンの国家論であった。つまり、「国家とよばれる人間社会の秩序が一つの強制秩序であり、この強制秩序は法秩序と同一物であることを意味する。」「「国家」とか「法秩序」とかよばれる支配、いわゆる「強制秩序」は、その追求する社会的目的、即ちその内容によって性格づけられるものではない。それは様々な内容を取り込みうる社会生活の形式であり、多種多様な目的を実現しうる社会技術の手段である」(ハンス・ケルゼン『社会主義と国家』長尾龍一訳、木鐸社、1976年、12~13ページ)という考え方を高畠も取っていたと考えられる。また、高畠が天皇主権説の上杉慎吉と一緒に経綸学盟を発足させたことは右翼運動史に記載されているが、そもそも法秩序が成り立つ根拠について当為の問題として考えようとする彼の問題関心において、ケルゼン的国家論と上杉的国家論とにある種の類似性が見られるとも指摘している。単に国家主義者になったのではなく、そこに理論的な着想が動機となっていた点を見逃すことは出来ない。

 このような彼の見解の当否についてはもちろん議論の余地があるだろう。ただ確認しておきたいのは、彼のナショナリズムへの「転向」は、あくまでも社会科学理論としての転換であって、土着的な心情に絡め取られたといった性質のものではないことである。それにもかかわらず、日本の社会主義運動史において、高畠が国家論の重要性を指摘する上でケルゼンを理論的根拠とした点には一切触れられておらず、単にナショナリストだから社会主義者になりきれなかったのだ、という心情倫理的な断罪で終わっている。国家やナショナリズムの問題について感情的でナイーヴな発想が評価基準となっていたことがうかがわれよう(もっとも、戦前の暗い記憶を持つ世代の議論であった点は斟酌してあげないといけないとは思う)。

 萱野さんは「日本の人文思想の世界では、自発性によって人びとがつながるという美しい現象ばかりが想定されて、強制力を必要とするような暗い現実を議論から外す傾向が強い。だからこそそこでは、国家の廃棄が可能だというような議論も簡単になりたつのであり、政治を論じるための概念も貧相なものになるのである」(113ページ)と記しているが、それは戦後、一貫して続いている傾向であるなあ、と思った次第。

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