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2012年2月12日 - 2012年2月18日

2012年2月18日 (土)

島田虔次『中国革命の先駆者たち』

島田虔次『中国革命の先駆者たち』(筑摩叢書、1965年)

◆梁啓超「亡友夏穂卿(夏曾佑)先生」の訳。
◆梁啓超「支那の宗教改革について」(『清議報』19、20号、1899年)の訳。
・孔子の教えの間違った解釈によって愚民化という問題意識。康有為が公羊学による『春秋』の解釈。従来の教えは「小康」、自分たちが奉ずるのは「大同」。
・進化主義(拠乱世→升平生→太平世。ダーウィン、スペンサーの進化論にも言及)であって保守主義ではない。
・平等主義であって専制主義ではない。小康派は君権を尊重、大同派は民権を尊重。
・兼善主義であって独善主義ではない。仏教の菩薩行を引き合いに出して孔子も同様とする。
・強立主義であって文弱主義ではない。
・博包主義であって単狭主義ではない。仏教を引き合いに出しながら思想的多元性を指摘。
・重魂主義であって愛身主義ではない。

◆梁啓超「言論界における私の過去と未来」(『庸言報』創刊号、1912年12月)の訳
・これまで立憲を主張していたのだから共和制になったらお前には発言権はないはずだ、という非難への反論。

◆ある革命家の遺書→陳天華の「絶命書」「獅子吼」を紹介。

◆中国のルソー→黄宗羲『明夷待訪録』の「原君」「原臣」など。

◆章炳麟について──中国伝統学術と革命
・張王渠の清虚一大の哲学は「気」に第一性をみとめるところの「唯物論」、朱子の性即理の哲学は「理」に第一性をみとめるところの「客観唯心論」、陸王学の心即理は「心」に第一性をみとめるところの「主観唯心論」。これらに対して思弁を排した考証学。章太炎は考証学のうち最も成果のあった小学=国語学の分野を学統としてついでいる。
・仏学をもって国家を救おうとする太炎の説→華厳の菩薩行と唯識の哲学。唯識は考証学、科学に似ていると言うが、そればかりでなく明末の王夫之や黄宗羲も唯識に関心を持っていたことに注意を喚起。
・音韻学、諸子学の開拓などの業績。
・1903年、蘇報事件で投獄→獄中で『因明入正理論』『成唯識論』『瑜伽師地論』などを読破。
・太炎の主張した革命とは「光復」である。満州族のために汚され奴隷化された中国の文明と民生とに再び輝きを取り戻すことに他ならぬ。
・清朝末期において考証学への不信の念、康有為・梁啓超は明治維新における陽明学の役割を紹介、そうした中で考証学の学統を受け継いだ太炎はどのようにして革命と結び付けたのか?→民族の歴史を美醜善悪ともに正しく知ることによって生まれる民族への愛情、これこそ太炎において学問と革命とを媒介する当のものに他ならない。革命の原理たる民族主義。「民族の独立は、まず国粋(国学)を研究することが主であり、国粋は歴史が主である。その他の学術はみな、普通の技にすぎない。」孔子は民族に歴史を与えた点に功績。康有為たちが孔教を唱えて孔子を崇拝するのは見当違い。「わが民族性は、心をくばるのは政治・日用、はげむのは工商農耕であって、関心は生の領域を超えず、超経験のことは一切語らない。追求するは自我の尊厳であり、神を真の主宰者と仰いで死を賭してこれに仕えようなどとはしないのである。」
・六経に記載された「事」→性理学ではそこに「道」「義」が示されていると考え、その把握・実践を志す一方、客観的「方法」には無関心。考証学は「事」の事実的確定を目指す一方、単なる資料と見る心情の麻痺をももたらした。ウェスタン・インパクトによって「事」と「道」との分離→康有為・梁啓超たちが「道」の内容を「進化」「公理」「民権」によって把握しようとする。太炎にとっては単に「事」の記された「経」→「中華の民」の「礼俗」という「事」が記されていること自体が貴い所以→考証学であっても聖人の「道」を前提としていたが、こうした枠組みをも超えてしまった→もはや考証学でも儒学でもない、「国学」であるという転回。
・政府の絶滅、聚落の絶滅、人類の絶滅、生物の絶滅、世界の絶滅を説いた「五無論」については、そこから何か深遠なものを引き出そうとする論者を批判。太炎はよく「純粋に超人超国の説」と当面の急務との区別を説くが、前者が後者を規定いるとは考えられない。民国成立後まで視野に入れると感じられない。むしろ、この時期になぜこのように激昂した「仏声」をなしたことの意味に大きな問題がある、と指摘。

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【展覧会】「ルドンとその周辺──夢見る世紀末」

 三菱一号館美術館で開催中の「ルドンとその周辺──夢見る世紀末」を観に行った。巡回展だが、今回は三菱一号館所蔵「グラン・ブーケ」が展示されていることが特色とされている。

 オディロン・ルドンと言えば、あのギョロッとした「一つ目」の印象が昔から強烈だった。例えば、ギリシア神話のキュクロプスだったり、眼球そのものが気球のように浮揚していたり。気球というのも時代がうかがえる題材らしい。パリ・コミューンの崩壊に当ってガンベッタが気球を使って脱出したり、ヴィクトル・ユゴーの肖像をあしらった気球が飛ばされたり、といった話題が紹介されていた。ちなみに、ルドンが好んで描いた眼球のモチーフは、水木しげるが目玉おやじのモデルとしたことでも知られている。

 もちろん目玉ばかりではない。当初におけるモノトーンの画面は、この世ならざる幻視の世界を描き出すのに格好の舞台だ。1890年前後以降、「目をとじて」シリーズを境としてカラフルな彩りへと移り変わっていく。ここには、ある種の精神史的ドラマが伏流していそうで前から関心が引かれていた。なお、今回展示されている「オフィーリア」も「目をとじて」シリーズの一環になるのだろうか。ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」とはまた違ったおもむきがある。

 ルドンの師匠だったブレンダンや、同時代の画家たちの作品と並べ、彼が生きていた時代の雰囲気が分るような展示となっている。ルドンの作品は単に幻想的というのではなく、進化論や植物学、天文学、心理学など19世紀における先端科学の知見を取り込み、後期になると象徴主義や神秘主義の影響も受け、昇華させているのをキャプションで知った。

 「絶対の探究─哲学者」(1880年)という作品が目を引いた。キリスト教神学を示す三位一体の輝く三角形。その後に見える黒い太陽はメランコリーを表わすそうだ。メランコリーと言えば、エドガー・アラン・ポーに献げた石版画集もあり、ルドンのモノクロの世界はまさにメランコリーそのもの。黒い太陽は、眼球のモチーフとつながりを感じさせる。そして、これらを聳え立った山の高みから道化師の面をかぶった小人が見下ろしている。コンセプチュアルに整理されすぎという感じもするけど、ルドンが生きた19世紀の思潮が象徴的に表現されていると言ってもいいのだろうか。

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2012年2月15日 (水)

『章炳麟集──清末の民族革命思想』

章炳麟(西順蔵・近藤邦康編訳)『章炳麟集──清末の民族革命思想』(岩波文庫、1990年)

 孫文、黄興と「革命三尊」と並び称され、国学大師と呼ばれるほどの学識を持ちつつ血気盛んに革命運動に飛び込んでいったところは魯迅からも尊敬されていた章炳麟、彼は1869年、浙江省余杭県倉前鎮の地主知識人の家に生まれた。日清戦争敗北の衝撃で強学会に入会、1897年には上海の『時務報』記者となって変法運動に参加。変法には賛成だが、孔教には反対して時務報館を去る。戊戌の政変で台湾に逃れ、翌1899年には日本に渡って梁啓超の紹介で孫文に会った後、上海に戻る。1901年、「正仇満論」で梁啓超を批判、さらに排満を主張したので逮捕されそうになり、1902年、日本へ。再び帰国後、『蘇報』の筆禍で逮捕された。1906年に出獄、日本に渡って中国同盟会に参加。1907年7~8月には張継、劉師培らと社会主義講習会を開催、幸徳秋水・堺利彦・大杉栄らに講演を依頼、同年夏には亜州和親会を結成。辛亥革命が勃発して1911年11月に帰国。第二革命後、袁世凱によって三年間幽閉された。1917年には広州に行き、孫文の護法軍政府に参加。1919年の五四運動では国粋を守って新文化運動に対抗、国共合作には反対、国民革命にも反対。1931年の満州事変以降は愛国運動を支持。1936年6月14日、蘇州で逝去。

 章炳麟の議論では排満興漢の種族革命という主張がよく引き合いに出される。しかし私自身としては、次の三点で章炳麟と梁漱溟に共通点が見られることに興味を持っている。すなわち、①この世の無常を喝破する認識論として仏教の唯識を採用。②社会進化論の体裁を借りて段階説的な考え方を取り、遠い未来に仏教的な寂滅の世界を想定。③ただし、そこまで至ることのない現段階においては中国独自のもの(章炳麟は民族主義による種族革命、梁漱溟は儒学思想による共同体形成)を目指すという論法。章炳麟は民族革命論、梁漱溟は現代新儒家として中国における国粋の振興に大きな役割を果したと評価されることが多いが、むしろ仏教思想を経由した一種の寂滅主義への志向、それは言い換えると民族や伝統といったものは究極的には超克されていくことが理念的に前提となっているわけだが、こうした思想傾向が社会変動期に現われていたこと、そしてそのことが他の人々にはさほど注目されていなかったことの意味は何か、という興味。

◆「播種」
◆「独を明らかにする」
・「大独は必ず群する。群は必ず独から成る。」→知識人は隠遁するのではなく、大衆の中に入って指導。

◆「「客帝」のあやまりを正す」
◆「康有為を反駁して革命を論ずる書簡」
◆「獄中で新聞報記者に答える」

◆1906年7月15日、神田・錦輝館での留学生による歓迎会での演説。『民報』6号に掲載
・革命に必要なのは「感情」。感情がなければ一つの心をもって団結することはできない→「この感情を形成するには二つの事がもっとも重要である。第一は、宗教を用いて信心を発起し、国民の道徳を増進する。第二は、国粋を用いて種族性を激動し、愛国の熱腸を増進する。」(p.83)
・孔教は神秘的、不可解な説が混じっていないのは良いが、平民革命の契機がない。キリスト教は迷妄→仏教こそ用いるべき。ただし、夾雑物がまじって本来の教えから離れているから、華厳・法相(唯識)を以て改良すべき。華厳宗は衆生の済度を説くので道徳上有益。法相宗は万法唯心、一切の有形の色相、無形の法塵はすべて幻見幻想であって決して実在真有ではないと説く→カントやショーペンハウアーとも通ずる。
・仏教は一切衆生の平等を説くのだから民族思想はいけないのでは?という批判→清朝の漢人に対する態度はバラモン教が四姓の階層に分けて虐待したようなものだから、逐満復漢は正しい、と主張。
・国粋→中国の長所を自覚。朱子学・陽明学は重要ではないが、諸子百家や戴震を評価。古事古跡はすべて人の愛国の心を動かすことができる。

◆「倶分進化論」(『民報』7号、1906年9月)
・ヘーゲル、ダーウィン、スペンサー、ハックスリー、ショーペンハウアーなどを挙げた上で、西洋の進化論も必ずしも間違ってはいないが、不十分→「進化の進化たるゆえんは一方の直進によるのでなく、必ず双方の並進による、ということがかれらには分っていないのだ。もっぱら一方だけをあげるのは、ただ知識が進化するというだけならばよい。もし道徳についていえば、善も進化し悪も進化する。もし生計についていえば、楽も進化し苦も進化する。双方が並進するのは、影が形につきしたがい、罔両〔影の影〕が影を追うのと同様であり、それ以外にない。知識が高くなればなるほど、一方〔善・悪〕を取り一方〔悪・苦〕を捨てようとしても、それは不可能だ。昔の善悪は小さかったが、今の善悪は大きい。昔の苦楽は小さかったが、今の苦楽は大きい。とすると、善を求め楽を求めることを目的とする者は、はたして進化をもっとも幸福とするのか、それとももっと不幸とするのか。進化が実際にあることは否定できないが、進化のわれわれに対する効用には取るべきものがない。自らわが論に「倶分進化論」と題する。」(pp.102-103)
・厭世観念の二派:「その一派は、決然として身を引き、ただこの世界を超出することを幸福とし、そのほかに衆生を気にかける思いがない。これは仏教でいう鈍性〔遅鈍な素質〕の声聞〔仏の教えを聞き自己のさとりに専念する人〕であり、菩提〔さとりを求め衆生を救う〕の種子のない者である。他の一派は、世界が迷いのうちに沈んでいるとし、一つの清浄殊勝〔さとり〕の領域を求めて、衆生をそこへ導いていこうとする。ここにその所を得れば〔自分がさとれば〕、身をもってこの世界に入り衆生を導く活動をすることを恐れない。これは志は厭世にあるが、活動は必ずしももっぱら厭世だけではない。そうであれば、厭世があってはならないということはない。」(p.118)

◆「革命の道徳」

◆「建立宗教論」(『民報』9号、1906年11月→法相宗の「唯識無境」の教説により、世界と自身を自心の変現と見て根源的自我を絶対化し、かつその根源的自我を一己に局限されぬ、衆生と一体平等なものだとして、自身を犠牲にして衆生を救済する菩薩行に理論的根拠)
・「いま宗教を建立するのに、ただ自識を宗旨とする。識とは何か。真如こそ唯識の実性であり、いわゆる円成実である。だが、この円成実は大にして虚であり形象が無いから、そこへただちに入りたいと思うならば、依他に頼らざるをえない。円成をさとった時には、依他も自ら除去される。それ故、いま帰依敬礼する対象は円成実自性であり、依他起自性ではない。もし何かにしたがって円成実に入ることができるとすれば、それはただ依他を方便とする。一切の衆生はこの真如を同じくし、この阿頼耶識を同じくする。それ故、阿頼耶識は自体に局限されず、衆生に普遍であり、唯一不二である。もし自体に執着していうならば、唯識の数は〔サーンキャ=数論のいう〕神我〔純粋精神で個我。根本原質を観照し世界を開展〕と異らなくなる。衆生がこの阿頼耶識を同じくするが故に、大誓願を立て、ことごとく一切の衆生を度脱〔済度・解脱〕しようと欲し、未来永劫に無限につとめる。」(p.182)
・「仏教は世を厭わないのではないが、そのいう厭世はこの器世間を厭うのであり、有情世間を厭うのではない。有情世間が器世間の中に落ちこんでいるので、これを済度して三界の外に出そうと欲するのである。」…「衆生を度脱しようとする一念は、すなわち我執の一事である。ただ一人の自己に執着して我とするのでなく、衆生を我とするのである。」(pp.183-184)

◆「『民報』創刊一周年大会の演説」

◆「『社会通詮』論議」(『民報』12号、1907年3月)
・厳復が訳著『社会通詮』(ジェンクス)で民族主義に反対したのに対し、章は排満革命を擁護して反駁。「…西洋の事を中国の事にあてはめて、歴史の事跡が、西洋の公式に合うものは必ず真実で、それと異なるものは必ず虚妄だとし、将来の方略が、西洋の公式に合うものは必ず成功し、それと異なるものは必ず失敗するという。それは、公式というものが西洋人の体験・見聞から帰納したにすぎないこと、次第に東アジアのことを観察すれば公式にも変更する点が出てくることが、分っていないのである。」(p.203)
・「…新疆の部族長たちが満州に対して恨み骨髄に徹し、漢人に怨みをはらそうとして、自ら分離して突厥・ウィグルのあとを回復したいと強く望むとしても、やはり心をおさえてかれらに任せるべきだ。漢族の満州に対する関係を見れば、回族の漢族に対する関係も分る。やむをえなければ、敦煌以西の土地を全部回族に与えて、ロシア人の右腕を切断したい。回族と神聖同盟を結んでもよい。」(p.228)

◆「インド シヴァジー王記念会の事を記す」

◆「鉄錚に答える」(『民報』14号、1907年6月)
・中国の道徳・宗教が根源で一つに帰するのは「自により他によらず」。浄土宗は否定。
・近代の学術はだんだん「実事求是」に進み、清朝考証学は明儒よりはるかに緻密になった→緻密さという点で法相の学は近代に適している。

◆「五無論」(『民報』16号、1907年9月)
・当面は民族主義を掲げるが、さらに将来の方向→①無政府、②無聚落、③無人類、④無衆生〔無生物〕、⑤無世界→人類、さらには存在そのものの消滅へ。ただし、遠い将来の話。
・わが友北輝次郎の言として『国体論及び純正社会主義』(1906年)からの引用あり。

◆「復仇は是か非か」(『民報』16号、1907年9月)
・「…高尚なことは、人類と衆生〔生物〕とをあわせてすべて絶滅することであり、思想の輪郭はここにある。しかし、実行できる身近なことをあげれば、やはり退いて民族主義を取らざるをえない。民族主義はあまねく人類のために説法するのでなく、ただもっぱら漢人のために説法する。」…「かりに無限定の名詞を取って旗印とすれば、中国の事は後になり、先ず攻めようとする対象が他のものになる。今はただ一領域のために説法するので、一切を包括する名詞を取らず、ただ目前にある直接知覚するものを取る。」(pp.318-319)

◆「国家論」(『民報』17号、1907年10月)
・「一、国家の自性〔固有・不変の本体〕は仮有〔因縁により現象としてかりに存在〕であって、実有〔真実に存在〕ではない。」「二、国家の作用は勢いやむをえず設けたのであって、道理の当然として設けたのではない。」「三、国家の事業はもっとも卑賤なものであって、もっとも神聖なものではない。」(p.324)

◆「亜州和親会規約」
◆「インド人の国粋論」
◆「夢庵に答える」(夢庵=武田範之への反論)
◆「四惑論」
◆「祐民に答える」
◆「代議制は是か非か」
・中国はもともと地域的な相違が大きいので、連邦制にしたらバラバラになってしまう。
・総統の選挙では平凡無知の者が番狂わせで当選することはあり得ない、功績・才略のある者のみに被選挙資格を与えるべき。議員の当選は功績によらない、買収もあるだろうから不可。法律はすべて政府が制定するのではなく、法律と歴史に通暁し民間の利害を周知した者に制定させる。※一種のエリート政治か?

◆「中国の川喜多大尉袁樹勲」
・本論とは関係ないけど、ここで川喜多大尉は売国奴の例として引き合いに出されているのだが、川喜多長政のお父さんだ。当時は日本軍の機密を袁世凱政権に売り渡したとして処刑されたことになっているのだが、実際には軍事教官として勤務中に中国側にシンパシーを抱き、日本軍のやり方に疑問を抱いたため誅殺されたとも言われている。もちろん、同時代の章炳麟が知る由もないが。

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2012年2月14日 (火)

革命詩僧・蘇曼殊のこと

 革命、愛国主義といったもっともらしい「正義」を基準に人物を賞賛(もしくは断罪)する傾向はすでに過去のものと思うが、こうした安易なやり方で評価が固まってしまったケースもある。だが、そうした表層的な観点では見えてこない、その人をもっと深奥のレベルで衝き動かしていく核心としてのパッション、そうしたレベルまで分け入りながら捉えなおしてみると、人物像は再び活き活きとした表情を取り戻す。どんな主張をしたのか、そのロジカルな整合性を求めるのはアカデミックな手順としてはもちろん必要だが、それだけで完結してしまうと索漠として味気ない。むしろ、矛盾が見えてきてこそ、その人がこの世の現実と向き合った葛藤の迫力が現われてくる。思想史というのはそういうものだと思っている。

 清末民国初期、革命運動に飛び込んでいった人々の悲憤慷慨の調子に、例えば陳天華が絶望のあまり自殺してしまったように、極めて激しい情念がみなぎっていたことには目をみはる。人によって程度の差こそあれ、一様に見られるこうした激しさは一体何なのだろうか。社会変動期に解き放たれた「個」の強烈な自覚、他方で列強に侵食されつつある国際情勢や腐敗した国内政治の不甲斐なさに歯軋りするような焦燥感、個人と公、文学と政治、相反する傾向に分化しているように見えて、実は双方が一人の個人の内面において違和感なく結びついている何か──ロジックとして何を主張したかよりも、彼らの内面で“何か”を主張したいと促していったパッションの正体の方に私としては興味が引かれる。

 蘇曼殊という人の心情面では純粋でありつつ、行動面では屈折を見せた短い生涯は、そうした意味での不思議な魅力を感じる。

 蘇曼殊の作品は飯沼朗訳『断鴻零雁記──蘇曼殊・人と作品』(東洋文庫、平凡社、1972年)で読める。自伝的要素をにじませ、葛藤を抱えた主人公と理想化された女性との悲恋をテーマとしたロマンチックな作品が目立つ。胡適から鴛鴦蝴蝶調として批判されたり、他方で周作人からは個人の表出として高く買われるなど、評価は分かれていたらしい。彼の実の母は日本人らしく、彼自身は日中のハーフなのか、日本人なのかという出生の謎も彼の葛藤の大きな原因であったが、本書の解説ではそのあたりの考証もなされている。

 1884年、蘇曼殊は貿易商だった蘇傑生を父として横浜に生まれた。広東省中山県で育ったが、15歳のとき横浜の大同学校に入学、卒業後も東京に遊学して革命家たちと交わる。章炳麟、劉師培、陳独秀などから教えを受けながら文筆で認められ、英語もよくできたのでバイロンなどの翻訳・紹介でも注目された。

 1903年、革命運動に身を投ずべく中国に戻り、革命派と対立する保皇派の康有為暗殺の刺客になろうと決心したり色々あったが、恵州で出家して僧になった。他の修行僧の度牌(出家の証明書のようなもの)を盗んで出奔した、いわばニセ坊主であるが、これがそのまま通用してしまっているのも彼のパーソナリティーの面白さだろう。ところで、彼はなぜ仏門に入ったのだろうか? 日中の混血というアイデンティティーの混乱を超えていく思想的なものを求めたという解釈もあり得るし、章炳麟の「革命的菩薩」というイメージの影響も指摘されるが、実のところよく分からない。ここが蘇曼殊を考える上で一番のカギになると思う。この時代の中国は近代思想の摂取に熱心だった一方、章炳麟、梁啓超、梁漱溟など仏教思想の再評価の動きも同時に見られたことには興味を持っている。まだ勉強不足でどういう事情があったのか把握しきれていないが。

 蘇曼殊は、よく章炳麟と一緒にインドへ行こうと語らっていたらしい。彼は東京にいた頃からサンスクリットの学習に以前から励んでおり、中国に戻ってからも仏教をしっかり学ぼうとタイを目指し、東南アジア各地をめぐる旅に出た。

 中薗英助『櫻の橋──詩僧蘇曼殊と辛亥革命』(河出文庫、1984年)は蘇曼殊の詩的なパッションをランボーになぞらえているが、この南遊もランボーのアフリカ行きにたとえている(なお、章炳麟はヴェルレーヌ)。中薗の作品では彼自身がかつて「淪陥期」北京にあって文学面での親友を求めても支配/被支配の関係が壁にぶつかってしまった矛盾や困難の原体験がテーマとして一貫している。この作品でも蘇曼殊の文学的パッションを汲み取ろうとしているだけでなく、中薗自身の思いも行間からにじみ出てくるところが読ませる。

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2012年2月13日 (月)

余英時『中国近世の宗教倫理と商人精神』

余英時(森紀子訳)『中国近世の宗教倫理と商人精神』(平凡社、1991年)

 要するに、ウェーバーの言う「プロテスタンティズムの倫理」では、上帝と現世との緊張関係の中で、上帝の命令を内面化→現世において禁欲的な活動を促した(外在超越)。これに対して、理気二元論を軸とした新儒学では、現世たる「気」の中に「理」が一貫しており、「気」が濁らないよう「理」に従って一所懸命に物事に取り組む真面目な態度を促した(内在超越)。従来の儒学に欠如していた内面的契機に対して新禅宗における「世俗内的転回」が与えた心性論の影響、明清期に現われた「良い商人は立派な儒者に劣ることはない」という考え方などが相俟って近世中国の商人倫理が成立した、と論じられる。
 本書執筆の動機は、第一に、ウェーバーが中国には超越的宗教道徳の信仰がないと考えたことへの批判。第二に、中国とヨーロッパとでは歴史的経緯が異なるにもかかわらず、大陸の歴史学界ではマルクス主義的な発展段階論に基づいて「資本主義の萌芽」をめぐる論争が展開されてきたことへの懐疑。第三に、東アジアにおける近代的資本主義受容にあたって儒家倫理が受け皿となったという議論を意識。

(以下はメモ)
・「プロテスタンティズムの倫理」に匹敵するのは、新禅宗から新儒学への転回。新禅宗における「世俗内的転回」を新儒学が継承(韓愈→「人倫日用」の儒学)。
・新旧儒学の最大の相違は、心性論の有無にある。もともと儒学には「彼岸」はなかったが、新禅宗の新儒教に対する最大の影響は「此岸」にではなく「彼岸」にあった。人々に精神的な「安心立命」をもたらす心性論が儒学には欠けており、新禅宗の挑戦を受けてこの部分を発展させていったのが宋明理学。宋代の新儒教は「仏教を体となし、儒学を用となす」という考え方を破ろうとした→「釈氏は心に本づき聖人は天に本づく」との弁別→「天理」は超越的かつ実有の世界→儒家の「人倫という卑近なこと」のためにひとつの形而上の保証→新儒教の「彼岸」は「此岸」という一対の観念の対立で相補う。
・善は「理」より出で、悪は「気」より来る。しかし、「理は弱く」しかも「気は強い」→修養の工夫が必要。儒家の「此岸」に対する基本的態度は、もともと消極的な「適応」ではなく、積極的な「改変」であった。内在超越の文化形態のもとで、新儒教は彼らと「此岸」との間の緊張を最大限にまで高めた。
・新儒教倫理における「彼岸」と「此岸」の展開→仏教を参考にしながら「理の世界」と「事の世界」を確立→こうした改造は仏教における「空幻」を儒家の「実有」と化した。新儒教の「此岸」とは、理と気が離れながらも「理は弱く気は強い」という「存在」であって、仏教の「此岸」が「心」の負の側面(無明)から生ずるのとは異なる。新儒教では「彼岸」は「此岸」と向き合っており、隔絶はしていない。仏教で「彼岸」が「此岸」と背離しているのとは対照的。
・ウェーバーが強調したプロテスタンティズムの倫理では、世俗内的禁欲を上帝の絶対的命令とし、上帝の選民は此岸における成就によって彼岸の永世を保証するのでなければならない。対して新儒教は「天理」(あるいは「道」)の存在を信じている。しかし、「理」は「事」の上だけでなく「事」の中にもあるので、この世で各人が自己の持ち場において「事をなし」、理の分を完成しなければならない→「本分を尽す」
・新儒家とカルヴィン教徒は、自己に対する期待の高さでは完全に一致。ただし、前者では社会に対する責任感を発展させて宗教精神にまでしているのに対して、後者は宗教精神を転嫁して社会に対する責任感となしている。

・明代中期以降の階層的流動化→新四民論の出現
・「儒を捨てて賈に就く」
・明清の商人倫理が勤倹で家を起こしたのはどのような動機によるのか?→「良い商人は立派な儒者に劣ることはない」という心理。商人自身と士大夫がともに商業を見直し→商業の意義。王陽明は「四民は業を異にするも道を同じくす」と言ったが、いまや商人は確実に「賈道」を有する。

・ウェーバーの中国商人に対する誤解→中国人には内在的価値の内核が欠如、超越的宗教道徳の信仰がないと考えた。
・ウェーバーは、プロテスタンティズムの倫理の一大成果は、親族の束縛を破り、家と商業とを完全に分離したことにあったが、しかるに中国では親族の「個人」関係を重んじ、事業効率の観点がない→経済発展制約と考えた。しかし、明清の大商人と「伙計」の関係は事業効用に向かっての一歩だった。
・明清士大夫の作品には商人のイデオロギーがすでに浮き上がっており、商人自身の言葉がそこに引用されている。
・専制の官僚制度が網の目のように覆っている中では、商人であっても手も足も出なかった。

・中国とヨーロッパとでは歴史的経緯が全く異なるので、「ヨーロッパ近代式の資本主義がどうして中国史にはいつまでも出現できなかったのか?」「儒家倫理は今日、資本主義の東アジアにおける発展にとって助けになるのか、障害になるのか?」といった問題設定は無意味。こうした問いかけは、ヨーロッパ近代式の資本主義はどの社会も必ず通過する歴史的発展段階だという、いまだ検証されたことのない仮説に基づいているだけ。大陸の歴史学界ではマルクス主義に基づき「資本主義萌芽の問題」をめぐる議論が展開されてきたが、説得力ある成果はついに生み出されなかった。近代欧米に独特な形態をとった産業資本主義の分析のため、つまりヨーロッパ文化に内在的に成立していた要素としてウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理」に注目した。
・資本主義が今日東アジアで発展しているのは、明らかにヨーロッパから直接移植したものである。しかし、強烈な経済的動機さえあれば企業経営を行なうのであって、宗教的動機は特に重要ではない。従って、ウェーバーの理論を機械的にあてはめて儒家倫理と近年の東アジアにおける資本主義の勃興とを安易に結びつけるわけには行かない。

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2012年2月12日 (日)

丸山松幸『五四運動──中国革命の黎明』、野村浩一『近代中国の思想世界──『新青年』の群像』

丸山松幸『五四運動──中国革命の黎明』(紀伊国屋書店、1981年)

 西欧的啓蒙思想による中国社会変革への渇仰が、日本の21か条要求やヴェルサイユ会議での屈辱を経て民衆運動、社会主義への関心へと変化していく過程がたどられる。本書の初版が執筆された1969年の時点では同時代として熱かった学生運動や文化大革命と問題意識が重ねあわされている。伝統重視派やリベラル派との論争の経緯が知りたいというのが私自身の関心だが、当然ながら本書では悪役となっている。
・尊孔問題→人間解放を実現するか否かの集中的な対立点。
・二十一ヶ条反対の民衆運動→袁世凱政権の専制権力に許容された合法の枠内にとどめられることによって、そのエネルギーを権力側に吸収される結果となったが、政権側の意図にかかわらず、広範な国民の民族的自覚に火をつけた。
・帝政復活論:士大夫階層の没落→科挙の廃止によって唯一の存在理由たる儒学的教養が無意味、新しい支配体制にも順応できず、資本主義経済の浸透により中小地主としての生活基盤も崩されつつある→袁世凱の皇帝への道を清める点だけに許容されたにすぎない。
・陳独秀の「自覚」は、理想とする「西欧近代」の立場から、いわば外から、「暗黒の中国」を拒絶するものであったが、李大釗のそれは、自己の内部から「中国の暗黒」との戦いを要求するものであった。(p.99)
・『新青年』の論調:個人の独立、個性の解放、自我の確立。独立した個人は、みずからの理性の判断に従って中国を再造する。国家は、個人の自由と幸福を守るものにしなければならぬ。道徳は、個性を解放し、相互の人格を尊重するものでなければならぬ。思想は、迷信から解放され、科学的真理に従うものでなければならぬ。ひとくちに言えば、西欧近代をモデルとした新文明の創造が、個人の独立、個性の解放にかけられたのである。(104ページ)→儒教批判。家族制度の問題。婦人解放。
・1917年1月、北京大学総長に就任した蔡元培は『新青年』を一読して陳独秀を文科学長に招聘、『新青年』で改革を主張していた論客たちが北京大学に集まり、新文化運動の中心となる。
・胡適が白話運動を提唱、陳独秀の「文学革命論」→具体化されたのが魯迅「狂人日記」。
・第一次世界大戦、ロシア革命→李大釗は「民主」を実現する力はまさにプロレタリアートを中心とする民衆運動にあると考えた。しかし、彼の民衆至上主義にはアナーキズムの色彩が濃厚。
・1919年5月4日、五四運動のきっかけとなった曹汝霖宅への襲撃事件。
・五四運動を通じて、学生たちはまず民衆の一人であらねばならないと考えた→「工読互助運動」。全国各地で青年たちが結社、小雑誌を創刊、それらは社会主義思想が多くなった。ヴェルサイユ会議の欺瞞性は西欧的民主主義への幻滅→反帝国主義、民族解放の理論としての関心。ただし、様々な思潮が入り混じっていた。
・胡適と李大釗の間で「問題と主義」論争(1919年7、8月):胡適は主義の主張ではなく個々の具体的問題の解決から始めなければならないと主張。李大釗は民衆運動との結合を通した根本的変革を主張。社会問題の解決法の研究か、解決のための運動かという対立点。

野村浩一『近代中国の思想世界──『新青年』の群像』(岩波書店、1990年)

・陳独秀が、近代西洋文明の中に中国の進むべき範型を見出したこと、同時にまた、それに基づく恐るべく明快な二分法をもって、伝統的旧文明を批判、攻撃したこと→『新青年』の出発の固有の意味。単純な西洋賛美者ではあり得なかった(p.32)
・隠遁→「高潔の士の俗世離脱の行為」という「脱政治」的態度への批判。士大夫‐官人的な政治のあり方への批判。烈士の行動主義ではなく、持続的な愛国主義への要求。
・康有為が提唱した「孔子教」は古い伝統的規範の遵守というわけではなかった。むしろ彼独自の解釈を施した上で、彼の目に映った「風俗頽廃」の現象を防ぎ、国民の精神的紐帯を築き上げようという意図があったが、そうした換骨奪胎をするには、儒教にはあまりにも深い歴史的刻印が刻まれていた。その歴史的弱点を陳独秀は批判。
・リベラリズム→信教の自由という立場からの批判は、蔡元培。
・呉虞は専制主義批判の地点から儒教と対決、家族制度を批判。
・しかし、家族・宗族共同体の問題は、この国における一つの文明世界の解体と再生、再編の過程で重すぎる問題。
・李大釗「青春」→宇宙が「無始無終の自然的存在」という前提から「道徳は、宇宙現象の一つであり、したがってその発生と進化もまた、必ず自然進化の社会に対応する」。
・胡適→文明の方法的摂取。
・『新青年』を取り巻く二つの側面:中国民衆の日常世界、1910年代という国際環境→第一次世界大戦、ロシア革命の衝撃。
・李大釗:東西両洋の文明それぞれの長短。物質生活に過ぎた西洋文明が、東洋の精神生活を吸収する必要、他方で中国自身も「静」を主とする文明が瀕死の状態→「動の精神」「進歩の精神」を取り入れ、まさしく「復活」によって「世界文明に第二次の貢献」をなすべき。「現在の時点に立っていえば、東洋文明はすでに静止の中に衰頽し、西洋文明もまた物質の下に疲命している。世界の危機を救うためには、第三の新文明の崛起がなければ到底この危崖を渡ることはできない。」「ロシアの文明は、まことに東西を媒介するの任に当るに足り、また東西文明の真正の調和は、二種の文明の本身の覚醒のない限り、ついに功を奏することは不可能である。」(p.187)→東西文明論を背景にしてロシアへの期待。「歴史とは、普遍的な心理の表現の記録である。…」という発想(p.191)
・李大釗→革命、再生への熱情、沸き立つようなイメージ、「煉獄」を通じての「新しい世界」への期待。
・李大釗:「都市には罪悪がきわめて多く、郷村(むら)には幸福が甚だ多い。都市の生活には暗黒面が多く、郷村の生活には光明面が多い。都市での生活はほとんど幽霊の生活であり、郷村での生活はすべて人間の生活である。都市の空気は汚濁にみち、農村の空気は清潔である。」「青年たちよ!速やかに農村に行き給え!…」(p.197~198)、ナロードニキを参照。
・デューイ「アメリカにおける民治の発展」という講演が行われたのは五四運動が最高潮に達した6月8日。
・五四運動を通して『新青年』同人が直面した課題→大衆運動、教育‐啓蒙、強力ないし権力への抵抗→胡適と李大釗の間で「問題と主義」論争。胡適にとって、文明は漠然と創り上げられるものではなかった。それは、何よりも「批判的態度」を基礎に、「一歩一歩(一点一滴)」生み出されていくべきものであった。「進化は一夜のうちにぼんやりと進化する」ものではなかった。解放も改造も漠然としたものではなく、具体的なものからの解放であり、改造である(p.238)。胡適の場合、問題の設定─学理の輸入─国故の整理(旧来の学術の批判的検討)─文明の再造、というプロセス→アクチュアルな問題から一歩引いた立場。
・陳独秀はデューイ「アメリカにおける民治主義の基礎」に強く触発されながら、中国での民治実行の出発点を一村、一鎮における「自治」、また一地方、一業種の「同業聯合」に求めていた。極度の専制政府のもと、この大地に拡がる「放任」された民衆の間の無数の伝統的自治団体の存在によって裏づけ→アメリカにおける等価物の安易な模索かもしれないが、中国の伝統に対する、彼の初めての接近(p.252)。
・『新青年』7巻2号に陳独秀は「自殺論」→北京大学の一学生が厭世自殺をしたことを取り上げ、最近代思潮という時代思想把握。
・陳独秀:「中国は工業の急速な発達を求めてはいるが、しかし同時に、必ずや重要な工業は社会的であって私人的なものではないようにしなければならない。こうしてこそ、中国の改革は、西洋工業主義の長所を採り入れるとともに、彼らにおけるが如き資本主義によって造成された短所を免れることができるのである」(p.262)。
・陳独秀は1910年代「新文化運動」のを率いてきた一方、中国の現実に対する混沌たる模索の中で中国の伝統的自治団体に注目、さらに転身して1921年7月には共産党の初代書記。
・『新青年』で行われた社会調査。
・周作人が『新青年』誌上で武者小路実篤らの「新しき村」を紹介。家族、宗族の相互依存・相互依頼の泥沼から抜け出したい、「労働」「互助」を基軸とする「新生活」への期待→学生たちが、働きかつ学ぶ、という新しい生活形態を目指す→工讀互助団。
・陳独秀がマルクス・レーニン主義に転身した際、アナキズムへの批判→中国式の無政府主義なるものは老荘主義の復活と認定、虚無的個人主義、自然放任主義として批判(p.309~312)。
・李大釗は「解放」の大波としてボルシェヴィズムを受容したのに対して、陳独秀はマルクス・レーニン主義の理論の次元をめぐって旋回、そして「強権」という地点へ収斂。「開明専制」「労働専制」が必要という認識へ→陳独秀における1910年代の思想世界の構造的終焉。
・共産党機関誌として再出発した『新青年』→瞿秋白をはじめとした若手の共産党参加、これまでの議論とは異なって理論的に極めて洗練されている。しかし、それは新鮮ではあっても、思想的な葛藤を経た矛盾に満ちたエネルギーはない。

※例えば西欧文明全面摂取を批判、儒教の再評価を主張した梁漱溟は胡適や陳独秀、李大釗らを批判して議論が繰り広げられていたが(上掲2冊では取り上げられていない)、彼らの議論には部分的に重なる箇所もある(例えば、地方自治への関心や、そのために活用できる中国的なものとして農村の伝統的自治共同体に着目した発想は、梁漱溟の郷村建設理論と共通する)。私自身の関心としては、新文化運動・五四運動期における個々の議論の共通点に着目した上で、相違点をも照らし出していく、そのようにしてこの時期の思想的論争の多面性をトータルで把握できたら面白いと思っている。

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ヘンリー・キッシンジャー、ファリード・ザカリア、ニーアル・ファーガソン、デビッド・リー(李稲葵)『中国は21世紀の覇者となるか?──世界最高の4頭脳による大激論』

ヘンリー・キッシンジャー、ファリード・ザカリア、ニーアル・ファーガソン、デビッド・リー(李稲葵)『中国は21世紀の覇者となるか?──世界最高の4頭脳による大激論』(酒井泰介訳、早川書房、2011年)

 個々の論点はともかく、中国の台頭は同時に西洋の没落と表裏一体​の問題だ、という議論の枠組みが基本となっており、このような認​識が向こうで一般的に定着していること自体が興味深い。先日読ん​だばかりのZbigniew Brzezinski, Strategic Vision: America and the Crisis of Global Power(Basic Books, 2012)もこのような議論枠組みがすでに前提となっていること​への批判から説き起こされていた(ブレジンスキーは、中国が超大​国化してもアメリカに代わって一極集中になるわけではない、グロ​ーバルな秩序を安定化させる役割は依然としてアメリカしか果たせ​ないと主張)。

 アジア(かつては日本、現在は中国)の台頭が西洋の衰退を招くと​いう議論は、日露戦争後の「黄禍論」、第一次世界大戦後の「西洋の没落」(シュペングラー)​などが想起されるように既視感も覚える。これを、繰り返される陳​腐な印象論に過ぎないと見るのか、それとも100年、200年と​いう単位での大きな世界史的構造変動がいまだに進行中と捉えるべ​きなのか。討論者たちはここまで注意を払っていないが、私として​は気になるところ。

 李稲葵が、中国はむかし唐の時代に得ていたような尊敬や自信を取​り戻したいと思ってはいるが、アメリカの覇権に挑戦する気はない​と念押しする一方、ファーガソンがやたらと中国台頭を高評価して​いるのが印象的。ザカリアは、かつて日本が世界を席巻すると言わ​れたが現状はどうだ? 中国だって経済成長が直線的に持続するわ​けではない、と反論。

 中国の台頭を前提とした上で、大国化した中国と西欧はいかにうま​く付き合っていくかを考えるべき、というキッシンジャーの意見が​穏当だろう。リベラル派の国際政治学者ジョン・アイケンベリーは​、既存の世界秩序の転覆による勢力拡大をかつて目論んだソ連やナ​チス・ドイツとは異なり、現代における中国の台頭は既存の秩序の​枠内に収まっており、脅威視する必要はないと指摘していた(確か​『フォーリン・アフェアーズ』誌だったと思う)。タカ派とされる​キッシンジャーの議論も同様の方向に収斂していると言える。

 そう言えば、キッシンジャーの最新刊On China(Penguin Press)が昨年刊行されたが、どっかの出版社が邦訳刊行を準​備中なんだろうな。

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