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2012年4月1日 - 2012年4月7日

2012年4月 4日 (水)

キャロル・オフ『チョコレートの真実』

キャロル・オフ(北村陽子訳)『チョコレートの真実』(英治出版、2007年)

 先進国では手軽な嗜好品として好まれるチョコレート。しかし、原材料であるカカオを栽培している西アフリカで、子供たちがこのチョコレートを味わうことはない。本書はカカオ生産にまつわる様々なエピソードを描いた歴史ノンフィクションであるが、そこからは甘くておいしいお菓子の裏に隠されてきた人間社会の苦い歴史が垣間見えてくる。

 カカオはもともと中南米原産であり、チョコレートという言葉もアステカ人が使っていた「カカワトル」(カカオの水)が転訛したものと言われている。アステカ帝国では、搾取された膨大なカカオが富と権威の象徴として王や貴族たちによって消費されていた。カカオの食べ方が現在と違ってはいても、貧しき者が生産したカカオ製品を富める有力者が消費するという構図は本質的に変わらない──極めて悲観的なテーマが本書には一貫している。問題は構造的である。チョコレートは、最貧国の悲劇と豊かな我々の日常生活とを皮肉な形で結びつける一例に過ぎない。

 コルテスによる残虐なアステカ帝国征服後、カカオはヨーロッパにもたらされた。16世紀以降、現在の我々にも馴染みのある消費方法が徐々に確立していく。需要の増加と共にヨーロッパ諸国の植民地政策によってアフリカでのプランテーション栽培が進められていった。チョコレート消費の大衆化は大量生産による低廉化が求められ、コストを安くするために奴隷労働が活用された。

 その後、奴隷労働は非合法化されたものの、実質的にはなくなっていない。コートジボワールでの取材を基にした本書の後半部分はそうした苛酷な実態を描き出し、社会派ノンフィクションとして実に生々しい。

 フランスからの独立後、コートジボワールはカカオ栽培を中心とした産業振興により奇跡的な経済成長を遂げたが、フェリックス-ウーフェ・ボワニ大統領の死後、モノカルチャー構造の経済は様々な矛盾を露呈していった。国際市場では低価格が求められる。貧困に窮したカカオ生産農家は隣国マリからの移民を利用し、違法な児童労働すら当り前になっている。貧しい者がさらに貧しい者を使い捨てにするマイナスの連鎖。生産農家の生活が成り立つよう十分な報酬が支払われるようにしなければならないが、フェアトレード等の取組みは主流にはなっていない。政治構造の腐敗は少数の高官による富の独占を恒常化させる上、非効率な統治によって国内産業の基盤を侵食し、カカオの利権をめぐる紛争はいわゆるブラッド・ダイヤモンドに近い問題をはらんでいる。

 義憤に駆られた人々もいる。例えば、人身売買の問題を告発して免職されたマリの外交官アブドゥライ・マッコやカカオ・コネクションの闇を探って暗殺されたフランス出身のカナダ人ジャーナリストであるギー-アンドレ・キーフェル(GAK)──本書が取り上げる彼らの活動は、アダム・ホックシールド『レオポルド王の亡霊:植民地アフリカにおける強欲、恐怖、そして英雄たちの物語』(Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost: A Story of Greed, Terror and Heroism in Colonial Africa, Pan Books, 2006→こちら)に登場するジョージ・ワシントン・ウィリアムズ、エドマンド・モレル、ロジャー・ケースメントをはじめとした人々を想起させる。ただし、彼らが告発したベルギーによるコンゴ植民地支配の苛酷さ──その収奪構造の実質はコンゴ(ザイール)独立後のモブツ政権になっても何も変らなかったというのが『レオポルド王の亡霊』の悲しい結末であるが、同様のことはコートジボワールについても言える。

「私が会ったマリ人少年は仕事と冒険を求めてコートジボワールに行き、人生の一部をカカオ農園の強制労働に費やした。彼らはチョコレートを見たことさえなくても、チョコレートの本当の値段を身をもって知った。チョコレートには、自分たちのような何百人という子供を奴隷にするという計り知れないコストが含まれているのを、今や彼らは知っている。彼らはチョコレートの味を知らず、これからも知ることはないだろう。チョコレートの本当の歴史は、何世代にもわたって、多かれ少なかれ彼らのような人々の血と汗で書かれてきた。未来を見通してみるとすれば、ずっと昔から続くこの不公正が正される見込みは、ほとんどない。」(372~373ページ)

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最近の中国の小説を何冊か

 郭敬明(泉京鹿訳)『悲しみは逆流して河になる』(講談社、2011年)を読んだ。原題は《悲傷逆流成河》。郭敬明は中国の八〇后世代の作家としてカリスマ的人気を誇る。

 リリカルな文体にしっかり練られた翻訳はとても上手なのだが、肝心のストーリーはありがちな学園もの。『セカチュー』系の青春小説、ラノベといった感じ。上海が舞台なのだが、描きこまれている心情描写を見ていると、固有名詞を入れ替えればそのまま日本のラノベといっても通用しそうな錯覚すら覚える。同様に八〇后世代の田原(泉京鹿訳)『水の彼方』(講談社、2009年)を読んだ時にも思ったが、日本人にも読みやすい。それだけ若年層では共通した感性が醸し出されつつあることは非常に興味深いのだが、逆に考えると、この手のラノベは日本には掃いて捨てるほどあるから、日本人がわざわざこの作品を読む必然性はないとも言える。

 余華(泉京鹿訳)『兄弟』(上・文革篇/下・開放経済篇、文春文庫、2010年)は刊行当初から話題になっていたのは知っていたが、確かに面白い。公衆トイレ(ボットン便所)で女の尻を覗き見してたら肥溜めに落っこって窒息死した父。その息子である主人公もやはり覗き見してたら捕まって吊し上げられたが、その時に見た村一番の美少女の尻の話をネタに商才を発揮して…って、なんだこのシュールな出だしは(笑)

 しかし、読み進めていくと文革時の悲劇の描写が続き、改革開放の気運に乗じて出世していく過程では金儲けに浮かれた世相がたくみに織り込まれている。世相諷刺が直截的だと正義感の臭みで興醒めするものだが、この小説の場合、荒唐無稽なファルスだからこそ人間の欲望のむき出しになった姿があられもなく描き出されていく。そこが面白い。

 余華(飯塚容訳)『活きる』(角川書店、2002年)を読んだ時にも思ったが、彼の作品は、第一に中国ならではの歴史的背景を踏まえた内容を持ち、第二に人生の哀歓を感じさせるストーリーは老若男女を問わず鑑賞できる。だから、書評でも頻繁に取り上げられ、読者層も広がったのだろう。

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2012年4月 1日 (日)

ローレンス・C・スミス『2050年の世界地図──迫りくるニュー・ノースの時代』

ローレンス・C・スミス(小林由香利訳)『2050年の世界地図──迫りくるニュー・ノースの時代』(NHK出版、2012年)

 世界的な人口構造の変動(とりわけ先進国を中心に進展する高齢化や都市の過密化)、資源供給の逼迫、こうした問題に加えて地球全体の温暖化による影響も懸念される中、将来の見通しには楽観を許す余地はない。だが、何がしかでもプラスの要因を見出すことはできないものだろうか? 

 サブタイトルにある「ニュー・ノース」とは、北緯四五度線以北の環北極圏に位置するNORCs8カ国、すなわちロシア、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、アイスランド、グリーンランド(デンマーク)、カナダ、アラスカ(アメリカ)を指す。著者は水文学、氷河・氷床、永久凍土融解の影響などを専門に研究する地理学者で、カリフォルニア大学ロサンゼルス校ではジャレッド・ダイアモンドの同僚らしい。もともとは気候変動の研究のため環北極圏に関心を持っていたという。

 本書は、①急速な科学技術の進歩はない、②現在の地政学的状況が根本的に変わることはない、③突発的な気候変動、世界的大不況、疫病の大流行などはない、④理論モデルの信頼性、こうした前提を置いた上で、コンピュータ予測や現地におけるフィールドワーク経験の知見を駆使、気候変動が「ニュー・ノース」にもたらしつつある変化を明らかにする。単に自然科学の議論にとどまるのではなく、社会経済的なポテンシャルも提示されるのが本書の強みだ。

 地球全体の平均気温の上昇は多くの地域にマイナスの影響をもたらすのは確かだが、他方で北極圏における温暖化の増幅、北の高緯度地方周辺での冬の降水量の増加といったメガトレンドも見て取れる。北部高緯度地域では温暖化効果が最も表れるのは冬の時期で、極寒の「シベリアの呪い」がやわらぎ始めているという。こうした傾向を踏まえて予測すると、2050年の時点で「ニュー・ノース」は湿潤で人口が少なく、天然資源が豊富、今ほど酷寒ではない地域へと変化することになる。ただし、今後も住みやすい場所になるわけではない。著者はアメリカのネバダ州のイメージにたとえる。つまり、土地の大半には何もないが、いくつかの定住都市での産業の発達によって経済が成長し、豊富な資源の供給元としてグローバル経済につながっていく可能性が指摘される。ただし、「ニュー・ノース」の可能性がそのまま世界規模の問題の解決に直結するわけではない。その点では本書の論旨は慎重だ。

 これまで権利や尊厳が無視されてきた北方先住民の問題を取り上げた第8章に関心を持った。ノルウェイのサーミ人議会議長との対話で「気候変動のおかげで、北方の石油やガスや鉱物資源にアクセスしやすくなる。だから、資源管理を掌握することが重要になる」と話したところ、「自分たちには中央の議会に代表がいないのに、どうやって資源管理に影響を及ぼせるのか?」という反応があった。地球温暖化、天然資源の需要、政治的影響力の綱引き、こうした中で北方先住民の自治拡大、権限強化の要求もまたクローズアップされていく。

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まだ読んでない本だけど

 アマゾンのおすすめメールが来て、こういう本が近々刊行予定であることを知った。Taner Akcam, The Young Turks' Crime Against Humanity: The Armenian Genocide and Ethnic Cleansing in the Ottoman Empire (Human Rights and Crimes Against Humanity) Princeton Univercity Press, 2012(「青年トルコ党」の人道に対する罪:オスマン帝国におけるアルメニア人ジェノサイドと民族浄化)→こちら

 1905年のいわゆる「青年トルコ」革命でオスマン帝国の政権の座に着いた青年将校たち、いわゆる「青年トルコ党」は当初政治改​革を推進しようとしていた。ところが、「国民国家」化を目指して彼らの推進した同質化政策は少数民族への抑圧を引き起こし、とりわけ第一次世界大戦中の1915年に生じたアルメニア人に対する大虐殺は、20世紀におけるジェノサイドの歴史の忌まわしい幕開けとなったことで知られている。

 ところが、トルコはオスマン帝国解体後の共和国成立以降も現在に至るまで強硬な民族主義政策からアルメニア人ジェノサイドを一切認めようとしてこなかった。トルコ国内でアルメニア人ジェノサイドに言及すると刑法に問われてしまう。例えば、ノーベル賞作家の​オルハン・パムクもこの問題で危うく起訴されそうになった。トルコ国内では情報が制限されているため、一般国民のこの問題に対する認識には国際社会とのギャップが大きい。

 著者のTaner Akcamはトルコ人歴史家として初めて公式にアルメニア人ジェノサイドを認めた歴史学者らしい。読んでないので何とも言えないが、そうした意味で画期的な本なのかもしれない。英語で刊行しているのは、他ならぬトルコ国内では無理だからだろう。現在のエルドアン政権は、かつての政権とは異なって民族問題にも柔軟な姿勢を示しているから、少しずつでも変化が見られればいいと思う。

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【映画】「父の初七日」

「父の初七日」

 父危篤の知らせを受けて台北から故郷・彰化に駆けつけた阿梅。病院で父を看取ったのも束の間、父の死を実感する間もなく、そのまま葬式という慌しい行事に巻き込まれていった火葬までの七日間。

 葬式もの映画で比較すると、例えば韓国のイム・グォンテク監督「祝祭」のようにギスギスした騒動を通して人間観察するというタイプではなく、また伊丹十三監督「お葬式」のようなシニカルな毒気もない。葬式の厳粛さを茶化したコメディー・テイストでほんのり味付けをしつつ、基本は人情ドラマ。さり気ない仕草から微妙な感情的な機微がきちんと描きこまれている。道教や仏教の混淆した伝統的しきたりに田舎の人間関係も絡まった葬儀のプロセスが見えてくるのが興味深い。

 阿梅は台北を拠点に英語も駆使してバリバリ働くキャリア・ウーマンだが、故郷に戻り、勝手の分からぬ葬儀の渦中ではどうしたら良いのか分からず、采配をふるってくれる道士の指示に従うしかないというギャップが面白い。来客やトラブルで考える間もなく慌しい中、肝心の死者のことなど忘れがちになってしまうが、それでもふとしたきっかけで父の面影を想起する。例えば、父から誕生日プレゼントだと貰った肉ちまきを食べた橋の上。父とデュエットした夜市の露店。場所と結びついた父にまつわる思い出の数々──。

 葬儀には家族関係の諸々をつなぎとめてきた伝統的感性が凝縮されているはずだ。しかし、まさにその葬儀を一つのカルチャー・ギャップとして客観視しながら描き出す視点は、それがすでに自分の感性から半ば離れたものになっていることの表れでもある。この映画を観ながら、ある種のノスタルジーすら感じられてくるのは、単に村の風景の穏やかさだけではあるまい。知らぬ間に近代的都市生活に馴染んでしまった感性が、葬儀をきっかけとして伝統的習俗になつかしく邂逅するという側面も見逃せないだろう。父の面影はすなわち故郷の思い出なのである。

 葬儀を手伝うためにやはり台北から戻った従兄弟の大学生・小荘が、道士に憧れの眼差しを向けるのも話の伏線としてつながっている。道士は、実は彼の母の元カレである。そして、母は海外で仕事をしており、今回も故郷には戻ってこない。つまり、阿梅と同様な母の海外志向に対して、小荘は道士から色々なことを学ぼうとする。道士は詩人を自称しており、自ら書いた詩を小荘に披露した。標準中国語で格調高く読み上げる一方、台湾語を使って粗野とも言える言葉遣いながら本音を叫ぶ詩を謳い上げる。小荘も台湾語で復唱して言う、「リズムが良いね!」英語=海外志向or都市生活/標準中国語/台湾語=土着性、こうした台湾における重層的アイデンティティのあり方が垣間見られるシーンだ、と言ったら深読みに過ぎるだろうか。台湾語で「疲れた」は「父のために嘆く」と書く、というセリフもあった。

 蛇足ながら、夜市で阿梅が父と一緒に歌っていたのは中国語の歌詞だが、メロディーは日本の演歌の「なみだ酒」ではないか? 他にも私の知らない日本語の演歌が流れるシーンもあった。それから、お供え物としてポルノ雑誌を遺体の上に置いたとき、表紙に日本語があったのも見逃さなかった(笑)

【データ】
原題:父後七日
製作・監督:王育麟
原作・脚本・監督:劉梓潔
2009年/台湾/92分
(2012年3月30日、東京都写真美術館ホールにて)

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