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2012年8月12日 - 2012年8月18日

2012年8月16日 (木)

白石昌也『日本をめざしたベトナムの英雄と皇太子──ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』

白石昌也『日本をめざしたベトナムの英雄と皇太子──ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』(彩流社、2012年)

 1940年10月29日、フランス植民地当局によってベトナム中部の古都フエで自宅軟禁されていたファン・ボイ・チャウが静かに息を引き取った。日本軍の北部仏印進駐から1ヶ月あまり後のことである。彼はかつてベトナム独立のための支援を日本に求め、ベトナム人の若者を日本へ留学させる東遊運動を積極的に推進した。そうした彼が日本軍進駐の報に接してどのような感慨を抱いたのか気になるところだが、特にコメントを残すことなく世を去った。

 そもそも日本軍の北部仏印進駐とは、第二次世界大戦でフランス本国がナチス・ドイツに屈服した空白状況につけこみ、日本がフランスのインドシナ総督府(ヴィシー政権側)と共同統治を行うという形で進められたものであった(日仏共同統治は1945年3月の明号作戦発動による対仏クーデター、いわゆる「仏印処理」が実施されるまで続く)。どのような事情があるにせよ、アジア解放の大義を掲げた日本人が、まさに追放すべきとしたフランス人と一緒になって植民地支配を行うという矛盾は覆い隠せない。1943年のいわゆる「大東亜会議」にもインドシナ代表はいなかった。「アジア主義」という麗しい理念と現実のパワー・ポリティクスとが心情的には乖離しつつも日本の国策に沿って奇妙に共存しているあり様が、死を間近に控えたファン・ボイ・チャウの目にどのように映っていたのか? 本書で叙述される彼の生涯を見てみると、おそらく複雑な苦々しさが胸中に去来していたであろうことも想像される。

 冷戦という状況下で南北に分断されていたベトナムは、フランスとのインドシナ戦争、アメリカとのベトナム戦争という惨禍を経てようやく統一されたのは1976年のこと。ここに至るまでにベトナム民族運動がたどった長い道のりの中で、日本もまた大きな関わりを持っていた。

 本書は、東遊運動を主導したファン・ボイ・チャウ、彼が民族独立運動のシンボルとするために擁立した阮朝の皇族クオン・デという二人を軸に、20世紀前半における民族運動の動向を通してベトナム近代史を描き出している。彼らが亡命先の日本で有志の支援を受け、とりわけ柏原文太郎、浅羽佐喜太郎、宮崎滔天など善意の人々と出会ったことは特筆に価する。また、同様に亡命者という境遇にあった中国の梁啓超をはじめとしたアジア各地の革命家たちとの出会いからは、独立運動には横の連帯が必要とする「アジア主義」的な思想軸を意識することになった(海外の革命家ばかりでなく、日本の社会主義者も含めて設立された亜洲和親会にファン・ボイ・チャウも関わっている)。

 他方で、その「アジア主義」は日本の国策に利用されることにもなる。日本に期待をかけていたファン・ボイ・チャウは、他ならぬ日本政府がフランス政府の要求に配慮したため追放されてしまった。こうしたダブル・スタンダードは、彼個人の問題を超えて、広く「アジア主義」に付きまとっていた矛盾であったと言えよう。

 ベトナム国内での動向としては、フランスによる愚民化政策から抜け出すために海外への留学を推進し、武力もいとわない急進的な独立運動を目指したファン・ボイ・チャウに対して、ファン・チュー・チンはフランスの支配下であっても徐々に近代化を進め、ベトナムの自立につなげることができるとする改革志向の考え方をしていた。こうした路線上の相違にも関心を持った。

 本書の下敷きとなっている白石昌也『ベトナム民族運動と日本・アジア』(巖南堂書店、1993年)は以前にこちらで取り上げた。ファン・ボイ・チャウについては他にもこちらで何冊か取り上げたことがある。もう一人の主人公、クオン・デについて、森達也『クォン・デ──もう一人のラストエンペラー』(角川文庫、2007年)はこちら。クオン・デと関わりのあったフランス文学者・小松清についてはこちら。また、本書の参考文献に挙げられているファム・カク・ホエ(白石昌也訳)『ベトナムのラスト・エンペラー』(平凡社、1995年)もこちらで取り上げた。 

 本書は「15歳からの「伝記で知るアジアの近現代史」シリーズ」の第1巻。中高生向きにアジア近現代史を新たに説きおろすという趣旨の企画である。ところで、20世紀前半における日本とアジアとの関わりを考える際、対日協力者の存在は無視できない。親日/反日のような座標軸で捉えると不毛になってしまうが、本書はそうしたあたりでバランスが取れており、近現代史を考察する上でのリテラシーを磨くにもちょうど良いと思う。ベトナムも含め東南アジア各国の近代史に関して専門的な研究成果はしっかりと蓄積されているが、一般読者向けにリーダブルな啓蒙書は見当たらなかったので、このシリーズには注目している。

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林英一『残留日本兵──アジアに生きた一万人の戦後』

林英一『残留日本兵──アジアに生きた一万人の戦後』(中公新書、2012年)

 第二次世界大戦において「大東亜共栄圏」なるスローガンを掲げて日本は勢力範囲を大幅に拡大させたが、国力を度外視した無謀な壮図はやがて行き詰まり、1945年8月の敗戦と共に帝国は空中分解することになった。動員された日本兵はおびただしい屍をさらし、生き残った者とてすんなり帰ることができたわけではなく、延びきった戦線の各地に取り残された人々も少なくない。終戦後、何らかの事情で出征先の現地(もしくは抑留先の旧ソ連領)に残留した日本兵は1万人はいたであろうと推測されるが、その実態はよく分からない。

 「残留日本兵」と聞いて具体的にはどのようなイメージを思い浮かべるだろうか? ルバング島で発見された小野田少尉、インドネシア独立戦争に身を投じた志士、あるいは中国の山西省で反共の防波堤とすべく意図的に残された日本兵──実に多様で、共通した属性を導き出すのは難しい。本書は資料的に確認できる約100人の個人史的背景を調べた上で、こうした立場も動機も様々な「残留日本兵」の全体像を整理しながら一つの見通しをつけようと試みている。著者はまだ20代の若手だが、これだけの労作をものしていることには、正直、驚いた。

 三つの論点に私は関心を持った。第一に、「軍人であれば下士官・兵のような階級の低い者、軍民関係でいえば居留民のように組織の拘束力が相対的に弱い集団に属している個人のほうが、容易に残留できたのではないか」(38ページ)という論点。

 第二に、アジア各地で国民国家が形を成し始めた1950年代半ばになると、各地の「残留日本兵」の追放が検討されたという指摘。言語や習慣も現地にすっかり馴染んでいたとしても、現地政府の方針や思惑によって日本へ強制送還された場合もあれば、逆に現地社会に溶け込んでいなくても現地政府の都合で市民権を得たケースもある。

 第三に、日本社会に帰還した「残留日本人」の受け止め方の変遷。1950年代初めまでは日本社会自体が敗戦のショックから立ち直っていない時期で、帰還兵もさほど目立たなかった。1950年代半ばから1960年にかけては「戦争の被害者」と同情され、その後は帰還兵も稀になったという事情もあるかもしれないが、1974年に発見された小野田少尉は「戦争の英雄」としてマスコミの寵児になった。当時の日本は高度経済成長の最中だったが、それは他方で物質文化の精神的空虚さを感じ始めていた頃であり、小野田少尉は戦前的な美徳を体現した生き残りとして注目を浴びたものと考えられる。ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」で、中国・山西省に実質的に「棄民」された奥村和一が、不屈の「戦争の英雄」たる小野田少尉に食って掛かるシーンがあるが、ここからは戦後日本社会における「残留日本人」イメージの対照的な相克が浮かび上がっているようにも見えてくる。

 「残留日本兵」はもちろん日本社会だけの問題ではない。各地の現地社会の中で彼らの存在はどのように受け止められていたのか。独立義勇軍に参加した義侠心への感謝もあるだろうし、他方で戦争が続いていると思い込んでいるため現地人への襲撃を繰り返していた者もいた。技術を買われて居残った者もいるし、現地人と家庭を持ってそのまま溶け込んでいった人々も多い。個々それぞれに事情はあるにせよ、現地社会と草の根レベルで直接的な関係を持っていたことは、彼らを通して「日本」なるものが認識されていた側面があったと言える。そうした意味で、広義の「アジア」と日本との生身の関り方を考える上で「残留日本兵」の問題はやはり重要な切り口となり得るだろう。

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2012年8月15日 (水)

後藤乾一『火の海の墓標──ある〈アジア主義者〉の流転と帰結』

後藤乾一『火の海の墓標──ある〈アジア主義者〉の流転と帰結』(時事通信社、1977年)

 明治以来、日本は「大国」としての地位を高めつつあった一方で、農村の逼迫した状況は相も変わらず、一旗挙げようと海外へ渡って行く人々がいた。家族単位で移住する場合には南米へ向かうルートがあったが、個人単位では南洋へ行くケースが多かったという。本書の主人公、市来竜夫も個人でインドネシアへ向かった一旗組みであった。

 1906年、熊本県に生まれた市来は、没落した生家を再興させたいという一念から1928年にスマトラへ渡った。当時の在留邦人には一等国意識が強く、現地人を見下す傾向があったらしいが、そうした中でも市来は現地人女性と結婚した。体面を気にする在留邦人社会の束縛には嫌気がさし、むしろインドネシア民衆の中で暮らす方が気がまぎれたという。インドネシア語の辞典作りに努めるなど、彼のインドネシア社会への心情的な思い入れは本物だった。ある意味、「現地化」の先駆的存在と言ってもいいだろうか。

 日本とインドネシア、二つの「祖国」への愛情は、双方の関係がうまくいっている分には問題はない。日本がいわゆる「大東亜共栄圏」なるスローガンを掲げて南進を本格化させても、「日本の援助によるアジア解放」という信念として当初は両立が可能だった。実際、市来は1936年に日蘭商業新聞社に入社するが、そこの社長・久保辰二を通じて右翼の大物・岩田愛之助とつながりを持つなど、アジア主義的傾向を強く意識していた。だが、そうした心情的なコミットメントはやがて帝国日本の政治の論理によって翻弄されることになり、二つの「祖国」の相克は市来を苛んでいく。

 太平洋戦争が始まり、オランダ勢力を追い払った日本軍はインドネシアで軍政を敷く。市来もジャワ派遣第十六軍の宣伝班に勤務したが、インドネシア人に対して高圧的な日本の軍人や支配者意識を丸出しにする一般邦人の態度に疎外感を抱くようになった。日本軍の肝煎りでインドネシア現地人を組織化したジャワ郷土防衛義勇軍(ぺタ)に嘱託として入ったが、戦局が押し迫った1944年になると、当初は親日的だった現地人の日本軍に対する反感が高まっているのを肌で感じていた。

 日本軍は現地人をなだめるためインドネシア独立容認を表明したが、1945年8月、日本は無条件降伏する。市来はただちにインドネシア独立に向けた活動を始めるが、日本軍政当局者は連合国を刺激しないようにという配慮からこれまでの独立容認路線を翻し、自分たちは独立運動とは無関係だと表明、ぺタの解散を決定して逆に独立運動を抑え込もうとした。日本による二度目の裏切りを目の当たりにした市来は祖国日本とは訣別、アブドゥル・ラフマン・イチキとして新しい祖国インドネシアの運命に自身のすべてを賭ける決意をした。盟友の吉住留五郎と共にインドネシア独立軍に身を投じ、1949年1月、戦死した。42歳であった。 

 近代日本がその国力を海外へと大きく伸張させるにあたって様々な人々が海外へと渡って行ったが、当然ながら日本のすぐ近隣にある「アジア」なるものをどのように捉え、関わっていくかという問題意識が浮上してくる。ところで、アジア主義という概念には様々な思惑が複雑に錯綜しており、最大公約数的には「アジア」なるものへコミットしていこうという心情的な何かとしか言いようがない。心情的なものとは漠然としたもので、状況次第ではどんな行動をも融通無碍に正当化する口実になってしまう。日本のアジア主義者は「欧米列強に虐げられたアジア諸国を日本が解放する」という物語に沿って行動したが、日本による解放が同時に帝国日本の国益追求と重なったとき、現地社会への思い入れが強ければ強いほど、日本の掲げる偽善は彼の立場を行き詰らせていくことになる。市来はその矛盾から逃れるため、敢えてインドネシア人としてのアイデンティティを引き受けなおした。市来の直面した矛盾を考えたとき、「アジア主義」的な心情のあり方とは、個々の人物の生き様を通してようやくその一端がうかがい知れるという程度にしか糸口はつかめないのかもしれない。

「…市来は観念論的なアジア主義者ではなかった。彼のインドネシア解放理念は、たんなる机上の空論から生まれたものではなく、また“志士”の間での、口角泡を飛ばしての議論の産物でもなかった。それは、十年におよぶインドネシア民衆社会のなかで、とりわけ、あのうらぶれたスメダンのカンポンの一隅で、静かに、だが純度高く培養されてきた、両民族間の赤い血を通わし合った、生活実感と結びついた解放理念であった。そうした意味において、彼のインドネシア解放思想は「民衆が、自生的に、生活の中ではぐくんできた」土俗的な精神、に基づいたものと評することもできるであろう。」(146~147ページ)

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2012年8月14日 (火)

【映画】「ローマ法王の休日」

「ローマ法王の休日」

 次の法王を選出する、いわゆるコンクラーベ。完全な密室で行われるため、その様子を我々はうかがい知ることはできない。世界中から集まって来た枢機卿たちがバチカンの奥の院へ向けて、朗誦される聖句に合わせ黙々と歩を進めている。その厳かさは、下馬評をもとにマイクを向ける報道陣の俗っぽさを際立たせるかのようにも見えるが、奥の院へ吸い込まれた枢機卿たちの振る舞いや如何に…?

 次の法王が決まればシスティナ礼拝堂の煙突から白い煙が出る。しかし、新法王誕生の瞬間を見ようと集まった人々をじらすかのように、出てくるのは黒い煙ばかり。中では法王の座をめぐって醜悪な権力闘争が繰り広げられているのかと思いきや、この映画に登場する枢機卿たちはみな心の中で祈っている──「主よ、どうか私が選ばれませんように…」。

 投票が何度もやり直された結果、ようやく選出されたのが主人公のメルヴィルであった。いったんは受諾したものの、信徒たちへのお目見えでバルコニーに出る間際、「私には無理だ!」と泣き出して部屋に引きこもってしまう。大慌ての枢機卿たち。鬱病ではないかと疑ったバチカンの報道官は精神科医を呼び入れる。「彼の素性を知らないセラピストに診せる必要がある」と助言されたため報道官が極秘で外に連れ出したところ、メルヴィルは隙を見て逃げ出してしまった。やんごとなきお方がお忍びでローマの街をうろつきまわる。つまり、ローマ法王の休日。麗しきオードリー・ヘップバーンではなく、はげ頭に白髪の残る老人(ミシェル・ピッコリ)ではあるが。

 精神科医が法王を診断するにあたり、報道官から「魂と無意識の相違を認めるか?」と念を押されたり、カウンセリングの質問内容に制限を加えられたり、そもそも信徒の告解を受けるはずの聖職者が精神科医の世話になるということ自体アイロニカルな話である。しかし、そうした風刺に毒はない。コメディとしての面白さを引き立てる調味料的なギャグであって、ことさら挑発的な風刺をしようという意図はないようだ。

 ナンニ・モレッティ監督のカンヌでパルムドールを受賞した前作「息子の部屋」では、息子を事故で失った精神科医である主人公をモレッティ監督自身が演じている。息子が死んだ後になって、彼のことを自分は全然分かっていなかったことに気づき、苦悩するという話だった。今作「ローマ法王の休日」でも精神科医役をやはりモレッティ監督が演じているのがポイントだろう。これはバチカンに対する風刺映画ではなく、理解され得ない孤独という機微に焦点を合わせたヒューマン・ドラマとして観た方が良い。

 法王のお披露目ができないので、枢機卿たちは暇をもてあましている。そこで、精神科医が音頭をとってみんなでバレーボールの試合をやり始め、枢機卿たちは嬉々としてプレーに勤しむ。世間知らずだが無邪気という感じで憎めない。部屋に引きこもった法王をバレーボールの騒ぎで引っ張り出そうというのが精神科医の思惑だったが、そもそも部屋に法王はいない。報道官がごまかしていた。これもひょっとすると、カウンセリング診療は意外と見当違いなことをしているという当てこすりなのかもしれない。

 外のセラピストに会った際、「職業は何ですか?」と聞かれても、まさか「法王です」と正直に言うわけにはいかない。メルヴィルはとっさに「役者です」と答えた。法王が役者、というのも一つの皮肉である。しかし、その後のストーリー展開から、若い頃、彼は本気で役者になりたがっていたことが分かる。

 映画のラストでは実にあっさりとしたどんでん返しを迎えるが、これをどう考えるか。法王の座をいったん引き受けてしまった以上、投げ捨てるのは無責任の極みである。他方で、ローマの街で劇団の人たちと出会い、自分は本当は役者になりたかったことを思い出していた。メルヴィルが法王を辞めた後のことはこの映画からは分からないが、公的な責任として法王を引き受けるのか、自身の人生そのものへの(私的な)責任として別の道(役者)を選ぶのか、そうした揺らぎとして捉えられるだろう。

 メルヴィルは正直な選択をした。だが、それは多くの信徒を悲しませることでもあった。それでも彼は自分の判断を是としたのか、後悔しなかったのか──そこまでは分からない。ただし、最初は責任の重圧がイヤだからという子供じみた理由であった。単なる甘えた逃げ根性に過ぎなかった。しかし、街をさまよった後では違う。役者になりたいという若き日の夢を思い出しており、それは一つの明確な選択であって、消極的な意味での逃げではない。

 いずれにせよ、これはバチカンを風刺した映画ではない。他人は「私」(=メルヴィル)の心の中など知らない。それでも、「私」は自分の納得のゆく決断をしなければならず、それが結果として他人に大きな迷惑をかけることになるかもしれない。そこもひっくるめて責任をとれるのか。そうした寓話としてこの映画は理解できるのではないかと思った。

【データ】
原題:Habemus Papam
監督:ナンニ・モレッティ
2011年/イタリア・フランス/105分
(2012年8月13日、新宿、武蔵野館にて)

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