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2012年6月24日 - 2012年6月30日

2012年6月27日 (水)

土井隆義『少年犯罪〈減少〉のパラドクス』

土井隆義『少年犯罪〈減少〉のパラドクス』(岩波書店、2012年)

 世間的な印象論としては治安の悪化が語られている一方、統計を見ると実際には凶悪犯罪は減少傾向にあるという受け止め方のズレは専門家から指摘されている(例えば、河合幹雄『日本の殺人』[ちくま新書、2009年]、『安全神話崩壊のパラドックス──治安の法社会学』[岩波書店、2004年]など)。法社会学の河合幹雄氏は、犯罪の起こり得る空間(たとえば、繁華街)と従来ならば安心して暮らすことのできた空間(たとえば、住宅街)との境界線が不明瞭になりつつため、一般の人々も体感治安の悪化を感じるようになったのだと指摘している(→こちら)。

 少年犯罪が実際には減少している一方、世間が少年たちに対して妙な不気味さを感じていることにはどのような背景があるのか? 本書は、犯罪少年というだけでなく、それをきっかけに現代日本社会の若年世代において広く見られる問題点へと目を向ける。すなわち、アノミー状況への適応行動という問題点である。本書で指摘されている問題点のうち、とりわけ①自由意志としてではなく、生まれ持った素質で人生はすでに決定済みと納得させてしまう宿命主義的な人生観、②やわらかい共同体への再埋め込み願望、こうしたあたりに私は関心を持っている。

 社会的に仕向けられた一定の人生目標へと煽られる一方で、貧困や教育機会の欠如などの理由によりそこまで到達するのに必要な手立てがない。都会的自由にあこがれる一方で、地縁的関係に拘束されている。こうした矛盾に苛まされたのがかつての青少年の葛藤であった。その葛藤から非行へと走っていったのはある意味で理解しやすい。しかし、現代では持って生まれた自分の資質に自足する傾向があるという(「かけがえのない個性」という言説がさらにかぶさり、新自由主義的な経済活動とも親和的となる)。社会的剥奪によるフラストレーションは他者との落差を目の当たりにするからこそ鬱積していくが、自閉的に自らの境遇に納得している場合、他者との落差を自覚することがない。アノミーへの適応とはそういうことである。

 近代とはそもそも、個人の様々な可能性を追求できるような形へと社会システムを整えることに最大の努力を払う時代思潮であったはずだが、こうした宿命主義的な人生観はそれを否定することになってしまう。もちろん、達成不可能な目標へ向けて煽られるのは不幸なことである。しかし、現状に自足するようでは発展の余地はない。現時点で他者から与えられた評価を生得的な資質だから将来の変更は不可能だという思い込みには、社会環境的に刷り込まれた虚偽意識が混ざりこんでいる可能性もある。かつての“煽り”が未来志向とすれば、生得的なものを絶対と思いみなすのは過去志向と言えるが、いずれにせよ現状をバランスよく見極める視点を促していくしかないのだろう。

 なお、アノミーとは、社会的に規範化された文化目標とその達成手段との齟齬から生じるフラストレーションを指す。デュルケーム『自殺論』でこの概念が提起され、このアノミーによって社会的な逸脱行動が生じやすくなることについてマートン『社会理論と社会構造』が理論化している。

(以下、メモ)
・相対的貧困→相対的剥奪という主観的な要因が介在して、問題化。
・相対的剥奪:貧困の近接性。豊かな人々への羨望のまなざし、社会に対する不公平感や憤怒、自らの不遇感や焦燥感などから生まれるフラストレーション。
・学校教育→戦後平等主義的な教育理念→「煽りの文化」→1980年代の中盤に転換→個性主義…「全ての子どもの学力を一律に伸ばす」政策から「出来る子どもと出来ない子どもの能力の違いを認める」政策への転換。文化目標が少年たちに等しく規範化されなくなった。
・飛躍への欲望が文化目標として内面化され、都会へ出て羽ばたきたいと強く願っているのに、周囲の人たちはそれを認めてくれない。あるいは、華やかそうな職業に就きたいのに、それを認めてくれない。達成手段の取得を阻害する人間関係の抑圧力、地域社会のしがらみ→人間関係上のアノミーが生み出された。
・抑圧的な人間関係によって縛られている、という状況が消えていった。
・大人への反発として形成された非行グループそのものが成立せず、逸脱キャリアを歩む若者の減少。…共同体の拘束力の低下が非行グループの弱体化の背景にある。1960年代の校内暴力は反学校文化としての顕示的・組織的行動→1990年代以降は幼児的な癇癪の発露に過ぎなくなっている。

・「かけがえのない自分」とは、他者との関係のなかで自己を相対的に見つめ、互いに切磋琢磨しあうことで獲得されるものではなく、ひたすら自己の内面世界を掘り進め、奥ぶかく探索していくことで発見されるものと看做されるようになったのである。(96ページ)
・他者の存在感が希薄、第三者からの客観的視点が欠如→「個性的であること」をひたすら煽られ続けても、どこまで追求すれば「本当の自分」にたどり着くのか、その実感を掴みづらい。→個性化の時代とは、普通の人々が生きづらい時代。

・人生目標の成功願望から生じるアノミー、人間関係の離脱願望から生ずるアノミー→普通の状態でいられる限り、焦燥感で掻き立てられる性質のものではない。しかし、「自分らしさ」という新たな願望→普通の状態でいることの方がアノミーの源泉となってしまう。

・スティグマのカリスマ化。否定性の強いスティグマであればあるほど、かえって自分の存在感を高めると受け止められる。自分に明確なアイデンティティ。平凡な存在から脱却。自らのアイデンティティを確立する手段としてスティグマの獲得をむしろ積極的に欲しがっている。普通であることの平凡さに埋没してしまうくらいなら、世間を震撼させる犯罪者であった方が良いという心性。

・非行文化がなくなりつつある→技術の伝承なし。共通基盤が存在しないため、お互いの関係を維持するのに苦労。また、少年たちの個人化が進んで“非行文化”が崩れ、先輩から後輩への“技術”の伝達ができなくなった。例えば、自転車盗に比べてバイク盗や自動車盗が減少しているのは、複雑な技術を要するコツが伝承されていないから。また、たかだか万引きでナイフを振りかざしたため強盗殺人になってしまったケースがあるが、犯罪ランクを考えながら振舞う“知恵”が伝わっていれば大事には至らなかったはず。

・今日の非行少年には、自分が異質な他者を「見つめる」ことへの感受性を欠落させているのと同時に、自分が異質な他者から「見つめられる」ことへの感受性も欠落させている。

・少年犯罪の統計データを見ると、軽犯罪に関しては取り締る側の方針の変化によって検挙数が増減するが、そうしたバイアスによって左右されにくい凶悪犯罪に関して言うと長期的には減少傾向にある。

・現在、自分の置かれた社会的な境遇に対して、他者との間に落差を覚えていたとしても、その立場に置かれていることに自らが納得してしまえば、そこに剥奪感は生まれてこない。アノミー論の文脈に置き換えれば、たとえ社会的な資源が不平等に配分され、劣悪な立場に置かれていたとしても、それに見合った程度の希望しか配分されていなければ、そこにフラストレーションは生じえない。むしろ逆に、希望に格差がなく、平等に配分されているほうが、フラストレーションを高める状況を作り出すことになる。(134ページ)
・…貧困家庭の子どもたちは、希望を持てない状況というよりは、そもそも希望を持つというモチベーション自体を持ちえない状況に置かれている。できれば高い希望を抱きたいのに、現状ではそれは無理だと判断して悲観的になるのではなく、そもそも高い希望を抱こうなどとは端から思ってもいないから、現状に対して強い不満を覚えることもない。(136ページ)

・「未来の自分」より「過去の自分」に拠り所を求めようとする若者のほうが、今日では多くなっている。これからいかようにも形成可能な自分の姿を思い描きながら現在を生きるのではなく、すでに過ぎ去った変更不可能な自分の姿を振り返りながら現在を生きている。現在の生き方を規定するのは、未来ではなく過去なのである。彼らは、あえていうなら未来志向ではなく過去志向である。(138ページ)
・自由意思で主体的に選択されたものとしてではなく、生まれもった資質に運命付けられたものとして、自分の人生を理解しようとする感性である。(139~140ページ)
・宿命主義→生まれもった素質という絶対的で本質的なものによって、一見すると合理的に自分の人生が定まっていると考えられている点である。(141ページ)
・社会的価値からの脱埋め込み→自己の不安を増大→再度の埋め込みを欲するようになった。しかも、内閉化した個性化願望の下では、生まれ持ったはずの素質こそが、かけがえのない自分の個性として尊重される。したがって、そのような生来性を重視する感性は、宿命論的人生観へとつながっていきやすい。生得的な個性とは、後天的には変更不可能なものであり、個人が背負った宿命にほかならないからである。(142ページ)→前近代的な宿命主義と違うのは、理不尽な身分制度によって抑圧されているわけではない点。

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2012年6月26日 (火)

浅野智彦『趣味縁からはじまる社会参加』

浅野智彦『趣味縁からはじまる社会参加』(岩波書店、2011年)

(メモ)
・人間関係の稀薄化した現代社会において、社会参加へと人々を導いていく道筋の一つとして、趣味を媒介とした人間関係があり得るのではないか。趣味縁とは、親密性と公共性との中間にあって両者の橋渡しをするものではないか、という仮説を提示。
・社会関係資本→利得を生み出す資本として考えるか?/外部効果を期待する公共財として考えるか?→本書では後者の考え方から「趣味縁」を二次的結社(ロバート・パットナム『哲学する民主主義』『孤独なボウリング』)にあたるものと捉える。
・俳諧など近世の趣味縁→アイデンティティ・スイッチング(池上英子『美と礼節の絆』)、戦後のサークル運動→自己の多元性(鶴見俊輔)、消費社会における社交の倫理→柔らかい個人主義(山崎正和)、女性たちのネットワークとしての女縁→アイデンティティのリスク・マネージメント(上野千鶴子)。

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2012年6月25日 (月)

【映画】「冬の小鳥」

「冬の小鳥」

 1975年、ある冬の日のソウル近郊。孤児院に入れられた9歳の少女、ジニの孤独な気持ちの揺れ動きを描き出した映画である。ウニー・ルコント監督自身が幼い頃、韓国の孤児院からフランス人家庭にもわわれて養子として育った人で、そうした自身の実体験を基にしている。監督自身、韓国語はすでに話せないらしい。

 孤児院で寂しい思いをしている二人の少女、ジニとスッキ。庭先で見つけた一羽の瀕死の小鳥。自分たちが親代わりになったつもりなのだろうか、食堂から盗んできたエサを与えながら回復を見守る。雨の日、かわいそうに思って部屋に入れたが、見つかったら怒られてしまう。考えあぐねて取りあえずタンスの引き出しに押し込んだ。あくる朝、小鳥は冷たくなっていた。二人は丁寧に埋葬する。やがてスッキはアメリカへ里子に行った。残されたジニは墓から小鳥の亡骸を掘り起こし、投げ捨て、掘り進めた穴の中に自身が横たわる。そして、目をつぶる。自分自身も死んだんだ、そう言い聞かせるかのように。

 そうしたジニの姿を見ていたら、ふとキム・ギドク監督「サマリア」のワンシーンを思い浮かべた。サティのジムノペディ、ノクターンがゆったり流れる中、土中で静かにまどろむ少女の面立ち。秋から冬にかけての寒々とした空気、しかしそのピンと張り詰めたような清潔感が少女の抱えたやり場のない感傷を浮き彫りにしていた。二つの映画とも冬という季節だけでなく、少女の心の傷をテーマにしていた点でも同様である。だから、両方を結び付けたくなる連想が呼び起こされたのだろう。

 だが、明らかな違いがある。「サマリア」の少女には暖かく見守ってくれる父親がいた。その安心感がもたらす穏やかさが、彼女の表情に静かに浮かんでいた。しかし、ジニは父親から捨てられていた。対比すると、ジニのこわばった表情にうかがえる哀しさが、より痛切に感じられてくる。

 冬の冷え切った空気にはある種の透明感があり、ジニの心象風景を如実に映し出すかのようだ。冒頭、父親の自転車の後ろに乗って一緒に買い物をしていた時の屈託のなさ。孤児院へ連れてこられ、父がいなくなった時の不安げな面持ち。そして、どこにぶつけたら良いのか分からず戸惑ったような苛立ち。ジニ役の少女が素晴らしい。愛らしい顔立ちにこうした感情の昂ぶりやつらさが本当に自然に表れている。

【データ】
原題:Une vie Toute Neuve
監督:ウニー・ルコント
2009年/フランス・韓国/92分
(DVDにて)

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【映画】「東京無印女子物語」

「東京無印女子物語」

 地方から東京に出てきた3人の女性を主人公とした2話のオムニバス形式。1話目は、のろまの「のろ」というあだ名の女の子。就職活動中だが、東京のせわしないページについていけず、焦りが募るばかり。しかし、画家志望の同棲相手を見ながら、ゆっくりはゆっくりなりの生き方もある、それを許容するのも東京だよなあ、思い返す。2話目は、仕事にバリバリ打ち込む女性。同居しているフリーター女子のあっけらかんとした自由さに妬み混じりの羨ましさを感じるが、彼女は彼女なりに葛藤を抱えていた、という話。

 まあ、ありがちな話かな。ストーリーよりも、東京のさり気ない町並みを背景とした映像を見るのが私は好き。登場人物の心情と呼応するような映像に仕上がっていたら満足するので、その点では悪くなかった。エピローグの、早朝の電車内で朝日に照らされた少女のたたずまいとか、屋上から街を見渡す清々しさとか、そういったシーンは気に入った。

 それにしても、映画のコンセプトとしては、主人公の女の子たちに共感するような20~30代くらいの女性がターゲットだと思うのだが、観に来ていたのは(私も含めて)ほとんど男ばかりだったぞ(笑)

 大九明子監督の作品では、新垣結衣主演の「恋するマドリ」というのも以前に観たことがあった。これもストーリーは忘れたけど、町並みや部屋の生活感あるたたずまいをきれいに映像に収めていたところは印象に残っている。

【データ】
監督:大九明子
2012年/97分
(2012年6月22日レイトショー、ヒューマントラストシネマ渋谷にて)

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2012年6月24日 (日)

市川寛『検事失格』

市川寛『検事失格』(毎日新聞社、2012年)

 法の運用は必ずしも根拠とロジックとによってのみ基づいて行われているわけではない。複雑な現実の機微にはグレーゾーンが多く、法の一律的な適用はかえって不公正をもたらす可能性もある。ただし、運用をするのはやはり人間であって、その裁量的判断には別の思惑が混入してくることもまた当然ながらあり得る。一個人の恣意であったりするのはもちろん論外であるが、それ以上に、法とは別次元で作用する構造的な問題であるとするなら深刻である。

 著者は元検事である。佐賀地検に勤務していたときに担当した佐賀市農協背任事件で、否認する被疑者に暴言を浴びせかけながら無理やり調書をでっち上げた。転勤して担当から離れた後、法廷に喚問された際に、暴言で被疑者に圧迫を加えたことを正直に証言、やがて「暴言検事」として辞職することになる。本書は強引な取調べで冤罪をでっち上げてしまったことへの自省であり、それはすなわち、彼自身がそのような立場へ追い込まれていった原因は一体何だったのかを考え直す作業である。

 職業観は、その人の置かれた職場の環境によって育まれる側面が強い。彼が「暴言検事」になってしまった事情を突き詰めると、検察内部の組織文化の問題に行き当たる。裁判を通して「真実」を明らかにするのではない。「無罪」判決は検事としての大失点であって、被疑者には必ず筋読み通りに犯罪事実を認めさせねばならず、否認し続ける場合には強引にでも起訴へ持ち込む(村木厚子さんの冤罪事件における資料データ改竄で大阪地検特捜部の敏腕検事が逮捕されたが、著者も一時期、大阪地検に勤務していた頃を回想しており、ここはとりわけ強引な立件に持ち込む気風が強いらしい)。佐賀の事件で自分が行った強引な取調べについて正直に証言しようと思っていたとき、上司や同僚からは「あの程度の暴言、みんなやってるじゃないか」と言われれ、実質的な偽証を勧められた。とにかく検察のメンツをつぶすことは決して許されないという暗黙の空気。そうした圧迫の中でストレスがたまり、正常な判断能力すら失われてしまう。冤罪にはめられた側としてはたまったものではない。

 著者自身はもともと「ダイバージョン」という制度に関心を持っていた。つまり、「検事や裁判官が判断に迷ったとき、犯罪者が世間からできるだけらく印を押されないような手続きを選ぶことで、その社会復帰を助け、再犯を防ごうという一連の制度」であり、これを実現できる仕事として検事を選んだ。ところが、現場に入ってみると、司法修習で聞いたのとは正反対の実務すら行われている現実に戸惑う。

 検察内部の組織的ロジックに絡め取られて、内心では疑問を感じつつも、それを正直には言えないまま不本意な仕事を迫られていく不条理。本書では一人の検事の成長過程を通して、検察の組織文化が具体的にどのようなものであるのかが赤裸々に語られている。著者自身が繰り返すように、所詮は言い訳に過ぎないのかもしれない。いずれにせよ、そうした検察の組織文化に最終的には適応できなかったこと、同時に自らが若い頃に理想としていた検事像に到達できなかったこと、二重の意味で著者は「検事失格」であった。

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