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2012年8月26日 - 2012年9月1日

2012年8月29日 (水)

玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢──志を継いだ青年たちの物語』

玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢──志を継いだ青年たちの物語』(平凡社新書、2012年)

 私はだいぶ以前からアジア主義というテーマに関心を持っていたものの、それを素直に表明できない微妙な居心地の悪さも同時に感じていた。「アジア解放」という大義名分が、かつて日本の国策としての対外的膨張政策に利用された経緯はどうしても否定できず、そこへの慮りを常に意識しなければならないからだ。ただし、「アジア解放」という理想を純粋に信じて生き、そして死んだ人々がいたことも無視できない事実であり、このあたりの複雑な絡まり具合を解きほぐしながら理解していくのはなかなか容易ではない。

 そうした複雑さを体現した人物の一人としてはまず大川周明が挙げられるだろう。彼はクーデター騒ぎに参画するなどアクティヴな活動家であり、またアジア主義のイデオローグとして戦犯指名を受けたため、毀誉褒貶が激しい。他方で、篤実な学者であったことも確かであり、そうした二面的なパーソナリティーを満川亀太郎は「学者としては血があり過ぎ、志士としては学問がありすぎる」と評していた。彼の学問的な先見性はアジア認識という点で認められる。「アジア解放」という理念に目覚めたのは大川がもともとインド哲学を研究していたからであり、憧れのインドが現実にはイギリスの植民地支配下で呻吟していることへのショックが動機だったことは有名な話だ。また、大川から研究上の便宜を受けた井筒俊彦は「彼はイスラムに対して本当に主体的な興味を持った人だった」と語っていたが、近年、大川をイスラム研究の先駆者として評価する声はしばしば見受けられる(例えば、山内昌之、鈴木則夫、宮田律など)。

 アジアと言っても広い。そうした中で大川の関心は東南アジアにもしっかり及んでいたことは本書で知った。大川自身が東南アジア問題にじかに関わったというわけではなく、弟子たちを通して。南方で商人として活躍できる人材の育成を目的に掲げて、東亜経済調査局附属研究所が1938年に開設され、入学した若者たちは所長の大川周明から直接・間接の薫陶を受けた。本書は、この通称「大川塾」を卒業後に南方で活躍した人々からの聞き取りをもとに、第二次世界大戦前後の時期において日本が東南アジアと関わりを持った際の裏面史を描き出している。

 様々なエピソードが紹介される。真珠湾攻撃と同時に発動されたマレー作戦においてタイ国境で活躍。アウンサンをはじめビルマ独立運動の志士に軍事訓練を施した南機関やビルマ独立義勇軍への参加。仏領インドシナの反仏活動家と接触した人もいて、その相手にはクオン・デ、チャン・チョン・キム(日本軍占領下でベトナム首相になった歴史家)、ゴ・ディン・ジェム、ソン・ゴク・タン(カンボジアの反仏活動家)などの名前も見える。チャンドラ・ボース率いるインド国民軍と共にインパール作戦に参加した人もいた。

 彼らの多くは商社員として現地に渡っていたものの、実際には日本軍の作戦行動を補完する役割を果たすことになった。現地語をマスターして土地の人々の中に潜り込んでいた彼らの存在は、見ようによってはスパイである。その点で、大川塾は陸軍中野学校と同類のスパイ学校とみなされることもあったらしい。だが、著者の取材相手の中に、スパイと呼ばれることに強烈な拒否感を露にする人がいたことをどのように受け止めたらいいのか。

 大川周明は塾生たちに「諸君の一番大事な事は正直と親切です。これが一切の根本です。諸君が外地に出られたら、この二つを以て現地の人に対し、日本人とはかくの如きものであるという事を己の生活によって示さなければなりません」と諭していたという。「正直と親切」──陸軍中野学校で教えられていた「謀略は誠なり」という言葉もふと思い浮かべたが、その趣旨はだいぶ違う。謀略は周囲の人に決して気づかれてはならず、場合によっては他人を利用する。そうした点で絶対的に孤独な活動であり、だからこそ自身の活動のよりどころとして求められる超越的な何かが「誠」と表現されていたのだと私は理解している。これに対して、大川の言う「正直と親切」とは、現地の人々と対等な関係を保ち、友人として誠意を尽くす態度である。少なくとも塾生たちはそのように理解していた。

 こうした「正直と親切」に基づくアジア主義は、日本の国策がはらんだ矛盾を敏感に感じ取り、軍部が推進していた作戦至上主義に対して嫌悪感すら抱かせた。大川塾の出身者たちが日本人として驕り高ぶることへの戒めを語るのを本書は拾い上げている。
──「日本人は“われわれの指導のもとに”と考える。だから土地の人と馴染むことができないんです。日本が盟主? それは間違いですよ。」
──「目的があればどんなことをしてもよいのか。しかもその目的ですら当時の日本の為政者即ち軍と官の中でどれだけの人が真剣に考えていただろうか。」
──「日本軍の勝利があって独立があるのだという姿勢には嫌悪感しか覚えなかった。」
──「(ビルマ人を)見下げると、どこか(表)に出てくるんですね。自分より年上でしょう、大学も出ているでしょう? そういう人と会うときは自分がある面では劣っているんだから、同格以上に彼らを立てる。まず日本人ということをかなぐり捨てて、『俺はビルマ人になるんだ』という気持ち。ビルマ人になるなら、みんな先輩ですから。」

 もちろん、彼ら自身が主観的には善意であったとしても、実際の歴史のなりゆきの中で(結果論にしても)占めた位置づけを考えるなら、手放しで礼賛するわけにはいかない。その点はしっかり留意する必要があるが、他方で、「アジア主義」と一括りにされる中でも、様々な想いや動機があったこともきちんと見分けていく必要がある。そうでなければ歴史は不毛なレッテル貼りで終わってしまう。実にアンビバレントでもどかしい作業ではあるが、血の通った理解を目指すなら、やはり歴史の当事者の肉声をできる限り拾い上げていく作業が求められる。存命者も少なくなっていく中、これまであまり知られることのなかった大川塾の実態を、そして出身者たちの抱いた情熱や葛藤を明らかにした本書の仕事はやはり貴重である。そして、異国に身を埋めて生きる覚悟とはどのようなことなのかを考える上でも興味深い。

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2012年8月27日 (月)

【映画】「かぞくのくに」

「かぞくのくに」

 1997年の夏。兄のソンホが25年ぶりに故郷へ戻ってきた。父や妹の出迎えを受けても、何を気兼ねしているのか表情が硬い。ところが、実家のある商店街に近づくと、懐かしい景色や空気の一つ一つを確かめるかのように動作は生気を帯び始める。たどりついた実家の前には、なけなしの財産から北朝鮮へ仕送りを続けてくれたオモニの姿。ソンホはいつの間にか胸に着けていた金日成バッジを外していた。せめて故郷にいる間くらいは北朝鮮での苦労をいったんリセットしたいという思いが無意識のうちに働いたのだろうか。

 16歳で北朝鮮に渡航して以来、二度と見ることはないと諦めていた故郷。しかし、これはあくまでも病気の治療のため特別に3ヶ月だけ許可された一時帰国であって、病気の治療もまた「任務」と言い表される。彼の傍らには北朝鮮から派遣された監視員が寄り添う。「祖国」の影を振り払うことはできず、懐かしさを噛み締めるだけの気持ちの余裕はない。

 ソンホには脳腫瘍の疑いがあった。日本の病院で診断を受けたところ、治療には時間がかかるという。しかし、期限は3ヶ月しかない。家族はツテを頼って別の医者を探し、朝鮮総連幹部の父は滞在期間延長を働きかけていた。しかし、家族の努力をあざ笑うかのように、一本の無慈悲な電話連絡で希望は無残に打ち砕かれた。明後日には帰国せよ、という上層部からの一方的な通告。抗うことは許されない。日本で育った妹には全く理解できないが、ソンホは表情も変えずに静かにつぶやく──「あの国はいつもこうなんだ。理由なんかないんだよ」。

 北朝鮮に渡った兄と日本に残った家族──北朝鮮の理不尽で不可思議な政治体制が、血を分けた家族の間に見えない壁を築き上げてしまっている。具体的に指摘するなら、沈黙と諦念。家族にも、学校の同窓生にも、かつての恋人にも、北朝鮮での暮らしについて語ることはできない。口止めされていることがあるだろうし、また言っても理解はしてもらえないという諦めもうかがえる。家族として互いに思いやろうとすればするほど、この見えない壁はますます高く立ちはだかってしまう。

 かつて「地上の楽園」と謳われた「祖国」北朝鮮へ向けて、数多くの在日朝鮮人が海を渡った(ただし、「北」出身者は少数で、「南」の人々が9割を占め、ヤン監督の一家は済州島出身)。日本における差別などの事情で、自分の能力を活かせる形での将来を求めるなら「北」に渡った方が良いという判断は当時としてはやむを得ない部分があったにせよ、その代償はあまりにも過酷であった。

 「帰国事業」を推進していた父に対して、ソンホはわだかまりがあったはずだが、少なくとも口に出して非難することはない。表情や態度に隠し切れないものがあるのははっきりと分かるが、何か言おうとしてもグッとこらえる。父自身が後悔していることはうすうす分かっていたのだろうし、それ以上に、北朝鮮の理不尽な社会システムに順応した結果として、ソンホにはある種の諦念が生活態度として定着してしまっているようだ。こうなってしまっているものは、もう仕方がない…。そこが、言いたいことをはっきり言う妹と対照的に際立つ。

 「あの国ではな、考えると、あたま、おかしくなるんだよ…。考えるとしたら、どう生き抜くか、それだけだ。あとは思考停止…。楽だぞ、思考停止は…。」ソンホは自嘲するように笑う。しかし、すぐ真顔に戻り、妹に向けて言葉をつなぐ。「だけど、お前には考えて欲しいんだ。自分の人生なんだから、よく考えて納得しながら生きて欲しい。」

 ソンホは妹と一緒に買い物へでかけたとき、高価なトランクケースを見かけた。妹が「欲しいんでしょ」と声をかけたが、彼は諦めた。その代わり、妹がそのトランクケースを携える姿を想像するだけで満足した様子である。「お前、それを持って色々な国に行ってこいよ」。

 ソンホは朝鮮総連幹部たる父の希望に従って「祖国」北朝鮮へ渡ったが、それによって他にもあり得た自分の人生の可能性すべてを断念せざるを得なくなった。自分自身の可能性を自分自身で考えながら選んでいくという生き方をできなかった彼は、そうした生き方を妹に託した。妹は当然ながら、自分の人生を生きるだろう。他人の思惑など振り切って。現在の日本社会で彼女を妨げるものはない。ただし、託された立場として、わがままや自分勝手に生きるのとは話がまた違ってくる。それは、苦労し続けなければならない兄への負い目の意識とも違う。いつか自分の考えを兄に話すときを想像したとして、分かってもらえるだろうか、そうした自問自答を常にすることになるだろう。

 映画のラスト、彼女がトランクケースを引きずって歩く姿が映し出されるが、そのトランクの中には、兄の諦めざるを得なかった様々な想いや可能性も一緒に込められているはずだ。政治の壁で引き裂かれたように見える家族でも、このように気持ちの上での何かを託し、託される関係として一緒に生きていくことができる。「かぞくのくに」というタイトルの意義はそうしたあたりから汲み取れるように思った。

 ヤン・ヨンヒ監督はこれまで自身の家族をテーマにドキュメンタリーを撮ってきたが、今回はフィクションとして再構成されている。北朝鮮に渡った兄は実際には3人いたが、エピソードを組み合わせる形でこの映画ではソンホに凝縮されている(それぞれの人柄については、原作とされるヤン・ヨンヒ『兄 かぞくのくに』[小学館、2012年]で思い入れ強く描き出されている)。ソンホ役の(ARATA改め)井浦新のすずやかな表情は、諦念を帯びた愁いを静かに浮かび上がらせているところが実に良い。北朝鮮の監視員役はヤン・イクチュン。主演・監督した「息もできない」での粗暴さとは全く対照的な役柄だが、無表情の裏にある感情的な動きをきちんと感じさせてくれる。

【データ】
監督・脚本:ヤン・ヨンヒ(梁英姫)
出演:安藤サクラ、井浦新、ヤン・イクチュン、宮崎美子、津嘉山正種、他
2011年/100分
(2012年8月26日、テアトル新宿にて)

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