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2012年6月3日 - 2012年6月9日

2012年6月 7日 (木)

下川裕治『日本を降りる若者たち』『「生き場」を探す日本人』

 私自身はタイへ行ったことはない。興味はあるのでいずれ行ってみたいと思ってはいるのだが、なかなかその機会を得ないままだ。

 タイについてまず思い浮かぶイメージは、「微笑みの国」に漂う穏やかさ。ある種のいい加減さが規律正しい日本人には理解できず、ビジネスでトラブルになるという話もよく聞くが、他方でそれをギスギスしていない「ゆるさ」と捉えて居心地良く感じる日本人もいる。同じ社会に対してであっても人によってこのように受け止め方が違ってくるのは、各々の人自身が背景として負っている日本社会への感じ方の相違と考えることもできるだろう。

 下川裕治『日本を降りる若者たち』(講談社現代新書、2007年)に登場する若者たちはみんなどこか不器用だ。生真面目だが繊細で傷つきやすい性格は、決して否定されるようなものではない。ただ、日本で会社勤めをしていても周囲と馴染めなかった彼らは、たまたま訪れたタイに、自分の居場所を見出した。

 日本で一気に稼ぎ、お金が尽きるまでタイで暮らす。タイの物価は安いとはいえ、資金を長持ちさせるために切り詰めた生活は決して優雅ではない。日本ではイヤイヤ働き、タイに到着した途端、気分が晴れやかになる。しかし、タイで何か特別なことをしているわけでもない。安宿やアパートでゲームをしたり、道端でぼんやりビールを飲んだり。日本人同士でつるんで話が盛り上がっても、派遣で行く工場の賃金や労働条件の話。

 日本社会の生きづらさを嫌悪、タイのゆるやかな生活へと逃避した人びとの姿。ひきこもり、ならぬ「外こもり」である。彼らの反応をうかがっていると、日本社会の姿もまた逆照射される形で浮かび上がってくる。仕事も生活もスムーズな軌道に乗っていれば何の問題も感じないが、いったん軌道から外れてしまった場合、周囲から不寛容なまなざしにさらされる生きづらさ。日本社会のエアポケットにはまってしまった苦しさから脱出したい、そうしたもがきがうかがえる。しかし、タイに行ったからといって問題が解決されるわけでもなく、不安を抱えたまま生きていかざるを得ないのではあるが。そうしたあたり、どうにも切なく感じてしまう。自分自身もスピンアウトしたらこうなるのかと、どこか他人事ではない気がして。

 上掲書が若者を取り上げているのに対して、下川裕治『「生き場」を探す日本人』(平凡社新書、2011年)が焦点を合わせるのは、現地駐在の途中で敢えて転換を図った中堅社会人や、老後の第二の人生を考えるリタイア組など。景気が落ち込み閉塞感も漂う日本社会に見切りをつけ、成長著しいアジアへと活路を見出したシニアたち。

 彼らとて必ずしも成功しているわけではないが、やる気満々なところに上掲書の若者たちとの対照的な印象を受けるのは、やはり世代的な問題なのだろうか。しかし、どんな生き方をしようと人それぞれ。他人の人生に良い悪いの判断を下すなんて本来的にはできない。彼らがそれぞれに悩みながらもこうした生き方をしている。時に共感しつつも、距離を置いて淡々と描き出している落ち着いたバランスが、下川さんの筆致の良いところだろう。

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2012年6月 6日 (水)

阿部真大『搾取される若者たち──バイク便ライダーは見た!』『働きすぎる若者たち──「自分探し」の果てに』『居場所の社会学──生きづらさを超えて』

 流動的な雇用情勢の中、企業は利益確保のため人材のアウトソーシングを進め、それは自己実現のためという理念的掛け声によって社会的にも正当化されている。しかし、被雇用者側においてある種の心情的なモチベーションがかき立てられていく一方、企業側はそれを利用することで過剰労働を強いるメカニズムが出来上がってしまっている。自己実現のための働きすぎなら本人も納得済みなのだから一概に悪いと断定はできない。ただ、非正規雇用という形態で将来に不安を抱えた立場にある人々の場合、憔悴しきった結果としてそのまま使い捨てにされてしまうことがあり得るところに社会問題としての深刻さがある。

 もちろん労働問題として専門家に相談すべき事例もあろうが、それ以上に深刻なのは、必ずしも特定の経営者の策略などといった性質の問題ではないことだ。社会関係的に生成した職場の落とし穴であるという側面をどのように考えるのか。ある意味、みんな(社会)の思い込みで成立っている、ならばみんなの考え方を変えていけば職場も改善されるであろう。そのためには、まずこうしたメカニズムの生成過程を把握しておかなければならない。

 例えば、バイクが好きだから、趣味が仕事になる…? そんな簡単に言えるものだろうか。阿部真大『搾取される若者たち──バイク便ライダーは見た!』(集英社新書、2006年)はバイク便での就労体験をもとに、まさに「好きだから」「カッコいい」という動機がテコとなって不安定就業の中でもワーカホリックになっていく構造を分析する。視点は社会学だが、筆致はノンフィクションのノリ。

 上掲書の分析対象が労働×趣味とするなら、対して阿部真大『働きすぎる若者たち──「自分探し」の果てに』(NHK生活新書、2007年)で示される構図は労働×良心となる。老人介護の現場では利用者へのサービス向上のため、従来の「集団ケア」から「個別ケア」に移行しつつあるが、そのしわ寄せはケアワーカーたちにのしかかる。しかも、彼らの給与水準はかなり低い。だが、きつい上に労働対価に見合わないからと言って、目の前にいるお年寄りを見捨てるわけにはいかない。そうした良心が否応なく過剰労働へと駆り立てていく。

 従来の福祉政策においては介護に関わる人材はあくまでも補完的なもの、具体的には主婦のパートなどが想定されていた。ところが、近年、福祉現場における人材難と社会一般における就職難とが合わさって新卒の若い人びともこの職場に入るようになってきた。しかし、ケアワークだけで生計を立てていくのは難しい。主婦パートは経済的に余裕があるので「家庭にいた私が役に立てる自己実現の場所」となるが、経済的に将来へ不安を抱えている若年層とは意識が全く異なり、労働条件等に関しても一枚岩にははれないという問題があるという。また、ケアの場面におけるコミュニケーション能力は「専門性」として明確化できるのか?という問題も指摘されている。

 ベストセラーになった『13歳のハローワーク』では、好きを仕事につなげるというコンセプトが示された。しかし、実際には、大多数の人びとにとって「仕事での自己実現」は難しい。ポストフォーディズム社会における知識集約型産業とそれに従属する第三次産業とに分化しつつある中、仕事で自己実現できるのはほんの一握りに過ぎない。そうでない人は自己実現の場をどこに求めたらいいのか? 学校や職場以外の場面においても自己実現を可能にする場所としての中間集団を確保し、それらの中で重層的な自己を築き上げていく。そうした「ふところ」のある社会が求められているのではないか?という問いが示される。
 
 自己実現の場とは、突き詰めていくと自分の存在を他者から承認してもらえる関係性の問題である。承認感や肯定感があって、はじめてこの世界の中で生きているという実感を確証できる。「仕事」を通じた承認だって、様々にあり得る承認のスタイルのあくまでも一つだと割り切って考えた方が生きやすい。阿部真大『居場所の社会学──生きづらさを超えて』(日本経済新聞出版社、2011年)はそうした承認にまつわる関係性を「居場所」と表現している。本書は、不安定な雇用形態にある人々を対象とした社会的包摂を如何に実効的なものにするかという問題意識から、考えられる手順を12の命題にまとめている。承認の強弱によって「居場所」を使い分けていく必要はあるだろう。また「居場所」を受け身で考えるのではなく、自分自身の条件を考えた上で能動的にぶつかりあいながら作り上げていく必要があり、その点でのヒントになりそうだ。

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土井隆義『友だち地獄──「空気を読む」世代のサバイバル』

土井隆義『友だち地獄──「空気を読む」世代のサバイバル』(ちくま新書、2008年)

 子供たちの生きづらさの分析が本書のテーマであるが、そこを通して見えてくる現代日本社会論として重要なポイントをついた本だと思った。①現代の若者の問題点はコミュニケーション能力の未熟さではなく、むしろ過剰なほどの適応にある。それを裏返すと、自己肯定感の脆弱さが見出される。②また、社会的に公認された言説が力を失ったため、物事の判断基準が内発的な衝動や生理的な感覚へ求められる(社会的に公認された言説への反発ではない。反発なら、裏返すとそれだけの拘束力を感じているということだから。反発すれば対抗的な形で別の言説を自ら求めて、それを基準とした「自律」意識が芽生えるが、そうした自我とは別種の問題)。③新自由主義では本来、可能的な存在としての人間の主体的選択が前提とされる。ところが、近年の日本における新自由主義の浸透は、生得的な属性にウエイトを置く決定論的な人間観の広がりと密接に連動している。以上の論点に関心を持ったので、以下にメモ書き。

・現代の若者についてコミュニケーション能力の未熟さがよく指摘される→実際は逆で、むしろ過剰なほどに適応。「彼らは、複雑化した今日の人間関係をスムーズに営んでいくために、彼らなりのコミュニケーション能力を駆使して絶妙な対人距離をそこに作り出している。現代の若者たちは、互いに傷つく危険を避けるためにコミュニケーションへ没入しあい、その過同調にも似た相互協力によって、人間関係をいわば儀礼的に希薄な状態に保っているのである。」(47ページ)
・「自律したい私」から「承認されたい私」へ。
・「現代の若者たちは、自己肯定感が脆弱なために、身近な人間からつねに承認を得ることなくして、不安定な自己を支えきれないと感じている。しかし、「優しい関係」の下では、周囲の反応をわずかでも読みまちがってしまうと、その関係自体が容易に破綻の危機にさらされる。その結果、他者からの承認を失って、自己肯定感の基盤も揺らいでしまう。だから彼らは、この「優しい関係」の維持に躍起とならざるをえない。きわめて高度で繊細な気くばりが求められるこのような場の圧力が、彼らの感じる人間関係のキツさの源泉となっている。」(99~100ページ)
・コミュニケーションへの過剰な圧力。
・「善いこと」から「いい感じ」へ。判断基準の身体感覚化→「現代の若者たちは、自らのふるまいや態度に対して、言葉で根拠を与えることにさしたる意義を見出しにくくなっている。言葉以前の内発的な衝動や生理的な感覚こそが純粋な自分の根源であると感じ、言葉によって作り上げられた観念や信念に根ざすものとは考えにくくなっている。自らの身体的な感覚を重視し、心や感情の動きといったものも、それと同様のものとして捉える傾向を強めている」(115~116ページ)。「自分の意思でもコントロールできないような、内部からふつふつと湧き上がってくる抑えがたい感覚である」(116ページ)。「上から目線」でものを言うな、という反発。
・「「善いこと」の根拠は自分の内部にあるわけではなく、社会的に存在するものである。だから、社会と自己のあいだに葛藤も生じうるし、その葛藤をめぐって、反社会的な物語や非社会的な物語も成立してきた。しかし、「いい感じ」の基準は自分そのものである。結局は同義反復にすぎないから、葛藤の生まれる契機はそこにない。こうして、物語も脱社会的なものとなる。ベラーが説くように、「行為はそれ自身では正しいとも間違っているともいえない。ただ、行為のもたらした結果が、また行為が引き合いに出したあるいは表出した「いい感じ」が行為の善し悪しを決める」のである。」(118ページ)
・「言葉によって作り上げられた思想や信条が、時間をこえて安定的に持続しうるのに対して、自らの生理的な感覚や内発的な衝動は、いまのこの一瞬にしか成立しえず、まったく刹那的なものである。状況次第でいかようにも変化しうるものである。社会という土壌に根を下ろさない浮き草のようなものだから、風向き次第でどちらへも簡単に流され、一ヵ所に留まることがない。当然ながら、その直感に根拠づけられた純粋な自分は、一貫性を保ち続けることが難しくなる。その時々の気分に応じて、自分の根拠も揺れ動くからである。だから彼らは、その不安定さを少しでも解消し、不確かで脆弱な自己の基盤を補強するために、身近な人びとからの絶えざる承認を必要とするようになる。現代の若者たちに見られる人間関係への依存度の高さはここから生まれている。」(120~121ページ)
・「自分の純粋さを脱社会的に求める人間にとって、他者からの評価は絶対である」→ナルシシズム。それに対して、「かつての若者たちが人間関係の強い絆にからめとられているように見えながら、その一方で孤独にも強く、むしろ孤高にふるまうことすら可能だったのは、自分の判断に客観的な色彩を与えてくれる社会的な根拠を自己の内面に取り込んでいたからである。その根拠が、つねに一定方向を示しつづける羅針盤の役割を果たして、彼らの自律性を支えてくれていたからである。」「いわば一般的・抽象的な他者による承認を感じとることができていたので、具体的な他者からの承認を現在ほどには必要としなかったのである。」
・純粋な自己への憧れ→「むしろ理解不可能性を前提とした人間関係を築いていく必要性が高まっている。彼らは、じゅうぶんには分かりあえないかもしれないことを、じゅうぶんに分かりあっている。「優しい関係」とは、このようなアイロニカルな状況を乗り切るために、互いの対立の回避を最優先の課題として、彼らが身につけた人間関係のテクニックである。その意味において、この現代社会に適応するために編み出された工夫の産物である。」
・「本来のリバタリアニズムが決定論に否定的な立場をとっていたのに対して、我が国おける新自由主義の浸透は、生得的な属性にウエイトを置く決定論的な人間観の広がりと密接に連動している。」(230ページ)

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見田宗介『まなざしの地獄──尽きなく生きることの社会学』

 苅部直『ヒューマニティーズ 政治学』(岩波書店、2012年)を読んでいたら、日常生活において直面する「権力」のあり様を描き出した作品として見田宗介『まなざしの地獄──尽きなく生きることの社会学』(河出書房新社、2008年)が取り上げられていた。以前から気になっていた論文なので、この機会に読んでみた。

 私が読んだのは新装版だが、初出は1973年。永山則夫(本書中では匿名でN・N)の生い立ちをたどりながら、当時の日本が抱え込んだ社会構造的な問題点に見通しをつける内容である。解説を執筆した弟子の大澤真幸は、統計調査では一般的傾向は把握できてもヴィヴィッドな実感がない、他方でライフヒストリーに着目しようとするならどんなサンプルに代表させるかが難しい、そうした中、見田のこの論文は両者の手法を見事に架橋させている、と評価している。社会構造的な連鎖の中に絡みとられたときの自己疎外の問題点を完結に表現し得ている点では今の時代にも通用しそうな印象も私は受ける。しかし、大澤の解説では、西鉄バスジャック事件や秋葉原事件を例に取り、むしろ「まなざしの不在」が現代の問題であり、それを時代的に対照させていく上でこの論文は有効だという視点を示している。

 近代資本制の原理によって故郷が解体され、東京という都会に出てきた人々。根無し草的感覚を抱いている彼らは「都市のまなざし」にさらされる。そうした状況下で自らのアイデンティティ的な安定を確保しようとするなら、表面的な記号を通して自分を主張する、つまり演技するしかなくなる。それは言い換えると自身の内面の否定に他ならない。自分の存在感を主張しようとすればするほど都会的ロジックに自らを合わせていかなければならなくなるという矛盾。そこにおいて、地方出身で家庭環境も貧困であったという階級の実存構造の否定的自覚がますます強まってしまう。そうしたあたりを一つの技術と割り切って乗り切る、あるいは敢えて拒否ことも可能ではある。しかし、残念ながら自らが抱え込んだギャップにルサンチマンを鬱積させていくこともあり得る。永山則夫がまさにそうであった。外から強制される基準に翻弄されながら、自分自身を見失って自己否定を繰り返さざるを得ないしんどさ、それが「まなざしの地獄」と表現されている。

(メモ書き)
・転職理由の「理由のなさ」
「一方において彼らがこのように〈ささいな理由〉で生活を変えてしまうということは、都会における彼らのその時どきの生活の、必然性の意識の稀薄、存在の偶然性の感覚、関係の不確実性、社会的アイデンティティの不安定、要するに社会的存在感の稀薄を暗示する。」その一方で、大人たちがただ不可解な〈理由なき理由〉しか見出さないというギャップ。

・都市のまなざしの表相性
服装、容姿、持ち物、出生(の事情)、学歴、肩書…様々な表相性が、その人の存在を規定してしまう都市のまなざし。他方で、自由な存在であろうとすればするほど、こうしたまなざしにがんじがらめになっていく。「都市が人間を表相によって差別する以上、彼もまた次第に表相によって勝負する。一方は具象化された表相性の演技。他方は抽象化された表相性の演技。おしゃれと肩書。まなざしの地獄を逆手にとったのりこえの試み」でもがく。

・〈演技の陥穽〉
「自己をその表相性において規定してしまうまなざしのまえで、人はみずからの表相性をすすんで演技することをとおして、他者たちの視線を逆に操作しようと試みる。…ところが、この〈演技〉こそはまさしく、自由な意思そのものをとおして、都会がひとりの人間を、その好みの型に仕立てあげ、成形してしまうメカニズムである。人の存在は、その具体的な他者とのかかわりのうちにしか存在しないのだから、彼はまさしくそのようにして、その嫌悪する都市の姿に似せておのれを整容してしまう。他者たちの視線を逆に操作しようとする主体性の企図をとおして、いつしかみずからを、都市の要求する様々な衣裳をごてごてと身にまとった、奇妙なピエロとして成形する。」(59~60ページ)

・精神の内部に外部から異物として挿入されてくる憂鬱
「自己の内なる他者でありながら、どうしようなく自己自身である自己としての憂鬱。自己・疎外の構造としての関係の絶対性」(64ページ)→否定の実存のみがむきだしとなる。

・「われわれはこの社会の中に涯もなくはりめぐらされた関係の鎖の中で、それぞれの時、それぞれの事態のもとで、「こうするよりほかに仕方なかった」「面倒をみきれない」事情のゆえに、どれほど多くの人びとにとって、「許されざる者」であることか。われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見すててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である。」(73ページ)

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2012年6月 3日 (日)

【映画】「11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち」

「11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち」

 三島作品に思い入れはないし、若松映画もそんなに観ていない私としては、結局、自己陶酔したコスプレ集団の気恥ずかしさしか印象に残らなかった。そんな私は所詮、愛国心も情念も純粋さも失った悪しき近代人なんでしょうね。ニーチェ風に言えば「末人」か。

 この映画では、三島由紀夫と森田必勝の関係を軸に、楯の会結成から自衛隊市谷駐屯地立てこもり事件までの軌跡が描かれる。

 東大全共闘との討論会で「君たちの熱情は認める。ただ天皇の一言さえあれば私は君たちに合流した」という三島の有名な発言。よど号ハイジャック事件を見て「先を越された」。こうしたシーンの描写からは、純粋な情熱に根ざした直接行動主義への渇求という点で、左右両翼の政治的立場を超えたメンタリティーに注目する視点が見出される。ただし、これを裏返すと、「動機さえ純粋であれば何でもやり放題」の無責任主義に過ぎないのだが。詳細は、小島毅『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ)を参照のこと。

 左右両翼を問わず、利害打算を超えた純粋なパッションへの礼賛は若松監督の好みのようだ。それにしても、楯の会幹部が脱退のあいさつに三島のもとを訪れた際、「就職先が内定したんです…」「君はサラリーマンになるつもりか!」って、文字に起こすとあまりにベタな会話で笑ってしまった。もちろんこうした発想は、「軍人は公務員じゃない」と自衛隊員に向かってアジ演説をする論理にもつながっているのだが。

 一人ひとりの人間が機械的システムの歯車になりおおせてしまった時代、その中にあって人間はただその日その日を生き延びることだけに専念するよう迫られる。「やむにやまれぬ」というピュアな心性は抑圧されてしまい、自分がいまここに存在することの意義が確証できなくなってしまった近代社会の矛盾。三島が指弾した、自主防衛の意志を放棄した平和憲法や戦後民主主義は、自分自身の内発的なパッションを見失い、外から押し付けられた状況へ制度的に適応したニヒリスティックな欺瞞に過ぎない、ということになろう。三島が伝統やら天皇やらとアジり、まなこキラキラの森田が三島についていくという行動には普通に考えられる意味での合理性はないが、そうした飛躍した超論理に則った滅びの美学にこそ、人間に平準化を強いるシステムに対する叛逆としての実存的回復が意図されている。

 …小難しく言えばそんなあたりがテーマとして読み取れるとは思うのだが、それでもやっぱりアホにしか見えないな、私には。左翼でも右翼でもどうでもいいが、彼らの思い込みがどうしてこんなに独りよがりというか、独善的なのかはいつも気になってしまう。ところが、心情の純粋さ、ひたむきさを称揚する言説に組み込まれると、さも気高く美しいものであるかのように演出されていく。それを真に受けて感動するのか、或いははた迷惑だと感じるかは人それぞれだろう。私のようなひねくれ者には、単に滑稽なファルスとしか思えないわけだが。

 堕落した仲間や自衛隊員、自分たちの危機感を理解しようともしない大衆への絶望感を募らせて三島や森田らは暴走していく。しかし、自分たちの直観的なパッションを理解しないからと言って他者を拒絶・非難していく彼らの「思い込みの共同体」のあり方が私にはひっかかる。他者との共感可能性を最初から閉ざしてしまっている点で、島宇宙的に閉じこもったいまどきの若者が生理感覚に根ざした「むかつく」という感情を基に「キレル」のと(彼らも彼らなりにピュアである)、本質的なメンタリティーの構造には意外と大差ないのではあるまいか。たとえ天下国家のためとレトリックが凝らされてはいても、表面的な行動に相違はあるにしても。少なくともどのように違うのかが私にはいまいち分からないのだ。

 三島由紀夫役・井浦新のさわやかさには好感を持ったのだが、優しすぎる感じもする。ちなみに、旧名のARATAから本名の井浦新に変えたのは、映画のエンドクレジットに三島役で横文字が流れるのは申し訳ないからだそうな。からごころを排する国学を気取ってるんですか? こういう安直な発想も好きじゃない。是枝裕和映画、例えば「ワンダフル・ライフ」「ディスタンス」「空気人形」に出ていたときのARATAは結構好きだったんだがな。

【データ】
監督:若松孝二
2011年/119分
(2012年6月2日、テアトル新宿のレイトショーにて)

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【映画】「先生を流産させる会」

「先生を流産させる会」

 やかましく響き渡る蝉の声は夏の開放感を思い起こさせる。なつかしい風情の校舎、青々とした田んぼが広がるのどかな風景。しかし、そこにかぶさるノイズ系の音楽は、一見平穏そうに見える退屈の中に鬱積した暗いルサンチマンをあぶりだすかのようだ。

 妊娠した女性教師の給食に生徒が毒物を入れた、という実際にあった事件を基にストーリーをふくらませているらしい。

 女性教師のお腹がふくらんでいくのを見た中学校の女生徒5人組。妊娠から「性」の淫靡なイメージを嗅ぎ取り、「気持ち悪い」と感じる思春期の女の子らしい潔癖さ、そこに子供っぽい残酷さも絡まっていたずらを画策する。「先生を流産させる会」を結成するのが廃墟となったラブホテルというのは象徴的な設定である。

 いたずらがエスカレートしていく女生徒たちと女教師とのバトルロワイヤル的な展開になるのかと思っていたら、意外と真摯な問いかけにつながっていく。先生への嫌がらせとしてその子供を攻撃する生徒たち、モンスター・ペアレントといったモチーフでは湊かなえのベストセラーを中島哲也監督が映画化した「告白」とも共通するが、単なる復讐劇に終わらないところが違ってくる。

 5人組の中でもリーダー的な少女には複雑な事情がありそうだ。顔立ちは日本人とはちょっと違う。保護者呼び出しの時、彼女の親だけ来なかった。連絡を取ろうとしても不通。ブラジル系の人々が集まるお店でかっぱらいをするシーンもあった。おそらく彼女は出生にまつわるトラウマを抱えているであろうことが暗黙のうちにほのめかされている。「気持ち悪い」と言うのも、本当は妊娠した女教師に対してではなく、この世に存在することを肯定できない自分自身に対する苛立ちなのだろう。しかし、それは誰のせいだと言うこともできない。まさに自分の問題なのだから。そうした自己否定感情が、生まれてくるであろう胎児に投影され、攻撃衝動として表出したと捉えられる。

 胎児ならまだ「人間」じゃないのだから殺したって罪にならない、「最初からいなかったことにすればいい」と彼女は言う。映画のラスト(ネタバレだな)、女教師が自身の水子供養の際、彼女を見つめながら「いなかったことにはできないの」と言うシーンには、二重の意味が込められている。生まれることのなかった自らの胎児と、その胎児を殺した他ならぬ彼女と。彼女はお腹の中の子供を殺した憎い仇のはずだが、同時に彼女自身が見捨てられた孤独感からこの世界に憎しみを抱いている事情をも見通しながら。

 自己肯定できずに不適応を起こした中学生に「あなたはここにいてもいいのよ」と呼びかけるのは、何かエヴァンゲリオンの最終話とかぶる気もするが、子供たちの自己肯定感の欠如は社会学的に大きなテーマだから決して変な話ではない。
 
 自主制作映画のレイトショーで上映だが、満員どころか立ち見までいた。私が観に行ったとき(6月1日)は映画の日で千円均一ということもあったろうが、意外と話題になっているのかな?

【データ】
監督・脚本:内藤瑛亮
2011年/62分
(2012年6月1日、渋谷・ユーロスペースにてレイトショー)

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