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2013年1月

2013年1月23日 (水)

佐野仁美『ドビュッシーに魅せられた日本人──フランス印象派音楽と近代日本』

佐野仁美『ドビュッシーに魅せられた日本人──フランス印象派音楽と近代日本』昭和堂、2010年

 明治以来、西欧文明の摂取こそが近代化への道程と確信し、手本としてきた近代日本。欧米で流行している文物を目ざとく見つけては、その移植に力を注いできた。もちろん、西洋音楽の受容も例外ではない。他方、近代西欧への盲目的な追従に対して違和感もまた鬱積しており、やがて自らの国力へ自信を深めるにつれ、日本独自の民族性を強調しようという動機にもつながってくる。そうした葛藤が、日本人のドビュッシー理解をたどることで浮かび上がってくるのが興味深い。

 西欧音楽を上演する機会がほとんどなかった時代、日本の知識人は文献を通して音楽を知るという、ある種、「頭でっかち」な傾向があった。そうした中、ドビュッシーを最初に紹介したのは西欧の新思潮に敏感な文学者である。上田敏や永井荷風は西欧文化の最先端としてドビュッシーに注目した。ところが、遅れて1910年代のパリに滞在した島崎藤村はむしろ、ドビュッシーの東洋趣味、とりわけ五音音階のメロディーから日本的な郷愁を嗅ぎ取った。さらに1920年代、外交官の柳沢健や哲学者の九鬼周造はドビュッシーと日本文化との感覚的な共通性を論じた。こうして、ドビュッシーの置かれた西欧音楽における歴史的文脈から切り離される形で、ドビュッシーの音楽は日本人の感覚に近い、という論法が決まり文句となっていく。

 日本の楽壇はもともとドイツ音楽が主流で、フランス音楽の受容には既存のアカデミズムに対する若手や在野音楽家からの反発という背景もあったらしい。もう1つ、美感覚の相違も指摘される。ドイツ系のピアニストでは、感覚的な美しさよりも、音やリズムを正確に「がっちりと」弾く演奏が正統とされ、そこから外れた演奏は軽薄と受け止められたという。音の美しさや色彩的表現の豊かさ、繊細さといった、本来、ピアノ演奏には不可欠なはずの要素はフランス派のピアニストによってもたらされ、そうした事情もドイツ派とフランス派との対立構図を形成した。フランス音楽がアカデミズムのレベルも含めて一般に普及するのは戦後になってからである。

 ところで、近代フランス音楽に傾倒した人々はおおまかに三つのグループに分けられ、それぞれ対立し合う側面もあった。第一に、日本人の音感覚に根ざした音楽を目指す際にドビュッシーなど印象派の手法を意識した作曲家たちで、清瀬保二、松平頼則、箕作秋吉、早坂文雄などの民族派。第二に、フランス音楽の最新動向に関心を示した深井史郎、宅孝二、大澤壽人などのモダニズム派。第三に、19世紀以来のフランス音楽院における技芸習得を重視した池内友次郎、平尾貴四男などフランス・アカデミズム派が挙げられる。

 自分自身の心象風景にフィットする音楽を表現したいと模索していた民族派に対して、それでは自分たちの技巧不足を感覚的な曖昧さで誤魔化しているだけだ、とモダニズム派やフランス・アカデミズム派からの批判は手厳しい。他方で、モダニズム派やフランス・アカデミズム派が技巧の面で西欧音楽に学ぶ姿勢を見せつつも、自分たちのオリジナリティーを示す音楽を表現し得たかと言えば、疑問も残る。さらに戦時下に入ると、彼らもまた国策の下で日本的・アジア的要素を取り込んだ作曲活動を示すことになった。

 私自身の関心対象は、上記で言うところの民族派の音楽家たちがどのような模索をしていたかにある。彼らは日本の民族的独自性を強調していたが、それはあくまでも音楽表現というレベルの話であって、政治的なナショナリズムとは位相が異なる点には注意しておく必要はあるだろう。ドビュッシーから日本的情緒と共通する感性を見出そうとしたところに日本的なものを肯定しようという発想があったのは確かだが、他方でそこには“西欧音楽の最先端”という外来の権威を媒介とせざるを得ないという暗黙の前提があったと捉えることもできる。矛盾ではあるのだが、そうした諸々の葛藤を経ることで音楽的な豊かさ、面白さを生み出してきたと考えるなら、それなりに意義のある経験だったと言えるのかもしれない。

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2013年1月19日 (土)

バルトークと江文也

 19世紀以降、とりわけナショナリズムが中小民族の間にも行き渡り始めたのに伴い、自分たちの属するナショナリティーとはそもそも何なのか?という探究が活発となった。今まで顧みることのなかったすぐ足元で見出された豊穣な文化的財宝は、学問や芸術といった分野に新鮮な驚きをもたらす。同時に、他の文明によって汚されていない「本来あった純粋な」姿を確定しようという情熱も駆り立てられ、そうした本質主義的な「伝統文化」観は、その文化に帰属する者/帰属しない者とを排他的に峻別する政治的リゴリズムにもつながりかねない危うさをはらんでいた。帝国の解体プロセスの中、民族自決の原則によって国境線が新たに引き直されたが、本質主義的な文化観・民族観も絡まり合い、紛争の火種が随所に埋め込まれることになる。大きな政治史的イベントが起こるたびにそこから次々と火を噴出して、20世紀に数多の悲劇を現出したことは周知の通りであろう。

 民族的伝統の探究はロマン主義的な文学や芸術と共鳴しあっただけでなく、言語学や民俗学といった学問をも刺激した。そうした動向の一つとして民謡採集も挙げられる。

 とりわけ有名なのがバルトークである。彼の場合、民謡採集に取り組んだ動機は何だったのか。

 バルトークは母国ハンガリーを中心に東欧の各地で民俗音楽調査にたびたび従事しただけでなく、その足跡はトルコや北アフリカなどにも及び、脱国境的な関心がうかがわれる。彼の民俗音楽観については前回のこちらで触れておいたが、彼は東欧の多民族性に注目しており、異文化が相互に触れ合う中でより豊かな音楽が生れてきたのだと考えている。また、農村での調査を重視していたが、都市文化=西欧文化が農村まで浸透し、音楽的な多様性が画一化されかねないことを懸念していた。そして、集めた民謡から見出した五音音階を根拠に、ハンガリー文化の源流をアジアに求めているところを見ると、西欧とは異なる民族性を意識していたようにも思われる。

 彼の民謡採集の場合、その動機は音楽表現の新たな可能性を切り開こうとするところにあった。民謡採集を通してナショナリティーの純化を求めるような発想には異議を唱えており、政治的な意味でのナショナリズムとは位相が異なる。また、民謡の珍しい題材を飾りつけに利用するようなエキゾティシズムでもない。

 彼はモチーフとしての民謡そのものよりも、自ら農村に入り込んで農民たちと密な接触を持ち、彼らを通して民俗音楽の本質を体感的につかむことを重視していた。そうして体得された音楽語法を通して自分自身の音楽を表現することを目指していた。つまり、「大地から突きあげてくる民俗音楽の力によって、新しい音楽精神を誕生させようということが問題になっているのです。」(バルトーク「東欧における民謡研究」『バルトーク音楽論集』御茶の水書房、1992年、151ページ)

 江文也はアレクサンドル・チェレプニンの示唆によってバルトークを知ったと思われる。チェレプニンは来日中に出会った若手作曲家たちにバルトークに関心を持つよう推奨していた。彼自身、バルトークとは面識があり、日本へも来るよう勧めていたそうだ。

 新交響楽団(現在のNHK交響楽団)が出していた音楽雑誌『フィルハーモニー』第8巻第12号に江文也は「ベラ・バルトック」という文章を寄稿している(文末には筆を擱いた日付として1935年11月17日夜と記されている)。そこで彼がバルトークを「偶像破壊者」と捉えているのが目を引く。

「音楽はその性質上非常に自由なものである。そして自由を欲する音楽家は、誰でも自分の耳でものを聴き、彼自身の世界を表現する慾望に駆られる。彼自身の世界を表現するに不向きな手法や理論は結局借りものでしかない。借りものでしかない手法や理論は、創作としてどの程度まで価値あるものが出来るか? 模倣は結局他人の技巧を誇る以上に出ないではないか!」「私はバルトックの作品を通じて、これ等の叱言を黙って受けなければならない一人である。」(11ページ)

「南画や日本画、更に支那の陶器等に吾々はその無技巧の技巧に慣れて居るから別に奇異には感じないが、五線楽譜に於いて、私はバルトックにその極端を見た。」(15ページ)

 無技巧の技巧、とバルトークを評しているのが面白い。技巧を意識して頭を使って曲を構成するのではなく、自分の感覚にフィットする方法で胸の奥底から湧き起こってくる想念をそのまま音楽として表現したい。そうした江文也の抱えていた葛藤がここに反映されているのだろう。西欧近代を基軸とした日本の楽壇が下す評価が自分の感覚とかみ合わないことへの反発、それを西欧音楽の既存のあり方へ反旗を翻したバルトークに重ね合わせているものと考えられる。

 ところで、バルトークは民謡採集をした音楽家として日本でも知られていたが、江文也は次のように指摘しているのが興味深い。

「一般にはバルトックを意識的に、国民的思想や民族的イディオムの基に作曲する種族の作曲家にして仕舞つて居るが、私は、寧ろ彼は本質的にハンガリー産の野生的な芸術家と見た方が妥当に思はれる。」(16ページ)

「彼は何よりも先づ野生的な芸術家である。彼の厖大な作品の内でその最も表現的な美しい部分は、常にこの猛獣性を思ふ存分に発揮して私に噛みつく場合か、或は象のやうにゆったりと地響きを立てゝ這ひ出して来る場合かである。」(15ページ)

「バルトックの音楽が持つ野性は、感覚上のノスタルヂヤ或は何か理論上のかけひきからではなくて、その心性が、あまりに純粋で直截で、本能的であるからである。それは超文明、越洗練等から出発した粗野性とは種類が違ふ。
 この強烈な野人的本能と原始的に鋭敏な直観を持つ上に薄気味悪いまで透徹した冷たい理智の閃きを私は見逃すことが出来ない。
 だから、恐ろしいのである。」(16ページ)

「第一、彼が音楽芸術に対して抱いて居る理想は、そんな狭い世界ではない。彼は、ハンガリーのことを語り、それを世界の楽壇に報告するだけではなくて、世界の楽壇に、ハンガリーからも、何かを、貢献しやうといふ態度で居る。」(16ページ)

 江文也はバルトークの本質を「ハンガリー産の野生的な芸術家」と見ていた。江文也が強調する野人的本能とは、例えばバルトークが「大地から突きあげてくる民俗音楽の力によって、新しい音楽精神を誕生」させようとした発想と共通する地平にあったように思われる。

 若き日のバルトークが作曲した交響詩「コシューシコ」はハンガリー民族主義的なテーマであったにもかかわらず、その音楽語法はドイツ・ロマン派そのものであったという矛盾はバルトーク自身、自覚していた。江文也も同様に、例えばベルリン・オリンピックで選外入選となって一躍有名となった「台湾舞曲」など、作曲家としてスタートしたばかりの頃の作品からは台湾的な要素が聴こえてこないという指摘がある。こうしたあたり、バルトークの出発点とどこか似通っている。その後、二人ともドイツ音楽が中心となった既存の楽壇に反発していくという軌跡でも共通する。

 おそらくバルトークとは感覚や問題意識では微妙な相違もあったかもしれないが、江文也もまた民謡採集に関心を持っていた。彼が求めていたのはどんなことか。西欧由来の観念で音楽を構築するのではなく、もっと感覚の奥底から噴出してくるような強烈なインスピレーションの源泉を体感的・皮膚感覚的な何かに求めたい、そうしたもがきが民謡や古代的な表象への関心と結びついていたように思われる。民謡や古代文化を探究しながら、そうした努力を通して感得した何かを自身の音楽語法で表現してみる。民俗や古代をバネとして「近代」を超えていく。そうした感性を持っていた彼が台湾や中国で民謡採集や古代文化に関心を持ったのは「野人的本能」を触発してくれるきっかけを求めていたからだ。それを政治的帰属意識の観点から捉えようとすると根本的なところで彼のパーソナリティーを理解し損ねてしまうだろう。

 バルトークの「大地から突きあげてくる民俗音楽の力によって、新しい音楽精神を誕生させる」という表現が、江文也の志向性を考える上でも参考になるのではないか。『北京銘』『大同石佛頌』といった彼が北京で書き上げた詩集には、中国の雄大さに圧倒された感激と言葉にならないもどかしさとが溢れている。大地の確かな広がりと文明の悠久さを、自分自身の感受性を響かせることで表現していく。そこに自らの音楽的方向性を求めようとしたのが彼の中国体験の意義だったと考えることができる。

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2013年1月18日 (金)

『バルトーク音楽論集』

岩城肇編訳『バルトーク音楽論集』(新装版、御茶の水書房、1992年)

・ハンガリーを代表する作曲家・ピアニストの一人で、とりわけ民俗音楽調査で知られたバルトーク・べーラ(1881~1945)による音楽論が集められている。初版は『バルトークの世界──自伝・民俗音楽・現代音楽論』(講談社、1976年)。以下、私自身の関心に従って抜書きしながらコメント。

・バルトークは「民俗音楽」をどのように考えていたのか? ここでは、民謡の郷土性と西欧音楽による影響とを峻別しようとしている点に注意。

「広義の意味における民俗音楽ですが、これは、農民たちの持っている音楽的本能のいわば自発的な表現として農民階層の中に伝播普及していったもので、その伝播普及の過程において、過去に生命をもっていたか、あるいは、現在いまだに生命をもっているような曲を指します。また、狭義の意味における民俗音楽とは、同様にそれが農民階層の生活の一部をなしており、その上なお、音楽様式上のある種の統一性を示しているような曲を指します。」(「ハンガリーの民俗音楽」95~96ページ)

「ところで、人々は、真の民謡と民衆的な通俗歌とを、しばしば混同します。民衆的な通俗歌の作曲家たちは、一般に、都会で身につけたある種の音楽的教養をもっており、その大部分がディレッタント音楽家です。事実、彼らの作曲した曲の中に、民衆的な通俗音楽に特有な郷土性と、西欧音楽のありふれた要素とがまざり合っているのも、まさに、そうしたことからきているのです。また、彼らの曲の中に、民俗音楽の郷土調といったものの痕跡がたとえ見いだされたとしても、まさに西欧音楽から借用したありふれた要素のために、曲が平凡なものになってしまって、その曲の価値を失ってしまっているのです。これに対して、真の民謡の中には、完璧なまでの様式上の純粋さが見いだされます。」(「ハンガリーの民俗音楽」97ページ)

・民謡研究に取り組もうとした動機や、それを基に新たな音楽芸術を模索する動向が現われた理由を、様々な民族文化が入り混じった東欧における多民族性に求めている。以前にこちらで、コーカサスの多民族状況に注目していたユーラシア主義のトルベツコイやコーカサス滞在体験から大きな音楽的示唆を受けたチェレプニンに触れたが、多民族混淆地帯における文化的豊穣さの意義を強調している点で、東欧の多民族性に注目したバルトークと共通している。

「民謡研究、並びに民謡から生み出された高度な音楽芸術が、ほかならぬここハンガリーにおいて今日見られるように目ざましい形で花を咲かせたことは、決して偶然のことではありません。ハンガリーは地理的にみて、いわば東欧の中心にあたり、第一次世界大戦前にはハンガリー内の多くの民族によって、東欧における民族の多様さの真の縮図となっていました。そして、各民族の絶えまない接触の結果、この民族の多様さが、民俗音楽の最も多種な、かつ最も変化に富んだ形態の成立へと導いたのです。東欧の民俗音楽が、さまざまな民謡のタイプの点で驚くほど豊かであることも、まさに以上のことから説明できるのです。」(「東欧における民謡研究」150ページ)

自国の民俗音楽しか問題にしない態度→「このような閉鎖性は長所ではなく、むしろ罪といわなくてはなりません。様式の統一性という観点から見ても、このような閉鎖性には何らの肯定的な意義もありませんし、また、作曲家が自国に対していだいている愛国心といったものと、この閉鎖性との間には、何のつながりもありません。真の創造者としての作曲家にあっては、たとえ種々さまざまな民族の民俗音楽から創作の霊感をえても、なお完全に統一のある作品が作り出せるほどに自己の個性が強くなければならないのです。一方、最も頻繁に耳にする機会のある民俗音楽、つまり自国の農民音楽こそが、個々の作曲家の創造に最も影響を及ぼすものであることは、容易に理解できることです。そして、まさにこうした個々の作曲家がおかれている地理的環境の違いから、それぞれの作曲家の様式の間に見られるいわゆる風土的特徴とでもいうべきものが少なくとも作品の外面に現われてくるのです。」(「芸術家の創造に及ぼす民俗音楽の影響について」88~89ページ)

「ところで、それぞれに性質の異なった音楽相互の接触は、ただ単に曲の異種交配をもたらしただけではなく、それにもましていっそう重要なことですが、新しい音楽様式の誕生を促進しました。もちろん、同時に、それまでの古い様式も生き続け、こうして、それらが音楽の豊かな富をもたらしたのです。」(「音楽における種の純潔性」298ページ)
→「こうした“種の不純性”は、決定的な恵みをもたらすものであるわけです。」(「音楽における種の純潔性」300ページ)

「もしも私たちに、民俗音楽の将来を希望することが許されるとすれば(この民俗音楽の将来は、今日、世界の最も遠くかけ離れた地域にまでも、高度な文化が早い速度で浸透していきつつあることを考えますと、かなり疑わしく思われます)、中国の万里の長城の建設や、一民族の他民族からの隔離などは、民俗音楽の発展にとって、むしろ障害となるものです。異質な要素から完全に自己を締め出すことは、停滞をもたらすものにすぎず、その影響を十分に同化しつくすことによってのみ、自身の芸術を富ますことが可能となるのです。」(「音楽における種の純潔性」300~301ページ)

・五音音階への愛着という点で、ハンガリー文化の源流をアジアに求める認識を示している。実際には、一言で五音音階と言っても民族によって旋律構造にだいぶ相違が認められるらしいのだが、西欧的な七音音階と対比する意図は少なくとも確認できる。こうしたあたり、「西欧」とは異なるアイデンティティーをアジアとのつながりに求めようとしたユーラシア主義に近い発想と言える(→こちら)。

「…比較検討の結果、古いハンガリーの農民音楽が隣接民族の農民音楽から由来したものではないことが明らかになりました。私には、それは原初的なアジア音楽文化の遺産であろうと想像されます。その音楽に見られる五音音階への愛着が、なによりも私のこの仮定の正しさを立証しています(さらには、私たちがよく知っているチェレミス人、キルギス人、タタール人の音楽が、この仮定を正当づけています)。
 また、古いハンガリー農民音楽の曲は、西欧音楽の影響というものを全然受けていませんし、一方、ハンガリーと隣接している各スラヴ民族の農民音楽に影響を及ぼしたこともありませんでした。」(「ハンガリーの農民音楽」135ページ)

・都市文化、すなわち近代化=西欧文化による均質化が拡大するにつれて、農村において多様に散在していた民謡が失われつつあるという認識。それによって、民俗文化の多様性が失われるばかりでなく、土着の音楽が本来的に持っていた生命力が枯渇していってしまうことへの危機感が示されている。

「さて、この新しい様式の曲は、もっぱら若い世代によって支持されました。彼らは歌を歌うことを渇望しています。そして、これらの曲を真底から熱烈に愛しているのです。そして今日では、若い世代の農民たちは、古い曲をごくまれにしか覚えませんし、また、仮りに覚えたとしても歌うことはありません。こうして古い様式の曲は、明らかに滅亡に瀕しています。新しい様式の曲が、きちっとしたリズムをもっているために、舞踏音楽にも適用できるということも、その普及化を大いに促進しています。だいたい古い様式の曲と違って、新しい様式の曲の中には、舞踏のためだけに生み出されたといえるような曲がないのです。また、生活上の慣習的な儀式の際に歌われていたような曲も、もはや必要ではなくなってしまいました。つまり、婚儀の習慣などが保たれていた昔の時代はもう過ぎ去ってしまったのです。活気に溢れたリズムをもち、精気に充ちて明朗な新しい曲こそが、古風な色彩に色どられ、あるいはメランコリックな、あるいはまた独特な性格をもっている古来の曲よりも、いっそう、時代の精神にふさわしいのでしょう。」(「ハンガリーの農民音楽」146ページ)

「ところで、新しい様式の曲には、それぞれの変化形というものが全然ありません。一つの新しい曲がどこかで生れるやいなや、それらは全国いたるところに、またたく間に広がり、山岳や川も、そして地理的距離も、それらをさえぎることはできないのです。新しい曲がこのようにいち早く広がっていったのは、兵役義務制度と鉄道交通の発達によるものであることは疑いありません。」(「ハンガリーの農民音楽」147ページ)

「アラブ人の音楽生活に、特に今日、いくつかの好ましくない側面のあることはもちろんです。ヨーロッパのいわゆる“娯楽音楽”からの破壊的な影響が、ここでも次第に強く感じられるようになってきています。」…「都会のアラブ音楽は、私の感じでは、新鮮な生命力と独自性の点で、アラブの村の音楽とは全く比較にならないものです(今から十九年前、私がアルジェリアに研究旅行をした時、すでに私はこのことを感じました)。都会のアラブ音楽は、大部分がかなりひからびた、わざとらしい作為的なものですが、一方、村の音楽は、それがもっているいっさいの原始性とともに、はるかに自然で生きいきとした印象を与えます。」(「カイロ音楽会議について」303ページ)

「農民音楽の特性の一つは、その音楽の中に、感傷性、つまり過度な感情の表現というものが、全然見当たらないということです。そして、このことが、農民音楽にある種の単純明快さや、がっちりした逞しさ、感情の率直さというものを与えているのであり、さらには偉大さをも付与しているのです。」(「ハンガリー音楽」335ページ)

・民謡から得た音楽的素材を散りばめるだけでは、単にエキゾチシズムを誇張するだけの代物に終ってしまう。そうではなく、こうした土着の音楽が本来的に備えている「大地から湧き起こってくる音楽の力」を音楽家自身が体得した上で、自らの音楽を表現できるかどうか。バルトークにとって民謡採集とは、単に素材集めだけを意味しているのではなく、自ら農民たちの生活世界に分け入り、彼らと密に触れ合う中で、音楽家自身が土着の音楽の本質的な何かを感じ取らなければならないという切実な動機に駆られたものであった。
・下記の引用でもう1点注目されるのは、東欧で多民族が混淆している中、農民たちは平和の中で共存してきたとバルトークが考えていることである。もちろん、それが歴史的事実かどうかは分からない。ただ、以前にこちらで指摘したように、コーカサスの複雑な民族状況に多民族共生というイメージを見出したユーラシア主義のトルベツコイと同様の発想が認められる。

「ここハンガリーで問題になっていることは、いわば“フォルクローリスト作曲家”たちが、民俗音楽の断片を異質の音楽材料につぎはぎするというようなことではなく、もっと本格的な、はるかに多くのことが問題になっているからなのです。つまり、大地から突きあげてくる民俗音楽の力によって、新しい音楽精神を誕生させようということが問題になっているのです。
 また、このような、大地から湧き起こってくる音楽の力をそれぞれ実際の場所で研究する仕事、つまり日常語でいうところの民謡収集という仕事は、何か途方もなく人を疲れさせるような、そして克己と自己犠牲を伴う仕事であると信じている人々も、同様に間違っています。私自身についていいますと、そのような仕事で過ごした時間は生涯の最も美しい時ですし、したがって、その仕事を、他のどんなものとも引き換えにはしないでしょう。ここで私は、最も美しいという表現を使いましたが、それは言葉の最も気高い意味においてなのです。というのも、民謡収集という仕事を通して、私は、すでに姿を消しつつあるとはいえいまだに統一を保っている一つの社会の、いわば芸術的自己表明といったものの直接的な目撃者になることができたからです。そこで耳にし、目にすることのすべては、なんと美しいものでしょう。衣服から日常生活に用いる道具にいたるまでのほとんどすべてが自家製であって、靴のひな型のようなガラクタ品でさえ、工場製のものは何も見当たらず、またさらには、地域ごとに、いな、しばしば村ごとに、そういった使用品の形や種類が変わっているようなところがヨーロッパにいまだに存在しているということを、おそらく西欧では想像することもできないでしょう。そこでは、音楽の上での限りない多様性を耳にすることができ、そのため私たちは、民俗音楽の種類の豊富さといったものに感謝を捧げるのですが、それだけではなく、そこにあるさまざまな変化は、同時に、私たちの目をも楽しませてくれるのです。それらは忘れることのできない体験ですし、まさに苦痛にみちて忘れがたいものです。というのも、村々のこのような姿が次第に消えていく運命にあることを、私たちは知っているからです。そして、たとえ一度でも滅亡してしまえば、二度と再び復活することはありませんし、またそれが、他の同じようなもので埋め合わされることもないでしょう。滅亡のあとにはやがて空虚さだけが残り、村々は、誤って受けとられた都市文化と偽文化の廃物のたまり場と化してしまうでしょう。
 さらにここで、農民たちの生活について、つまりさまざまな民族の出の農民たちである彼らが、お互い同志の関係をどのように保っているかということを、私の体験を通して語っておきましょう。今、これらの各民族出身の農民たちに、お互い同志殺し合うよう至上命令が下されたとしても、それは、いってみれば一杯のさじの水の中で互いを溺死させようというようなもので、全く不可能なことです。もう数十年来私たちが耳にすることであり、今ここでそれに触れておくことはまさに時機をえたことと思われるのですが、農民たちの間には、他民族に対する烈しい憎しみの一片も見いだせませんし、また、これまでにおいてもそうでした。彼らはお互い同志、実に平和に生活しており、各自が母国語で話し、それぞれ自分たちの習慣にしたがって生きています。そして、自分とは異なった民族の出の隣人もまたそのように生活していることを、全く自然なことと考えているのです。
 こういったことを決定的に立証するものは、農民たちの魂と精神の反映である多くの叙情詩調の民謡歌詞です。それらの中には、他民族をからかうような歌詞が出てきたとしても、その量は、たとえば自分たちの神父や牧師の、あるいは自分たち自身の無能をからかって楽しんでいるような民謡の量に比べても決して多くはありません。農民たちを支配しているものは、まさに平和です。他民族に対する憎しみを広めているのは、ほかでもなく上層階級の人々だけなのです。」(「東欧における民謡研究」151~153ページ)

「今日の記譜体系では、たとえば些細なイントネーションやリズム上の不安定さといった、民俗音楽のもつ味わいを再現することが不可能であるということです。せいぜい、民俗音楽の堅固な骨組がとらえられるぐらいで、生きいきと血のかよっている音の震動について概念を与えることはできません。民俗音楽を、それが実際に生きている状況の中で、農民たちの演奏や歌唱を通して聞く機会のなかった人々は、その音楽を正当な姿で想像することができません。まさにこうした理由から、民俗音楽を十分に知りつくす上での唯一の正しい方法は、農民たちの伝統的なしきたりとのつながりの中で、彼らの自然な演奏を通して聴くことなのです。この生きた体験を通してこそ、初めて民俗音楽が芸術家の創造にとって真の促進剤になるのです。」(「芸術家の創造に及ぼす民俗音楽の影響について」86~87ページ)

「ところで、ハンガリーの唯一の音楽的伝統である古いハンガリー農民音楽が、どのようにして新しいハンガリー音楽創造の土台になりえたのでしょう。一つの曲や一つの旋律といったものを、異質な様式による音楽作品や国際的な性格の様式による作品に移植するといったような、人工的な方法によるものでないことだけは確かです。ですが、作曲家が農村の古い音楽の言語を学びつくし、それによって自身の音楽思想を、ちょうど詩人が母国語で考え表現するのと同じように表現することができるようになることは、ありうることです。
 作曲家の心の中に、農民音楽に対して全身全霊で自己を捧げるほどの強い愛情が生きていて、その愛情から、彼が農民音楽の音楽語法の影響を無条件で受け入れる時、しかも、その作曲家に自身の芸術思想があり、その表現に必要な技法を完璧に身につけているのであれば、彼は自身の冒険的な試みに成功するに違いありません。その時には、彼の作品は、和声付けられた民謡のつぎはぎ細工や、民謡を主題とした変奏曲のようなものではなく、民俗音楽の内部に秘められている本質を表現するものとなるのです。」(「ハンガリー音楽」347ページ)

「ここで強調しておかなくてはなりませんが、私たちの場合には、ただ単に、個々の曲を手に入れ、それをそっくりそのままか、あるいはその一部分を私たちの作品にとり入れながら伝統的な取り扱い方で処理する、といったことだけが問題だったのではありません。もしそうだとすれば、それは職人の仕事になりさがってしまい、新しい統一ある芸術様式の創造へと私たちを導いてはくれなかったでしょう。そうではなくて、私たちのこれまで全く未知であった農民音楽の魂を深く会得し、この音楽の言葉では表現しえないその魂から出発しながら音楽の様式を創り出すこと、これが私たちの仕事であるのです。そしてその魂を正しく理解するためにこそ、農民音楽が現実に生きている農村で、しかもそれを私たち自身によって収集することが、何よりも大切であるのです。」(「ハンガリー民俗音楽と現代ハンガリー音楽─自身の和声法について」355ページ)

「民謡を自身の作品のところどころに使ったり、あるいはそうした古い民謡を模倣したりすることで満足している作曲家は、正しく民俗音楽を取り扱っているとはいえません。また、民謡の素材を主題的に用いながら、全く異質な、あるいは民族性を欠いた、いわば無国籍的な傾向の作品に勝手気ままに押し込むような取り扱い方も、全く正しくありません。こうした取り扱い方ではなくて、ちょうど、一つの言語のもっている表現上の最も味わい深い微妙なニュアンスといったものを自身のものにするのと同じように、民俗音楽の中に隠されている音楽的表現法を完全に自分のものにするよう努めなくてはなりません。そして、作曲家は、このようにして獲得した音楽語を、いわばそれが自身の音楽思想の表現にとって最も自然な言葉使いであるように、完璧に駆使しなければなりません。」(「1941年のアメリカでのインタビュー」429ページ)

・バルトークは「自伝」で、1903年に交響詩「コシュート」を作曲した若き日のことを回想している。当時、盛り上がりを見せていたハンガリー民族主義の風潮に刺激され、この曲では民族主義的テーマを打ち出しながらも、その音楽語法はドイツ・ロマン派的なものであったという矛盾。こうしたギャップを自覚した彼は、その後、民俗音楽へ関心を寄せるようになる。ところで、民謡採集に際しての彼の動機は、政治的な民族主義というよりも、「大地から突きあげてくる民俗音楽の力によって、新しい音楽精神を誕生させよう」という点にあったことは前述の通りである。ロマン派に体現された西欧近代の音楽語法とは異なった方向へと模索を始めた音楽家はバルトーク一人に限らない。コダーイの示唆でバルトークはドビュッシーの作品を知った。ドビュッシーの旋律にもハンガリー民謡と同様に五音音階的な音進行が大きな役割を果たしていることを知って驚く。また、ドビュッシーと似かよった試みはストラヴィンスキーの作品にも認められるともバルトークは指摘している(「自伝」19ページ)。

「私見によりますと、今日のあらゆる現代音楽には、共通な二つの特徴が見いだされます。そしてそれらは、こういってもよいと思うのですが、いわば原因と結果が互いに緊密に関係づけられています。一つの特徴は昨日の音楽、特にロマン派音楽から徹底的に遠ざかろうとすることであり、今一つの特徴は、より古い時代の音楽がもっている様式に近づこうという熱望です。つまり、まず初めに、ロマン派音楽の作品に対して極度な不快感を感じ始め、その結果、ロマン派音楽の表現法とはできるだけ違った形で創作するための新しい出発点を見いだそうと試みました。こうした作曲家たちは、ロマン派音楽の表現法とは著しく対照的な古い時代の音楽様式へと、なかば意識的に、なかば本能的に立ち返りました。」(「ハンガリー民俗音楽と現代ハンガリー音楽─自身の和声法について」351~352ページ)

「《春の祭典》は、民俗音楽の要素でみちあふれている芸術の生きいきとした例です。」(「芸術家の創造に及ぼす民俗音楽の影響について」87ページ)

「ドビュッシーの旋律の中に、東欧の民俗的な音楽からの影響が見られ、古いハンガリー民謡、なかでも主としてエルデーイのセーケイ民謡の中に見いだされるような五音音階的旋律形態が観察できるということは、特に私たちハンガリー人の興味をひく問題です。」(「ドビュッシーについて」365ページ)

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2013年1月14日 (月)

はらだたけひで『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ──永遠への憧憬、そして帰還』

はらだたけひで『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ──永遠への憧憬、そして帰還』(冨山房インターナショナル、2011年)

 2008年のことだったか、渋谷の文化村ザ・ミュージアムで開催されていた「青春のロシア・アヴァンギャルド」展を見に行ったとき、ピロスマニのことを初めて知った。彼の絵の素朴さは、口の悪い人なら「ヘタウマ」と評するかもしれない。だが、他の前衛画家たちの作品を見ながら歩いた後に目にすると、異世界に踏み込んだような新鮮な感覚があった。構図はシンプルにしてもきれいにまとまっていない、だからこそ不思議と目を釘付けにしてしまうところが気になった。

 ピロスマニのファンは日本にも多いと思う。ただ、彼の人生を知りたくても、放浪生活の中で死んでいったので史料が乏しく、詳しいことはよく分からない。ピロスマニの画集(文遊社、2008年)は出ているが、そもそも彼について書かれた本は当然ながらグルジア語・ロシア語ばかりで、日本語はおろか英語でも彼の評伝が見当たらなかったので、本書が出ていることを知って嬉しかった。

 ピロスマニは居酒屋の看板絵を描きながら、一つ所に定住することなく、放浪の人生を送っていた。お金をためて家庭を持ち、安定した生活をしたらいいのではないか、と勧められても、「鎖で縛られるのは嫌だ」と断ったそうだ。「私はひとりで生まれて、同じようにひとりで死んでゆく。人は生まれたときになにをもってきて、死ぬときになにをもってゆくというのか。私が死んだら、友だちの誰かが埋めてくれるだろう。私は死を恐れていない。人生は短いものだ」と答えたという(本書、80~81ページ)。

 フランスから来た女優に片思いして、彼女の宿泊先の周囲をバラで埋め尽くしたというエピソードは「百万本のバラ」という歌になって知られている。実際にそんなことがあったのかどうかは分からない。ただ、思い込んだら自分の想いを一途に表現しようとする。世間知らずなバカかもしれないが、このようなひたむきさを彼の特徴として見出そうとする気持ちが周囲の人々にあったとは言えるかもしれない。人から何と言われようとも絵を描き続け、貧窮の放浪生活の中で死んでいった純粋さ。テクニック云々という以前に、彼は自らこうあらざるを得ない人生を送った──それが彼の絵にある素朴さと相俟って人の気持ちをうつ。

 1912年、ペテルブルクから来た三人の画学生がグルジアの首都ティフリスへやって来たとき、ある居酒屋で見かけた看板絵に驚いた。そのうちの一人はこう記している。「壁には絵がかかっていた。私たちは、その絵を呆然と見つめた。…目の前には、これまで見たことがない、まったく新しいスタイルの絵があった。私たちはただ黙って立ちつくしていた。…最初の印象があまりに強烈だったからだ。絵の素朴さは見かけだけだった。そこには古代の文明の影響が容易に見てとれた…。」(本書、83~84ページ)

 アヴァンギャルド運動の芸術サークルに属していた彼らが、ピロスマニが誰に習ったわけでもなく自由に描いていた絵から「古代の文明の影響」を見てとったというのが面白い。彼らは西欧近代の絵画が技巧に走るあまり、コンヴェンションルな形式に堕してしまっているという問題意識を持ち、それを打ち破る力を彼らはピロスマニのプリミティヴな画風に求めようとしたのである。早速、モスクワの中央画壇に紹介し、ピロスマニは一躍、時の人となった。また、ヨーロッパ文明の受容の限界を感じて民族文化の復活を模索するグルジアの芸術家たちは、ピロスマニの絵画にグルジアらしさを求めようとした。

 ところが、世評とは気まぐれなものだ。それまで彼を持ち上げてきた新聞に揶揄するような戯画が掲載されたのをきっかけとして、彼に対する評価は急に落ちていく。「彼らに頼んだわけではない。彼らの方から、いろいろしたいと約束してきたのだ。その彼らが新聞で私をからかう。これからは、また以前のように私は生きていく。」(本書、89~90ページ)

 1918年の春、ティフリスの旧市街にある、階段下の物置きのような部屋で衰弱したピロスマニの姿が見つけられた。彼は近くの病院に運ばれたが、間もなくこの世を去った。享年55歳であった。

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2013年1月 8日 (火)

ユーラシア主義、チェレプニン、そして江文也

※前回のエントリーの続き

 ところで、私がなぜ浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』(成文社、2010年)を手に取ったかというと、1930年代に日本や中国で若手の音楽家たちを積極的に発掘・育成しようとした亡命ロシア人の音楽家、アレクサンドル・チェレプニンにユーラシア主義の影響があったのかどうかを確認したいという関心による。

 彼は青年期、革命で混乱するペトログラードを離れてグルジアの首都ティフリス(トビリシ)の音楽院院長に就任した父ニコライ・チェレプニンと共にこの地で過ごしていた。彼はコーカサスが織り成す多種多様な民族文化に積極的な関心を持ち、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの各地をめぐってそれぞれの音楽や芸術に触れている。後にパリでたまたまバルトークと出会った際、民謡採集の話題で盛り上がったらしいが、若きチェレプニンはグルジアの民謡について語ったという(Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, ed. by Sue-Ellen Hershman-Tcherepnin, Alexander Tcherepnin: The Saga of a Russian Émigré Composer, Indiana University Press, 2008, pp.69-70)。

 例えば、浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』でトルベツコイの思想を説明する次の記述は、チェレプニンもまたコーカサス(カフカス)で実感したであろう感覚と共通しているように思われる。

「そして、ヨーロッパ文化こそが最も優れている思考様式に対し、彼が異議を唱えるようになったもう一つの要因は、カフカス地域の文化研究にあったと考えられる。後に彼のライフワークとなるこの地域の言語、文化研究を通じて、トルベツコイは、ロシア文化が擁するアジア的な要素こそが、ロシア文化をヨーロッパ文化と本質的に分けるものであることを認めただけでなく、それまで劣ったものと考えられてきたロシアの中のアジア的な文化を改めて評価する視点を得たのである。その中で、ロシア人の文化とカフカス地域にある種々の文化のどちらが優れているかなど判断はできない、「あらゆる民族と文化は、いずれも全て等しい価値を持ち、高いものも低いものもない」という彼の文化観が確立されたのである。」「様々な民族と言語が混沌とした様相を呈しながらも、調和しながら共生している「ユーラシア」イメージの原風景は、彼が見たカフカスにあった。」(浜、77ページ)

 結論から言うと、チェレプニンがユーラシア主義から一定の影響を受けているのは確かである。アジアへの関心というだけでは、広い意味でのオリエンタリズムというレベルを超えないかもしれない。だが、例えば、彼が来日して日本の若手作曲家たちと懇談の機会を持った際、清瀬保二をはじめ日本の若手作曲家たちに「西欧音楽を模倣する必要はない、君たち自身の民族的個性を活かした音楽を模索しなさい」という趣旨の示唆を与えていたことは、各民族固有の文化それぞれに価値を認めるユーラシア主義の多元的性格と軌を一にしている。

「日本作曲家諸君よ! 諸君の手には世界の民話の豊かな宝庫がある。諸君は近代楽器のテクニックを熟知してをり之れを自由に使用し得るのだ。
 先づ自国に忠実であり、自からの文化に忠実ならんことを努められよ、そして自からの民族生活を音楽に表現されよ。諸君の民話をインスピレーションの無尽蔵な源泉とし、民族的文化を固き土台とし、日本民謡と日本器楽を保存し以つてあらゆる方法によつて之れを発展させるとき、諸君は正しき日本国民音楽を建設するだらう。
 諸君の音楽作品がより国民的であるだけ、その国際的価値は増すであらう。」(アレクサンドル・チェレプニン[湯浅永年訳]「日本の若き作曲家に」『音楽新潮』1936年8月号)

(なお、こうした発想を彼ら日本の若手作曲家たちがチェレプニンを通して学んだのではなく、西欧的な音楽語法による画一化によって彼ら自身の内面でわだかまっていた感覚が押しつぶされかねないという葛藤に悩んでいたところをチェレプニンの肯定によって後押しされたという経緯には注意しておきたい。例えば、伊福部昭が「日本狂詩曲」でチェレプニン賞の募集に応じた際、日本側の事前審査でこんな粗野な作品をヨーロッパの大家に見せるわけにはいかないという意見があったらしいが、結果としてこの「日本狂詩曲」が受賞し、伊福部が作曲家としてデビューするきっかけとなった。日本の既製楽壇が内部検閲でオミットしようとした粗野な感性こそが、まさにチェレプニンの求めているものであった。こうした事情を見ると、若手作曲家自身の内発性があったと言える一方で、西欧音楽という外来文化の押し付けを拒む上で、チェレプニンという、日本の視点からすればやはりヨーロッパから来た著名な音楽家の権威に頼らざるを得なかったというのは一つの皮肉ではある。)

 また、1934年に『上海晩報』からインタビューを受けたときには「ロシア人は実際にはヨーロッパ人ではなく、モンゴル的なものを消し去ってはいません」と語っており(Korabelnikova, p.109)、これはユーラシア主義の「タタールの軛」再評価を念頭に置いた発言と考えられる。実際、彼は1920年代後半にユーラシア主義の文献を読んだことからヒントを得ている。ただし、政治運動としてのユーラシア主義にはコミットしていないのだが、あくまでも彼個人の思想や芸術観というレベルに限って影響を受けていたことは指摘できる(Ibid. p.154)。

 20世紀初頭、ヨーロッパ及びその周辺各国では自分たちの民俗や古代文化を見つめなおそうという気運が盛り上がっており、それはやがて第一次世界大戦後において民族自決の政治思想とリンクしていく。ロシアにおけるキリスト教以前の古代に着想を得たストラヴィンスキー「春の祭典」やプロコフィエフ「スキタイ組曲」は原始主義と呼ばれることがある。フィンランドではシベリウスがカレヴァラを題材に曲想を練り、ハンガリーではバルトークをはじめとした人びとが民謡採集を活発に行った。アルメニア人のコミタスは、トルコ出身であるためアルメニア文化をよく知らないという負い目の意識を抱えており、そのため純粋なアルメニア文化への渇求を彼自身のアイデンティティーの模索と重ね合わせるように民謡採集に取り組んだ。そうした音楽的状況を熟知していたチェレプニンは、西欧近代による文化の均質化傾向が世界規模で拡大することによって各民族固有の音楽文化の豊かさが押しつぶされかねないという懸念を胸中に秘めて、はるか東アジアにまでやって来た。上海では中国的風格を備えた音楽を求めてピアノ曲のコンクールを実施して賀緑汀や老志誠などを見出し、日本でも多くの若手作曲家たちと出会った。清瀬保二は西洋音楽と日本らしさとの葛藤をチェレプニンに向けて率直に問いかけた。早坂文雄は古代への憧憬を抱き、伊福部昭はアイヌやオロッコ、二ヴフのメロディーまで自らの音楽に取り込んでいく。そして江文也は、生まれ故郷の台湾のメロディー、山地の原住民族への憧れ、古代中国文化に圧倒された感動を音楽で表現しようとした。横断的に俯瞰してみると、様々な音色が響きあう世界をチェレプニンはつなぎ手の一人となって渡り歩き、それこそユーラシア主義のイメージさながらに、多文化がそれぞれ異質ながらも全体としてハーモニーを奏でているかのような様相が浮かび上がってくる。それは単なる夢想に過ぎないかもしれないが、非常に魅力的なヴィジョンだと思う。

 同時に、ユーラシア主義は、嶋野三郎の解釈からも分かるとおり、日本のアジア主義において、反西欧近代→東洋の優越という政治的コンテクストで読み替えられかねない危うさもはらんでいた。戦争中の1943年、台湾から東京へ留学していた郭之苑が江文也の自宅を訪問した際、江文也は「西洋の芸術文化は行き詰っている。彼らはすでに西洋的合理主義を離れて東方の非合理的な世界を追求している。音楽の世界ではストラヴィンスキーやバルトークがそのあたりをよく表現しているようだ」と語っていたという(郭之苑「中國現代民族音楽的先駆者江文也」、林衡哲・編『現代音楽大師:江文也的生平與作品』前衛出版社、1988年、66頁)。こうした彼の発言は、おそらくチェレプニンと出会った頃から抱懐していた考え方だと思われる。だが、他方で戦時中という時代状況を考えたとき、西欧近代の克服を日本の使命、大東亜戦争の世界史的意義として正当化しようと試みた「近代の超克」論と共鳴する側面があったことも否定は出来ない。西欧近代の否定を、多文化性の擁護と受け止めるのか、東洋の優越と解釈するのか。両者が微妙に絡まりあった様相をいかに捉えていくかという問題には複雑な難しさも感じてしまう。

 最後に1点だけ指摘しておくと、清瀬保二はチェレプニンと語り合った折の印象を「チェレプニンは語る──われらの道」という文章にまとめている(『清瀬保二著作集――われらの道』[同時代社、1983年]を参照。初出は『音楽新潮』1934年11月号)。そこでは江文也と同様に、チェレプニンの「ヨーロッパ音楽は行きづまっている。どうしても東洋の力をかりて自分らの糧となし再生しなければならぬ」という発言に反応している。同時に、この文章では続けて「とまれ自分らが最も困難に思い、注意しなければならないのは近代の日本であり、現代の東洋である。安価なる日本主義やファッショ的民族主義を主張することには組みしない」と明記していることにも注意を喚起しておきたい。

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2013年1月 7日 (月)

浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』

 近代化の過程が事実上、西欧文明との一体化を意味すると受け止められる中、自分たちの国は果してヨーロッパなのか、アジアなのか?という自己認識をめぐる問いが常に論争の的であり続けた点で、日本の近代思想史においてもロシアはしばしば参照点として言及されてきた。近代=西欧文明とみなし、それへの同一化によって自分たちのアイデンティティーが蝕まれつつあるという認識を内包していたところを見ると、ユーラシア主義もやはり「反近代」を志向する思想運動であったと言える。

 ユーラシア主義とは、ロシア革命によってヨーロッパ各地への亡命を強いられた人々の間で1920年代に生れた思潮である。浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』(成文社、2010年)は言語学者のトルベツコイ(1890~1938)と地政学者・経済学者のサヴィツキー(1895~1968)の二人を軸にしてこの思想の内在的な理解を進めている。トルベツコイがブルガリアのソフィアで刊行した『ヨーロッパと人類』、さらにサヴィツキー、神学者のフロロフスキー(1893~1979)、音楽評論家のスフチンスキー(1892~1985)との4人で共同執筆した論文集『東方への旅立ち』(1921年)が嚆矢とされる。

 ユーラシア主義の思想的特徴をいくつか挙げてみると、第一に多言語・多民族の文化的統一体としてユーラシアを想定している。東方世界と地続きに広がるステップ地帯でスラヴ民族とトゥラン民族との相互交渉を通した多元性に彼らはロシア文化の核心を見出した。第二に、トルベツコイは1925年にベルリンで刊行した『チンギス・ハンの遺産』において、こうした多元的統一を成し遂げたものとしてモンゴルの支配、いわゆる「タタールの軛」を再評価した。サヴィツキーが1933年に発表した論文で民族政策を論じた考え方を本書では次のように要約している。

「ユーラシア世界の歴史に見られる国家の強権的な統治とは対照的に、「民族的体制と宗教的生活は、伝統的に、非強制的な原則によって規定されて」おり、これは「紀元千年にわたってユーラシアに存在したスキタイやフンの国家の特徴」であった。「もっとも大きな民族的、宗教的寛容(当時のヨーロッパの諸体制とは実に対照的である)によって、旧世界のほとんど全てを抱え込んだ十四世紀から十八世紀のモンゴル帝国は特徴付けられ」、この「遊牧民の帝国の歴史の中で古くから培われた独自の寛容の形態」を後のロシアが継承したのである。そして、「一方では国家中央の強力な強制力と、もう一方では民族的、宗教的問題における非強制的体制という、一見して明らかなコントラスト」が歴史的伝統として存在しており、「民族的、宗教的寛容こそが、この帝国の存在の唯一可能なかたち」なのである、と結論づけられている。」(169~170ページ)

 このような「タタールの軛」再評価は、いわゆるアジア的要素をロシアの後進性とみなし、克服の対象と考えてきた知識人層にとってかなり挑発的な議論であったと言えよう。ロシアのアジア的要素を前面に打ち出して、西欧近代とは異なる自己認識を確認しようとした点が第三の特徴として挙げられる。ただし、それは単なる反発ではない。ユーラシア主義では上述のように文化的多元性を擁護する寛容な政治体制を求めている。西欧近代文明の導入による人為的な国家形成は領域内の均質化を図り、それが文化的多元性を押しつぶしてしまう点に批判の矛先が向けられている。あらゆる民族の文化は価値として対等であり、西欧を上位に置くヒエラルキーに従属させてしまうわけにはいかない(ただし、この点についてはトルベツコイとサヴィツキーとに微妙な温度差があったらしい。ユーラシア主義内部における微妙な相違を浮き彫りにすることも本書の論点の一つとなっている)。ボルシェヴィキに対しても同様の観点から批判的であった。

 ロシアの政治亡命者たちが滞在していたヨーロッパの1920年代は、第一次世界大戦の惨禍にうちひしがれ、オスヴァルト・シュペングラー『西洋の没落』が話題になったように文明論的なレベルでも悲観的な気分の蔓延する時代であった。没落しつつある西欧近代にかわり、ロシア=ユーラシア世界の台頭というイメージがあったことも第四の特徴と言えるだろう。また、第五の特徴として、ヨーロッパ諸国の議会制度が行き詰まり、各国で独裁者が出現しつつある政治状況を目の当たりにして、「理念統治」という考え方を掲げた。ただし、伝統なるものを本質主義的に捉えて専制政治を正当化してしまう危うさがあった点も指摘しておかねばならないだろう。

 ボルシェヴィキの政権も早晩崩壊するはずだという見込みからロシアの亡命者たちは様々な政治構想をめぐらしていた。しかし、ソ連の体制が安定し始める中、例えばスフチンスキーのようにむしろソ連内部に入り込むことでユーラシア主義の理念が実現できると考える勢力も現われたように分裂傾向が顕著となり、1930年代には思想運動としてのユーラシア主義は消えていく。トルベツコイは亡命先のウィーンでゲシュタポに逮捕されたショックで1938年に病死した。プラハにいたサヴィツキーは、ドイツ軍が侵攻した1939年にはゲシュタポに、1945年にはソ連内務人民委員部に逮捕され、ラーゲリへ送られた。なお、最後のユーラシア主義者と言われたレフ・グミリョフは、ラーゲリでサヴィツキーと出会ったのがユーラシア主義に関心を持つきっかけであった。

 共産主義も近代の一亜種に過ぎないと批判したユーラシア主義は、ソ連体制において当然ながらタブーとなっていた。ソ連崩壊後、とりわけプーチン政権以降、ロシア外交を地政学的に根拠付ける思想として見直されるようになってきたが、その場合にはネオ・ユーラシア主義と呼ばれることがある。

 なお、トルベツコイ『ヨーロッパと人類』は、1926年の時点で嶋野三郎によって邦訳されている(『西欧文明と人類の将来』行地社出版部)。嶋野は満鉄の東亜経済研究所勤務のロシア専門家で、宮崎正義と共にモスクワ留学に派遣された経験を持つ。他方、嶋野は大川周明や北一輝などの同志として老壮会、猶存社、行地社に参加、二二六事件で投獄されたことのある行動的右翼でもあった。当然ながら、日本的アジア主義のコンテクストの中で反西欧近代→有色人種解放と読み替える志向性を持ち、そうした意識は1932年に出された「ユーラシア主義宣言」を「日満共福主義」と題して翻訳しているところにも表われている。

(続く)

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2013年1月 6日 (日)

萱野稔人『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』、その他

 萱野稔人『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書、2011年)を読んでいたら、私自身の以前の関心と結びついてくるところがあった。そのことに触れる前に、まず本書のキモを以下に並べておく。

・「私がナショナリズムを肯定するのは、基本的に「国家は国民のために存在すべきであり国民の生活を保障すべきである」と考えるところまでだ。もしナショナリズムが「日本人」というアイデンティティのシェーマ(図式)を活性化させて、「非日本人」を差別したり「日本的でないもの」を排除しようとするなら、私はそのナショナリズムを明確に否定する。私がナショナリズムを支持するのは、あくまでも国家を縛る原理としてのナショナリズムであり、アイデンティティのシェーマとしてのナショナリズムではない。」(29~30ページ)

・人間の集団的意思決定にあたって言語の共通性が前提とした上で、「国家(政府)は国民の生活に責任をもたなくてはならない」(24~25ページ)。「それぞれの民族は固有の政府をもつべきであり、それこそが正統な政治の枠組みとする政治的原理」(51ページ)。「国家は国民によって国民のために運営されなければならない」という原理をかかげることで、ネーション(国民)となったその地域の住民たちが主権の行動に関与しうる可能性を歴史的に切りひらいてきた。(148ページ)

・アーネスト・ゲルナーの議論に基づき、かつての農耕社会は差異化のベクトルによって成り立っていた秩序であったのに対し、産業社会における人びとは特定の土地や仕事から切り離されて流動化していったことを指摘。コミュニケーションの抽象化に伴い、共通の言語や基礎的技能が必要となる。そうした産業社会の要請に従って国家は領域内の言語の統一・標準化、教育制度の整備を進め、文化的に同質化した集団へとまとめ上げていった。「国民国家は、国家がみずからの内部を、労働力が自由に移動し、資本が自由に投下されるような社会空間につくりかえることで成立したのである」(168ページ)。言い換えると、資本主義を内在化させることで国民国家が成立した。

・国家が人びとに「基礎的な労働習慣」を身につけさせるよう標準化を進めた点については、フーコーの「規律・訓練」の議論を援用する。暴力による威嚇ではなく、身体的な規律化によって秩序形成が進められ、国家に備わる暴力が後景化した点を指摘。

・国民国家を否定するのは難しい。「一つは、国民国家がなくなったからといって私たちが暴力の問題から自由になることはありえないからだ。マルチチュードによる民主主義を実現するためですらマルチチュードによって民主的に組織された軍隊による総力戦が必要となることはすでにみた。あるいは、もしみずからの独立と自治をめざさないのであれば、別の統治権力による暴力のもとにとどまるほかない。」「いずれにせよ私たちは暴力の問題から逃れることができない以上、問われるべきは統治の暴力を自分たちでコントロールできるかどうかということになる。」「問われるべきは暴力の「規模」ではない。暴力をコントロールできるかどうかという「形態」だ。」(202~203ページ)

・もう一つの問題はファシズムの可能性だが、「労働市場のグローバル化をつうじた国内経済の崩壊によってナショナリズムが排外主義へと向かうことを防ぐには、ナショナルな経済政策や社会政策によって国内経済の崩壊を食い止めることが必要だ」。「ナショナリズムがファシズムに向かわないようにするには、ナショナリズムのなかにとどまってナショナリズムそのものを加工していくことが必要なのである。」(210ページ)

 さて、私の以前の関心を思い出したというのは次の箇所。

・「国家をなくすことはできるかという問題は、つまるところ、物理的暴力行使にもとづいてみずからの意思決定を社会に貫徹しようとする運動そのものをなくせるか、という問題」であって、「善い・悪い」では割り切れない(97ページ)。
・「国家をなくすためにすら国家を反復しなければならないという逆説」(115ページ)

 以前、大正・昭和初期の思想史的状況について調べていたとき、高畠素之という人物に関心を持った。彼はマルクス『資本論』を初めて全訳した人物として記憶されている。ところが、その翻訳作業の最中から国家社会主義を主張し始めたため、社会主義者からは裏切り者呼ばわりされ、逆に右翼陣営からは社会主義者のくせして天晴れな奴じゃ、みたいに受け止められた。戦後のある時期まで、社会主義シンパが主流となった思想史研究では、彼は進歩的な理想についていけず土着的ナショナリズムへ先祖がえりした反動主義者なのだという受け止め方が一般的となった。もちろん、現在の思想史研究ではそれほどのバイアスはないと思うが、ただマルクス主義との対抗関係で高畠を位置づける視点がすでに定着してしまったため、それ以上掘り下げて考えようという契機はない。他方、高畠の極めて論理的・合理的な思考様式は右翼的な感性とも全く異質であり、従って右翼からも鬼っこ扱いされた。左右いずれからも異端視されるという、ある種のエアポケットに落ち込んでしまったと言えよう。

 高畠がマルクス主義に疑問を投げかけたのが、まさに国家の問題であった。例えば、レーニン『国家と革命』が、プロレタリア革命によって国家は揚棄され、暫定的に「半国家」が現れるがいずれ消滅する、と論じていたのに対して、「半国家」だろうが何だろうが国家であることに変わりないじゃないか、とかみついた。人間集団が存在するかぎり、国家と権力の問題は決して無視できない。マルクス研究だけでは不十分で、国家の問題も理論的に考えておかなければ現実問題に対して有効な社会科学とはなり得ない、というのが高畠のいわゆる「転向」の理由である。

 善悪の価値判断を保留して、とにかく論理的に考えようとするのが高畠というパーソナリティーの特徴である。価値中立的な法秩序としての国家を考えるため、彼が高く評価したのがハンス・ケルゼンの国家論であった。つまり、「国家とよばれる人間社会の秩序が一つの強制秩序であり、この強制秩序は法秩序と同一物であることを意味する。」「「国家」とか「法秩序」とかよばれる支配、いわゆる「強制秩序」は、その追求する社会的目的、即ちその内容によって性格づけられるものではない。それは様々な内容を取り込みうる社会生活の形式であり、多種多様な目的を実現しうる社会技術の手段である」(ハンス・ケルゼン『社会主義と国家』長尾龍一訳、木鐸社、1976年、12~13ページ)という考え方を高畠も取っていたと考えられる。また、高畠が天皇主権説の上杉慎吉と一緒に経綸学盟を発足させたことは右翼運動史に記載されているが、そもそも法秩序が成り立つ根拠について当為の問題として考えようとする彼の問題関心において、ケルゼン的国家論と上杉的国家論とにある種の類似性が見られるとも指摘している。単に国家主義者になったのではなく、そこに理論的な着想が動機となっていた点を見逃すことは出来ない。

 このような彼の見解の当否についてはもちろん議論の余地があるだろう。ただ確認しておきたいのは、彼のナショナリズムへの「転向」は、あくまでも社会科学理論としての転換であって、土着的な心情に絡め取られたといった性質のものではないことである。それにもかかわらず、日本の社会主義運動史において、高畠が国家論の重要性を指摘する上でケルゼンを理論的根拠とした点には一切触れられておらず、単にナショナリストだから社会主義者になりきれなかったのだ、という心情倫理的な断罪で終わっている。国家やナショナリズムの問題について感情的でナイーヴな発想が評価基準となっていたことがうかがわれよう(もっとも、戦前の暗い記憶を持つ世代の議論であった点は斟酌してあげないといけないとは思う)。

 萱野さんは「日本の人文思想の世界では、自発性によって人びとがつながるという美しい現象ばかりが想定されて、強制力を必要とするような暗い現実を議論から外す傾向が強い。だからこそそこでは、国家の廃棄が可能だというような議論も簡単になりたつのであり、政治を論じるための概念も貧相なものになるのである」(113ページ)と記しているが、それは戦後、一貫して続いている傾向であるなあ、と思った次第。

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2013年1月 4日 (金)

東京国立博物館・東洋館がリニューアル・オープン

 しばらくブログの更新を怠っていたので、新年のご挨拶代わりに。

 1月2日に東京国立博物館の東洋館がリニューアル・オープン(http://bit.ly/VwR4Rb)したので、翌3日に早速行ってみた。私は大学での専攻は考古学だったし、博物館学の授業も一応とってはいたのだが、はるか昔の話。どうでもいいことをいくつか。

 私はそもそも中学生の頃から長期休みに入るたびにここを訪れ、社会人になってからも毎年1回以上は通っていたのだが、東洋館が改装作業に入ってからはしばらく足が遠のいていた。他の展覧会を観るため上野へは時折来ていたのだが、東洋館の中は実に久しぶり。

 耐震補強工事を機に内部も改装されている。展示スペースにも工夫がこらされ、だいぶ見やすくなって良いと思う。ただ私の個人的な思いとして、「なつかしさ」の感覚がなくなってしまったのは、少々残念かな。中学生のとき、自由研究の宿題で中国の古代文明について調べるために来たのが、私の東洋館初体験。その頃から内部の雰囲気が変わっていない、ある意味、時間を超越した(?)場所としてここが好きだった。言い換えると、10代の頃に夢見ていた色々を、大人になっても胸中に思い返す場所として通っていたのだが、マジメな話、色々と鬱屈したものを抱えていたときでも、結構気分が落ち着いたものである。もちろん、そんなことはあくまでも私個人の事情に過ぎない。

 今回の改装で展示スペースが地下のフロアまで広がり、東南アジア専門の展示室が増設された。インドネシアのワヤン、インドの細密画などは新しい展示品だ。朝鮮半島の展示スペースは以前から拡張傾向にあったが、さらに広がったように思う。日本の東洋学の成立経緯を考えると、ざっくり言って東洋史=中国史+αのような枠組みが中心となっていたが、それはとっくに過去の話で、中国以外の地域も中国に匹敵するスペースを割くような構成になっているのはそうした背景がしっかり反映されている。その分、全体に占める中国史の比重は低下したとも言える。

 中央アジア関係の展示スペースの横に大谷探検隊の特別室が設置されているのも嬉しい(もっとも、展示品は少ないが)。私は大学の卒業論文でタクラマカン砂漠に埋もれたオアシス都市遺跡をテーマとしたので、思い入れは感じる。ただし、その時の論文そのものは、オーレス・スタインの探検記兼発掘報告書とも言うべき『ホータンの廃墟』『セリンディア』『インナーモースト・アジア』、それから戦後の中国で発掘を行ってきた新疆文物考古研究所が刊行していた『新疆文物』掲載の論文や発掘報告書に依拠したので、大谷探検隊による成果そのものを活用したわけではなかったが。

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