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2012年1月8日 - 2012年1月14日

2012年1月14日 (土)

柴田直治『バンコク燃ゆ──タックシンと「タイ式」民主主義』

柴田直治『バンコク燃ゆ──タックシンと「タイ式」民主主義』(めこん、2010年)

 本書はタイにおける議会制民主主義と王制との難しい関係について現場で取材しながら探ろうとした記者によるレポートである。著者自身はタックシン派・反タックシン派のいずれに対しても肩入れしないような叙述を心がけているが、議会制民主主義の原則を非合法的な形で無効にしようとする反タックシン派に対してはどうしても辛くなる。

 かつて岡崎久彦・藤井昭彦・横田順子『クーデターの政治学──政治の天才の国タイ』(中公新書、1993年)は、政党政治が腐敗で行き詰ると軍部がクーデターをおこし、軍部が権威主義体質で行き詰ると今度は議会政治家が中心となった街頭デモがおこり、いずれもギリギリのタイミングで調停者として登場する国王の裁定で議会と軍部とが政権交代を行う、こうしたタイ独自の政治モデルを指摘していたが、このような捉え方が本当に妥当するのかどうかはよく分からない(なお、岡崎久彦はタイ大使を経験している)。

 2006年、議会で圧倒的な多数を占めて政権基盤は安定していたはずのタックシン政権が軍のクーデターで崩壊、タックシンは国外に追放された。その後の選挙でもタックシン派が勝利して合法的に政権をとったにもかかわらず、国王に直結する枢密院・軍部・司法(とりわけ国王の信任が厚いプレーム枢密院議長が背後にいるとささやかれている)は圧力をかけ続け、タックシンの代わりに首相に就任したサマックは些細な微罪(テレビの料理番組への出演が首相の兼職を禁ずる憲法の規定に違反したと認定された)で辞任、次のソムチャイ政権も2008年に反タックシン派の「民主主義市民連合」(PAD)の街頭行動、さらに選挙違反を理由とした与党に対する裁判所の解党命令で崩壊した。反タックシン派が集まって成立したアピシット政権に対して今度はタックシン派の「反独裁民主同盟」が街頭行動で攻勢をかけ、こうしたタイ政局の混迷はタックシン派が復権した現在でも尾を引いている。

 タックシン派の支持層は北部・東北部の貧困層を中心とするが、反タックシン派の知識人が「選挙といったって、庶民は所詮金で買収されただけだ」と語るのを著者は書き留め、都市の中間層には貧困層に対する侮蔑感を隠さない人が多いことを指摘している。他方で、スラムの救済活動をしてきたことで著名なプラティープ・ウンソンタム・秦はタックシンの問題点も指摘すると同時に、安価な医療制度や村落基金(マイクロファイナンスのことか)、農民らの債務削減など貧困層向けの政策を実施、麻薬の蔓延(背後には軍・警察幹部の利権構造があったらしい)と戦ったなどの実績は認めるべきだと言う。こうした態度の違いを見ると、タックシン派と反タックシン派との対立は、地方の貧困層と都市の富裕層・中間層(すなわち既得権益層)との対立と読み替えていくことができる。数の多い前者の意向が選挙結果に大きく反映されるため、危機感を抱く後者は「道徳」「王制護持」といった建前論から議会制民主主義のマイナス面を強調(議員の7割を任命制にしようとする提案にPADは「民主主義」を掲げているにもかかわらず反対しない)、「腐敗」や「不敬」を口実にタックシン批判が繰り広げられた。

 「腐敗」「不敬」と言っても如何ようにも解釈できるレッテル貼りに過ぎない。タックシンに色々と疑惑がある一方で反タックシン派といえども既得権益と癒着した腐敗は根深いものであり、またタックシンも国王への忠誠を繰り返し強調している。2006年のクーデター後、不敬罪を濫発して政治攻撃する傾向が顕著になったという(タイではマスメディアが裏も取らずにニュースを流す傾向があること、マスメディアへの政府の規制が厳しいこと、司法が体制側に有利な判決を簡単に出してしまうことなども、恣意的な政治的排除を可能とする土壌になっている)。タックシンという強力なリーダーシップを持つ政治家の登場を受けて、それを後押ししかねない選挙によって、国王を軸とする形で比較的安定を保ってきたタイの政治構造が崩されるかもしれないという不安感があるようだ。タイの王権は他ならぬプミポン国王の個人的人格と主体的な努力によって築かれてきたものであって、必ずしも伝統的文化に根ざしたものではない(この点については、以前、Paul M. Handley, The King Never Smiles: A Biography of Thailand's Bhumibol Adulyadej[Yale University Press, 2006]を取り上げた→こちら。本書はタイでは発禁処分となっている)。すでに80歳を越えた高齢で健康状態も良くない国王がこの世を去ったとき、王権を軸にした現在の制度が今後も続く保証はなく、そうした不安感がタックシンという厄介者に対して神経質になっている事情がうかがえる。

 なお、著者がタックシーンとのインタビューで「プリーディーやピブーンの運命を自分に重ねてみることはあるか?」と問いかけたところ、彼は「よくある」と答え、「不敬のレッテルを貼られて追放された点では共通するが、私は彼らと違って民主主義によって選ばれた首相だ」と強調している。二人とも1932年の立憲革命で立役者となり、その後のタイ現代史を動かしてきた大物政治家で、彼らが交互に国政の采配を振るっていた時期、王室の影は非常に薄かった。第二次世界大戦中、若きプミポン国王は海外留学中で、帰国後、兄の前王が変死したのを受けて1946年に即位、王室の権威を築き上げていく過程については上掲The King Never Smilesで描かれている。大タイ主義に基づき領土拡大の思惑から日本側に立って参戦を決めたピブーン首相、対して「自由タイ」を結集して連合国側に立とうとしたプリーディー摂政との葛藤については、市川健二郎『日本占領下タイの抗日運動──自由タイの指導者たち』(勁草書房、1987年)でも触れられている。プリーディーは戦後直後のタイ政治を切り盛りしたが、ピブーンの画策で中国に亡命、復権したピブーンもまた1957年のクーデターで失脚して日本に亡命している。

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保阪正康『農村青年社事件──昭和アナキストの見た幻』

保阪正康『農村青年社事件──昭和アナキストの見た幻』(筑摩選書、2011年)

 昭和10年、長野県を中心とした武装蜂起計画の容疑で一斉摘発された「農村青年社事件」。疲弊しきった農村の惨憺たる状況に心を痛め、農村でコミューンを作ろうと考えた青年たちは理想と情熱ばかりが先行する一方、資金も手立てもない中で窃盗事件をおこし、刑事犯として捕まって運動は挫折。さらには功名心にはやった思想検事によって「大逆事件以来」という鳴り物いりで事件がフレームアップされた。アナキズム運動史の中でもあまり取り上げられることのないこの事件の経過と青年たちの人間模様を本書は描き取っていく。

 著者が取材をしていた1970年代、事件の当事者たちはまだ存命で、彼らにじかに話を聞いてまわったときの取材メモが本書のもとになっている。当時、著者は農本主義にも関心を持って『五・一五事件──橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』(草思社、1974年/中公文庫、2009年)を著している。農村における自治主義という点で農村青年社と橘孝三郎の愛郷塾との思想的近さを見立てたようで、実際に農村青年社には橘のもとへ話をしに訪れた者もいた。しかし、愛郷塾に右翼や海軍軍人などが出入りしていることに胡散臭さを感じ、橘の方としても農作業の実体験もない彼らアナキストに農民の気持ちが分かるのかと不信感を隠さなかったという。(蛇足になるが、1970年代、右翼・左翼を問わず対抗思想としてコミューンに関心を持つ傾向があったような印象を受けるが、当時の流行か? 例えば、松本健一などは左翼土着主義という感じだ)

 ロシア革命期、ウクライナの農村地帯でアナキズム運動の指導者として活躍、やがてボルシェヴィキによって弾圧されたネストル・マフノになぞらえ「マフノの末裔」として書くつもりだったが、その時はあきらめたらしい。窃盗事件をおこしていたこと、自分たちの名前を歴史に残すんだという功名心が思想検事の「大逆事件以来」という思惑と奇妙な共犯関係にあること、1970年代の世相で暴れまわっていた過激派とオーバーラップされてしまいかねないことなどに違和感があって、その時は書く意欲が失われてしまったと説明している。

 裁判の経過を検討して、事件を強引にフレームアップしていった当時の思想検事のあり方を問うのが本書のテーマであるが、それ以上に特徴的なのは、事件に関った青年たちがどのような思いを抱いていたのか、そこに視点を置いてるところだ。著者はアナキズムを政治運動としてではなくあくまでも個人的な信条の問題として捉えており、その点では距離を置いて考えようとしている(当時は出版社をやめて物書きとして立とうとしていた時期で、組織から離れた自立的な生き方とはどのようなものかという点でアナキストに関心を持っていたらしい)。だが、彼らは彼らなりの善意でひたむきに生きようとしていた。そのことを思い、30年以上前の取材メモを改めて読み返しながら胸に迫ってくるものを色々と感じたであろうことは行間からうかがえる。著者自身の、遅まきながらも青春の書であろうか。

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2012年1月13日 (金)

橘孝三郎について何冊か

 農本主義という思想の位置づけは大まかに言って、第一にファシズム論の観点から体制支配を農村の末端にまで浸透させたイデオロギーと捉えるもの、第二に資本主義の進展によって解体されつつある農村社会の立て直しを通して共同体における自治を実現させようとした試みと捉えるもの、こうした二通りがある。丸山真男以来の戦後政治学は前者で批判的なスタンスを取るのが一般的だが、後者の観点からは右翼ばかりでなく農民運動やアナキスト系の人たちからの支持もある。いずれにせよ、権藤成卿と橘孝三郎の二人が代表的とされる。

 こちらにも書いたことがあるが、五・一五事件という血なまぐさいクーデター未遂と平和志向の理想主義者・橘孝三郎という取り合わせには奇妙なミスマッチがあって、私は以前から関心を持っていた。保阪正康『五・一五事件──橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』(草思社、1974年/中公文庫、2009年)はまさにそこに注目して、橘と事件との関わり方を中心に当時の時代相を浮き彫りにしていく。政治史的な分析としては松沢哲成『橘孝三郎──日本ファシズム原始回帰論派』(三一書房、1972年)があり、橘を革命派と捉えている。斎藤之男『日本農本主義研究──橘孝三郎の思想』(農山漁村文化協会、1976年)は農政学の立場から橘が農作業の具体的な現場を知った上で農業経営構想をしっかり立てていることに驚きながら、彼の思想を通して農本主義のアウトラインを描き出そうとしている。新しい著作としては長山靖生『テロとユートピア──五・一五事件と橘孝三郎』(新潮選書、2009年)があり、基本的に保阪書の枠組みをなぞっているだけという印象もあるが、取っ掛かりとして読みやすいだろう。

 橘孝三郎は天皇中心の国家主義を掲げていた点では右翼思想に分類される。しかし、彼の本意は、土にまみれて農作業を行う一人ひとりが互いの個性に敬意を払って認め合いながら有機的な共同体=コミューンを作り上げていこうという点にあり、愛郷塾の前身である兄弟村は同時代における武者小路実篤の「新しき村」と並び称されていた。橘は西洋近代へのアンチとして東洋の精神性を謳いあげてはいたが、他方でミレーの絵画に感銘を受け、トルストイに共鳴し、思想的にはロバート・オーウェンの協同体論やウィリアム・ジェイムズの哲学、とりわけアンリ・ベルグソンのエラン・ヴィタールの観念から強く影響を受けており、漢学的教養を基に社稷の思想を組み上げた権藤成卿と比べるとかなりバタくさいという印象もある。晩年の橘に会ったことのある松沢哲成、保阪正康、立花隆(『天皇と東大』[文藝春秋]によると縁戚にあたるらしい)は異口同音に、過激派右翼という先入観とはまったく違って穏やかな人柄であったことを証言している。

 現代の社会において、いや、橘たちが生きていた昭和初期という時代にあってすらも、農本主義が成立する余地はもはやなかっただろう。社会的条件を欠いたまま田園生活への憧憬を語っても所詮はノスタルジックな幻想に過ぎない。とは言え、人間関係が切り離され、アトム化した疎外感に苛まれているという自覚があるとき、何がしかのユートピアを見出したいという願望が芽生えるのも無理からぬところで、それが絶望的な焦燥と結びつくと、「テロとユートピア」という長山書のタイトルが示唆するように、ある種の暴発につながりかねない。時代が過ぎても形態が変わっても、いつでもあり得るそうした心情を考え直す上でも、橘という人物は不思議な関心をそそられる。

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2012年1月 8日 (日)

下斗米伸夫『アジア冷戦史』『日本冷戦史──帝国の崩壊から55年体制へ』

下斗米伸夫『アジア冷戦史』(中公新書、2004年)

・冷戦の起源を第二次世界大戦後のヨーロッパにおける米ソの対立に求める一般的認識とは違う観点から、東アジアにおける冷戦構造の動態を捉えなおしていく。当初は米国と中ソという二極構造から始まったものの、スターリン批判等を契機に共産圏内部で多極化。東欧では、例えばハンガリーの“小スターリン”ラーコシを排除できたのとは異なってアジアに対しては打つ手がなく、中国、北朝鮮、ベトナムの動向はソ連にとっても想定外だった。
・北朝鮮は当初、ソ連をモデルとして国家形成、つまり事実上の傀儡国家として出発(ソ連から来たホガイの役割については、アンドレイ・ランコフ(下斗米伸夫・石井知章訳)『スターリンから金日成へ──北朝鮮国家の形成 1945~1960年』[法政大学出版局、2011年]を参照のこと→こちら)。スターリン批判後、中ソは北朝鮮内部の情勢を把握できていなかったため、思惑を超えて金日成はソ連派や中国派を粛清、独裁体制を樹立。なお、人民義勇軍司令官として朝鮮戦争に参戦した彭徳懐が対北朝鮮関係を担当していたが、彼の金日成評価は低かったらしい。
・日中国交回復にあたり、中国は反覇権(=反ソ)条項にこだわった。これに対して、ソ連側も反覇権条項の中立化するため日本との関係を仕切りなおそうと模索したが、アフガン侵攻でつぶれた。
・西側との対抗上、ソ連は核兵器という最新テクノロジーの開発を急ぎ、貧しい経済を軍事化したため、国民に多くの人的犠牲を強いることになった。同様のことが中国、北朝鮮でも続いており、核開発連鎖のプロセスを示唆。

下斗米伸夫『日本冷戦史──帝国の崩壊から55年体制へ』(岩波書店、2011年)

・上掲書の観点を踏まえて、日本を軸として冷戦構造のプロセスを検証。日本は敗戦によって帝国から国民国家へと縮小、1945年8月からの帝国解体に伴う空間的処理をめぐる過程にアジア冷戦の起源を求めるのが基本的認識。英米ソの関与が対立へとつながり、これが日本の内政へも還流していったという構図。
・冷戦構造を形成した要因としての核の地政学:広島・長崎への原爆投下の衝撃→ソ連は核兵器製造の意図を持つ→当時はまだソ連領内においてウランが見つかっておらず、いかにウランを確保するかが外交課題として浮上→東欧、とりわけブルガリアに埋蔵されたウランに着目(ブルガリアのトップにはコミンテルン執行書記だったディミトロフを据えた)→東欧におけるソ連の覇権を認めさせる代償として、日本占領における米国主導を容認。
・東アジアにおける共産主義運動の中心は北京とされ、ミコヤンと劉少奇を中心として構想された中ソ同盟による共産主義運動の連帯→中ソ対立の激化→これが日本共産党内部の分裂にも波及していった→1950年代、日本共産党の内部抗争の様子も後半で取り上げられる。

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酒井亨『台湾人には、ご用心!』

 酒井亨『台湾人には、ご用心!』(三五館、2011年)読了。カバーの「萌え」系イラストは人によっては引いてしまうかもしれないが、著者は以前にも、日本のアニメやポップカルチャー好きな台湾の若者をテーマとした『哈日族』(光文社新書、2004年)を書いているし、また前著『「親日」台湾の幻想』(扶桑社新書、2010年→こちら)では「親日」ならぬ「萌日」というキーワードを出してきたから、この辺に反応する読者層を狙ったものか。

 ちなみに、この『「親日」台湾の幻想』という本、台湾が日本好きなのは確かだが(著者は「萌日」と言う)、他方で「台湾は親日なのだから、日本の植民地支配は正しかった」みたいな保守派にありがちな議論に釘をさす内容であった。それを敢えて扶桑社=サンケイ・グループから出すという心にくい“配慮”には思わずニヤリとしたものだ。

 「台湾人は○○だ」という決め付け口調はこうした文化論ではありがちな書き方ではあるが、台湾にどっぷり浸ってきた著者ならではの実感なのだろう。『「親日」台湾の幻想』と重なる箇所が多いようだが、ポイントをいくつか挙げていくと、
・良くも悪くも「いい加減」で気分屋さんの台湾人気質、その具体例を色々と紹介していくのが全体的な趣旨。論理的にことを進める中国人気質とは異なり、台湾人はむしろ南方系のマレー人やフィリピン人に近い。「国民国家」にも興味ないから、統一/独立といった政治論には曖昧な態度を取るのが多数派。なお、台湾人はマレー系という指摘については遺伝学者・林媽利の議論を援用している。林媽利《我們流著不同的血液:以血型、基因的科學證據揭開台灣各族群身世之謎》(前衛出版、2010年)は私も以前に台湾を訪れたときに購入して読んだ(→こちら)。
・多言語社会である台湾では、多くの人にとって北京語はあくまでも習った言語であって必ずしも母語ではない。従って北京語のネイティヴチェックをしてもらうときには要注意。蒋介石時代の政治体制の問題もあって“サバイバル”のため言語の使い分け→本音は北京語ではなく、母語の台湾語を使うときに出てくる
・日本のサブカルチャーが台湾ではせっせと翻訳されている→これが台湾を経由して中国語圏に広がっている。
・台湾人が好きなのは現在の日本であって、戦前の日本ではない、という指摘は『「親日」台湾の幻想』を参照のこと。

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