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2012年3月25日 - 2012年3月31日

2012年3月30日 (金)

ポール・ロバーツ『食の終焉──グローバル経済がもたらしたもうひとつの危機』

ポール・ロバーツ(神保哲生訳)『食の終焉──グローバル経済がもたらしたもうひとつの危機』(ダイヤモンド社、2012年)

 ふだん何気なく訪れるスーパーマーケットを思い浮かべてみよう。熟れた果物、食べやすくカットされた生鮮食品、安価な加工食品──多種多様な品物が豊富に取り揃えられているのを見ると、「食の崩壊」などと言っても実感はわかない。だが、それらの製造・流通過程の内幕を知ってしまうと、安閑たる気持ちではいられなくなる。

「それはたとえば、まったく同じ外見をした動物が何千頭も飼われている飼育場や、同じ植物が何エーカーもの土地を埋め尽くす広大な工場式農場。農場に流れ込んではこぼれ出す大量の飼料や肥料、アトラジンやラウンドアップなどの農業用化学物質。侵食が進む土壌、農薬耐性を持つ害虫。森が農地に変わり、農地がショッピングセンターに変わる姿。低下する地下水面を追いかけるようにますます深く掘られる灌がい用井戸、低賃金の労働力を求めてどこまでも延びる貨物用航空路。低い利益率や少ない在庫、そして時間当たりの処理能力の要求レベルがどんどん上がり、失敗の余地がなくなっていく中で、細く長く延びていくサプライチェーン…。」(490ページ)

 食にまつわる様々な問題点が本書では多角的に網羅されており、その意味では概論的な内容と言っていいかもしれない。一部だけでもピックアップしてみると…
・大量生産のシステムが成立すると、必要に応じて生産するのではなく、新製品のアピールのため広告に多額な費用をかけて需要を無理やり喚起。
・市場原理によって小売業者が値下げ競争→末端の農家にしわ寄せ。
・大規模な畜産による水質汚染、農業肥料に使われた化学物質の流出による環境汚染。
・低価格の食料ほど高カロリー→貧困層ほど肥満に苦しむ。
・ワシントン・コンセンサスによる貿易自由化→農業生産の基盤が厚いため大量生産により低価格の食料品を輸出できる先進国(農業に従事する人口やGDPは1~2%に過ぎない)が有利で、輸入する途上国(人口の大半が農業に従事)で農業システムが崩壊。輸出主導型農業の限界→リカード的な比較優位説が単純に成立するのか?という疑問。小規模農家の存在を開発計画に取り込む必要を指摘。
・牛肉の生産には大量の穀物が必要→新興国の所得水準向上により牛肉消費量が増大すると穀物が足りなくなる。
・鳥インフルエンザや様々な病原菌→食品保護システムの不備、汚染経路が特定されないにもかかわらず、輸出が拡大されるリスク。とりわけ中国、インド、ベトナム、インドネシアなどの逼迫した食品市場の問題点を見ると、食のシステムの致命的な崩壊はアジアを発端に生じかねないと指摘。
・遺伝子組み換え食品が未知の災厄をもたらしかねないことへの警戒感が話題となるが、それ以前に、「飢餓とは、社会的、政治的、経済的および生物学的な要素が複雑に絡まり合った結果であり、遺伝子工学だけで解決できるものではない」(439ページ)。遺伝子組み換えがダメならオーガニック運動か? だが、オルタナティブのはずのオーガニック運動もまた、①イデオロギー的純血主義、②市場原理に則って収益性を第一に考える現在の政治・経済モデルに組み込まれていく、という問題がある。

 一つ一つの論点はすでに周知の問題で、本書を読んでことさら驚くというわけではない。ただ、これらの問題点が一つながりの見通しの中で関連付けられると、現代の消費文明が構造的に生み出している落とし穴が人類の文明史にとって致命的な災厄をもたらしかねない危うさがクリアに提示される。

 ものを作って食べる、その一連の行為は本来有機的なものだ。食の生産と消費とが完全に分離したあり方は他ならぬ自分自身の人生をも他人に委ねたに等しい、と本書が言うのはもちろんまっとうだとは思う。結論として、食料生産工程のせめて一部でも取り戻すことで能動的なものにしていく、つまり地域密着型の食のシステムが推奨される。しかしながら、生産と消費の分離こそが社会的効率性・利便性を高めるのに役立っており、この高度に複雑化したシステムを現代の我々が果して手放すかどうかと考えると、なかなか難しいだろう。また、食料生産を持続可能なものにするには、投入資源を別なものに代替したり、新技術を開発したりするだけでも問題は解決できない。広いレベルで既存の政治経済システムそのものを根源的に問い直さねばならなくなってくる。

 持続可能な食料生産を支えるには相応の代価が必要である。激安の食料品など本来ならあり得ない。ところが、そうした代価を支払えるのは一定の富裕層に限られてしまう。現実として貧困に喘いでいる人々にとって、大量生産された低価格食料品以外の選択肢はない。選択肢が限られている以上、「消費者の自己責任」という言説は成立ち難いし、そもそもこの大量生産工程自体が食のシステムを不自然に歪めているわけだが。

 問題は現代社会の利便性と分かちがたく絡まり合っている。生産者はたくさん作りたい。小売業者はたくさん売りたい。消費者は安く買いたい──社会を構成する各プレイヤーにとっては合理的な行動であっても、合成されると意図せざる形でマイナスのスパイラルにはまってしまう。テクノロジーの進歩は問題の一部を解決はするが、別の派生的な問題も生み出しかねない。こうしたアポリアを人類は果たして乗り越えていけるのか、本書を読んでいると心許ない焦燥に駆られた居心地の悪さをどうしても感じてしまう。

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2012年3月27日 (火)

ドミートリー・トレーニン『ロシア新戦略──ユーラシアの大変動を読み解く』

ドミートリー・トレーニン(河東哲夫・湯浅剛・小泉悠訳)『ロシア新戦略──ユーラシアの大変動を読み解く』(作品社、2012年)

 ソ連解体から10年ほど経った頃、上海の空港に着いた著者がその時もまだ持っていたソ連時代のパスポートを提示したところ、航空会社の女性職員が戸惑っていたという冒頭のエピソードが示唆的だ。彼女の上司が出てきて曰く「失礼しました。この頃の若い女性はソ連のことを知らないのですよ」──ソ連は遠くなりにけり、といったところだろうか。著者は別にノスタルジーを語りたいわけではない。むしろ本書で示される著者の最終的な見解は、ソ連解体後の状況が既定事実となっている中、この現実を認めるところからロシアは今後の歩みを始めなければならないという点にある。

 著者はカーネギー国際平和財団モスクワ・センター所長として欧米にもよく知られた国際政治学者である。トレーニンの単著の邦訳は本書が最初であろうか。旧ソ連諸国をめぐる現在の地政学的環境の中、ポスト帝国時代のロシアが直面している問題群について安全保障、エネルギー、人口動態と移民、イデオロギーなどのテーマに沿って網羅的に整理する構成となっている。内容の詳細をここで逐一紹介することはできないが、現在におけるロシアの政治外交について概説的な知識を得るには有益な書物である。

 ソ連解体は各民族が独立闘争の末に独立していったのではなく、モスクワの政権内部の決定で進められた点で、比較的に平和な過程をたどったと指摘される。ソ連解体後、ロシアとある程度でも同質性があり得るのはウクライナとベラルーシくらいのもので、それ以外の国々が独立した状態は既定事実となった。中央アジアやコーカサスを舞台に米ロがパワー・ゲームを展開しているという捉え方は間違っていると著者は言う。米ロばかりでなく中国、日本、インド、イラン、トルコなどの地域大国やEUが影響力を及ぼす中で、中央アジア諸国家も自らの意思を持った多角的な戦略行動を取り得るため、どこか一方の勢力に依存しようとは考えていない。そもそもロシア自身の国際政治経済における比重は低下し、ソ連時代とは異なって複数の極の一つに過ぎない。旧ソ連の空間は世界に開かれており、ロシアにはすでに経済的支配力はない。

 それでもロシアが敢えて周辺国を自らの勢力圏内に引き寄せていくには経済的恩恵でつなぎとめるしかないが、現在のロシアにはそのための財政的余裕も意思もない。それにもかかわらず、再び統合を求める言説も表れてはきたが、逆に自国中心の勢力圏の確立によってロシア自身の利益を引き出そうという意図を露にする結果となっている。その点では、かつてのソ連体制がイデオロギー的な理由から勢力圏=帝国を維持するために非効率でも衛星国への援助を行ってきたのとは異なり、現在のプーチン政権は自らの国力的な優位を利用するプラグマティックな大国主義に変化しているという。プラグマティックというのは、つまり名(イデオロギー的な大義名分)よりも実(国益志向がいっそう露骨になった)を取るということだろうが、同時にそれは、国益を効果的に増進させるため、利害関係が複雑に錯綜する中、個々のケースに合わせてデリケートな政策を組み合わせていかねばならないということでもある。そのような繊細なタクティクスはロシアには苦手だから、面倒くさくなって力で恫喝するのだろうか?

 いずれにせよ、現実的な条件にはそぐわないにもかかわらず、ロシアの指導層における自己認識においてはかつてのソ連帝国時代へのノスタルジーから地域大国レベルでは満足できず、あくまでもグローバル・プレイヤーを自任する傾向がある。「帝国は時として強制的な行為をとらざるを得ない局面に立ち、特別な使命という名のもとに、ある種の公共財を作り出す。大国はいずこも、粗野であるのと同じように抑圧的であり、本質的に利己的な生き物である。」(348ページ)

 もはや帝国ではないが、国民国家未満の状態にあり、近代化の遅れも目立つロシア。本当に必要なのは、過去の栄光の復活を求めるのではなく、現在の条件を見据えながら変革していくための新しい世界観を打ち出すことであるとして、国内体制の近代化や周辺諸国との協調を促すリベラルな提言で最後はしめくくられる。

 本書でとりわけ特徴的なのは、ロシアはユーラシア国家というよりも、ヨーロッパ・太平洋国家であるという見取り図の提起だろう。「ロシアの最重要地点、二一世紀のフロンティアは東方にある。そこには、目前にある太平洋の隣国たち、すなわち中国、日本、韓国に追いつくための必要と機会の双方をロシアは持っている。北京、東京、ソウルはこぞって太平洋を見据えている。地球規模で進む太平洋へのパワーシフトは、ロシア対外政策における新たな注目点を必然的に生み出しているのである。もしもピョートル大帝がいま生きていたとしたら、彼は再びモスクワから遷都するだろう──ただし、今回はバルト海ではなく日本海に向けて」(395ページ)。

 なお、ここに引用したフレーズは著者の決め台詞なのだろうか、以前に読んだ“Russia Reborn”(Foreign Affairs, vol.88 no.6,Nov/Dec 2009)という論文で見かけたのをよく覚えている(→こちらで取り上げた)。また、Dmitri V. Trenin, Getting Russia Right(Carnegie Endowment for International Peace, 2007)では、ロシアは地理的・文化的アイデンティティとしてヨーロッパにはなれないが、近代化・民主化は可能であるとして、それを「新しい西洋」(the New West)と呼んでいた(→こちらで取り上げた)。

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