ユーラシア主義、チェレプニン、そして江文也
※前回のエントリーの続き
ところで、私がなぜ浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』(成文社、2010年)を手に取ったかというと、1930年代に日本や中国で若手の音楽家たちを積極的に発掘・育成しようとした亡命ロシア人の音楽家、アレクサンドル・チェレプニンにユーラシア主義の影響があったのかどうかを確認したいという関心による。
彼は青年期、革命で混乱するペトログラードを離れてグルジアの首都ティフリス(トビリシ)の音楽院院長に就任した父ニコライ・チェレプニンと共にこの地で過ごしていた。彼はコーカサスが織り成す多種多様な民族文化に積極的な関心を持ち、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの各地をめぐってそれぞれの音楽や芸術に触れている。後にパリでたまたまバルトークと出会った際、民謡採集の話題で盛り上がったらしいが、若きチェレプニンはグルジアの民謡について語ったという(Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, ed. by Sue-Ellen Hershman-Tcherepnin, Alexander Tcherepnin: The Saga of a Russian Émigré Composer, Indiana University Press, 2008, pp.69-70)。
例えば、浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』でトルベツコイの思想を説明する次の記述は、チェレプニンもまたコーカサス(カフカス)で実感したであろう感覚と共通しているように思われる。
「そして、ヨーロッパ文化こそが最も優れている思考様式に対し、彼が異議を唱えるようになったもう一つの要因は、カフカス地域の文化研究にあったと考えられる。後に彼のライフワークとなるこの地域の言語、文化研究を通じて、トルベツコイは、ロシア文化が擁するアジア的な要素こそが、ロシア文化をヨーロッパ文化と本質的に分けるものであることを認めただけでなく、それまで劣ったものと考えられてきたロシアの中のアジア的な文化を改めて評価する視点を得たのである。その中で、ロシア人の文化とカフカス地域にある種々の文化のどちらが優れているかなど判断はできない、「あらゆる民族と文化は、いずれも全て等しい価値を持ち、高いものも低いものもない」という彼の文化観が確立されたのである。」「様々な民族と言語が混沌とした様相を呈しながらも、調和しながら共生している「ユーラシア」イメージの原風景は、彼が見たカフカスにあった。」(浜、77ページ)
結論から言うと、チェレプニンがユーラシア主義から一定の影響を受けているのは確かである。アジアへの関心というだけでは、広い意味でのオリエンタリズムというレベルを超えないかもしれない。だが、例えば、彼が来日して日本の若手作曲家たちと懇談の機会を持った際、清瀬保二をはじめ日本の若手作曲家たちに「西欧音楽を模倣する必要はない、君たち自身の民族的個性を活かした音楽を模索しなさい」という趣旨の示唆を与えていたことは、各民族固有の文化それぞれに価値を認めるユーラシア主義の多元的性格と軌を一にしている。
「日本作曲家諸君よ! 諸君の手には世界の民話の豊かな宝庫がある。諸君は近代楽器のテクニックを熟知してをり之れを自由に使用し得るのだ。
先づ自国に忠実であり、自からの文化に忠実ならんことを努められよ、そして自からの民族生活を音楽に表現されよ。諸君の民話をインスピレーションの無尽蔵な源泉とし、民族的文化を固き土台とし、日本民謡と日本器楽を保存し以つてあらゆる方法によつて之れを発展させるとき、諸君は正しき日本国民音楽を建設するだらう。
諸君の音楽作品がより国民的であるだけ、その国際的価値は増すであらう。」(アレクサンドル・チェレプニン[湯浅永年訳]「日本の若き作曲家に」『音楽新潮』1936年8月号)
(なお、こうした発想を彼ら日本の若手作曲家たちがチェレプニンを通して学んだのではなく、西欧的な音楽語法による画一化によって彼ら自身の内面でわだかまっていた感覚が押しつぶされかねないという葛藤に悩んでいたところをチェレプニンの肯定によって後押しされたという経緯には注意しておきたい。例えば、伊福部昭が「日本狂詩曲」でチェレプニン賞の募集に応じた際、日本側の事前審査でこんな粗野な作品をヨーロッパの大家に見せるわけにはいかないという意見があったらしいが、結果としてこの「日本狂詩曲」が受賞し、伊福部が作曲家としてデビューするきっかけとなった。日本の既製楽壇が内部検閲でオミットしようとした粗野な感性こそが、まさにチェレプニンの求めているものであった。こうした事情を見ると、若手作曲家自身の内発性があったと言える一方で、西欧音楽という外来文化の押し付けを拒む上で、チェレプニンという、日本の視点からすればやはりヨーロッパから来た著名な音楽家の権威に頼らざるを得なかったというのは一つの皮肉ではある。)
また、1934年に『上海晩報』からインタビューを受けたときには「ロシア人は実際にはヨーロッパ人ではなく、モンゴル的なものを消し去ってはいません」と語っており(Korabelnikova, p.109)、これはユーラシア主義の「タタールの軛」再評価を念頭に置いた発言と考えられる。実際、彼は1920年代後半にユーラシア主義の文献を読んだことからヒントを得ている。ただし、政治運動としてのユーラシア主義にはコミットしていないのだが、あくまでも彼個人の思想や芸術観というレベルに限って影響を受けていたことは指摘できる(Ibid. p.154)。
20世紀初頭、ヨーロッパ及びその周辺各国では自分たちの民俗や古代文化を見つめなおそうという気運が盛り上がっており、それはやがて第一次世界大戦後において民族自決の政治思想とリンクしていく。ロシアにおけるキリスト教以前の古代に着想を得たストラヴィンスキー「春の祭典」やプロコフィエフ「スキタイ組曲」は原始主義と呼ばれることがある。フィンランドではシベリウスがカレヴァラを題材に曲想を練り、ハンガリーではバルトークをはじめとした人びとが民謡採集を活発に行った。アルメニア人のコミタスは、トルコ出身であるためアルメニア文化をよく知らないという負い目の意識を抱えており、そのため純粋なアルメニア文化への渇求を彼自身のアイデンティティーの模索と重ね合わせるように民謡採集に取り組んだ。そうした音楽的状況を熟知していたチェレプニンは、西欧近代による文化の均質化傾向が世界規模で拡大することによって各民族固有の音楽文化の豊かさが押しつぶされかねないという懸念を胸中に秘めて、はるか東アジアにまでやって来た。上海では中国的風格を備えた音楽を求めてピアノ曲のコンクールを実施して賀緑汀や老志誠などを見出し、日本でも多くの若手作曲家たちと出会った。清瀬保二は西洋音楽と日本らしさとの葛藤をチェレプニンに向けて率直に問いかけた。早坂文雄は古代への憧憬を抱き、伊福部昭はアイヌやオロッコ、二ヴフのメロディーまで自らの音楽に取り込んでいく。そして江文也は、生まれ故郷の台湾のメロディー、山地の原住民族への憧れ、古代中国文化に圧倒された感動を音楽で表現しようとした。横断的に俯瞰してみると、様々な音色が響きあう世界をチェレプニンはつなぎ手の一人となって渡り歩き、それこそユーラシア主義のイメージさながらに、多文化がそれぞれ異質ながらも全体としてハーモニーを奏でているかのような様相が浮かび上がってくる。それは単なる夢想に過ぎないかもしれないが、非常に魅力的なヴィジョンだと思う。
同時に、ユーラシア主義は、嶋野三郎の解釈からも分かるとおり、日本のアジア主義において、反西欧近代→東洋の優越という政治的コンテクストで読み替えられかねない危うさもはらんでいた。戦争中の1943年、台湾から東京へ留学していた郭之苑が江文也の自宅を訪問した際、江文也は「西洋の芸術文化は行き詰っている。彼らはすでに西洋的合理主義を離れて東方の非合理的な世界を追求している。音楽の世界ではストラヴィンスキーやバルトークがそのあたりをよく表現しているようだ」と語っていたという(郭之苑「中國現代民族音楽的先駆者江文也」、林衡哲・編『現代音楽大師:江文也的生平與作品』前衛出版社、1988年、66頁)。こうした彼の発言は、おそらくチェレプニンと出会った頃から抱懐していた考え方だと思われる。だが、他方で戦時中という時代状況を考えたとき、西欧近代の克服を日本の使命、大東亜戦争の世界史的意義として正当化しようと試みた「近代の超克」論と共鳴する側面があったことも否定は出来ない。西欧近代の否定を、多文化性の擁護と受け止めるのか、東洋の優越と解釈するのか。両者が微妙に絡まりあった様相をいかに捉えていくかという問題には複雑な難しさも感じてしまう。
最後に1点だけ指摘しておくと、清瀬保二はチェレプニンと語り合った折の印象を「チェレプニンは語る──われらの道」という文章にまとめている(『清瀬保二著作集――われらの道』[同時代社、1983年]を参照。初出は『音楽新潮』1934年11月号)。そこでは江文也と同様に、チェレプニンの「ヨーロッパ音楽は行きづまっている。どうしても東洋の力をかりて自分らの糧となし再生しなければならぬ」という発言に反応している。同時に、この文章では続けて「とまれ自分らが最も困難に思い、注意しなければならないのは近代の日本であり、現代の東洋である。安価なる日本主義やファッショ的民族主義を主張することには組みしない」と明記していることにも注意を喚起しておきたい。
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