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2012年2月26日 - 2012年3月3日

2012年3月 2日 (金)

顧頡剛『ある歴史家の生い立ち──古史辨自序』

顧頡剛(平岡武夫訳)『ある歴史家の生い立ち──古史辨自序』(岩波文庫、1987年)

 中国における近代的歴史学の先駆者、顧頡剛が記した自伝。論文集『古史辨』に附された自序として自らの生い立ちを述べるのは、司馬遷『史記』以来の伝統か。もっとも、彼自身の学風は伝統拘束的な停滞を打ち破るところに主眼が置かれていたわけではあるが。

 原著は1926年の刊行。彼は1893年生まれだから、まだ30代前半の作である。五四運動、新文化運動の中で学問的経歴を始めた知識人の精神史的歩みの一端が見えてくるのが興味深い。例えば、辛亥革命後の時代的空気についてこう記している。「その当時は社会の変動が極めてはげしく、自分の人生行路を探りあてかねていた。革命の潮流はすでに退いてしまったし、明け暮れを袁世凱の暴虐と遺老たちの復古的雰囲気とのなかに暮らしていたので、数年前に蓄積した快感や熱望も、この時にはただ悲哀の思い出を残すのみであった。私の心はいつもいらいらしておちつかない。ひたすら哲学のなかに解決を求めようとしたのである。しかし私は多血性の人間であるから、消極的な方面に走って、仏を信じて寂滅を求めることはできない。私はとにかく心理学と社会学とを基礎にして、人生問題を解決しようと考えた。…私はかならず宇宙と人生とを一挙に明白にし、前人未解決の問題を自分の手で一挙に解決する、そうでないかぎり、自分の飢渇はいやされない気がしていたのである」(65~66ページ)。

 彼はもともと読書好きではあったが、学問としての歴史学に開眼したきっかけは章炳麟だったらしい。康有為の今文家に対しては、章炳麟から厳しく非難されていたので良い印象もなかったようだが、それでも読んでみると歴史に創作された部分があることへの批判には得心がいったと記す。ただし、現在の政治的必要から歴史を利用する論法には首をかしげている。

 顧頡剛が歴史学に取り組んだ際の基本的な態度は次の言葉に表れている。「私の心のなかには何の偶像もない。私の信ずるままに活発な理性によって、公平な裁断を下すことができる」(154ページ)。「学問はもっぱら真偽を問うべきもであって、善悪を問うべきではないことを知る故に、全力をつくして功利的な成見を排除し、公平な眼でいっさいの善きもの悪しきものを観察しようとする」(157ページ)。

 理性重視の科学的学問観は胡適、陳独秀らに主導された新文化運動の特徴であるが、彼自身がその影響を受けていることを次のように記している。「もし傅斯年君と胡適先生とにお目にかからず、『新青年』の思想革命の鼓吹にめぐりあわなかったならば、伝統的な学説を打破しようとして胸中に鬱積するあまたの見解も、それを大胆に発表することもなかったであろう」(151ページ)。ここで注目したいのは、新文化運動から伝統思想への叛逆心が芽生えたのではなく、もともと彼の胸中に秘められていた情熱がこの新しい思潮によって後押しされたと言っていることだ。そもそも彼自身のパーソナリティーが極めて自己主張の激しいものであり、少年期に受けた伝統教育のつまらなさにうんざりしていたことは繰り返し強調されている。

 ちなみに、顧頡剛の師匠にあたる胡適にしても、留学先のアメリカでプラグマティズムを学んだのではなく、留学前からもともと抱いていた合理的思考方法に確信を与えたのがジョン・デューイとの出会いであった(Jerome B. Grieder, Hu Shih and the Chinese Renaissance: Liberalism in the Chinese Revolution, 1917-1937, Harvard University Press, 1970)。もともと胚胎していた思考方法にどのようなきっかけが与えられるかで、それぞれの個性の発現の仕方も変わってくる。伝統拘束的な社会体制の中だと自らの鬱積する思いを抑圧せねばならなかったであろう多くの若者たちにとって、新文化運動は大きな羽ばたきの転機になっていたと言えるだろうか。

 訳者は戦前の難しい時期に中国へ留学して顧頡剛と直接交流していた人である。戦後、音信は絶え、再会できたのは1978年になってからであり、その時の感激の気持ちは巻末に収録された「顧頡剛先生をしのぶ」の行間から如実ににじみ出ている。ところで、この追悼文では再会までの間の顧頡剛の著述については触れられているものの、アメリカへ亡命した胡適に対する共産党の非難キャンペーンで顧頡剛も論文を書いて師匠を批判せざるを得なかったこと、文化大革命で顧頡剛自身も迫害を受けたことなどについては一切触れられていない。難しい政治的背景を忖度して敢えて言及しなかったのだろう。

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2012年3月 1日 (木)

山内昌之『中東 新秩序の形成──「アラブの春」を超えて』、ジル・ケペル(池内恵訳)『中東戦記──ポスト9・11時代への政治的ガイド』

 チュニジアにおけるジャスミン革命をきっかけに澎湃として沸き起こった民衆運動による一連の政変劇は世界中の目を釘付けにした。ところで、「アラブの春」と一括りに通称されるが、その後の動向は各国ごとに大きく異なり、この地域における多様な条件の相違もまた浮き彫りになった。山内昌之『中東 新秩序の形成──「アラブの春」を超えて』(NHKブックス、2012年)は、そうした中東情勢に絡まりあった複雑な力学的変動について、現時点における横軸にパースペクティヴを設定して整理してくれる。その中から建設的な動向を見出していくのが本書の興味深いところだ。

 比較的平和裏に政権転換が進んだチュニジア、エジプトに対して、リビアでは激しい内戦の末にカダフィの無残な末路を目の当たりにしたし、シリアでも厳しい弾圧による市民の犠牲者が増え続けている。他方、湾岸の君主国が割合と安定した政治運営を行っている点について本書が高く評価しているのが興味深い。民生の安定が政治の第一の目的である以上、形ばかり民主主義の体裁を整えた革命独裁国家が倒れていくのを見ると、「共和国が善で、君主国は時代錯誤な悪」などの単純な思い込みは通用しない。ある意味で民本主義的な捉え方と言えるだろうか。下からの要求も汲み取りながら漸進的な改革を進めているバーレーンやオマーンなどを取り上げ、立憲君主制として一つの政治モデルになり得ると指摘される。

 中東世界の中の非アラブ国家としてイランとトルコの存在感も大きい。ところで、イランではかつては蜜月の関係にあったハメネイ最高指導者とアフマディネジャド大統領との確執が取りざたされている。厳格なイスラーム体制が表看板だが、大統領はむしろポピュリズムとナショナリズムの色彩を強め、「法学者の統治」が揺らいでいる。他方、イランとは対照的に世俗主義を国是としてきたトルコで現在政権を担っている公正発展党(AKP)のエルドアン首相はもともとイスラーム主義に出自を持つ。しかし、世俗主義に立つ体制派からの弾圧を受けながらも共和国の体制に順応、民主主義等の価値観を内面化していった。こうした現実感覚は、例えば議会でムスリム同胞団が多数を占めるエジプトにとって一つのモデルとなり得ると高く評価される。

 ジル・ケペル(池内恵訳)『中東戦記──ポスト9・11時代への政治的ガイド』(講談社選書メチエ、2011年)はフランスの著名なイスラーム政治研究者による中東紀行。と言っても、もちろん単なる旅行記ではない。9・11直後の時期、エジプト、シリア、レバノン、湾岸諸国、そしてアメリカを回り、9・11以前にパレスチナを訪れた記録も合間にはさまれる。各地で有名無名多くの人々と語らった記録であり、そうした断片的シーンを通して中東社会の揺れ動く姿が描き出されていく。

 アブダビでは、ハンチントン『文明の衝突』がイスラム主義者によって歓迎され、「西洋」の他者として自分たちを正当化するロジックに活用しているのが目を引いた。他方で、「今や「9・11」のレンズを通してのみアメリカは世界を見る。シャロン一派は「対テロ戦争」の論理を自らの利益にために流用する。イスラエル国内で自爆攻撃を行うことによって、アラブ人はアメリカでのイメージ戦争に敗れる危険を冒している。」と記したり、また、アメリカの大学でパレスチナ問題に無関心な学生を見て「「対テロ戦争」のマニ教的善悪二元論を疑うことはほとんど不可能になっている。「善玉」対「ならず者」という「白か黒か」の世界観の中で、パレスチナ人がその代償を支払っている。」と記している。様々な潮流がうごめいている社会的動向に対しても、双方ともに二項対立に押し込めた世界イメージに結びつけようというズレが浮き彫りにされているところに興味を持った。

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2012年2月26日 (日)

ジェローム・B・グリーダー『胡適と中国のルネサンス:中国革命におけるリベラリズム1917~1937年』

Jerome B. Grieder, Hu Shih and the Chinese Renaissance: Liberalism in the Chinese Revolution, 1917-1937, Harvard University Press, 1970

 中国の近代化を進めるため伝統拘束的な思想状況からの脱却こそが必要だという問題意識から胡適は合理主義と個人主義とを武器に引っさげて1917年、中国の論壇に鮮やかなデビューをした。雑誌『新青年』や北京大学を舞台に彼が展開した議論は当時の思潮に大きな影響をもたらしたものの、逼塞する時代状況の中、彼はやがて孤立していく。20世紀前半の中国において彼の唱えたリベラリズムはどのような反応を受けたのかというテーマを軸に本書は彼の生涯をたどる。

 彼の伝統批判が保守派から猛反発を受けたのは当然だが、他方で物事の変化は漸進的に進む、それを着実にするためにこそ教育が必要という彼の考え方は急進派をも苛立たせ、結局、彼は板ばさみになってしまう。(なお、余英時『中国近代思想史上的胡適』では現実の問題に対して即効性のある具体案を出せなかったところに彼への信頼が失われ、マルクス主義にその立場を奪われた原因があったと指摘していた。)

 時代状況の変化の中にあっても、彼の理性と民主主義への信頼、上からの急激な革命ではなく人々のものの考え方そのものを変えていくことで下からの漸進的な革命を促すのでなければ何も変わらないという確信は一貫して変わっていなかったことが見て取れる。この点、例えば梁啓超や陳独秀が状況変化に応じて考え方をクルクル変えていったのとは対照的に思った。もちろん、どちらが正しいという話ではないが。

 陳独秀はマルクス主義に基づく実践政治活動へと乗り出す頃、一部の知識人に見られる非政治的な「隠者」的退行を批判していた。これは「政治」概念を一元的に把握した立場だったとするなら、胡適の場合にはむしろ、権力闘争に巻き込まれてしまったら「公」を基準とした議論が出来なくなってしまう、従って無党派の形成による世論の主導を目指すためにこそ非政治的な知識人が必要だという点にあった。これは狭い意味での「政治」=執政と「公論」とを区別し、両方をひっくるめた広い意味での「政治」を目指していたと言える。ちなみに、胡適とは文明観で見解が異なっていた梁漱溟が戦後、毛沢東からポスト提供の打診を受けたとき辞退したのも同様の理由による。さらに言うと、福澤諭吉が在野の立場を一貫して守ったのもやはり同様だ。

 なお、私見だが、プラグマティズムを基にした合理主義と個人主義を主張した胡適と、合理主義と個人主義の限界を指摘して儒教的共同体の再評価を主張した梁漱溟とではその文明観の根本的な相違が際立つ一方、いくつか共通点も見られるのが興味深い。①上記のように政権の座について権力闘争に関わると公のための議論ができなくなるから、知識人は無党派の立場に立って公論の形成に努めるべきという主張。②胡適は個人、梁漱溟は共同体に注目したという違いはあるが、二人ともトップダウンではなくボトムアップによる合意形成に政治の意義を求めていた。③教育を通した啓蒙により個人の自律的な思考が社会の基礎になると考えていた。胡適が教育を重んじていたことは有名だが、梁漱溟の郷村建設にも行政機関はすなわち学校であるという考え方があった。

(以下はメモ)
・胡適の若い頃の日記を見ると、基本的な考え方はアメリカ留学以前からすでに形成されていた。そこに確信を与えたのがジョン・デューイのプラグマティズム。
・1917年に帰国後、陳独秀が編集していた雑誌『新青年』や北京大学で言論活動を活発に開始。過去の伝統から脱却し、合理的な思考方法を広めるためにはまず教育が必要。人々の考え方を変えることで、一人ひとりの責任によって下から社会を変えていくという漸進主義。ここには歴史の飛躍はあり得ないという社会進化論的な考え方もあった→急進派とは考え方に距離が出てくるが、伝統回帰派に対しては共闘。
・中国が近代化を進めるにあたり西洋画モデルになるのは確かだが、他方でその西洋は帝国主義的侵略をしていたし、また第一次世界大戦後、西洋文明の技術文明こそが甚大な惨禍をもたらしたという思潮が現われた。こうした中で中国の伝統的価値を見直そうという主張→梁啓超(ヨーロッパを旅行したこうした風潮を実見、クロポトキンやオイケン、ベルグソンに関心)や梁漱溟はかつての反動的な復古派とは異なり、近代的価値にも理解を示していた人々→伝統回帰の動向とみて胡適は論戦。梁漱溟が示した文明論的段階説には理解を示しつつも、梁が発展段階における環境への順応という側面を強調しているのに対して、胡適は知識による精神の自由や真実へ向けた探求を強調。
・中国哲学史の講義:中国の過去の知的発展の読み直し→西欧的とは言わないまでもモダンなものに近いものもあることへ注意喚起→中国にとっても馴染みがあるはず、という論法。
・中国の恥辱の歴史は重々承知の上だが、かと言って反帝国主義のスローガンを掲げて気炎を上げるだけではかつて伝統中国を支配していた「言葉の魔術」への信仰と大同小異で、単純な「革命」志向では実質的な解決にはつながらない。「革命」とは意識的に「進化」を促進させるものではあるが、ただし暴力的な革命とは区別→教育、法制化、制度的な政治過程を通して目的達成を図るものと胡適は考えていた。民主的な教育制度を通した改革を主張→権威主義的な独裁政治には反対。
・国民党などの過激なナショナリズム志向(反満主義以来)に内在する伝統回帰的な側面は近代化の促進を阻害、一般人の政治参加能力に大きな疑問を投げかけていた点で孫文の責任も大きいと指摘。民主主義は将来の問題ではなく、現在の必要。
・日本の侵略に直面してジレンマ。もちろん日本の侵略に対しては抵抗しなければならないが、他方でその抵抗の手段そのものが数十年にわたって中国が獲得してきた知的達成をダメにしてしまうかもしれないという不安。
・戦後も状況は悪化。1930年代ですら難しかった無党派的立場は、戦後になると不可能になった。北京大学総長に復帰後、思想の自由を抱負として述べた。学生たちのデモに対する蒋介石の弾圧には抗議する一方、学生たちの動機には理解を示すものの方法は支持せず。
・アメリカは胡適を国民党政権の職位につけるよう求めたが、これは逆に彼の評判を落とすことにつながってしまった。共産党は彼をアメリカ帝国主義の手先とみなす。
・1958年、蒋介石政権の下で中央研究院長に任命された→五四世代の栄誉あるつながりの象徴とはなったが、もはや台湾で若い世代の知識人に影響を与えることはできず。
・胡適のリベラリズムは五四世代の急進派にも支持されたが、他方で蒋介石『中国の運命』でも指弾されたように伝統文化の破壊者として批判を受けた。この批判は戦後の台湾でも再び現われたが、国民党とはイデオロギーが違うはずの共産党からも1950年代に同様の批判を受ける。国民党は儒教的価値に力点が置かれたのに対し、共産党は民衆文化に力点。
・胡適はデューイと同様に、政治的・社会的制度の価値が試される肝心な点は、どの個人も自らの可能性を全面的に成長していくよう促していく範囲にあると考え、政府がこうした可能性を制限してしまうような主張には反対。個人が自らの可能性を追求していくのに役立つよう制度を整えるのが政府の仕事であって、逆に価値判断などの基準を決めてはいけない。
・胡適の思想や漸進的で穏健な社会改革プログラムには、すべての人には本来的に理性があるはず、偏見を取り除いて考え方が変われば合意の方法はあり得るという前提→リベラルな価値や方法論への過信から中国の現状を見誤った。
・中国はいかに生き残るかという問題意識→解決法を模索するには問題はどこから生じているのかを理解する必要→現在の危機に関わる歴史的要因をすべて考えていく必要→「民族的遺産の体系化」という学問的仕事。もちろん、自分の学問の限界は弁えていたが、自分の出来ることをやるという「分業」の自覚を持っていた。
・胡適や彼のリベラルな友人たちは民衆の福利のために語ったが、それは彼ら自身に対して語るよりも彼らに代わって語る、政治的なオルターナティヴを形成できなかった→結局のところ儒教的な意味での「賢者」のままではなかったか?

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【映画】「シルビアのいる街で」

「シルビアのいる街で」

 古都ストラスブールの街並が良い感じだ。セリフは最小限にとどめられ、明確なストーリーが浮かび上がってくるわけでもない。主人公がただひたすら街中を歩き回っているだけだ。街で見かけた女性の後をつけわますのは単なるストーカーじゃないかと思うが、主人公がハンサムな青年画家だからとりあえず絵になる。新感覚のラブストーリーと謳われているが、ちょっと違うと思うぞ。彼が追い求めたのは6年前に出会った女性の面影だったという設定はもちろん分かっているけど。

 それよりも、カフェ、酒場、市電の待合所──街のあちこちで行き合わせた人々の表情が丁寧に観察されるところが興味深い。普段はそんなのいちいち気にしながら街を歩いていないが、青年がスケッチする観察眼を通してこちらにも注意が喚起される。談笑していたり、不機嫌だったり、あるいは事情ありげにふさぎこんでいたり。何気なくすれ違うだけの人々でも、注意深く表情を見ていくと、各々が抱えた人生の機微が、少なくともその断片がそれとなくほのめかされてくる。様々な人生の物語が織り成されて一つの街が出来上がっているのか、などど想像も羽ばたいていく。

 カフェの窓ガラス、通り過ぎる市電の車窓に乱反射するように人々の顔が映し出されるカメラワークは万華鏡のように美しく、あたかも街を彩る多面相が凝縮された小宇宙のようにも見えてくる。こうした中なら、自身のイメージとして抱えた面影を投影してしまう余地は確かにありそうだな、という気もしてくる。ストーリー以前に、街並と人々の細やかな描写がすごく良い。こういう映画は好きだな。

【データ】
監督:ホセ・ルイス・ゲリン
スペイン・フランス/2007年/85分
(DVDにて)

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