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2012年2月19日 - 2012年2月25日

2012年2月25日 (土)

【映画】「汽車はふたたび故郷へ」

「汽車はふたたび故郷へ」

 旧ソ連時代のグルジアで映画作りを志す青年ニコ。しかし、共産主義の監視体制下、彼が表現する反抗的なニュアンスはどうしても検閲を通らない。苛立ちを募らせていたある日、フランス大使と会って話す機会があり、何とかパリへ行くことができた。働きながら映画を撮り続けるが、商業ベースに乗らない彼の作風は受け入れられず、失意のうちに故郷へ帰ることになる。

 フランスで自作の映画をプロデューサーに売り込むときと、そして失望して帰国後、家族と魚釣りをしているとき、2度にわたってニコの前に人魚が現われる。彼を水中へと誘うこの人魚は一体何を表しているのだろう? 世間とのズレを感じつつも、何かに魅入られたように映画作りに没入しようとする彼の心象風景に現われたものなのだろうか。

 自身の内奥から発露した感覚をごまかしたくない、妥協したくない、そうした潔癖さは芸術的表現の根源的な駆動力となる。それはコンベンショナルなものへの反抗として現われ得るが、いたずらっ子だった少年時代なら叱られながら暖かく見守ってもらえるにせよ、実社会に出てからは周囲との軋轢が深まる。監視体制の社会にあってはなおさらだ。無理解への苛立ちは、潔癖であればあるほど自らの破滅へと向かいかねない。ニコは共産主義の監視体制から外へ逃れたが、たどり着いたフランスでもやはり資本主義のコマーシャリズムのロジックにぶつかってしまい、思うようにはならない。居場所もなく放浪する魂の行方、それは奇しくも同じ名前を持つ画家ニコ・ピロスマニの放浪の人生をも想起させる。

 いずれにせよ、挫折は宿命的だった。しかし、だからと言って単純に悲劇というわけでもないだろう。例えば、政府の方針として検閲を通らないにしても、検閲の担当者たちはニコの作品の良さは分かっていることは仄めかされている。彼らのダブルスタンダードの態度は監視社会の中で保身を図る醜さと捉えられるかもしれないにせよ。また、彼を国外へと送り出した文化問題担当の役人が大使としてパリに赴任してきたが、メーデーの祝賀会でニコが大使館に招かれたとき、大使は「私と腕を組め、笑顔を見せろ、肩をたたいてみろ」と言い、怪訝そうなニコに対して「ここにいるバカどもは、君は私と親しいと思うだろう。そうすれば監視はやめるさ」──ややこしい制度の難しさを考えた上での配慮だ。フランスのプロデューサーもニコの才能を評価したから彼を起用したわけだし、映画仲間たちもいる。非人格的なシステムというレベルでは無理解であっても、家族や友人をはじめ彼の感性をしっかり認めてくれる人々もちゃんといることの方に目を向ければ、彼のたどらざるを得なかった宿命の意味合いもまた違ってくる。彼の挫折はもちろん悲劇である。だが、決して孤独ではなかった。羽目をはずした人々をユーモラスに描くイオセリアーニ監督の眼差しは、そうした意味での暖かさを感じさせてくれる。

 この映画にはイオセリアーニ監督自身の体験が織り込まれているらしい。少年時代のシーンで映し出されるグルジアの森の風景が鮮やかで印象的だ。宗教がタブーであったソ連の時代だが、宗教画のイコン、ポリフォニックな聖歌などグルジア的要素が見えるのが興味深い。グルジア語、ロシア語、フランス語の使い分けの歴史的背景など、プログラムにあるグルジア史研究者の前田弘毅さんの解説が勉強になった。

 グルジア映画はいつも岩波ホールで観てきた。ゲオルぎー・シェンゲラーヤ監督「若き作曲家の旅」、エリダル・シェンゲラーヤ監督「青い山」、テンギズ・アブラゼ監督「懺悔」はここで観たし、DVDで観たゲオルぎー・シェンゲラーヤ監督「ピロスマニ」も最初の上映は岩波ホールだったはずだ。

【データ】
監督・脚本:オタール・イオセリアーニ
フランス・グルジア/2010年/126分
(2012年2月25日、神保町・岩波ホールにて)

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2012年2月23日 (木)

プラセンジット・ドゥアラ『ネイションから歴史を救い出す:近代中国の語り(narratives)を疑う』

Prasenjit Duara, Rescuing History from the Nation: Questioning Narratives of Modern China, The University of Chicago Press, 1995

 西欧側が研究対象たる「東洋」に対して向ける眼差しそのものにある種の偏見が内在的に構造化されているとき、いくら客観的な研究を標榜してはいても、その結果として生み出された言説には問題があるという指摘はエドワード・サイード『オリエンタリズム』以来もはや周知のことだろう。同様の問題意識でアメリカの中国研究についてはポール・コーエン『知の帝国主義』も知られている。「見る」側の視点そのものが権力性を帯びている場合、「見られる」側の主体的な自己認識をないがしろにはできない。だが、それでは「見られる」側であるはずの中国史が自らを語る言説をそのまま鵜呑みにしてもいいのだろうか?というのが本書の問題提起となる。
 近代中国においては、とりわけ社会進化論やマルクス主義の大きな影響の中、国民国家の形成、生き残りという目的意識による一元的・直線的な発展史観が生まれ、都合の悪い要素は排除もしくは再構成される形で単一の「語り(narrative)」へと収斂されてきた。ナショナル・アイデンティティーの形成と内実は、想起される歴史的な「語り」と現代の国民国家システムとのせめぎ合いによって生み出されている。歴史のアポリアや抑圧を覆い隠すレトリカルな戦略をさらけ出すことで、フォーマルな「語り」から無視されてきた分岐する(bifurcated)歴史のあり方、複数のアイデンティティーが相克する姿をそのままに直視し、目的論的な抑圧から歴史の意義を取り戻そうと本書は試みる。国民国家論の解体を意図している点でポストコロニアル的な議論である。

(以下はメモ)
・傅斯年や顧結剛たちの歴史研究に表わされたナショナリズムを分析。対して魯迅は、ナショナリズムに反対したからというのではなく、ナショナリスト的な語り口に疑問を投げかけていた点で他の学者とは異なる。
・前近代・近代両方の社会においても複数の表象、語り、アイデンティティーが並存しながら持続しており、近代ナショナリズム以前のプロセスが、近代以降になっても拠り所となる→中国とインドを比較。
・新国家建設に向けて会党の協力を取り付けるため反満主義・伝統的な血族主義などを取り込んだ一方、そうした文化的イデオロギーは近代国家のものではない。孫文は辛亥革命後、会党の役割を否定。
・社会進化論は先進と後進の区別→ヒエラルキーの中での上昇志向を促した。1910年代以降、社会進化論はアピールしなくなり、反帝国主義・共産主義の影響が強まる。しかし、人種(race)的言説が消えたわけではない。

・封建主義という言説の検討
・中国には伝統的に市民社会に相当するものは成立しなかったとされているが、封建的伝統における自律的な知識人の系譜や宗教に基づく公共空間があった点を見直す必要。
・啓蒙思想の系譜を見るとき、例えば康有為のように、封建的思想が近代的言説を取り込んだのか、それとも近代的言説を成立たせるために封建的思想を用いたのか、どちらなのか判別は難しい。
・地方自治の失敗:袁世凱政権が徴税や警察など近代的な行政改革に着手→民間宗教の制度的基盤が解体され、これは民国期を通じて行われた。軍閥の時代に政府が権力を拡張し、地方のリソースを引き出そうと模索(例えば、閻錫山の山東モデル)→地域住民ばかりでなく地域のエリートも疎外。中国北部の地方レベルにおける全面的な国家建設が行われるのは日本支配下になってから。しかし、これによって地域の力を動員したり地域的エリートをリクルートできたのではなく、政府は地域の低位官僚層を監視できなかったので別種の暴君が現われた。⇒1930年代、こうした暴君による搾取は封建思想に由来するのではなく、清朝末期の新政やナショナリストの「自治政府」などの国家建設失敗の空隙に生じていたことを、すでに梁漱溟が指摘していた。
・弱い国家→強い権力が必要という言説。梁啓超は、啓蒙を軸とした進歩の歴史を描き出し、そこに国民国家を結びつけた。中国における新旧の公民社会的なものは封建主義の名の下で葬り去られていく。(本書で言う封建主義とは、伝統思想に基づく身分秩序+地域分権で、そこには中央集権に対する批判の可能性が含意されていたが、これが革命家たちの言説を通して近代にとっての異質物としてネガティヴな意味合いが背負わされていく。)

・中央集権と地方分権との葛藤
・地方分権を求める連邦主義者の代替案は封建主義とみなされ、中央集権志向の国民国家的イデオロギーによって中国近代史の早い段階で葬り去られた。しかし、国家主義と地方主義は共存し得たはずと指摘。歴史をみると、地方主義を成り立たせる伝統や人的ネットワークは確かに存在していた。
・1895年、下関条約で台湾割譲→束の間だが台湾民主国という独立の動き→これに触発され、内憂外患への対処や反満主義による地域自立の主張(Provincialism)が現われた→欧築甲(Ou Qujia)の『新広東』、楊守仁(毓麟、Yang Shouren)の『新湖南』など。
・社会進化論の受容の二つのパターン:上記の地域自立の運動は、郷土への愛→競争力のある独立した地域としての発展を目指す→こうして独立した地域の連邦が中国独立の基礎となるという考え方。対して、汪精衛たちは中国の生き残りのため中央集権的な国民国家を主張。
・地方主義は辛亥革命後、連邦主義という西欧的な政治理論で自治を承認させようと模索。しかし、中央集権が中国の伝統であるという言説から、これに反する動きは反中国的として批判を受ける。五四運動期のTang Dezhangは人民主権という理論で地域主義を主張→歴史に結びつける言説から切り離した。
・分権主義の主張には自治と民主的改革という二つの要素があったことは注目される→自治は軍閥が支持、民主的改革には知識人や急進派が関心を持った。
・広東軍政府で陳炯明の裏切り?→彼は国づくりの基盤としての自治を支持していた一方、孫文は建前としては連邦主義の方向を取ってはいても真剣ではなかった→方針の違いから陳は引退。ところが、軍人たちの孫文追放クーデターで呼び戻された。背景には、孫文が北伐を強硬に主張するのに対して、地盤固めが先決という異論があったため。孫文をけなすわけにはいかないので陳炯明は裏切り者とみなされた。

・「進歩」という観念に対する懐疑について中国とインドとの比較を通して論じる(著者のDuaraはインド出身)
・「近代」批判の二つのタイプ→①東西文化の対立(章炳麟、劉師培など)、②精神的な疑問(康有為、梁漱溟など)
・梁漱溟(Duara自身の読みではなく、Alittoの梁漱溟伝に基づくようだ)→儒教的な考えに基づき、郷村建設→指導者は先生、政府は学校。進化論的な見通しを持ってはいたが、それは価値的なヒエラルキーが取り払われていた。近代化と伝統との両方を重視、政治と文化は決して離れていはいないと考えた思想家としてインドのバンキム・チャンドラ(Bankim Chandra)と比較。ガンディーと同様の役割を果たし得ただろう人物として梁漱溟、Jimmy Yan(晏陽初)、陶行知などを挙げ、彼らが中国の歴史の語りにおいて周縁化されていることに言及。(※ただし、梁漱溟をガンディーと比較しようにも、影響力が格段に違ったと言うが、思想の内在的構造の比較はなされていないことに不満。)
・ネルーは近代を軸とした歴史観の範囲内で民族文化の独特さとして考えた→文化と政治を分離して把握→どちらかと言うと、中国のマルクス主義者に近い。
・中国でも反帝国主義の運動は盛り上がったが、大部分は植民地化されたわけではないので植民地的イデオロギーが刻み込まれなかった点がインドと異なる。

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【映画】「言えない秘密」

「言えない秘密」

 中華圏で圧倒的な人気を誇る周杰倫(ジェイ・チョウ)の主演・監督作品。共演の桂綸鎂(グイ・ルンメイ)がお目当てでDVDを借りてきて観た。伝統ある高校の音楽科に転校してきた青年が、過去からやって来た少女と出会うという話。ピアノを道具立てとしたタイムスリップもの。少女マンガ趣味のストーリーといい、メルヘンチックな学園ものという舞台設定といい、何だか一昔前の岩井俊二がつくりそうな雰囲気の映画だ(意外と嫌いじゃないけど)。

 レトロな建物のぬくもりと、戸外のシーンで背景に映る緑の鮮やかさが観ていて心地良い。しっとりと落ち着いた情感のある映像が良いなあ、と思いながらエンディング・クレジットを見ていたら、撮影監督は李屏賓。侯孝賢やトラン・アン・ユンをはじめ世界の名監督たちとよくタッグを組んできた職人的なカメラマン。この人が撮る映像は本当に好きだな。台湾を舞台にした映画で戸外のシーンを観ていると、木々の緑は鮮やかで、海辺の風景も美しく、本当に良いなあ、と思う。それが李屏賓の落ち着いた色彩感覚で撮影されるともう最高。あと、桂綸鎂もね。

(2007年/台湾/102分)

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2012年2月19日 (日)

ヴェラ・シュウォルツ『中国の啓蒙思想:知識人たちと1919年五四運動の遺産』

Vera Schwarcz, The Chinese Enlightenment: Intellectuals and the Legacy of the May Fourth Movement of 1919, University of California Press, 1986

 1919年の五四運動前後の時期、列強から侵食され、国内的には伝統思想の束縛された内憂外患の状況の中、新文化運動で主張された個人の内面的な自己解放と批判精神とを求める啓蒙主義。その行方がどのような方向に進んでいったのか?という関心を軸として、中国近代における思想史の動向について考察を進めるのが本書の趣旨。
 第一に啓蒙と救国という二つの志向性の間での緊張関係に注目、第二に世代間の相違に注目しながら、その相互作用をたどりなおし、局面に応じて五四の啓蒙主義的な動きが退潮しては再浮上していく様子を捉えようとしていること、第三に後代において政治的必要から五四運動にまつわる記憶の再構築が行われてきた経緯の分析、以上が本書の特徴と言える。批判精神による発言を事とした知識人たちの宿命を見ていくと、いまだに現代的課題なのかもしれない。

(以下はメモ)
・洋務運動、変法運動から辛亥革命を経て五四運動に至るプロセスの概観。陳独秀の『新青年』、蔡元培が人材を集めた北京大学。
・伝統思想に反逆しようとする五四世代、雑誌『新潮』の学生たち→新文化運動で示された科学哲学と形式論理に注目。
・張莘夫が陳独秀に出した手紙:マルクス主義はある種の宗教だ→陳も、信念がなければ事は成就できないとして同意。科学的に因果関係や影響を把握→運命主義に陥らないように思考の自由→五四啓蒙主義の精神革命。
・旧世代が掲げた「科学」と「民主」は儒教的伝統への代替物として主張されたのに対し、新世代にとって「科学」は世界を解釈する方法、「民主」は個人を科学的探究へと向かわせる自信の態度。
・西欧思想の様々な潮流を精神的反逆、精神の独立として把握→ロシア革命も社会的コンテクストにおいて自己解放の兆候として歓迎。西洋の視点で中国を見る→保守派を批判。
・ヴェルサイユ会議等で示された西欧の欺瞞。他方で「彼ら」と「我ら」という二分法は望まなかった。
・1930年代に入り、日本による満洲国成立(溥儀は儒教的皇帝として即位)、蒋介石が発動した新生活運動で孔子崇拝の復権の動き→外敵への対処と内面的な自己解放とを結びつける問題意識が再確認され、そうした動向の中で五四運動期の啓蒙主義が再浮上→五四期のヴェテラン知識人たちと共産党理論家たちの両方がリーダーとなった。この頃、羅家倫が学長となった清華大学の方が北京大学よりもリベラル。羅家倫が大学の活性化に成功したやり方は、かつて北京大学で蔡元培が取ったのと同様で、気鋭の学者たちを招聘→馮友蘭、楊振声、兪平伯、張莘夫、朱自清など。同時期、上海では魯迅たちの左翼作家同盟が成立、また胡適、蔡元培、宋慶齢などの参加した上海市民権連盟?(Shanghai League for Civil Rights)も政治犯として捕まった人々の調査などで役割を果たした。いずれにせよ、白色テロの犠牲が知識人たちを結びつけ、五四知識人の絆を再建。
・上の世代は伝統的価値を疑うが、非歴史的。次の世代は歴史の再解釈によって知識人としての確信を得ようとした。
・大衆教育の必要と、大衆そのものが否定できない価値を持っているという考え方との相違をどうするか?→五四の白話運動は非中国的という批判。五四世代は白話の発見が目標だったが、1930年代以降、大衆語の創造という問題意識。
・1936~37年、新啓蒙運動→張莘夫と陳伯達→五四のヴェテランと共産主義の若者との間では、合理的な啓蒙主義を大衆にどのように広げられるか、封建主義の愛国的な批判はどのようにするか?という点で共通。
・抗日戦争→愛国主義を大衆に広めるのが最優先→個人と国家の独立を結びつけた五四の啓蒙の理念はフェイドアウト。啓蒙→救国。
・新しい世代は、自身の必要や願望に応じて五四運動のイメージを作り上げてきた。現在を批判する鏡として過去からイメージを作り上げてきたプロセス→寓意としての五四運動。現在における政治的主張に活用するために行われてきた記憶の再構築。
・孫文は国家生き残りのための「国粋」という文化保守的な考え方の影響を受けており、イコノクラスティックな啓蒙主義には関心なし。ただ、学生たちの愛国主義を賞賛。蒋介石は中国的倫理に付会する形で五四運動を新生活運動に結びつけた。
・毛沢東は自ら五四運動の支持者であったと考えていた一方、知識人の言う啓蒙主義が救国の条件になるかどうかについては懐疑的。
・海峡両岸での五四運動の周年ごとの記念のあり方を比較。五四運動生き残りの人々も、記念行事は彼ら自身とは関係ないにしても、繰り返されているうちに自らの記憶を政治的な必要による集合的記憶に合わせていく傾向。しかし、五四運動の動機の部分で自らの自律的な思考を捨てたくない人々→1957年、台湾で『自由中国』を創刊した雷震たちも五四の生き残り。同じ頃、大陸では百家争鳴で批判精神も現われようとしたが、こちらもつぶされた。

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【映画】「ペルシャ猫を誰も知らない」

「ペルシャ猫を誰も知らない」

 イスラム体制下のイランでは西欧文化に対する規制が敷かれている。インディー・ロックのバンドを組む若者たち、コンサートを開こうにも検閲で許可が下りず、出国できる見込みも立たない。それでも自由に音楽をやりたいと情熱を燃やす彼らの奮闘。この映画そのものがイラン政府の許可を取らずゲリラ的に撮影されている。

 そういえば、テヘラン出身の女性インテリが精神的自由を求めて読書会を開くなどしたことをつづった回想録、アーザル・ナフィーシー(市川惠理訳)『テヘランでロリータを読む』(白水社、2006年)という本もあった。この映画の若者たちも人目を気にして、特に警察に密告されないように、隠れて練習している。警察に捕まっても何とか抜け出すコミカルなやり取りもあった。イスラム革命以前のテヘランには西欧文化がかなり流入していたし、現在でも非合法ではあろうが、様々なルートで西欧の映画や音楽ソフトを入手することもできるようだ。イランでも西欧文化が好きな人は意外と多い。

 表現の自由が抑圧されていることへのプロテストがテーマとなるが、必ずしも深刻さ一点張りというわけではない。テヘランの町並みや人々の表情が映し出されるのだが、音楽に乗せて時に軽やかに、時に悲哀をにじませて繰り出される映像がミュージッククリップのようで、これがなかなか面白い。イランという国も、政治体制がこんなにこんがらかっていなかったらもっと魅力的な国なのに…と残念な気もする。

【データ】
監督:バフマン・ゴバディ
2009年/イラン/106分
(DVDにて)

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