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2013年1月 7日 (月)

浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』

 近代化の過程が事実上、西欧文明との一体化を意味すると受け止められる中、自分たちの国は果してヨーロッパなのか、アジアなのか?という自己認識をめぐる問いが常に論争の的であり続けた点で、日本の近代思想史においてもロシアはしばしば参照点として言及されてきた。近代=西欧文明とみなし、それへの同一化によって自分たちのアイデンティティーが蝕まれつつあるという認識を内包していたところを見ると、ユーラシア主義もやはり「反近代」を志向する思想運動であったと言える。

 ユーラシア主義とは、ロシア革命によってヨーロッパ各地への亡命を強いられた人々の間で1920年代に生れた思潮である。浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』(成文社、2010年)は言語学者のトルベツコイ(1890~1938)と地政学者・経済学者のサヴィツキー(1895~1968)の二人を軸にしてこの思想の内在的な理解を進めている。トルベツコイがブルガリアのソフィアで刊行した『ヨーロッパと人類』、さらにサヴィツキー、神学者のフロロフスキー(1893~1979)、音楽評論家のスフチンスキー(1892~1985)との4人で共同執筆した論文集『東方への旅立ち』(1921年)が嚆矢とされる。

 ユーラシア主義の思想的特徴をいくつか挙げてみると、第一に多言語・多民族の文化的統一体としてユーラシアを想定している。東方世界と地続きに広がるステップ地帯でスラヴ民族とトゥラン民族との相互交渉を通した多元性に彼らはロシア文化の核心を見出した。第二に、トルベツコイは1925年にベルリンで刊行した『チンギス・ハンの遺産』において、こうした多元的統一を成し遂げたものとしてモンゴルの支配、いわゆる「タタールの軛」を再評価した。サヴィツキーが1933年に発表した論文で民族政策を論じた考え方を本書では次のように要約している。

「ユーラシア世界の歴史に見られる国家の強権的な統治とは対照的に、「民族的体制と宗教的生活は、伝統的に、非強制的な原則によって規定されて」おり、これは「紀元千年にわたってユーラシアに存在したスキタイやフンの国家の特徴」であった。「もっとも大きな民族的、宗教的寛容(当時のヨーロッパの諸体制とは実に対照的である)によって、旧世界のほとんど全てを抱え込んだ十四世紀から十八世紀のモンゴル帝国は特徴付けられ」、この「遊牧民の帝国の歴史の中で古くから培われた独自の寛容の形態」を後のロシアが継承したのである。そして、「一方では国家中央の強力な強制力と、もう一方では民族的、宗教的問題における非強制的体制という、一見して明らかなコントラスト」が歴史的伝統として存在しており、「民族的、宗教的寛容こそが、この帝国の存在の唯一可能なかたち」なのである、と結論づけられている。」(169~170ページ)

 このような「タタールの軛」再評価は、いわゆるアジア的要素をロシアの後進性とみなし、克服の対象と考えてきた知識人層にとってかなり挑発的な議論であったと言えよう。ロシアのアジア的要素を前面に打ち出して、西欧近代とは異なる自己認識を確認しようとした点が第三の特徴として挙げられる。ただし、それは単なる反発ではない。ユーラシア主義では上述のように文化的多元性を擁護する寛容な政治体制を求めている。西欧近代文明の導入による人為的な国家形成は領域内の均質化を図り、それが文化的多元性を押しつぶしてしまう点に批判の矛先が向けられている。あらゆる民族の文化は価値として対等であり、西欧を上位に置くヒエラルキーに従属させてしまうわけにはいかない(ただし、この点についてはトルベツコイとサヴィツキーとに微妙な温度差があったらしい。ユーラシア主義内部における微妙な相違を浮き彫りにすることも本書の論点の一つとなっている)。ボルシェヴィキに対しても同様の観点から批判的であった。

 ロシアの政治亡命者たちが滞在していたヨーロッパの1920年代は、第一次世界大戦の惨禍にうちひしがれ、オスヴァルト・シュペングラー『西洋の没落』が話題になったように文明論的なレベルでも悲観的な気分の蔓延する時代であった。没落しつつある西欧近代にかわり、ロシア=ユーラシア世界の台頭というイメージがあったことも第四の特徴と言えるだろう。また、第五の特徴として、ヨーロッパ諸国の議会制度が行き詰まり、各国で独裁者が出現しつつある政治状況を目の当たりにして、「理念統治」という考え方を掲げた。ただし、伝統なるものを本質主義的に捉えて専制政治を正当化してしまう危うさがあった点も指摘しておかねばならないだろう。

 ボルシェヴィキの政権も早晩崩壊するはずだという見込みからロシアの亡命者たちは様々な政治構想をめぐらしていた。しかし、ソ連の体制が安定し始める中、例えばスフチンスキーのようにむしろソ連内部に入り込むことでユーラシア主義の理念が実現できると考える勢力も現われたように分裂傾向が顕著となり、1930年代には思想運動としてのユーラシア主義は消えていく。トルベツコイは亡命先のウィーンでゲシュタポに逮捕されたショックで1938年に病死した。プラハにいたサヴィツキーは、ドイツ軍が侵攻した1939年にはゲシュタポに、1945年にはソ連内務人民委員部に逮捕され、ラーゲリへ送られた。なお、最後のユーラシア主義者と言われたレフ・グミリョフは、ラーゲリでサヴィツキーと出会ったのがユーラシア主義に関心を持つきっかけであった。

 共産主義も近代の一亜種に過ぎないと批判したユーラシア主義は、ソ連体制において当然ながらタブーとなっていた。ソ連崩壊後、とりわけプーチン政権以降、ロシア外交を地政学的に根拠付ける思想として見直されるようになってきたが、その場合にはネオ・ユーラシア主義と呼ばれることがある。

 なお、トルベツコイ『ヨーロッパと人類』は、1926年の時点で嶋野三郎によって邦訳されている(『西欧文明と人類の将来』行地社出版部)。嶋野は満鉄の東亜経済研究所勤務のロシア専門家で、宮崎正義と共にモスクワ留学に派遣された経験を持つ。他方、嶋野は大川周明や北一輝などの同志として老壮会、猶存社、行地社に参加、二二六事件で投獄されたことのある行動的右翼でもあった。当然ながら、日本的アジア主義のコンテクストの中で反西欧近代→有色人種解放と読み替える志向性を持ち、そうした意識は1932年に出された「ユーラシア主義宣言」を「日満共福主義」と題して翻訳しているところにも表われている。

(続く)

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