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2012年7月29日 - 2012年8月4日

2012年8月 1日 (水)

ドラッカーの一つの読み方

 ピーター・ドラッカー『マネジメント──務め、責任、実践』(全4巻、有賀裕子訳、日経BP社、2008年)を通読。ドラッカーの本のうち、自伝である『傍観者の時代』や政治批評的な論文『「経済人」の終わり』『産業人の未来』などはすでに読んでいたが(→こちら)、主著とも言うべき『マネジメント』にはあまり興味がなかったので、ようやくという感じ。ちなみに、話題になった『もしドラ』も読んでいない。

 「マネジメントの神様」ともてはやされたドラッカーだが、彼が企業経営というテーマに関心を寄せたのは戦後のこと。もともとはヨーロッパでジャーナリストとして活躍しており、ナチス政権成立後にアメリカへ移住。理性万能主義に対する懐疑としてのリベラルな保守主義に立脚し、この立場から全体主義を批判する姿勢を持っていたことは、まだジャーナリストとして活動していた戦前・戦中に執筆した『「経済人」の終わり』『産業人の未来』にうかがえる。

 経済発展を通して個人の自由と平等を実現し、その個人は経済関係を通して社会的な位置を占める。こうした個人モデル=「経済人」を前提とした資本主義は、社会的不平等が広がっても、いつかは個人の自由や平等が実現されるはずだという期待があってはじめて成り立っていた。社会全体が生活水準の向上を実感しているうちは良かったが、やがて破綻し、社会的格差は拡大を続ける。人々は幻滅し、そうした反発を吸い寄せたのが、脱経済至上主義的なファシズムや共産主義であったとドラッカーは観察していた。

 戦前社会において既存の資本主義体制が行き詰まりを見せつつあった一方、これらの全体主義は人間ひとりひとりの「自由」を犠牲にすることで成り立つ。第三の道はあり得ないのか?と考えていた中で彼が見出したのが「企業」であった。

 企業は単に金儲けをするための組織ではない。業績をあげるという共通目標の下で、一人ひとりの主体的能動性(=ある意味で「自由」の感覚)や働きがい(=「尊厳」の感覚)を確保しながら、人々の協働的関係を維持していく(=自治的共同体の形成)。

「マネジメントの哲学とはすなわち、ひとりひとりの強みをできるかぎり引き出してその責任範囲を広げ、全員のビジョンと努力を同じ方向へ導き、協力体制を築き、個と全体の目標を調和させるものである」(『マネジメント』第3巻、159ページ)。

 そして、「企業」という協働的組織の中から生み出されていくイノベーションは、その企業自身の利益になると同時に、社会全体の発展に寄与する。以上を踏まえて、企業における協働関係を円滑に進めるための具体的方法論としてマネジメントの技法やマネジャーの役割などが詳細に論じられていく。

 そもそも、『マネジメント』の序文では「専制に代えて」と題して次のように記している。

「組織を柱とした多元的な社会において、かりに組織が責任に裏打ちされた自主性のもとで成果をあげなかったなら、個人は自由や独立を得られず、社会における自己実現も叶わないだろう。自分たちを厳しく縛り、誰も自主性を発揮できない状態を生み出してしまうだろう。陽気に思いのままにふるまうどころか、参加型民主主義さえ葬り、スターリン主義を招くのだ。組織が自主性と強大な力を持ち、成果をあげられる状況が失われたら、それに取って代わるのは専制でしかない。多数の組織が競い合う状況が失われ、絶対的な権力を持ったひとりの人物による支配がはじまる。責任に代わって恐怖が幅を利かせる。官僚機構がいっさいを支配し、すべての組織を取り込む。その機構は財やサービスを生み出しはするが、活動ぶりは不安定で無駄が多く、水準も低い。しかも、辛苦、屈辱、苛立ちなど、途方もない犠牲を伴う。このため、組織を柱とした多元的な社会で自由と尊厳を保つには、組織に自主性と責任を与え、高い成果をあげさせるのが唯一の方法である」(『マネジメント』第1巻、4~5ページ)。

 ドラッカーのマネジメント論の背景にはこうした問題意識があったことは見逃せない。つまり、ドラッカーは多元的な社会において個人の自由と社会的秩序とを媒介する中間団体として企業組織を捉えていた。人間と社会との関係性を考え抜こうとする態度を持っていた点で政治思想史的に彼の考え方を位置づけることもできる。マネジメントの技法としての各論を見るか(つまり、自己啓発的なビジネス書として読むか)、それともこれらの各論の背後に一貫している思想史的問題意識に注目するかで、ドラッカーの読み方はまた違ったものになるだろう。

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2012年7月30日 (月)

【映画】「The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛」

「The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛」

 1988年、チベット研究者である夫、マイケル・アリス博士と共にオックスフォードで暮らしていたアウンサンスーチーのもとに、母危篤の連絡が入った。看病のため、慌ててビルマへ帰国した彼女は、病院で血まみれの負傷者が次々と担ぎこまれてくるのを目の当たりにする。表に出ると、民主化を求める人々がデモ行進をしていた。中には、かつてビルマ建国の間際、政敵によって暗殺された父・アウンサン将軍の肖像画を掲げている人もいる。平和的なデモに対しても治安部隊が容赦なく銃弾を浴びせかけるのを見た彼女は、このまま祖国に留まる決意をした。

 民主化運動への影響力を恐れた軍事政権はアウンサンスーチーを自宅軟禁に処した。イギリスで暮らす夫や二人の息子と会えなくなってしまった苦悩。やがて夫がガンに侵されていることが分かるが、最後に一目会おうにも、一度出国したら軍事政権は再入国を拒絶することは分かりきっている。夫自身がビルマ訪問の要望を出したが、軍事政権は根拠も明らかにしないまま拒絶を繰り返すばかり。結局、二人は再会がかなわないまま永遠の別れを迎えてしまう。幼い頃に暗殺された父、離れ離れになった夫と子供──「政治」によって翻弄された家族の姿がこの映画のメインテーマとなっている。

 軍事政権の圧迫にも妥協せず、かと言って挑発的な態度も慎み、じっと耐え抜いた不屈の精神。そうした彼女の姿は感動的である。しかし、ドラマチックなストーリー展開として盛り上げる必要からやむを得ないのかもしれないが、この映画の描き方では単なる英雄待望論になってしまう。

 アウンサンスーチーは思想的にガンジーの影響を受けているが(映画の中でも彼女がガンジーの本を読んでいるシーンが時折映し出されている)、非暴力主義だけでなく、Freedom from Fearという考え方が重要である。それは単に軍事政権の圧迫から自由を求めるというレベルにとどまるものではない。無名の人々であってもあらゆる一人ひとりが自らの心の中に萌す恐れの気持ちを克服して、不条理の中でも自らの義務を果たすよう求める「自律」の精神をも意味している(田辺寿夫・根本敬『アウンサンスーチー 変化するビルマの現状と課題』[角川書店、2012年]→こちら)。アウンサンスーチーの場合には、たまたま故アウンサン将軍の娘に生まれたという自らに与えられた立場性から逃れられないことを理解した上で自らの役割を果たそうとしているのであって、それを英雄物語に仕立て上げてしまうと、彼女の意図にそぐわないのではないか。

 迷信的なネウィン将軍、猜疑心の強いタンシュエ将軍たちのいかにも悪役らしい定型的な粗暴さはともかく(ベネディクト・ロジャーズ『ビルマの独裁者 タンシュエ──知られざる軍事政権の全貌』[秋元由紀訳、白水社、2011年]を読むと、実際にそんな感じだったらしい)、映画の演出的必要から仕方ないのかもしれないが、一般の人々について言うとアウンサンスーチーを崇め奉る無知蒙昧な群集にしか見えない(まさにこのようなパターナリズムが今後の問題であると上掲書で根本敬は指摘している)。アウンサンスーチーなど英語を話す人々は理性的存在として描かれる一方、それ以外は背景的存在に押しやられているのが気になる。オリエンタリズムというかつて流行った問題意識が脳裏をよぎった。

 また、軍事政権によって人々が虐げられる姿もところどころ挿入されているが、それはあくまでも受身の立場として軍事政権の粗暴さを示すばかりで、そうした過酷な状況下でも彼らがFreedom from Fearの思想を自覚的に実践しようとした能動的側面までは、少なくとも映画上の演出として見えてこない。一言でいえば、英雄としてのアウンサンスーチーが描かれる一方、民主化運動を担った無名の一人ひとりの存在はオミットされている。

 結局、アウンサンスーチーという悲劇のヒロインを中心に据えた感動的物語を仕立て上げているだけで、民主化運動の思想的意義を考えた上で作られた映画とは言えない。リュック・ベッソンは、アウンサンスーチーの示した思想的課題を完全に無視して映画を作ってしまった。この映画は、ビルマにおける民主化運動の問題とは切り離して、あくまでも引き裂かれた家族愛をテーマにしたメロドラマなんだと割り切って観た方が良い。リュック・ベッソンは娯楽映画だけ作ってればいいんだよ。変にマジメぶるから、こんな勘所を外した映画になってしまう。

 主演のミッシェル・ヨーは、細面だからだろうが、アウンサンスーチーの雰囲気をきちんと出していて悪くない。アウンサンスーチー本人の方が美人だとは思うが。

【データ】
原題:The Lady
監督:リュック・ベッソン
2011年/フランス/133分
(2012年7月29日、新宿、シネマスクエアとうきゅうにて)

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2012年7月29日 (日)

【映画】「おおかみこどもの雨と雪」

「おおかみこどもの雨と雪」

 人間の女性とオオカミ男の間に生まれた雪と雨。二人は自分が人間なのかオオカミなのか分からないまま。雪は小さな頃から腕白、と言うよりも獰猛な女の子。ところが、小学校に通い始め、クラスの友達と宝物の見せっこをしたら、みんなはかわいらしいものを持ってきたのに、雪の手にあるのは獲物の骨や干物…自分はみんなと違う、と自覚した彼女はそのことを恥ずかしく感じ、これからはおしとやかな女の子になるんだと決意。つまり、他者の視線を意識することで、自然状態→学校→社会化という経路がうかがえる。他方、弟の雨は、田舎に引っ越しても、ヤモリを見てびびってしまい「早く帰りたい…」とつぶやくようなオドオドした臆病者。ところが、山で「先生」(=狐?)と出会い、山のことを知るにつれて、オオカミとしての自覚が強まっていく。このようにそれぞれがアイデンティティの確立を模索し始めることは、同時に二人の親ばなれの徴候でもあり、そこに複雑な戸惑いを感じる母親の姿。そんなところがストーリーの構図。

 要するに、獣姦で生まれた子供たちがアイデンティティ・クライシスに悩むという話(笑)なんて言ったら実も蓋もないな。とりあえず、悪くないとは思う。子供たちと母親それぞれの成長譚といった感じで、手に汗握るワクワクドキドキはあまりない。夏休みのファミリー向け映画として上映されているのだろうが、子供だと意外に退屈するのではないか。

 私はこの手のアニメ映画を観るとき、ストーリーよりも風景描写にどれだけ手をかけているかに注目するので、その点では満足。冒頭は東京のはずれの国立大学という設定らしいが、建物は明らかに一橋大学。野山を駆け回るシーンにオーケストラの音楽がかぶさったり、なかなか良い。音楽は高木正勝と言う人か。覚えておこう。

 細田監督の前作で評判になった「サマーウォーズ」は田舎の町を舞台としたサイバーウォーズという設定だったが、「田舎に帰る」というノスタルジックなモチーフが一つの持ち味だった。今作では、「田舎に帰る」どころか、人目に縛られる都会を脱出→人目のない自然への回帰という母親の願望が一つの軸となり(その後、「温かい村人」たちと新たな関係を結びなおすという筋書きになるが、これは甘すぎる)、そこに上に述べたオオカミか人間か、すなわち雪の「自然→社会」、雨の「社会→自然」という二人それぞれのアイデンティティ・クライシスが絡み合ってくるところがミソ。

 しかし、こうやってストーリーを確認しなおしても、オオカミ男に体現された「社会」と「自然」の分裂的共存が、それほど説得的な話として感じられないのはなぜなのだろう。

 「自然」に回帰したいと思っても、その生存の厳しさに直面すれば、規則や人目や世間体にがんじがらめになって息苦しい状態が実は既に自分自身の血肉となっており、逃げたいと思っている「社会」の方がむしろ生きやすいという矛盾にようやく気づく。それでも敢えて「社会」を捨てるという決意には、生きるか死ぬかを超えたニヒリズムが必要であって、それほどの凄みがこの映画では見えてこないからか。少なくとも、選択対象として等価のものではない。例えば、岩井俊二監督「リリイ・シュシュのすべて」では、少年が西表島に行って、さっき会った人が事故で死ぬのを見て、自然というのは死も日常的なんだということを感じ取り、それが一種のニヒリズムにつながっていく描写があり、これとどのように比較できるかな、なんてことを考えていた。うまく言葉にまとまらないのだが。

【データ】
監督:細田守
2012年/117分
(2012年7月27日、新宿ピカデリーにて)

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