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2012年2月5日 - 2012年2月11日

2012年2月11日 (土)

野嶋剛『謎の名画・清明上河図──北京故宮の至宝、その真実』

 東京国立博物館で現在開催中の「北京故宮博物院200選」も会​期がそろそろ終わりに近づいているが(2月19日まで)、行列待​ち4~5時間と聞き、おそれをなして多分行かずじまいになりそう​だ。展示の目玉は「清明上河図」。ただし、HPで確認したところ​本物の展示は1月24日までで、以降はレプリカらしい。

 野嶋剛『謎の名画・清明上河図──北京故宮の至宝、その真実』​(勉誠出版、2012年)を読んだ。「清明上河図」は北宋の張擇​瑞が描いたとされる。模本も世界中に散らばっており、張擇瑞のオ​リジナルに触発されて後代に描かれた作品も含め、この絵画の様式​的ジャンルを「清明上河図」と総称していると捉えても必ずしも間​違いとは言えない。名画の誉れが高いのはもちろんだが、題名の由​来も諸説あるらしいし、色々と分からないことも多いようだ。たか​が一幅の絵画とはいえ、そこにまつわる謎の数々はスリリングで興​味が尽きない。宮廷から盗まれては戻ってきて…と何度も繰り返された流転の来歴、絵画中に​写実された宋代の生活風景──本書はこの作品が背景に持つストー​リーを存分に語り出してくれる。著者による『ふたつの故宮博物院​』(新潮選書、2011年)と合わせて読むといっそう興味も深ま​るだろう。

 「清明上河図」は張擇瑞が北宋の徽宗(画家として有名だった皇​帝、靖康の変で金に捕まった)に献上されて宮廷の収蔵品となった​が、金によって北方に持ち去られる。王朝が代わって元代にいった​ん盗み出されたが、持ち主を転々とした末、明代に宮廷に戻ってき​た。しかし再び盗まれ、清代に三たび戻る。辛亥革命後、紫禁城に​蟄居していた溥儀の命令で弟の溥傑が持ち出し、天津の張園にしば​らく留まった後、満洲国の成立と共に新京(長春)に移転。戦後の​混乱でしばらく行方知れずとなったが、1950年、今度は瀋陽で​楊仁愷の目利きによって見つけ出される。遼寧省博物館に所蔵され​たが、1953年に北京の故宮博物院に貸し出され、そのまま故宮​博物院への所属が決められた。故宮博物院の収蔵品の大半は蒋介石​によって台湾に持ち出され、ほとんどスカスカに近い状態となって​おり、しかも中国美術の粋たる書画の一級品がとりわけ少なかった​からという事情があるらしい。

 「清明上河図」で描かれているのは当時の開封の街並みである。​文人好みの花鳥風月ではないため、中国の文化的伝統の中で言うと​決してハイクラスに位置づけられるわけではない。それでもこの作​品が長らく注目を浴びてきたのは、そこにヴィヴィッドに描き出さ​れた庶民の生活光景が見る者の眼を引き付けてきたからであろう。​本書の後半、作品中のモチーフを手がかかりに当時の料理や日常生​活も再現されているところが面白い。開封にあるテーマパークや、​CGで再現された「動く清明上河図」などに現代の中国人が興味津​々たる表情を示しているのもむべなるかな。

 本書を読んでいるうちに実物を見たくなってきた。北京に行く機​会があったら是非参観しに寄ってみよう。

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2012年2月10日 (金)

ズビグニュー・ブレジンスキー『ストラテジック・ヴィジョン:アメリカとグローバル・パワーの危機』

Zbigniew Brzezinski, Strategic Vision: America and the Crisis of Global Power, Basic Books, 2012

 新興国が勃興する一方、アメリカも含めた西洋世界が凋落しつつある徴候が見える現在、その先に見えるのは新たな超大国としての中国の台頭ではなくカオスである。パワーが分散化した今後の世界において紛争を防止できるのはやはりアメリカ以外にはない、という前提から、2025年以降まで中長期的な視野に立って戦略的な構想を示そうというのが本書の目的となる。

 第一に、アメリカ主導で「西洋」を立て直し、「新しい西洋」の中にはロシアとトルコも取り込んで安定化を図る。ところで、「新しい西洋」はある程度まで共通した価値観でまとまっている一方、「東洋」は中国、インド、日本など様々な大国がひしめいており安定は難しい。そこで第二に、常に紛争の可能性を秘めている「東洋」に対してアメリカは調停者として間接的な関与をしていく(一方に肩入れして軍事介入など直接的関与をすると連鎖的に紛争が拡大してしまうので慎む)。日米同盟と米中の友好関係を維持しながらアメリカの仲介で日中の和解を進め、日米中のトライアングル関係を構築すれば東アジアは安定する。つまり、アメリカは「西洋」に対しては統合のプロモーター、「東洋」に対しては諸大国間のバランサーの役割を果たすことでユーラシア大陸の地政学的安定に寄与できる、というのが全体的な趣旨。

 パワー・バランスの調整で今後のアメリカの外交戦略を描きなおそうという意図があるにしても、個々の紛争可能性をパズルのピースに見立て、好き勝手に空想をふくらませながら遊んでいるだけという印象も残るな。

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2012年2月 9日 (木)

佐藤百合『経済大国インドネシア』

佐藤百合『経済大国インドネシア』(中公新書、2011年)

 インドネシアが経済的に台頭しつつあることは報道等でもちろん知ってはいたが、本書の体系的立てた説明を読んでみると、日本が資源目当てに「南進」をもくろんだり、スカルノやスハルトが権威主義的支配を行っていた時代は、本当に過去になったのだな…と改めて実感する。今後は投資ばかりでなく内需の取り込みが日本企業の課題となってくるわけだが、インドネシア自身が安定的・持続的に発展をしていく上でカギとなるのが、人口ボーナス(詳細は大泉啓一郎『老いてゆくアジア』[中公新書]を参照のこと)。人口ボーナスによる効果を十分に活かすには、どのような政策対応をするかが重要となる。細かな話になるが、インドネシアを皮切りにイスラム世界を市場として考える場合、ハラル(イスラム法で許される食物や日用消費財)認証制度が国際化していく可能性は興味深いだろう。

(以下、メモ書き)
・インドネシアは人口規模が大きいだけでなく、今後20年間は人口ボーナス(出生率が低下し始め、生産年齢人口が総人口に占める比率が高まる→経済成長を促進)が期待できる。ただし、そうした条件が備わっていても効果的な政策がなければ活用できない→①出生率低下を持続させる、②生産年齢人口に就業機会を与える、といった政策を打ち出す必要。
・スハルト時代の権威主義体制と比較しながら、現在の民主主義体制における経済運営のあり方を考察。スハルト辞任で、後継のハビビは政権の正当性を確保するためスハルト的なものを全否定→その後の政治混乱で「スハルト的ならざるもの」もまた否定された→こうした振り子が揺れ動く中で、現在は自由と人権の保障、三権分立、直接選挙、地方自治など安定的な民主主義体制の要素が徐々に備わってきた。
・インドネシア国内の大資本はパーム油や石炭等の資源輸出の担い手となったが、中国から流入する廉価の工業製品との競合を避けて重工業から足を抜きつつある→資源輸出と工業製品輸入という中国との非対称的貿易の拡大、「オランダ病」現象。他方、外国資本は国内資本が投資を回避しがちな重工業で重要な役割→外資は工業化と域内水平貿易の担い手。
・農工間雇用転換を伴わない経済成長→農業にも成長エンジン。スハルト時代は、国家の意志としてフルセット主義(自国内で様々な産業分野の育成を図る)から工業化政策を推進→工業部門が成長のエンジンとなっていた(アーサー・ルイスの「二重経済論」があてはまる)。対して、現在の民主主義体制では、成長のエンジンが複数の産業に分散→こうした既存の傾向を政府は追認したと把握→フルセット主義Ver.2.0(ユドヨノ政権のマスタープラン)
・労働力、投資(国内の貯蓄率が高い)などの面では問題ないにしても、生産性に難あり。
・スハルト時代から重きをなしてきた海外留学経験者の経済テクノクラート(バークレー・マフィア)。
・国防・治安だけでなく政治・社会統治機能も国軍が担っていたかつての「国軍の二重機能」(対オランダ独立闘争で農村社会と一体になったゲリラ戦を戦い抜く中で国軍が生れたという経緯がある。また、出自や生育環境に左右されないほぼ唯一の能力主義組織が国軍だったという事情もある)→現在は政治エリートになるルートが多様化、政党政治家になるほか、企業家から政治家へ転身するというルートも目立つ。
・インドネシアにとって貿易、投資、援助のどの点でも日本は最重要国。しかし、すでにインドネシアは高位中所得国入りを目前にひかえており、日本はインドネシアを単に資源の供給源とみなすのではなく、今後は内需と技術蓄積への貢献を考える必要がある。日本ブランドを活かした消費財・サービスの提供はチャンスになる。イスラム世界を市場と考えるなら、ハラル認証制度は活用できる。

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2012年2月 8日 (水)

山下重一『スペンサーと日本近代』

山下重一『スペンサーと日本近代』(御茶の水書房、1983年)

・ちょっと古い本だが、スペンサー社会進化論の思想史的位置づけについて何か手頃な本はないかと探していて、本書を見つけたので通読。
・スペンサーの社会進化論は明治日本の思想にも大きな影響を与えたが、個人の自由を主張した点で自由民権運動に、社会を有機体的に捉える側面は明治政府の国権主義に、それぞれの形で受容された二面性をどのように考えるのかが従来から議論されてきた。スペンサーには進歩的・保守的の「二つの魂」(清水幾太郎)があったと捉えるのか、スペンサーの前期と後期の思想的相違に原因を求めるのか。本書では統一的な把握が試みられる。
・ハーバート・スペンサー(1820~1903)の最初の著作『社会静学』(1850年):人間の「平等自由の原則」を前提。「すべての人間は、他のすべての人々の平等の権利を侵害しない限り、自分の欲するすべてのことをする自由を持つ」→こうした考え方を社会進化という歴史的必然性で論証することを意図した。進化の極致としての完成社会は、個々人の自由な個性の発揮と自発的な協力関係による秩序の維持とが完全に調和する社会→自由放任の前提。こうしたアイデアを普遍的進化の法則として体系化に向けて努力していく中でその後の執筆活動。なお、ダーウィン『種の起源』が刊行されたのは1859年で、この時点ではスペンサーの綜合哲学はすでに出来上がっており、ダーウィン進化論からの影響で成立したわけではない。むしろ、ラマルクの影響。
・日本では1877(明治10)年前後から翻訳され始めた。
・馬場辰猪の翻訳:軍事型社会(強制的協同)→産業型社会(自発的協同)、この転換を示しているところに自由民権論者は関心を寄せた。また、徳富蘇峰『将来之日本』:「腕力社会」と「武備社会」についてのペシミズム→日本の将来としての「平民社会」化のオプティミズム、こうしたあたりにはスペンサーの社会進化論を「宇内の大勢」として全面的に受容することによる調和。
・東京大学ではフェノロサ、外山正一、彼らの弟子の有賀長雄がスペンサーの社会進化論によって講義。有賀の社会進化論理解には英米志向からドイツ国家学を学んだことによる国家有機体説への志向という転換が見られる。なお、加藤弘之はかつて天賦人権説に基づいて発表した『真政大意』『国体新論』をスペンサーの社会進化論を知ったことにより自己批判して絶版にしたと言われているが、残されている当時の彼の読書記録を見ると必ずしもスペンサーの影響とは言いがたい。
・直接面会した森有礼や金子堅太郎に対して、スペンサーは今後の日本の制度について保守的なアドバイスをしたことをどのように考えるか。スペンサーは晩年になって保守化したと言われるが、それは政府による干渉政策への批判が保守的とみなされたのであって、自由放任主義は一貫して堅持している。つまり、彼が変わったのではなく、彼を取り巻く社会の方が変わったことによる。むしろ、社会制度は社会進化の段階にふさわしい形が望ましいという、社会進化論に内在する漸進主義によるものと考えられる。
(※かつては社会進化論に基づいて進歩的な言論を展開した一方、この思想に内在する漸進主義の立場から急激な制度変革に慎重な態度を取ったため「保守化した」とみなされた点では、『天演論』で社会進化論を紹介した厳復も同様と言える。)

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余英時《中國近代思想史上的胡適》

余英時《中國近代思想史上的胡適》(台北:聯経出版、1984年)

 1917年、陳独秀の依頼で『新青年』に発表した「文学改良芻義」が評判となり、蔡元培の招聘で同年9月から北京大学で教鞭を執り始め、五四運動直前の中国言論界に大きな影響を与えて「新文化運動」の重要な立役者の一人となった胡適。アメリカ留学から帰国したばかりの彼がなぜこれほどまでに名声を轟かせたのか、中国近代思想史のコンテクストの中で考察される。

 著者の余英時はハーヴァード大学教授も務めた思想史家で、現代新儒家の一人に数えられることもある。少々古い本ではあるが、胡適の思想史的な位置づけについて参考になる格好な邦語文献が見当たらなかったので、仕方なく本書を取り寄せて読んでみた次第。

 五四運動の直前期における思想的空白状態、当時の気分にぴったりする表現がなかなか見当たらない中、彼がデューイのプラグマティズムをもとに展開した議論や白話運動の提唱は従来の「中体西用」論という古い議論枠組みを突破、トーマス・クーンの表現を借りるならばパラダイム転換を成し遂げた。しかし、そうした役割は胡適だからこそ果たせたというわけではなく、当時の中国思想界に広がっていた趨勢に的確な表現を与えたのがたまたま彼だったと本書では捉えられる。

 胡適が提示した科学的方法は「大胆的仮設、小心的求証」(大胆に仮設を立て、注意深く実証を進める)という言葉に要約される。しかし、懐疑論にせよ、実証的方法論にせよ、彼自身がデューイを知る前から、清代考証学などからヒントはすでに受けていた。むしろ、こうした発想がもともと彼にあったからこそデューイに関心を向けた、つまり中国において考証学以来、内発的に展開してきた実証的方法論にデューイのプラグマティズムが接合されたものと解される。実証的方法論を用いた点では厳復、章炳麟、梁啓超、王国維といった先学たちからも胡適はヒントを受けており、彼らこそ先にパラダイム転換を果たしても良さそうなものだが、胡適が『中国哲学史大綱』で示した包括的・体系的な分析の鮮やかさの方に史学革命とも言える大きなインパクトがあった。

 中国の伝統思想の代表たる儒学には、傍観者的に「世界を解釈する」だけでなく、積極的に「世界を変える」という「経世」の目的意識が強い。例えば、康有為の『孔子改制考』には経世の意欲が漲っており、厳復が『天演論』を訳したときには「世界を変える」ための科学的根拠を求めるという意図があった。胡適が紹介したデューイのプラグマティズムもこうした「世界を変える」思想として当時の中国で受け入れられやすかったという。同様にマルクス主義も「世界を解釈する」のではなく「世界を変える」ことを求めた点で受容されたと指摘される。

 しかし、胡適が提示した議論は当時の中国思想界に新時代を画すほど大きなインパクトを与えたにもかかわらず、結局マルクス主義の興隆を前にして凋落してしまったのはなぜなのか? 胡適の啓蒙思想は旧世界の思想秩序を崩すのに大きな力があった。では、その後には何が来るのか?と疑問が寄せられても、具体的な対案を胡適は提示することができなかった。マルクス主義の革命論が流行を見せ始めた当時、階級闘争理論に反対していた梁漱溟は「敬以請教胡適之先生」で、現在の中国社会を考察してあなたはどのように考えるのかと問いただしたが、胡適は批評的態度から踏み越えることはなかった。農村に基盤を置く毛沢東は「半封建、半植民地的」と主張、陳独秀は中国はすでに資本主義段階に入ったとして都市に活動の場を求め、中国社会に階級はないと考えた梁漱溟は郷村建設に取り組むなど、現実の中国社会に関するそれぞれの分析をもとに実践活動に入ったのと対照的な胡適の姿が浮かび上がる。

 デューイもまた具体論を語らなかったので同様に左派へ走った弟子たちがいたこと、著者自身が1970年代にクワインと話をしたとき当時の学生たちに人気のあったマルクーゼを軽視する口調が見られたことなども挙げ、分析哲学が価値観の問題を排除する傾向に他の学派から批判があった点を指摘。この問題は中国伝統思想における理性主義的な程・朱の流派(朱子学)と直観主義的な陸・王の流派(陽明学)との対立とも比較され、考証学から出発した胡適には陸・王を批判する傾向があったという。従って、胡適が科学的慎重さを期するあまり、それが傍観者的態度と受け止められてしまったところに彼の思想が当時の中国で広がらなかった内在的限界があったと指摘される。(本書では指摘されていないが、胡適を批判した梁漱溟がベルグソンに傾倒していたことも比較の論点となり得るだろうか。)

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2012年2月 6日 (月)

横山宏章『陳独秀の時代──「個性の解放」をめざして』、周程『福澤諭吉と陳独秀──東アジア近代科学啓蒙思想の黎明』

横山宏章『陳独秀の時代──「個性の解放」をめざして』(慶應義塾大学出版会、2009年)
・五四運動期の新文化運動で指導的な役割を果たし、マルクス主義を受容した後は中国共産党初代総書記となったが、その後、コミンテルンの方針に異議を唱え、トロツキストとして除名された陳独秀。こうした経歴を持つ彼については中国共産党・国民党の双方から評価が厳しかったが、イデオロギー的なタブーが相対的に低くなった近年、見直しも進んでいるらしい。本書は本格的な伝記的研究で、以前に刊行された『陳独秀』(朝日選書、1983年)の増補がほぼ半分ほどの分量を占めている。
・陳独秀は1879年、安徽省懐寧県の生まれ。科挙を受験はしたが合格することもないまま、1902年以降、何度か日本に留学。他の留学生や革命家と交流したが(ただし、中国同盟会には加入せず、孫文と会ったのも日本ではなくだいぶ後のことらしい)、日本人とは親しく付き合っていなかった点が指摘されている。
・1915年、上海で『青年雑誌』(第2号から『新青年』と改称)を刊行、「民主」と「科学」をキーワードに伝統思想を排撃する論陣を張って注目される。彼の議論を目に留めた蔡元培が北京大学に招聘、ナンバーツーの文科学長に就任。五四運動期の言論で指導的な役割を果たす。
・社会的変革の出発点は個人の自己改革にある。伝統の停滞性を否定していく武器として「民主」と「科学」、こうした西欧思想は変革のための手段であって、目的ではない。為政者を糾弾しておしまい、というのではなく、民衆自身の意識改革を求めた→政治の相対化。革命そのものよりも、革命の必要性を民衆に認識させることが必要と考えていた点で本質的に啓蒙者であったと指摘。ポイントを強調しながら論難するため西欧思想を意図的に単純化、理想化→対比的に攻撃対象としての中国の伝統思想も単純化された。
・ロシア革命の衝撃でマルクス主義を受容。「強い力による公理の擁護」→大衆を組織化する理論が必要→マルクス主義が適合的。ただし、これ以降の彼の言動は権力闘争に偏重し、これ以前における個人の精神的変革というモチーフが薄くなってしまったと指摘される。
・1921年7月、中国共産党の成立。国共合作を受け入れ→二段階革命論。
・蒋介石の北伐が成功、上海クーデター、汪精衛ら国民党左派と組もうとしたが決裂→国共合作を指示したのはコミンテルンだったが、失敗の責任は陳独秀に負わされ、総書記から外される。
・1928年、張学良と蒋介石はソ連が権益を持っていた中東鉄路の電信施設回収を宣言、ロシア人を逮捕→民族意識を高揚させ、国民政府の威信確立が狙い(中東鉄路事件)→共産党は「ソ連を擁護しよう」と呼びかけ→しかし、陳独秀は「中国を擁護しよう」という国民党のスローガンが持つ現実的な力は無視できない、「ソ連を擁護しよう」では中国人大衆はついてこないと考えた→コミンテルンに盲従する李立三コースへの疑問→トロツキーと連絡を取りながら反対派に立ち、1929年に共産党から除名された。
・共産党が農村に立脚するのに対して、トロツキストは都市で活動→国民党の特務や日本軍の過酷な弾圧。また、トロツキストのグループも4つに分裂→中国トロツキズムはつぶされていき、陳独秀も1932年に逮捕された。国民党内の旧友たちが助命要請して処刑は免れたが、投獄→1937年に出獄。共産党への復党も取りざたされたが、王明の強硬な反対。
・1942年、四川省で死去。
・彼は生涯で3人の女性と結婚もしくは同棲。家中心の家族制度への反感。また、彼の二人の子供も初期共産党の中央委員となったが、彼らは陳が恋人と駆け落ちしたときに置いていった子供であり、必ずしも仲は良好ではなかった。彼ら二人は独立して世に出た→二人とも国民党に処刑された。
・叛徒、漢奸(濡れ衣)、トロツキスト、右派機会主義、右派投降主義など、戦後の陳独秀評価における政治的レッテル貼りの問題。

周程『福澤諭吉と陳独秀──東アジア近代科学啓蒙思想の黎明』(東京大学出版会、2010年)
・日中比較思想史的な枠組みの中で、国家の独立とそれを支える個人の精神的独立とを目指した啓蒙思想の展開を検討、具体的には福澤諭吉と陳独秀に焦点を合わせて論じられている。
・福澤諭吉が提示した「一身独立して、一国独立す」というテーゼに注目。彼は、明治初期においては「窮理学」を中核とする「実学」の提唱によって儒学をはじめとした伝統的な学問を批判、人々の精神構造を根本的に変革しようとしたが、その後、関心の対象が啓蒙主義的理想主義から逸脱、強兵のための「科学帝国主義」へと転換した。そうした「啓蒙主義の凋落」傾向は福澤個人の問題というよりも、国際社会における近代日本の地位の影響があったと総括する。
・19世紀から20世紀にかけての中国における厳復、梁啓超など啓蒙思想の動向をたどりながら、新文化運動における陳独秀に注目。彼が唱えた「立国」と「立人」という問題意識は福澤の上記のテーゼに相当すると指摘、宗教や迷信を批判する武器として「サイエンス」を唱えた。19世紀後半以降、「科学」が物質的な有用性という皮相なレベルでしか捉えられていなかったのに対して、陳独秀は伝統社会を攻撃、精神面での有用性を唱えたことの意義を本書では強調。福澤が国権論に傾いたのに対して、陳独秀はマルクス主義を縦横して死ぬまで転向せずに「科学」と「民主」を重視、反帝国主義の旗幟をを貫徹した点が異なるとされる。

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2012年2月 5日 (日)

【映画】「ヒミズ」

「ヒミズ」

 思春期の少年の虚無的な心象風景を描き出した映画。撮影中に震災が起こり、テーマとして取り込まれたらしい。空々しく響きかねない「希望」とか「夢」とかいった陳腐な言葉、これをいったん突き放しても、そのまま不条理に終わらせるのではなく、主人公の絶望を通して再び意味を回復させていく構成。説得力を感じるかどうかは人それぞれだろうが、彼が逃げ場のない息苦しさへと追い込まれていく描写は、園子温監督作品らしく相変わらず殺伐として激しく、濃い。

 主役の染谷将太の虚無的な表情も印象的だが、何よりも二階堂ふみの熱演がものすごい。「愛のむきだし」での満島ひかりもそうだったけど、園監督は少女から熱演を引き出すのがうまいのか。いや、少女だけでなく、「冷たい熱帯魚」では、でんでんから恐ろしいまでの熱演を引き出していたな(笑)

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永田圭介『厳復──富国強兵に挑んだ清末思想家』、ベンジャミン・I・シュウォルツ『中国の近代化と知識人──厳復と西洋』、區建英『自由と国民──厳復の模索』

 清朝末期、西欧の学術文献について独自の解釈を施しながら翻訳・紹介に努めた啓蒙思想家・厳復。19~20世紀という時代状況の中ではキーパーソンの一人だと思うが、彼のことは中国近代史や比較思想史の論文で取り上げられることはしばしばあっても、一般的知名度はそれほど高くない。永田圭介『厳復──富国強兵に挑んだ清末思想家』(東方書店、2011年)は時系列に沿って彼の生涯を描き出した評伝。とりあえずどんな人物なのか知りたいという向きには本書が最適だろう。

 厳復は1854年、福州に生まれた。早くに父が死んだため一家は困窮。ところが、ちょうど左宗棠や沈葆楨によって船政学堂が設立され、ここは給金も支払われるため受験して入学する。1876年、24歳のときにアメリカのポーツマス海軍学校、イギリスの王立グリニッジ海軍大学へ留学、語学や自然科学だけでなく西欧の社会思想にも目を向けることになった。79年に帰国してからは母校の船政学堂の教官となり、80年には李鴻章が天津に設立した北洋水師学堂総教習(教頭)として招かれた。北洋水師学堂に勤務しながら98年には『天演論』(ハックスリー『進化と倫理』が原本)を刊行、また『国聞報』の創刊にも関わる。戊戌の変法では光緒帝に拝謁、建策もしようとしたが果たせないまま政変が起こり、彼は目立った政治的関与もなく、また専門知識が評価されたのであろうか、職には留まったものの、『国聞報』は弾圧を受ける。1900年、天津も義和団の乱に巻き込まれたため脱出、上海へ移り、翻訳・執筆に打ち込む。教育関係の役職に招かれて北京へ行き、1910年には資政院議員に任命されたが、間もなく辛亥革命で消滅。1912年には京師大学堂総監督となり、これが北京大学校と改称されて初代校長となるが、軋轢に悩んで間もなく辞職。その後は袁世凱の大総統府顧問。この頃、革命は起こっても民度が低い→共和制は無理→専制政治もやむを得ないとして立憲君主制を支持するようにはなっていた。必ずしも袁世凱が良いと思っていたわけではないのだが、楊度の画策によって帝政推進の籌安会に無理やり入れられてしまった。第一次世界大戦を目の当たりにして西欧を模範とした「富強」の路線に疑問を感じ、晩年は荘子を読みふけったらしい。翻訳は、 スペンサー『群学肄言』(社会学原理)、アダム・スミス『原富』(諸国民の富)、J・S・ミル『群己権界論』(自由論)、『穆勒名学』(論理学)、ジェヴォンズ『名学浅説』(論理学入門)、モンテスキュー『法意』(法の精神)、ジェんクス『社会通詮』など。

 ベンジャミン・I・シュウォルツ(平野健一郎訳)『中国の近代化と知識人──厳復と西洋』(東京大学出版会、1978年)は、中国が西洋と出会ったときの文化接触を厳復という一人の知識人を通して考察した古典的な著作。西欧の文献を翻訳した際に彼自身がどのような考えを持って読み込んでいったのかが検討される。
・西洋や新興国日本を力を目の当たりにして中国も富国強兵を目指すにしても、単に軍事的・経済的力に目を奪われるのではなく、その背景をなす思想や価値観のレベルまで見通す洞察が必要という問題意識を彼は抱いた。特に注目したのがスペンサーの社会進化論。ただし、スペンサー自身は私心なき神々のように超然たる立場から人間世界を観察し、社会進化の非人格的過程に局外から介入すべきではないと考えていたのに対し、厳復はここにイギリスがすでに達成した富強という目標へ向けての科学的原理、世界変革のためのプログラムがあると考え、中国自身が世界の生存競争を生き残っていく処方箋を求めた。
・社会有機体としての国民国家。その中の構成要素たる個人のうちにひそむエネルギー(進取の気象)が自己利益の追求をしていく環境を整備→そうした環境としての自由、平等、民主主義。人間の自由を、個人の「能力(ファカルティー)のエネルギー」の解放と捉える自由概念→このエネルギーを組織化、一体化→社会有機体の富強に奉仕→社会有機体同士の生存闘争を勝ち残る、と厳復は捉えた。ただし、これはスペンサーが個人の自由を重視したのとは全く異なるイメージ。彼自身は国民国家は過去の遺物と考えていた。→しかし、それはあくまでもスペンサー自身の無政府主義的な個人主義にひきつけた結論であって、厳復の歪曲に過ぎないと単純に言い切れるだろうか? スペンサーの社会進化論的モデルから導かれる結論として妥当かどうかはまた別問題で、厳復は中国の生き残りという自身の問題意識にひきつけた結論を出したと理解することも可能と指摘される。
・ミルの『自由論』を『群己権界論』というタイトルで翻訳→個人の自由に対する制限と社会の権利を強調。
・厳復は立憲君主制を支持したことを思想的後退と捉えてよいか?→社会進化論をモデルとした発展段階からみて、中国の現状は遅れているという認識、未開の段階なら専制政治も妥当という考え方。人類の進化には段階を飛び越す奇跡はないと彼は考えており、あくまでも発展段階を基にした議論であって、思想的後退、伝統への回帰というわけではない。現在の状況の中で進歩の条件を創出することから始めなければならない。ロンドンで孫文と会ったときにも、革命を急ぐ孫文に対して、厳復は革命に批判的。
・スペンサーの宇宙観は、形而上学的なレベルで中国伝統のそれと一致していると彼は考えた。「無」の深奥から「万物」が生成するという自然観。スペンサーの綜合哲学の厳格な帰納的論理→一元論的・汎神論的に理解。その究極にあるもの、万物の根源は不可知。中国的な「道」=西欧哲学における第一原因と考える。雑多な世界の相対性、森羅万象はすべて相対的という理解。スペンサーの「不可知」、老子の「道」、仏教の「涅槃」、ヴェーダンタの「不二一元」、朱子学の「太極」をみな同様に捉えた。
・中国自身の「富強」のため西洋文明を範とした模索をしてきたが、他方で第一次世界大戦で明らかとなった西洋文明の問題点→西洋文明のファウスト的、プロメテウス的性格に厳復は直面したと本書は考える。

 區建英『自由と国民──厳復の模索』(東京大学出版会、2009年)は、国民国家形成における中国にとって未完の課題としての自由と国民というテーマに照準を合わせて厳復の思想を論じていく。伝統と近代、中国と西欧といった二元対立ではなく、また晩年における彼の立場の転換を後退と捉えるのでもなく、歴史的現実の葛藤における思想構造の動態的把握が意図されている。
・ロンドンで孫文は厳復に会見を求めた。孫文は集団全体に立脚→排満革命と共和国建設を優先→自らを実行家と称する。対して、厳復は民の個体に着目→民の智、徳、力の向上が先決で段階を踏む必要がある→保守的、反「革命」的とみなされた。
・『天演論』→なぜハックスリーを翻訳に選んだのか、スペンサーを引き立てるためではないのか?というシュウォルツや日本の学者は解する→厳復は一元的宇宙論の中で「天行」と「人治」を捉え、ハックスリーが説いた「人治」の倫理的契機を重視した。
・「合群」をどのように考えるか→近代国家形成の方向性。孫文をはじめ革命派は戦術的な思惑もあって排満革命の「種族」論、民族主義による団結を意図した。対して、厳復は種族ではなく個人の自主性に立脚した統合国家を意図して種族的傾向を批判→国民主義。
・「仁政」の再定義。民本思想と民権思想との区別に注意を払った。覇道政治は暴虐だが、民が専制権力と戦うという発想から民権思想につながる。対して、王道的パターナリズムは尊卑の区別が固定化されてしまう。
・ミルの『自由論』をなぜ『群己権界論』として訳したのか。自由という表現を避けたのは思想的後退?→厳復は政治的自由と倫理的自由とを区別。大衆社会における多数の専制というミルの問題意識をきちんと理解しており、一人ひとりの個性の発揮を重視するからこそ、個人に対する社会の専制という点に注意を払っていた。
・老荘思想の解釈→認識論というレベルで科学的思考と接合させようとした。「道」の多次元性と双方向性、「不可知」と「可知」との相関性→二元的認識論。つまり、究極への知を徹底するのは不可能→帰納法を基礎とする現象界への主体的な実証研究は可能となる。
・西洋思想と中国思想との「互注」→双方を相対化。
・厳復は因習からの解放に努め、異文化接触における自由な精神による「会通」を試みた。東西の異なる「俗」を通して共通する「事理」を見抜こうとした。新来の文化要素として「自由」を導入→従来の倫理体系が崩れる一方、新しい倫理体系は確立せず、「いもづる式現象」で様々な問題や不適合があらわとなる。→西洋文化、伝統文化の相互破壊の危険性、さらにこの現象を通して西洋文化それ自体にはらまれている問題をも透視できる。「西学」受容と同時に、補完するものとしての中国伝統における受け皿の整備が必要→老荘「評点」という仕事

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