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2012年10月14日 - 2012年10月20日

2012年10月17日 (水)

【メモ】カンボジアの民族主義者、ソン・ゴク・タン(Son Ngoc Thanh)について

 シアヌークの死去を受けて、彼の激動の生涯も興味深いと思い、何か読んでみようと手始めにミルトン・オズボーン(石澤良昭監訳、小倉貞男訳)『シハヌーク──悲劇のカンボジア現代史』(岩波書店、1996年)を手に取ったのだが、むしろシアヌークの政敵として立ちはだかったソン・ゴク・タン(Son Ngoc Thanh、1908年12月7日~1977年)の方に興味が引かれた。彼の名前は、つい最近読んだばかりの玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢──志を継いだ青年たちの物語』(平凡社新書、2012年→こちら)にも出てきて、気になっていた。

 近代的なナショナリズムから植民地支配に抵抗しようとしたところ、「敵の敵は味方」の論理に従って、後から登場した日本軍と協力したという軌跡は東南アジア各地の革命家たちもたどったパターンの一つである。また、当初の親日的姿勢が戦後は反共意識から親米となった経緯は、例えばタイのピブンソンクラームなどとも共通する。そう言えば、反共ではあっても、必ずしも王制支持とも限らないと周囲から疑われていた点でも、シアヌークと対立し続けたソン・ゴク・タンと、王党派から常に警戒されていたピブンソンクラームとは似ているような気もする。

 参照できる日本語文献が限られているので、以下のメモは、オズボーンの邦訳と、かろうじて論文検索に引っかかった高橋保「政変後のプノンペン政権における政治過程の動態──共和制移行からロン・ノル=ソン・ゴク・タン体制の成立まで」(『アジア経済』第13巻5号、1972年5月)の他、主にwikipediaの記述(→こちら)などに頼った。

 ソン・ゴク・タンはヴェトナム南部のチャヴィン(Travinh)で、クメール・クロム(メコン・デルタに住む低地クメール人で、ヴェトナムではマイノリティ)の父親と中国系orヴェトナム系の母親との間に生まれた。比較的に裕福な家庭だったらしく、1920~30年代にかけてサイゴン、さらにはモンペリエ、パリに留学した。法律を学んだ後にフランス領インドシナ植民地に戻る。

 1930年にカンボジアとラオスの国王がパトロンとなって設立されたプノンペンのウナロム寺院内仏教研究所で図書館司書となる。しかし、仏教徒はフランスの教育プログラムを受けられないことに気づき、僧侶学校の重要性を疑う。

 1936年、ソン・ゴク・タン、パク・チョオウン(Pach Chhoeun)、シム・ヴァル(Sim Var、1906~1989年、日本滞在中にカワダ・ヨウコという日本人女性と再婚。戦後は、シアヌークの時代に首相、ロン・ノル政権で駐日大使。後にソン・サン派→こちらを参照)らが初めてのカンボジア語新聞『ナガラワッタ』(Nagaravatta)を創刊。ナガラワッタとはアンコール・ワット(Angkkor Wat)のことで、カンボジアのシンボルとしてつけられた。彼らはカンボジアで初めて近代意識を持った民族主義者と位置づけられている。この新聞の論調としては、フランスの植民地支配、カンボジア人の教育機会の欠如、ヴェトナム人によって経済的利権や公共的職務が独占されていることなどカンボジア人が置かれている苦境への批判が特徴。ただ、当初は暴力反対の穏健路線だったものの、日本軍のインドシナ半島進出と共に態度を変え始め、「国家社会主義」にも接近する。この頃にはアジア主義的な発想もあったと考えられる。

 なお、『ナガラワッタ』の後援者の中にはシアヌークの父親のスラマリット殿下もいた。シアヌークも10代の頃に何度かソン・ゴク・タンに会っているが、特に影響は受けなかったという。

 当時のインドシナ植民地をめぐる情勢は複雑であった。第二次世界大戦でフランス本国はドイツに降伏してヴィシー政権が発足、1940年から日本軍が進出する中、インドシナ植民地総督府は日本軍と協力する形で継続しており、一種の二重権力状態にあった。そうした中の1941年9月にカンボジアのモニヴォン国王が死去。フランスの植民地当局としては若くて経験の乏しい国王の方がコントロールしやすいという思惑があり、モニヴォンの曾孫にあたるシアヌークを王位につけた。公式行事の開会にあたっては「(ペタン)元帥閣下、あなたとともに」というスローガンを叫ばなければならないなど、カンボジア国王はフランスに追従しなければならない立場にあった。このような屈辱的な状況を覆そうとするソン・ゴク・タンなど民族主義者は日本側と連携してフランスの植民地支配反対運動を進めた。

 1942年7月、二人のカンボジア人僧侶がフランス批判のパンフレットを配った罪で逮捕され、そのうちの一人は拘束中に死亡する事件が起こった。カンボジア人からすれば仏教の神聖性を無視した行為と受け止められて反発が広がった。ソン・ゴク・タンたちはこの機会を捉えて大衆運動へと盛り上げようと試み、7月20日にはフランス理事長官府が襲撃された。死者は出なかったものの、室内を荒らされたことでフランス側は態度を硬化させ、パク・チョオウンは逮捕されてヴェトナムの東南に浮かぶプロコンドル(コンダオ)島へ流された。事件当時、日本の憲兵隊司令部にいたソン・ゴク・タンは地下に潜ってカンボジア北西部のバタンバン(当時はタイの行政管轄下)へ逃れ、バンコクの日本大使館に匿われた後に日本へ亡命した。上掲の玉居子書によると、このときにソン・ゴク・タンの逃亡を助けたのが、当時、大南公司のバタンバン出張所に勤務していた大川塾出身の加藤健四郎だったという(181~182ページ)。1942年のこのデモは植民地反対のナショナリズム運動における一つの画期点と位置づけられる。

 1945年3月9日のいわゆる仏印処理により日本軍はフランスのインドシナ植民地総督府を解体し、カンボジアのシアヌーク国王に独立を宣言させた(ただし、日本の本国政府が承認したわけではない)。この時、シアヌークの要請もあってソン・ゴク・タンは東京から戻って外相に就任した。さらに、日本の敗戦直前の8月9日、無能な閣僚の罷免を求めるデモが起こり、首相を兼任していたシアヌークは総辞職を決め、代わって成立した新政府でソン・ゴク・タンが首相に就任した。ところが、10月にフランス軍が戻ってきてプノンペンが占領されると、ソン・ゴク・タンは対日協力の責任を問われて逮捕され、サイゴン、次いでフランスに送られて軟禁状態に置かれた(ただし、悠々自適な生活で、法律の勉強を続けたという)。ソン・ゴク・タンの背後に君主制の廃止を求める共和主義者がいることに警戒心を強めた宮廷内の保守派の画策によるらしい。

 ソン・ゴク・タンの逮捕を受けて彼の支持者はカンボジア北西部に行き、クメール・イサラク(Khmer Issarak、自由クメール)運動を開始。シアヌークの要望もあってソン・ゴク・タンは釈放され、カンボジアに戻ったが、彼はシアヌークの政権には加わらず、反旗を翻した。クメール・イサラクに合流し、さらにシエムレアップの森林地帯で反植民地闘争を組織する。しかし、1950年代に入ってクメール・イサラクはクメール民族解放委員会(Khmer National Liberation Comittee)と左翼的な統一イサラク戦線(United Issarak Front)、その他の軍閥に分裂してしまう。1954年の時点までにソン・ゴク・タンは左翼陣営とは袂を分かつようになり、アメリカのCIAから連携の提案も受けていたらしい。

 ソン・ゴク・タンはクメール・クロムから強い支持を受けていた一方で、カンボジア国内政治での影響力や大衆的支持は相対的に低く、また左派とは訣別する一方で、中道派や右派はシアヌークが展開するサンクム(Sangkum)運動に吸収されていた。

 1954年に第一次インドシナ戦争が終わると、ソン・ゴク・タンはシエムレアップ近くの根拠地で主にクメール・クロムを中心としてクメール・セレイ(Khmer Serei、自由クメール)を組織し、タイ国境及び南ヴェトナム国境で活動した。クメール・セレイの宣言では、シアヌークに対して、北ヴェトナムによってカンボジアを共産化させるままにしていると厳しく批判。

 1970年3月18日、ロン・ノル将軍がクーデターを起こし、外遊中だったシアヌークを国家主席から解任、親米右派政権が成立した。10月9日には共和国宣言によって王制を廃止、「クメール共和国」と呼称。暫定的な国家主席には国会議長のチェン・ヘン(Cheng Heng、1916~1996年。中国系の中農家庭出身。政権崩壊後はパリに亡命、ソン・サン派とつながりを持ち、1991年の和平協定の後には政界復帰)が就任した。

 なお、上掲オズボーン書によると、このクーデターの前年からシアヌークの指示を受けてロン・ノルは南ヴェトナムにいたソン・ゴク・タンと密かに接触していたという。カンボジア領内に進駐している北ヴェトナム軍を追い払うためにソン・ゴク・タンが率いるクメール・クロムの部隊を動かしたかったらしい。その名目で投降するソン・ゴク・タン派の部隊もあったが、結果としてはロン・ノルのクーデターに参加することになる。

 それにしても、ソン・ゴク・タンとはたびたび対立しながら、しつこく関係を持とうとするシアヌークの微妙な思惑が気になる。『シアヌーク回想録──戦争…そして希望』(友田錫・青山保訳、中央公論社、1980年)を見ると、クメール・ルージュを批判する文脈の中で、「クメール・ルージュの指導者は、学生や教師だった頃は共和制民族主義を標榜するソン・ゴク・タン主義者だった。ところが、ソン・ゴク・タンは日本帝国主義やアメリカ帝国主義の卑劣な手先に過ぎず、その欺瞞が分かった後に彼らは赤く染まっていった」という趣旨のことを書いている。よっぽどソン・ゴク・タンのことが腹にすえかねていたようだが、ただし、これは彼の死後に書かれたもの。長い因縁における局面ごとに彼についてどのようにシアヌークが判断していたのかは別途検討する必要があるのだろう。

 1971年2月9日、ロン・ノル首相が病に倒れ、4月20日に内閣総辞職。後継首相と目されていたシリク・マタク副首相(シアヌークの従兄弟にあたり、シアヌーク追放を主導した)の昇格には軍部中堅層や学生・インテリ層の反対が強かった。後継体制が定まらない中で政情は不安定になり、やむを得ず5月になってロン・ノルが再び組閣。ただし、彼は病身であるため集団指導体制を取る。

 ロン・ノル政権は発足当初から寄り合い所帯であり、国民に絶大な人気があるシアヌークを敵に回した以上、ロン・ノルに代わって「英雄」として対抗し得る人材が必要であった。そうした中で台頭してきたのが、ソン・ゴク・タンを代表とする旧クメール・セレイのグループであった。彼らにはアメリカとのつながりがある点で有力だったが、他方で彼の南ヴェトナムとのつながりは、反ヴェトナム感情を持つ一般カンボジア国民には不評というマイナス点もあった。

 ロン・ノルの弟のロン・ノン大佐とシリク・マタクとの対立で政局が混乱する中、1971年には深刻な経済危機に見舞われる。さらに議会派と対立したことで、権力維持のため軍部に依存せざるを得ず、右傾化が顕著となった。国内情勢が混乱する中、対立勢力の調停に失敗したチェン・ヘン国家主席は1972年3月に辞任、ロン・ノルに全権を移譲した。

 ロン・ノルは大統領に就任したが、病身の彼は激務に耐えられず、実質的に国政を運営するのは誰になるかが焦点となった。シリク・マタクは不人気で、他には誰も組閣を引き受ける者がいない中、ロン・ノル大統領の強い要望とアメリカの期待を受けてソン・ゴク・タンが受諾した。1972年3月19日、第一国務相に任命され、事実上、ロン・ノルに代わって国政を担当することになり、ロン・ノル=ソン・ゴク・タン体制が発足した。彼は反共・反王制・反シアヌークの民族主義者として学生・インテリ層にも受けが良く、政府軍の一翼を担うクメール・クロム部隊の指導者として軍部にも影響力があった。他方で、彼は強硬なタカ派であるため政権の一層の右傾化が進み、シアヌーク派や左派は反発を強め、内戦は激化する。
(※以上、ロン・ノル政権時代の動向については高橋保「政変後のプノンペン政権における政治過程の動態──共和制移行からロン・ノル=ソン・ゴク・タン体制の成立まで」『アジア経済』第13巻5号、1972年5月を参照した)

 ソン・ゴク・タンは事実上の首相として再登板したものの、爆弾攻撃の標的にされた事件(ロン・ノル将軍の弟であるロン・ノン大佐の仕業と言われる)の後に、ロン・ノルによって職務を解かれ、南ヴェトナムに亡命した。1975年のヴェトナム統一後、ソン・ゴク・タンは逮捕され、拘留中の1977年に死去。なお、クメール・ルージュの政権樹立後、ロン・ノルやシリク・マタクと共に「7人の売国奴」の一人としてリストアップされていた。

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2012年10月15日 (月)

藤原辰史『稲の大東亜共栄圏──帝国日本の〈緑の革命〉』

藤原辰史『稲の大東亜共栄圏──帝国日本の〈緑の革命〉』(吉川弘文館、2012年)

 価値中立的で没政治的のように思われる科学技術。しかし、それが置かれたコンテクストによっては逆に支配/被支配の関係性を固定化させる政治的道具となりかねない逆説をどのように考えたらいいのか。本書は、近代日本における稲の品種改良に着目し、それを植民地へ普及させていく上で農学者の果たした役割と言説を分析している。

 植民地各地にも農学者が赴任して品種改良に着手していたが、朝鮮半島ではあまりうまくいかなかったらしい。本書で取り上げられる永井威一郎(荷風の長兄)は農学者としてだけでなく科学啓蒙書でも知られていたそうだが、「米食民族」対「パン食民族」といったレトリックで「大東亜共栄圏」のイデオロギーを振りかざしていたことが際立つ。科学技術への自負と植民地の現場における厳しい現実との深い溝に直面したとき、それを無理やり乗りこえようとしてこうした非科学的な自民族中心主義に寄りかからざるを得なかったと指摘される。

 対して、台湾では磯永吉の「蓬莱米」が成功を収めたことはよく知られている。ただし、統計データを見ると蓬莱米の生産高が一定レベルまで延びた一方、在来米も併存し続けていたのが興味深い。蓬莱米を生産するにも肥料など生産費がかさむこと、自家用には高価であること、それからビーフンなどの食習慣に合わなかったことなどから、現地民の拒絶感は消えていなかったと指摘される。ただし、蓬莱米は換金性が高いため、技術的な優位性でそうした拒絶感を強引に棚上げすることで普及していった。本書での磯永吉への評価は少々辛い。それは、たとえ本人は善意であっても、科学技術至上主義的な態度が無媒介で現実政治に接続されたときに起こり得る問題群について無頓着であったことを彼に代表させて批判していると解される。

 こうした文脈の中で、「緑の革命」の限界という問題にもつながってくる。蓬莱米などの品種改良は肥料に高反応であり、生産農家は肥料に依存せざるを得なくなった。それは、肥料を製造する化学工業と密接につながる農業システムへの転換を意味する。つまり、戦後になってより顕著となった多国籍企業(例えば、モンサント社)によるグローバルな食支配のひな型が、当時の「帝国」日本で先駆的に見出せるとする指摘が本書の基本的な問題意識をなしている(エコロジカル・インペリアリズム=生態学的帝国主義)。

 磯永吉が杉山龍丸と付き合いがあったというのが目を引く。杉山はインドで農業指導を行っていたが、その時に蓬莱米の種を持って行ったらしい。杉山龍丸の父親は夢野久作、従って祖父は杉山茂丸であり、玄洋社人脈に属する。また、蓬莱米は戦時下、インドネシアでの農業指導でも用いられた。アジア解放という大義名分や国策としての「南進」、すなわち「アジア主義」的感覚が、蓬莱米を媒介として戦後になっても別の形ながら連綿と続いていたところに興味を持った。

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藤原辰史『ナチスのキッチン──「食べること」の環境史』

藤原辰史『ナチスのキッチン──「食べること」の環境史』(水声社、2012年)

 ふだん我々が何気なく使っている台所。しかしながら、よく考えてみればこれは自然、技術的進歩、社会的意識、様々な知が集約された実に驚異的な空間である。台所というフィルターをすかすと、当時の社会的動向もまたヴィヴィッドに浮かび上がってくる。

 ナチズムという政治体制は様々に奇妙な顔を持っているが、「血と土」というシンボルに表われた非合理的な情緒性と、テクノロジカルに効率を重視する合理性とが共存している矛盾は容易には理解しがたい。ところが、こうした矛盾のせめぎ合いの中にこそナチズムが人々を動員するメカニズムの一端が見出される。そこを本書は「台所」をめぐる人物群像を通して描き出していく。

 第一次世界大戦後の劣悪な住宅事情に応えるべくリホツキーが設計したフランクフルト・キッチンはテイラー主義の影響を受けている。家事の合理化によって主婦の労力軽減を図ったが、同時に居住と調理の分離は家族の一体性をも切り離し、ひいては食文化の破壊につながるのではないか、とも批判された。機能的合理性を特徴とするフランクフルト・キッチンはナチスのイデオロギーに反するようにも思われるが(例えば、ナチスはバウハウスを弾圧した)、実際にはナチス時代に広がり、労働者約一名の「工場」が各家庭に一つずつ組み込まれていく結果になった。リホツキーは社会主義思想にシンパシーを抱いていたこと、家事労働の省力化にはフェミニズム的な動機があったことを考え合わせると、それがナチズム体制に取り込まれていった逆説が興味を引く。一見したところそれぞれ別個の思想的態度と思われていたものが、いずれも「近代」の申し子としての性格を帯びていたことが分かる。

 ヒルデガルト・マルギスが開設した主婦向け無料相談所のハイバウディ、当時の家政学における言説なども合わせ、ナチス時代の「台所」をめぐる分析からどのような姿が見えてくるのか?

「…主婦の個人的な感情におかまいなしに、台所という枠組みから主婦を変えていく。空間に存在する人間から人間らしさを抹消し、代わりに擬似有機体となった空間が人間を導き、人間を変身させていく、というナチス特有の動員過程を、台所のナチ化過程から窺い知ることができる。これはまさに、労働の内実を労働空間から変えようとした台所のテイラー主義者たちの挑戦の帰結である。クリスティーヌ・フレデリック、マルガレーテ・シュッテ=リホツキー、エルナ・マイヤー、ヒルデガルト・マルギスたちが耕した豊饒な土壌で、ナチスは主婦たちを戦争を担う「機械」へと育てていったのである。」(359ページ)

「…ナチスの手口が巧妙なのは、そこに社会参加の意識を植えつけたことである。自分が狭い空間のなかでコントロールされているにもかかわらず、家族のため、民族のため、そして国家のために戦っているという幻想のなかで、仮象の「誇り」を与えることである。それと、情熱も感傷もなくひたすら任務を遂行する「精神なき専門人」という像は、矛盾するようで実は一致する。主婦たちを、考えさせず、感じさせず、型にはめ、空間に埋め込む。その場と行動の型は、自動的に公共空間、そして戦争と結びつけられており、その空間に存在する人間は、ほぼ自動的に社会参加、もしくは戦争参加を果たさざるをえない。ナチスの担い手というにはあまりにも政治に無関心で、犠牲者という以上にしっかりナチスの支持していた、という第三帝国を生きた主婦の奇妙な状況は、このような近代戦の環境を台所に導入したからではないだろうか。台所にみるナチスの主婦動員の構造を、私はさしあたりこのように考えたい。」(360~361ページ)

 ナチス時代のレシピ本も興味深い(honzのレビューでは実際に料理を作ってくれている→こちら)。当時の食糧危機の中で節約方法を紹介した点ではナチスが国民経済と家庭経済とを結びつける手立てとして活用された一方、企業広告として食材関係の販売経路を確保しようという思惑も重なっていた。反資本主義を掲げるナチズム体制においても、その看板の裏では親資本主義的な活動を許容していた二面性を裏付ける例として指摘される。なお、現代社会でもおびただしく刊行されるレシピ本やマニュアル本の類いも、科学技術史と民衆心性史との接点を掘り起こす上で実は貴重な史料になるという指摘は重要だ。

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藤原辰史『カブラの冬──第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』

藤原辰史『カブラの冬──第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』(人文書院、2011年)

 第一次世界大戦下のドイツで70~80万人もの餓死者を出したと言われる「カブラの冬」(1916~17年)。開戦によって海外からの食糧輸入ルートは遮断され、当初、長期戦になろうとは誰も予想していなかったので食糧問題には何らの考慮も払われておらず、付け焼刃的な食糧政策はかえって混乱に拍車をかけた。例えば、「豚殺し」。学者のはじき出した単純なカロリー計算によると、豚飼育用のジャガイモは人間の消費量を上回る。ならば、豚は殺してしまえ──しかし、人間のエネルギー源として穀物と脂肪分とで果たす役割の相違を無視した暴論は飢餓をより深刻なものとした。

 飢餓にまつわる不満を訴えようにも政治システムとして適切な代表ルートがなかったため革命を誘発。続くヴァイマル共和国期でも食糧政策の脆弱性や不平等性は克服できず、大戦中に実体験した飢餓に根ざした憎悪感情は行き場を失い、ナチズム台頭を後押しする契機となった。こうした憎悪は、「飢えたドイツ人/豊かなユダヤ人」という人種主義的偏見を増幅させたり、「食糧さえ確保できていれば戦争には勝てたかもしれない」(背後からの一突き伝説)という「終わり損ねた戦争」意識をもたらした。海上封鎖を受けたことは、海外植民地ではなく東方拡大を目指したヒトラーの「広域経済圏」構想にもつながったという。

 飢餓という生命維持に根ざした根源的な記憶がその後のドイツ革命、ヴァイマル共和国期、さらにはナチズムへと如何に深刻な影響を及ぼしていったのか、そこを農業生産という視点で一つの見通しをつけていく手際が鮮やかである。

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2012年10月14日 (日)

【映画】「桐島、部活やめるってよ」

「桐島、部活やめるってよ」

 何をやらせてもうまくこなしてしまう奴、努力してもそこそこまでしかいかない惨めさ。カッコイイ奴は何もしなくても人をひきつけるオーラを放っているが、ダサイ奴はあがけばあがくほどダサくなる。圧倒的な格差は、教室の中で自ずとヒエラルキーを作り上げる。あいつにはかなわない、でも、こいつよりはマシだ──そうした比較の眼差しが交錯する空間は息苦しい。自分の思惑とは関係なく何となく出来上がってしまった価値序列の中で自分のポジションを確保するよう強迫的に促されてしまう。

 それにしても、みんな無関心なようでいて、他のクラスメートのことをよく観察している。何かがあればすぐ噂になる。

ある日、「桐島が部活をやめたらしい」という噂が流れ始めた。実は最後まで桐島は姿を表わさないのだが、どうやらスポーツ万能でモテモテのパーフェクトマンらしい。噂は静かな波紋を広げ、教室内のヒエラルキーは崩れていく。それは同時に、他人との比較で自分を位置づける空虚さを自覚することでもあった。

芯のない自分に気づいて居たたまれなくなる、あの感覚。一人一人の心情的な揺れが描かれていく。群像劇のスタイルは、教室内に張り巡らされた視線の網の目を解きほぐす構成として秀逸である。

 「恋愛」だって例外ではない。例えば、校舎裏で宏樹と待ち合わせた沙奈。宏樹に憧れている吹奏楽部の沢島がすぐ近くでサックスの練習をしながら自分たちを気にしているのが分かっている。だからこそ、わざと宏樹にキスをせがんだ。視線の先にあるのは、宏樹ではなく、沢島が動揺した姿である。また、後輩男子からの憧れの眼差しをサラッと受け流す梨紗の余裕の笑顔は、自分は桐島と付き合っているという優越意識の表われだ。しかし、桐島が部活をやめたのを知らなかったことで彼女の面目は丸つぶれ。自分が「彼」を好きだという以前に、「彼」と付き合っている自分を周囲の視線にさらすことで成り立っていた自尊心は実にもろい。

 宏樹は野球部に属しているが、放課後はいつも帰宅部の仲間とつるんでいる。彼もまた万能マンのタイプだが、野球部のキャプテンには頭があがらない。キャプテンは他の三年生が受験に備えて部活を引退しても頑張っている。ドラフトが終わるまでは気が抜けない、と言うが、スカウトされる可能性なんてほとんどないことをキャプテン本人もよく分かっている。しかし、最後まで頑張りぬきたいという意地のようなものがある。丸刈りで朴訥としたキャプテンはいけてない。だが、宏樹は彼の顔を見るたびに、宙ぶらりんの自分への引け目を突きつけられるようでつらそうだ。やれば何でもできるはずの彼だが、他者からの評価にさらされるのを恐がって躊躇しているのかもしれない。

 映画部の前田は根っからの映画オタクである。運動はからきしダメで風采も上がらない彼は、教室内のヒエラルキーでは最下位だ。しかし、彼には映画がある。学校でゾンビ映画を撮ろうとする彼ら映画部の滑稽な姿は明らかに浮き上がっているが、あまり意に介さない。普段はオドオドした態度の彼でも、自分のやりたいことに一生懸命なとき、他者との比較で自分を位置づける視線の網の目からは完全にフリーになっている。校舎屋上での乱闘騒ぎの後、宏樹が前田の背後に神々しい光を感じる演出は、宙ぶらりんになっている引け目の意識状態から離れていけるきっかけをつかめたような感触を得たことを表わしていると言える。

【データ】
監督:吉田大八
原作:朝井リョウ
2012年/103分
(2012年10月13日、テアトル新宿にて)

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