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2012年12月9日 - 2012年12月15日

2012年12月15日 (土)

【メモ】江文也調査メモ

◆国会図書館の歴史的音源で聴ける江文也の曲
 国会図書館のデジタル資料で歴史的音源が聴けるようになっているのだが、以下の音源が登録されている。1937~38年に発行されたもので、発行元はすべてビクター。
・「撃ちてしやまむ」→作詞:斎藤瀏、作曲:江文也。
・「子守唄」→作詞:佐伯孝夫、作曲:江文也。
・「牧歌」→作詞:佐伯孝夫、作曲:江文也。
・「芭蕉紀行集」→松尾芭蕉の俳句に秋吉元が曲をつけたものを江文也が歌っている。
・「知るや君」→作詞:島崎藤村、作曲:江文也。
・「棕櫚の葉かげ」→作詞:林柳波、作曲:江文也。
・「生蕃の歌」→作詞・作曲・歌:江文也。これは是非とも聴いてみたかった曲。台湾原住民をイメージしているが、台湾原住民問題に詳しい周婉窈さんによると、ある意味、デタラメ。むしろ彼のイマジネーションの豊かさを楽しめばいい、という言い方をしていた(周婉窈〈想像的民族風──試論江文也文字作品中的臺灣與中國〉《海洋與殖民地臺灣論集》聯經出版公司、2012年)。感興のままに連ねた言葉を「歌詞」としているので意味はない。そこがダダっぽい、と思っていたのだが、音源は3分程度で全曲聴けるわけではなく、判断保留。
・「四海同堂」→作詞:佐伯孝夫、作曲:江文也。歌手として波岡惣一郎、白光、仲秋芳(国会図書館の書誌データでは「ナカ,シュウホウ」とされているが、中国人だから「ナカ」ではなく「チュウ」の方がいいのではないか?)がクレジットされている。出だしを「あけゆくアジア ゆたかな大地 すすまん東洋 平和の道を」と歌い上げているから、川喜多長政が製作した映画「東洋平和の道」(1938年)の曲である。江文也の管弦楽曲「故都素描」で聴いたことのあるメロディーだった。「蘭英の歌」というのもあったが、これも映画「東洋平和の道」の劇中歌だろう。なお、この映画で抜擢されたヒロインの白光は、大陸でフィクサーとして活動していた陸軍の山家亨の恋人としても知られていたが、彼女を歌手として特訓したのは江文也であり、「江文也が最初の憧れの人だった」と語っていたらしい(江文也樂友會ホームページにある劉美蓮「江文也小傳」(中)の「白光熱戀才子」の項を参照→こちら)。

◆江文也『作品二十二 鋼琴独奏曲 北京萬華集 第一巻』(龍吟社、1939年)
・この楽譜も国会図書館のデジタル資料で見た。曲目は「天安門」「紫禁城之下」「子夜、在社稷壇上」「小丑」「龍碑」「柳絮」「小鼓児、遠遠地響」「在喇嘛廟」「第一鎌刀舞曲」「第二鎌刀舞曲」の計10曲。
・「国立北京師範学院叢書」の一冊で、巻末広告を見ると、江文也『作品二十一 中国名歌集 第一巻』(柯政和選輯)もすでに出ている様子(柯政和は江文也を北京師範大学へ招聘した音楽家で、やはり台湾出身)。龍吟社はチェレプニン・コレクションを出していた版元で、北京師範大学へ赴任した江文也からも請け負っていたようだ。また、巻末広告には「新民会制定 新民歌曲」(繆斌・詞、江文也・曲)も掲載されている。

◆江文也『大交響管弦楽のための台湾の舞曲』(春秋社、1936年)
・この楽譜も国会図書館のデジタル資料で見た。ベルリン・オリンピック芸術部門の入選作で、それを記念して出版されたようだ。
・扉にある江文也の序文を書き写しておく。
「………私はそこに華麗を尽した殿堂を見た 荘厳を極めた楼閣を見た 深い森に囲まれた演舞場や祖廟を見た しかし これらのものはもう終りを告げた これらはみな霊となつて微妙なる空間に融け込んで幻想が消失せるやうに 神と人の子の寵愛をほしいままに一身に集めたこれらは 抜殻のやうに闇に浮んで居た。
アヽ! 私はそこに引き潮の渚に残る二ツ三ツの泡沫のある風景を見た………」(1934年8月)
・巻末広告には「江文也作品表」(1936年10月)が掲げられている。
〈交響管弦楽曲〉
作品一 台湾の舞曲
作品二 白鷺への幻想
作品四のロ 第一組曲 1.狂想曲 2.間奏曲 3.舞踏曲
作品五 お縁日の露店見物
作品十四 北京に寄する五ツの交響的断片
〈歌劇〉
作品九 グランドオペラ「タイヤルの恋」三幕(未完成)
〈舞踏劇〉
作品十二 「一対六」
〈洋琴曲〉
作品一 台湾の舞曲
作品二 白鷺の幻想
作品三のイ 小スケッチ
作品三のロ 譚詩曲
作品四のイ 五ツのスケッチ 1.山田の中の一本足の案山子 2.お背戸に出てみれば 3.焚火を囲んで 4.裏町にて 5.満帆
作品七 三ツの舞踏曲
作品八 十六の断章
(作品番号を持たざるもの)
 人形芝居…(1936年4月)
 組曲「五月」…(1936年5月)
〈歌曲〉
作品六 第一生蕃歌曲集 四曲
作品十 第二生蕃歌曲集 五曲
〈室内楽〉
作品六 ソプラノと室内管弦楽 四ツの生蕃の歌
作品十 バリトンと室内管弦楽 五ツの生蕃の歌
作品十三 「南方紀行」室内管弦曲
作品十五 第一ソナタ セロとピヤノのための(未完成)
〈合唱曲〉
作品十一 島崎藤村の詩による「潮音」 混声合唱と弦楽四重奏と弦楽オーケストラのための

◆江文也「中国音楽の文化的特殊性」(『中日文化』第1巻第2号、1941年7月)
・「1941年3月30日 北京西城にて」となっている。『上代支那正楽考』(三省堂、1942年)におそらく収録されていると思うが、念のため要確認。
・『中日文化』は中日文化協会、三通書局発行。出版地は上海。中日文化協会は汪兆銘政権下の組織。江文也の次に、石川三四郎「中国改革者達の思出」という文章も掲載されている。

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2012年12月13日 (木)

二二八事件で処刑された画家、陳澄波について

 陳澄波は1895年、台湾中部の都市・嘉義に生まれた。家庭環境にはあまり恵まれなかったようだが、公費で通える国語学校師範科に入学、ここで美術教師の石川欽一郎に出会って絵画の世界に目覚める。卒業後、公学校で教員をしていたが、美術への情熱やみがたく、30歳にして東京美術学校に入学し、帝展にも入選した。東京美術学校の研究科を卒業後、とにかく家族を養わなければならないため上海の美術学校で教員となる。ここで中国画のスタイルに関心を持ち、影響を受けたが、1932年の第1次上海事変に伴って台湾へ帰郷。台湾で後進を育てるべく様々な活動を展開。1945年、日本の敗戦後は嘉義市の役職に就く。1947年に二二八事件が勃発すると、二二八事件処理委員会のメンバーとして国民党軍側との交渉にあたったが、そのまま捕まってしまい、銃殺された。

 私が陳澄波に関心を持った経緯を振り返ると、以下の通り。

 初めて台湾へ行ったとき、台湾観光の定番ルートだが、まず故宮博物院を見に行った。観光客でごった返した中で息の詰まる思いをした。ふと目に入った展示室がガラガラだったので、一休みのつもりで入ってみた。李澤藩の企画展示だった。風景を描き出した穏やかなタッチの水彩画は、喧騒に倦んだ疲労を癒してくれるようで、そのままゆっくりと見入ってしまった。なかなか良いと思ったのだが、台湾事情について素人だった当時、李澤藩の名前など知るはずもない。略歴を紹介したパネルを見ると、彼の恩師として石川欽一郎なる日本人が挙がっているのが目についたのだが、こちらも初めて見る名前であった。

 気になったので帰国後に調べてみた。李澤藩はどうやら、台湾人として初めてノーベル賞(化学賞)を受賞し、中央研究院長も務めた李遠哲の父親らしいこと、石川欽一郎はもともと水彩画家だが、美術教師として台湾へ赴任したとき近代洋画を本格的に紹介し、多くの台湾人画家を育てたということを知った。また、国会図書館で『アジアレポート』という媒体に森美根子「台湾を愛した画家たち」という連載を見つけ、個性豊かな多くの画家たちが台湾にいたことに気づいた(この連載は後に『台湾を描いた画家たち──日本統治時代画人列伝』[産経新聞出版、2010年]として1冊にまとめられている→こちら)。陳澄波の名前を初めて知ったのはこの時である。

 いずれにせよ、美術という側面から見ても台湾は奥が深そうに感じたが、台湾美術史について日本語で書かれた文献は限られているので中文書も何冊か手に取ったり(例えば、李欽賢《台灣美術之旅》雄獅図書、2007年→こちら李欽賢《追尋台灣的風景圖像》台灣書房、2009年→こちら)、折を見ては、新竹の李澤藩美術館、三峡の李梅樹美術館などに足をのばしたりもした。

 そうした中で、頼明珠《流轉的符號女性:戰前台灣女性圖像藝術》(藝術家出版社、2009年→こちら)を読んだ。日本統治期に画家を志した台湾女性の多くが、①伝統的な儒教道徳による男尊女卑、②植民地統治の政治的・社会的環境といった事情で挫折せざるを得なかったことをカルチュラル・スタディーズやフェミニズムの観点から分析するのが本書の趣旨であるが、第3章「父権與政権在女性畫家作品中的効用」が陳澄波に関わる。ここで取り上げているのは、陳澄波の娘でやはり画家を志した陳碧女である。彼女は父からじかに西洋画の手ほどきを受けたが、裏返せば父の模倣に過ぎない→父の束縛から逃れられなかった。その父は二二八事件で処刑されてしまった→政治の圧迫を目のあたりにして彼女は絵筆を折った、と指摘されていた(なお、著者の頼明珠は村上春樹作品の翻訳者とは同姓同名の別人らしい)。

 周婉窈《台灣歷史圖說 増訂本》(聯經出版、2009年→こちら)でも陳澄波の存在が気になった(邦語訳では初版が『図説 台湾の歴史』[平凡社、2007年]として刊行されている)。中文原書の増補改訂版のカバー表1に陳澄波の作品「嘉義公園」が使われている。緑鮮やかでのびやかな明るさがいかにも南国らしい情緒を醸し出しているのが実に印象的である。カバー裏(表4)に戦前、台湾に暮らしたフォービズムの画家・鹽月桃甫による「ロボを吹く少女」が使われていることも含めて、こうした作品の選択そのものに本書の意図が象徴的に表現されているように思われた。ロボ(口琴)は台湾原住民の多くで使われていた楽器であり、従って本書は原住民の歴史を重視していること、それを描いた日本人画家の作品を敢えて取り上げているのは、日本統治時代を否定/肯定という政治的対立軸を超えたところで描き出そうとしていることを表しているのではないかと受け止めた。

 それでは、陳澄波の「嘉義公園」は何を表しているのか? 周婉窈の歴史エッセイ集《面向過去而生》(允晨文化出版、2009年)に収録された〈高一生、家父和那被迫沈默的時代──在追思中思考我們的歷史命題〉は、高一生が国民党時代の白色テロで処刑された暗い時代について自らの父親の来歴と重ね合わせながら語る内容となっているが、そうした時代を象徴する一人として陳澄波の名前も挙げている。

 著者の周婉窈は台湾中部の都市・嘉義の出身である。小学生の頃、絵を描くのが得意だったが、同郷の傑出した画家である陳澄波のことを、大学で歴史を専攻するまで彼女は全く知らなかったという。絵が大好きな少女に、なぜ大人たちは陳澄波のことを教えてくれなかったのか? 彼は二二八事件で処刑されたため政治的タブーとなり、国民党政権による白色テロを恐れる大人たちは、彼の名前を口に出すことすら憚っていたからである。幼い頃から自らの目に馴染んでいた嘉義の風景を、陳澄波という画家が大胆な色遣いで描き出していたことを知るきっかけすら彼女にはなかった。つまり、すぐ身近なところにあったはずの貴重な歴史の記憶を、自分たちは全く共有していない。このような歴史の空白は極めていびつなことではないのか? 陳澄波の「嘉義公園」をカバーに用いたことからは、そうした個人的な体験も踏まえた上で、かつての恐怖政治によってもたらされた歴史の空白を取り戻そうという問題意識がうかがえる。

 高一生とは、嘉義に比較的近い阿里山周辺に暮らす原住民ツォウ(鄒)族のリーダーだった人物で、民族名はUyongu Yatauyungana、日本名を矢多一生という。日本統治時代に近代的な教育を受け、教員・警察官としてツォウ族の近代化や生活水準の向上に尽力し、戦後も引き続きツォウ族のリーダーとして活躍した。国民党が掲げる三民主義に共鳴、とりわけその中の民族主義から原住民自治という理念を導き出したが、国民党政権からにらまれて1954年に処刑された。彼は音楽家でもあり、多くの歌曲をつくっている。

 陳澄波は1930年代前半に上海へ行って中国画の技法を吸収しようとしたことがあったので、台湾の中華民国への帰属は、彼自身にとっても今後の芸術活動の範囲が広がるチャンスだと考えて歓迎していた。また、上述のように高一生もまた、三民主義に基づいて原住民自治を実現できるのではないかという期待から中華民国を支持していた。それにもかかわらず、彼らは共に二二八事件や白色テロによって非業の死を遂げざるを得なかった。彼らが「中国」を拒絶したのではなく、「中国」によって彼らが拒絶されたという成り行きは、あまりにアイロニカルな悲劇であったとしか言いようがない。

 陳澄波については《台湾百年人物誌 1》[玉山社、2005年]所収の〈血染的油彩 陳澄波〉(→http://docs.com/PL0L)を、また、高一生については同じく《台湾百年人物誌 1》所収の〈高山船長 高一生〉(→http://docs.com/PJC2)と、周婉窈《面向過去而生》所収の〈高一生、家父和那被迫沈默的時代──在追思中思考我們的歷史命題〉(→http://docs.com/PHH7)をそれぞれ訳出しておいた。いずれも原著者の許諾を得ているわけではないし、そもそも訳文がこなれていないので、使いまわし等はご遠慮願いたい。あくまでもご参考程度に。

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2012年12月10日 (月)

【メモ】田辺尚雄についていくつか

 日本における音楽学・音楽史学を考える上で、田辺尚雄(1883~1984)という名前を逸することはできない。『日本音楽講話』(岩波書店、1919年)は版を重ね、戦後になっても講談社学術文庫や岩波書店で復刻されていることからその古典的な位置付けは分かるだろうし、また比較音楽学へ強い関心を示してアジア各地の民族音楽調査に取り組み、東洋音楽学会を設立して戦後も彼はこのジャンルで第一人者であり続けた。

 田辺はもともと東京帝国大学理科大学で物理学を専攻していたが、一高在籍中から東京音楽学校選科でヴァイオリンを学ぶなど音楽への造詣も深く、長岡半太郎から勧められて音響物理学を取っ掛かりとして音楽に関わる幅広い学問的探求を生涯かけて続けることになる。単なる学究肌ではない。洋楽・邦楽を問わず自らも演奏し、舞踊もこなす。また、台湾で首狩りの事件が起ったというニュースを見ると、「原住民の首狩りの風習が消えてしまわないうちに首狩りの歌を聞きたい!」と思い立ってただちに台湾へ調査旅行に出かけたり、台南の媽祖廟の大祭で賑わう中でたまたま「御前清曲」(南管)を耳にするとルーツ探しにそのまま厦門へ行ったり、金田一京助の講演を聴くとすぐ金田一から紹介状をもらって北海道・樺太までアイヌ・ギリヤーク(ニブヒ)・オロッコ(ウィルタ)調査に出かけたり、とにかく旺盛な行動力には目をみはる。

 私が田辺尚雄という人物についても調べておこうと思ったきっかけは、もともと江文也に関心があり、彼と同時代における音楽思潮、さらにはそこにおける「民族主義」をどう捉えたらいいのか?という関心による。江文也、清瀬保二、伊福部昭など新興作曲家連盟に参加した若手音楽家たちは、西欧音楽をそっくりそのまま真似するのではなく、オリジナルな着想を得る源泉を民族的伝統に求めることはできないか、と模索していた。清瀬は日本土着の旋律を意識し、北海道出身の伊福部はアイヌなど北方民族のリズム感を取り込み、台湾出身の江文也は台湾や中国の音楽文化へ目を向けるようになった。「西洋」という鋳型にはまらず、自分たちにオリジナルなものは何か?というもがきもそこにはあった。彼らの発想は、直接的には「西洋」の音楽とは異なったものを求めて「東洋」に関心を示したアレクサンドル・チェレプニンから触発されたのであるが、当時の日本の音楽界における「民族主義」的な要素を考える際、当時、民族音楽学を切り開きつつあった田辺の存在も無視できないはずだという見立てはあながち見当はずれでもあるまい。

 田邊尚雄『現代支那の音楽』(東亜研究会、1927年)、『東洋音楽史』(雄山閣、1930年)、『大東亜の音楽』(協和書房、1943年)、それから晩年になってまとめた『田辺尚雄自叙伝(明治篇)』(田辺尚雄先生白寿祝賀会出版委員会編、邦楽社、1981年)、『続田辺尚雄自叙伝(大正・昭和篇)』(同、1982年)に目を通した。

 田辺は、日本人は西洋音楽を崇拝するばかりで、東洋各民族の音楽など内心ではバカにして見向きもしない、という問題意識から太平洋戦争中の1943年に各地の民族音楽を編集し、レコードをコロムビアレコードから発行している。『大東亜の音楽』はその解説書として執筆されたようで、目次を掲げると以下の通り。

一、大東亜音楽文化の特質
二、大東亜音楽の歴史的観察
三、満洲の音楽
四、中華民国の音楽
五、蒙古の音楽
六、佛印の音楽
七、タイ国の音楽
八、ビルマ及びマライの音楽
九、ジャワの音楽
十、バリ島の音楽
十一、フィリッピンの音楽
十二、印度の音楽

 「中華民国の音楽」の項目で、銅鑼をジャンジャンかき鳴らす中国劇の音楽を嫌う人もいるが、それこそがまさに未来派的で面白い、と言っているのが目を引いた。「…在来の日本音楽は余りにも刺戟が弱くて、少しも強烈の感が無い。それ故強烈なる刺戟を要求する現代人の思想とは一致しない点がある。然るに支那の劇楽は非常に強烈なる刺戟を持って居る。此の点に於て支那楽のやり方は、最も新らしい一種の未来派の音楽と考へることも出来る。──此の点はフランスの現代派のエドガー・ヴァレースの作「イオニザシオン」に比較される」(105ページ)。関東大震災や空襲も耐え抜いた母校の旧図書館の埃っぽい書庫の中、戦時中に刊行され、紙質も悪くて今にも破けそうなページをめくっていたので、現代音楽として記憶していたエドガー・ヴァレーズとの唐突な取り合わせが妙に新鮮に感じられた。「イオニザシオン」(電離)は打楽器とサイレンだけで構成された曲である。田邊尚雄は民族音楽研究の大家として知られているが、もともとは音響物理学者で、戦前には物理学の教科書もいくつか出していた。ヴァレーズも理科系出身だから(イオニザシオン=電離、アンテグラル=積分といったタイトルの曲を書いている)、そうした点でも親近感があったのかもしれない。

 『大東亜の音楽』を通読すると、各地域の音楽の歴史や楽器の特徴までよく調べ上げているのは確かで、その点は感心する。しかし、戦時下において彼の主張した「大東亜音楽」なる概念に時局的な側面が濃厚なのも事実である。

 第一に、「満洲」と「中華民国」とを分けている一方で、朝鮮の音楽を取り上げていない点には政治的な恣意性がうかがえる。1943年という時局を考えると、おそらく皇民化運動を気兼ねしたのであろう(なお、1930年に刊行された『東洋音楽史』ではちゃんと朝鮮音楽を取り上げている)。

 第二に、「大東亜音楽」の性格規定。彼はこれを「満洲支那系、印度支那及びインドネシア系、印度系、中亜及び西亜系の四つの大きな系統に区分される」とした上で、「今日の大東亜各民族の音楽を見れば、それぞれ可なり隔たりがあるやうに思はれるが、中世の状態を見ると今日よりも遥かにその間に共通点が多い」「偉大なる蒙古大汗国が壊滅してより以後、大東亜は近代となると共に、各国それぞれ分立して自国を固守するに努め、斯くして国民的な特殊文化を保持することにのみ汲々とするに至った。之れが即ち近代に於ける大東亜音楽の全貌である」と言う。かつては大きなまとまりであったが近代に入って分裂してしまった「アジア」、それを再び一つにまとめ上げるのが日本の使命であると主張する。

・「…人類始原の文化の眞の魂は決して失はれてしまつては居ない。此の神から附与された正しい文化の魂を今日まで保持して、現代に之れを守護して居るものは我が大日本帝国である。我が日本は古代から広く世界の文化を採り入れて之れを消化して居る。然し之れを単に模倣して居るのではない。それを此の人類始原の文化の魂の中に融合せしめて以て神意に添ふた正しい文化を保ち来つて居る。此の神から授けられた正しい文化の眞の魂を継続し、之れを正しく統率し給ふて居られるのが我が スメラミコトである。而して我が スメラミコトの大御心によつて、人類文化の眞の魂を全世界の民族に覚醒せしめ、その眞の文化の正しい道に復帰せしめ給ふことが、即ち八紘一宇の御精神であつて、此の度の大東亜戦争も亦た此の有難き大御心の一つの現はれである。」(11ページ)
・(アジア音楽の四大系統に触れてから)「…之ら等の各系がそれぞれ個々の特色を持つて居るけれども、その間には一脈相通ずる底流の存することを認め得るのである。故人先覚者たる岡倉天心氏の叫んだ「東洋は一つなり」との言葉は、此の歴史を通観して始めて其の眞なることを悟るものである。」「今日我々が印度のヴィナの曲を聞き、ジャワの民謡を聞き、蒙古の歌を聞き、タイの踊を見て、常にそれ等が同じく我々東亜人の芸術だと感ずるのは茲にあるのである。」(28~29ページ)

 実はここで面白いのは、日本の音楽文化はアジア音楽の四大系統のうち、支那系かインドネシア系の中に入ってしまって独立した系統を立てることはできないと田辺は認識していることだ。無理に系統立てようとしても、メインではなくサブになってしまう。そこで、日本文化はあらゆる文化の魂を融合してアジアを一つにまとめ上げていく勢力なんだ!と「大東亜戦争の使命」へと飛躍してしまうアクロバティックな論法がミソ。 

 上記のような「大東亜音楽」の提唱に時局迎合的な側面が濃厚であった点は当然ながら批判しておかなければならない。ただし、同時に注意を喚起しておきたいのは、明治以来の「西欧化=近代化」路線の中、西欧近代を至上のものと位置づけてそれ以外の諸民族(日本を含む)の音楽文化を蔑視するヒエラルキー的な価値基準が内面化されてしまった近代日本に対し、いや、どの民族にも独自の豊かな音楽文化があって、それぞれ鑑賞するに足る価値があるのだと注意を促していく。そうした問題意識を田辺が持っていたことにも留意しておく必要があるだろう。西欧優位のヒエラルキー解体という意図が、逆に低位に甘んじてきたルサンチマンを反転させるかのように日本優位を主張する「大東亜共栄圏」の論理へ絡め取られてしまい、そのため、あらゆる民族文化の等価的評価へ向かう契機からそれてしまったところが、当時の時局的な難しさだったと言えるかもしれない。

 田辺が『東洋音楽史』で孔子を芸術至上主義者であったと評価している箇所が目を引いた。
・「…「子在斉聞詔三月、不知肉味、曰、不図為楽之至於斯也」(論語)とあるのを以て見ると、独逸のワグネルが巴里に於て窮迫して遂に盗賊にまでもならうと思った頃偶まベートーフェンの第九交響楽を聞いて其の高雅幽遠に打たれ、寝食を忘れ邪念忽ちに去ったといふのと同じことで、孔子が芸術の真髄に触れて居たことはワグネルに匹敵すべきものであると思はれる。又た孔子は此の詔を評して「子謂詔、尽美矣、又尽善也」(論語)とある。即ち芸術として最高なるものは又た同時に道徳としても最高なものであると認められたのである。此のことは第十九世紀の中頃に独逸のロマンチック楽派の驍将として、又た最高の学歴を有する作曲家として最も有名であったシューマンが、世の音楽修学者に誡ふるために遺された有名なる音楽家訓戒六十八箇条の中に「最高の芸術は道徳と一致する」と謂はれたが、孔子が人世と芸術との関係に於て、其の深奥に触れて居たことは実にシューマンに匹敵すべきものである。」「我邦の軽薄なる音楽家の中には、孔子を以て音楽を政治の手段に用ひようとした不都合なる芸術叛罪者であるやうに罵倒する者があるが、それは大なる誤解である。孔子は決して音楽を以て手段とは考へて居なかつた。却つて芸術至上主義者であったとさへ考へられる。」(191~192ページ)

 田辺の文章における上記の箇所を見て、江文也も『上代支那正楽考──孔子の音楽論』(平凡社・東洋文庫、2008年)の中で、やはり孔子を堅苦しい儒学者というイメージから解き放ち、むしろ芸術至上的な一つの個性として読み替えようとしていたことを連想した。また、江文也はチェレプニンから受けた示唆もきっかけとなって「西洋近代文明は行き詰っている、だから自分たち「東洋」こそが新しい時代的局面を切り開くのだ」と気負った発言もしていたのだが、この点もやはりニュアンスの相違こそあれ、田辺が「大東亜音楽」を提唱した動機と近いところがあったと見ることもできる。江文也は中国の音楽文化へ関心を寄せた際に猛勉強をしていたが、当然ながらその方面では第一人者であった田辺尚雄の書籍も精読したはずだ。常にチャレンジングな江のことだから、官学的権威を帯びた田辺なんて乗り越えてやろうという気概があったと思われるが、他方で、問題意識の方向性が実は田辺とも同様の圏域にあった点は無視できない。それを田辺から影響を受けたと捉えるのか、あるいは両者を含む時代的コンテクストとして考えるのか、この点はさらに検討の余地がある。

 もう1点気にかかっているのは、田辺の自叙伝を読んでも、チェレプニンへの言及が一切ないことである。江文也、清瀬保二、伊福部昭といった若手の「民族楽派」への言及もないのは、若輩者なんて相手にしないという権威主義と考えられるにしても、「東洋」の音楽文化へ主体的な関心を持って来日したチェレプニンの存在は気にならなかったのだろうか? チェレプニンへの言及が皆無ということ自体から暗黙の何かを読み取る必要があるのだろうか。

※以下は、自叙伝を読みながら取ったメモ。
『田辺尚雄自叙伝(明治篇)』田辺尚雄先生白寿祝賀会出版委員会編、邦楽社、1981年
・一高在学中、東京音楽学校の選科に入ってバイオリンを習った。東京音楽学校のオーケストラにも入団。
・東京帝国大学理科大学の理論物理学科を首席で卒業。もともと音楽も得意だったことから、長岡半太郎から日本音楽の科学的研究をやればいいのではないか、と勧められ、音響心理学や音楽美学なども学ぶため文学部心理学科の研究室(元良勇次郎)にも籍を置いたほか、日本音楽を研究している田中正平(理学博士)への紹介状も書いてくれた。
・明治36年7月23日、日本で最初の歌劇「オルフェウス」(グルック)が東京音楽学校講堂で上演された。主演は柴田環、後の三浦環。
・明治40年7月7日、ロシアの著名な声楽家、マリー・アレクサンドローナ・ミハイロワが来日、築地のメトロポールホテルの一室で歌声を披露。日露戦争後間もない時期で、聴衆はわずか数十人、大半は西洋人で、日本人は数名、田中正平、伊澤修二、小山作之助、幸田延子などが見えるくらい、若いのは田辺一人だった。
・田中正平の邦楽研究所に入った。
・邦楽研究所で、西洋の社交ダンスにヒントを得て、家庭踊を普及させる。

『続田辺尚雄自叙伝(大正・昭和篇)』邦楽社、1982年
・明治40年に鈴木米次郎が創立した日本で初めての私立の音楽学校である東洋音楽学校の講師。清国留学生がクラスに一人以上はいたという。また、官立東京盲学校でも教えた。
・早稲田の清国留学生部で物理学の講義を受け持ったとき、音響学の説明で洋楽と中国の韻律とを比較して話したところ、中国人学生たちもよく知らないことだったので自宅を訪問する留学生たちが増えた。その中で、馬裕藻という学生がいて、陳澧『声律通考』を寄贈してくれ、後に大正12年5月に中国音楽調査で北京へ行ったとき、彼は北京大学文学部長をしていて、その縁により北京大学で「中国音楽の優秀性」という講演をした。
・博物館総長だった森鴎外の協力で、大正9年に正倉院御物楽器調査。
・大正10年、朝鮮李王家雅楽の調査。
・大正11年3~4月、台湾の高砂族の音楽の調査。「大正十年の秋に台湾北部の高山シルビア山の麓に住むサマラオ社の高砂族の人達が、ある事件から同所駐在の日本の巡査の一家を悉く殺して、いわゆる首狩りを行ったということが、新聞で報じられた。そのとき高砂族の人々が勇壮な首狩り歌を歌い、かつ踊ったという記事を見て、実際首を切るときの歌はどんなものなのか知りたいと切望した。しかし、そのころ台湾の高砂族は殆ど帰順してしまい、首狩りは殆どなくなってしまって、唯僅かに北方のシルビア山附近にしか残っていない。それも遠からず帰順して、もはや首狩りなどは無くなって昔話となってしまうだろうとも記されていた。そこで私は一刻も早く、まだ首狩りが残っているとき、その実態を調べたいと思い、急に台湾に行くことを決心したのである。」(続、122ページ)父親の関係で田健治郎総督にツテがあったので、便宜を図ってくれた。銃を持った護衛巡査2名も帯同した一行は霧社地区のパーラン社へ。タイヤル族の中心。奥地のハックの長の娘、ヨンガイタイモ、22歳、アキンタイモ、18歳の美しい姉妹に会い、歓迎の歌や恋愛の歌を歌ってもらい、口琴(ロボ)を演奏してもらった。彼女たちについて来た青年、ブヨンウイラン、19歳はサマラオ「討伐」で勇敢に戦ったそうだが、首切りの笛を吹いてもらい、首狩りの歌を歌ってもらい、録音。また青年には首狩りの踊りを踊ってもらった。霧社では小学校を訪問。集まってくれていた高砂族の男女40名ばかりに歌ってもらい、録音。①耕作の歌(女、セッタノーミン、23歳)、②首祭の歌(女、ウマノービン、23歳)、③首祭の歌(男、アウイセーダン、32歳)、④首狩凱旋の曲(首切笛独奏、男、アウイセーダン、32歳)
・日月潭へ行き、水社で娘さんたちから①歓迎の歌、②親睦の歌を聞かせてもらった。彼女たちは20銭を要求した→商売にしている。帰順していない高砂族にはそんな風習はない。杵歌の美しさに讃嘆。卜吉という村で盲目の老翁、マカイタンから①出草の歌、②凱旋の歌、③歓迎の歌、④耕作の歌を聞かせてもらい、録音。
・潮州からライ社へ。縦笛を聞かせてもらった。①ポアリバンの歌、②ジナロアンの歌、③オリジュマヘの歌を録音。
・台南の孔子廟を参観。媽祖廟の大祭で賑わう中、「御前清曲」(南管)を耳にして興味を覚え、いずれ本拠地であるアモイまで行こうと決意。
・アモイ港につくと、日本領事代理及び旭瀛書院長・岡本要八郎が出迎え。コロンス島に上陸。「海岸に台湾第一の富豪林本源の子、林爾嘉氏の別荘が竜宮城のように美しい。」(137ページ)旭瀛書院にも行く。富豪の顔順永邸に招かれて「御前清曲」を聞かせてもらった。
・台北に戻って、博物館で森丑之助に会う。
・同年、7月東洋音楽学校卒業生で沖縄の音楽家の山内盛彬の縁もあって沖縄へ調査旅行。台湾経由で帰国。
・大正12年4月から、中国音楽調査旅行。上海では欧陽予倩邸に招かれる。音楽家の陸爽に通訳してもらう。中国語は分からないが一人で南京を経て北京へ。途中、万朝報記者の石川半山と偶然乗り合わせる。北京女子高等師範学堂に東京帝国大学の同窓の簫友梅を訪ねる。北京大学で講演。
・同年6月、東大人類学教室で金田一京助のアイヌ歌謡に関する講演を聞いて、急に調査旅行を思い立ち、金田一氏に紹介状を書いてもらって北海道・樺太へ行き、樺太アイヌ、ギリヤーク、オロッコの音楽調査。
・大正13年、第一次満洲調査旅行。
・大正14年3月1日からラジオの試験放送。3月22日から公開放送開始。この日の試験放送で、宮城道雄たちと「薤露調」の演奏放送を行った。田辺は笙を吹いた。
・昭和9年8~9月、ミクロネシア群島(当時は日本の委任統治領)を調査旅行。
・昭和11年、東洋音楽学会を設立。
・昭和13、14年に満洲旅行。
・戦時中、大東亜共栄圏が鼓吹されても、日本人は西洋音楽を崇拝するばかりで、東洋各民族の音楽など内心ではバカにして見向きもしない。そこで、コロムビアレコードで「大東亜の音楽」というレコードを編集。満洲、中国、タイ、インドネシア、インド、アラビアなど20曲。これに解説書を1冊加えた。この「大東亜の音楽」の成功を見たビクターレコードはもっと大規模なものを作成しようとして、自分ひとりでは無理なので、東洋音楽学会編集という方知恵、会員の枡源次郎が現地で収集したレコードを中心に「大東亜音楽集成」として全12巻で発売。中国、安南、タイ、ジャワ、スマトラ、マレー、インドなど東南アジア諸国のものが豊富に収められている。
・戦後の昭和31年日本文化人訪中団の団長(最年長だった)として中国訪問旅行。上海音楽院では賀緑汀院長邸で晩餐。

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