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2012年3月18日 - 2012年3月24日

2012年3月22日 (木)

大田俊寛『オウム真理教の精神史──ロマン主義・全体主義・原理主義』

大田俊寛『オウム真理教の精神史──ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社、2011年)

本書はオウム真理教を一つの取っ掛かりとして近代日本社会が構造的にはらんでいるアポリアを照射していく。分析視角として採用されるロマン主義、全体主義、原理主義という3つのキーワードはそれぞれ多義的で問題含みの概念ではある。しかし、本書では近代思想史のコンテクストを踏まえて理念型的にきちんと整理され、それらを概念道具として使いこなす手並みが実に鮮やかで感心した。堅実な枠組みの中で議論が進められるので、結論的に示される見通しへの賛否は別として、少なくとも巷のオウム真理教論にありがちな浮ついた軽さは感じさせない。

・生きて死んでいく存在としての人間、しかしそれは肉体的な死を以て消滅するような一過性のはかないものではなく、死後もなお他者との「つながり」の中で生きていく存在であり、「つながり」によって共同体が成立していた。その「つながり」を物語るところに宗教の役割がある。ところが、苛酷な宗教戦争の反省からヨーロッパで政教分離の原則が生成するにつれて主権国家という「虚構の人格」が確立されるが、これには3つの問題点がはらまれていた。①権威としての至高性と世俗の軍事力との一致→限界なき暴力装置としての主権国家、②彼岸と此岸との分離→葬儀の公的性質の剥奪、「死」の問題の私事化、③近代の主権国家はその来歴から見ると社会統合のための「新たな宗教」と見なすべきだが、政教分離原則により国家の「非宗教性」、宗教は主観的内面性と考える矛盾→私的妄想と区別のつかない「宗教」が、「信教の自由」の下で保護されたり、「政教分離原則」で弾圧されたりというダブルバインド的状況→歪んだ「宗教」が数多く発生しやすい構造。

・近代における啓蒙主義へのアンチテーゼとしてのロマン主義:①感情の重視、②自然への回帰、③不可視の次元の探究、④生成の愛好、⑤個人の固有性、⑥民族の固有性。
・社会の巨大化・流動化・複雑化、誰とでも代替可能な自分という存在の軽さ→「世界の全体像を知りたい」「自分が生きている意味を知りたい」という人々の欲求の困難→「複雑な社会のなかで一つの部品のように生きている自分は「偽りの自分」に過ぎず、「本当の自分」は見えないところに隠れている」と考える→ロマン主義への志向性。

・全体主義の特質:①幻想的世界観、②カリスマ的支配、③二元論的基準、④神秘的融合、人格改造、⑤自閉的共同体、⑥暴力的精鋭組織、⑦強制収容、⑧異分子排除、情報防衛。
・根無し草として生きる群衆の孤独、日々の不安、そして自分自身を含めた人間や社会への嫌悪→「淀んだ快楽と倦怠に満ちた孤独の生を過ごすか、あるいは、ある全体性のなかに身も心も没入してゆくか──近代の群衆の前にしばしば突きつけられるのは、このような究極的な二者択一である。そして、前者の生活に耐えることができなくなった群衆は、やむなく後者を選び取る。自由の基盤であると同時に、苦悩の源泉でもあった自律的自我を放棄して、カリスマの人格や閉鎖的コミュニティの秩序に深く没入することは、それまでに経験したことのないほどに強烈な恍惚的享楽の感情を、彼にもたらすことになる。彼は幻想的な充溢感のなかで、自分自身が新たな存在に生まれ変わったかのように錯覚する。そして彼は、かつて自分がそうであったような生のあり方、すなわち生きていようが死んでいようがさして実感のない淀んだ生、無用な生のあり方に鋭い敵意を向け、その存在を抹消するために、歯止めの利かない暴力性を発動することになるのである。」(167ページ)

・原理主義概念については終末思想の系譜として整理。

・「…ロマン主義、全体主義、原理主義という思想的潮流が発生し、社会に対して大きな影響力を振るうようになったのは、近代という時代の構造、より具体的に言えば、国家が此岸の世界における主権性を獲得し、宗教や信仰に関わる事柄が「個人の内面」という私的な領域に追いやられるという構造そのものに起因していると考えることができる。」(276ページ)
・「…ロマン主義は「本当の自分」という生死を超えた不死の自己を、全体主義は他者との区別を融解させるほどに「強固で緊密な共同体」を、原理主義は現世の滅亡の後に回復される「紙との結びつき」を求めることによって生み出される幻想なのである。」(277ページ)

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2012年3月21日 (水)

宮田律『イスラムの世界戦略──コーランと剣 一四〇〇年の拡大の歴史』

宮田律『イスラムの世界戦略──コーランと剣 一四〇〇年の拡大の歴史』(毎日新聞社、2012年)

 現在の国際情勢におけるイスラム世界の位置づけを考えていく上で最低限必要な知識を概説した入門書。高校世界史のイスラム史に関わる部分をもう一歩踏み込んだくらいのレベルの知識は満遍なく得られる。新聞の国際面を読む際の副読本として活用すると良いだろう。例えば、イスラム圏の人々の行動パターンを理解する上で不可欠な教義について政治経済と絡ませながら解説しているところは国際ニュースを読み解く上で役立つ。ただ、イスラム経済が資本主義・社会主義とも異なる第三の経済路線を目指しているというのは興味深いのだが、それが近代的経済システムとどのような形で接合するのか、あるいは接合できないのか、この辺りをもっとはっきり整理してくれたらありがたかった。

 イスラムも決して一枚岩ではなく、例えばスンニ派とシーア派との対立などはすでに一般常識になっていると思う。しかし、報道等では教義が違うからと簡単に整理されていることも多いが、ではどのような相違があるのか、よく分からないこともしばしばある。そうした点では、例えば本書でシリアのアラウィ派をめぐる歴史を通して現アサド体制の来歴を解説している箇所は勉強になった。

 日本とイスラムとの関わりでは、井筒俊彦、山内昌之、鈴木規夫など大川周明のイスラム研究における先駆性を高く評価する見解が見られるが、本書でも同様に高評価。どうでもいいが、タイトルの「イスラムの世界戦略」というのは内容と若干合ってない気がした。歴史的に拡大してきた経緯は記されているにしても、そこに目的を目指して段取りを組むという意味での「戦略」はないだろう。

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中目威博『北京大学元総長 蔡元培 憂国の教育家の生涯』

中目威博『北京大学元総長 蔡元培 憂国の教育家の生涯』(里文出版、1998年)

著者の名前にはどこかで見覚えがあると思っていたら、『ある台湾知識人の悲劇』『豚と対話ができたころ』(岩波書店)などの著書がある楊威理の日本名か。まえがきに、日本の敗戦直後、北京大学に入学して云々と書かれていて、何のことか分らなかったのだが、読了後になってようやく事情が得心できた。

・1866年、紹興の商家に生まれた。科挙を受験して進士に合格、翰林院に入る。
・西洋文化を吸収するために外国語を勉強。日本語は野口茂温という人に学ぶ。日本語速成法でリーディング重視なので会話はできない。他に英語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語。
・変法運動には同情的だったが、少人数のクーデターでは体制立て直しはできない→民衆教育。1898年に故郷の紹興に戻る。1901年に上海へ行き、南洋公学(1897年に盛宣懐が創立、現在の交通大学)に勤務。1902年に仲間と一緒に中国教育会(他に章炳麟、呉稚暉など)。同年、南洋公学の学生運動で退学する学生と一緒に辞職、愛国学社を創立。校規第1条には「本社は略日本吉田氏の松下講社(村塾)と西郷氏の鹿児(島)私学の意を師とし、精神教育を重んずる。授ける所の各学科、これ皆精神の鍛錬、志気の激発の助けになるものとす」。また商務印書館の編訳所長も兼任。
・1905年、東京で中国同盟会が創立された際、蔡元培は上海分会長となった。
・1906年、北京へ行き、訳学館で国文学と西洋史の授業を担当。この頃から言文一致を主張。
・1907年、ドイツ留学へ。ライプチヒ大学に入り、ヴィルヘルム・ヴントやカール・ランプレヒトなどの講義に出る。1911年、辛亥革命の報に接して陳其美からの催促で帰国。
・1912年、中華民国臨時政府の教育総長(文部大臣)に就任。教育の5つの方針→軍国民教育、実利教育、道徳教育、世界観教育、美的教育。7月には「袁世凱と協力せず」の声明を出して辞職。
・1913年、フランスへ行き、李石曽や汪兆銘らと「勤工倹学運動」にたずさわる。
・袁世凱の死後、文部大臣となった范源濂(蔡元培が文部大臣だったときの次官)が蔡元培を北京大学総長に推薦→帰国。1916年12月に就任、大学改革に着手。
・教授陣の刷新・強化→文学部長に陳独秀を招聘。陳独秀は胡適を紹介。他に李大釗、魯迅、周作人、銭玄同、劉半農などの著名人ばかりでなく、まだ青年で学歴のない梁漱溟も抜擢。「思想の自由と兼容並包」の原則、真理の相対性、特定の学派の絶対性を認めない、大学の自由という方針→進歩派ばかりでなく学識があれば保守派(辜鴻銘、劉師培、黄侃、崔適、陳漢章など)も招聘した。「孔子を全面否定する呉虞の講座もあれば、孔子を全面肯定する陳漢章の講座もある。その中間帯に梁漱溟がいて、「孔子哲学研究会」を作り、客観的に孔子を見直そうとする。アメリカ帰りの胡適が斬新な「中国哲学史」の講義を法学部の大講堂で開けば、理学部の大講堂では中国哲学とインド哲学に造詣のある梁漱溟が「東西文化及びその哲学」の講義をする。この二人の講義はとくに土曜日の午後に設定されて、多くの学生が聴講できるように配慮されている。」(137頁) 「総長と教授の間では、学術面でも平等で民主的であった。年若い胡適は『紅楼夢考証』のなかで、総長・蔡元培の著作『石頭記索隠』を批判し、総長は「間違った道を歩いた」、この本は「牽強付会な紅楼夢研究」で「愚かなる謎当て」である、などと遠慮もせずに否定してしまった。蔡元培も負けずに1922年に長文の反論「胡適之先生の『紅楼夢考証』についての討議」を公開し、自説を擁護した。このような激しい論争があっても、二人の間にいささかなひびも入らない。若い教員の梁漱溟も蔡元培の著作『中国倫理学史』を批判し、「仁」の定義について異なった意見を出して、蔡元培と論争し合った。」(138頁)
・「前近代社会では個性は押えられている。そこには民主も自由もない。個の目覚めなくば、社会の進歩はありえない、と蔡元培は考えていた。ゆえに彼はことさら個性の尊重、人権の保障、教育の独立、学術の自由を強調していたのである。」(141頁)
・一般市民にも開かれた大学にしようと傍聴生の制度。さらには「盗聴生」も事実上黙認→知識欲に燃える貧しい若者が恩恵にあずかった。1920年には女子学生の入学を認める。
・軍閥政権からは蔡元培追放の圧力。
・五四運動で学生たちが曹汝霖宅を焼き討ち→度を越したと諭したが、学生が逮捕されたと聞くと救出に奔走。学生の釈放後、辞職を表明→慰留の声が高まる→辞意取り消し。
・周作人が武者小路実篤の新しき村を紹介、クロポトキン『相互扶助論』の影響→蔡元培、陳独秀、胡適、周作人、李大釗らが発起人となって工読互助団(やがて失敗)。蔡元培には無政府主義の傾向。
・蔡元培の非暴力主義は孫文との意見に相違。
・軍閥政府の圧力に抗議する形で1923年1月に辞表を提出。慰留されたので職位はそのままにして(総長代理は蒋夢麟)彼自身は海外へ。帰国後も北京には戻らず、1927年7月に正式に総長解任。
・蒋介石の北伐に協力。浙江省、江蘇省、安徽省に基盤を置く孫伝芳に反対するため三省自治運動に参加→省自治の連合制に賛成。
・1927年の四・一二クーデターの決定に蔡元培も張人傑、呉稚暉、李石曾(4人合わせて“四老”)と共に参与(共産党の暴力行為は自由と民主に反するという考え方)→知識人の間に衝撃。他方で蔡元培は「平和的対処」を強調→しかし、実際には無意味。
・南京国民政府に参加、大学院長に就任。中央研究院を設立、その院長。
・他方、蒋介石のファッショ化には批判的態度。国民政府の人権侵害には抗議。1932年、宋慶齢たちと共に中国民権保障同盟。
・晩年は上海から香港に移り、1940年に死去。

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M.メイスナー『中国マルクス主義の源流──李大釗の思想と生涯』、森正夫『李大釗』

M.メイスナー(丸山松幸・上野恵司訳)『中国マルクス主義の源流──李大釗の思想と生涯』(平凡社選書、1971年)

・1888年、河北省の農村に生れた。幼いうちに両親を亡くし、祖父母に育てられた。祖父母も亡くなった後、残してくれた遺産を使って1907年に天津の北洋法政専門学校に入学。英語、日本語、経済学を学ぶ。1913年に卒業後、『法言報』紙編集のため北京に行く。
・辛亥革命後の状況の中では進歩党とつながり(湯化竜との縁)。
・湯化竜の経済的援助で1913年秋に日本留学、早稲田大学に入学。
・実践への志向を持つ個人の自覚の役割の強調はベルグソン『創造的進化』に由来。「自由意志」→自覚した人間が自分の生きている環境を変革する義務と能力、個人の参加の義務を意味している。主意主義的。
・陳独秀が民族主義を支持しないのに対して、李大釗は愛国心を称揚。
・滞日中に書かれた論文「青春」→政治能動主義的・民族主義的・楽観主義的傾向への哲学的支柱。
・進歩党の機関紙『晨鐘報』編集長→梁啓超たちが段祺瑞を支持するのを批判する論説を出そうとして禁止され、袂を分かつ。1918年から『新青年』編集委員会に入る。
・「中国におけるマルクス主義的社会民主主義の伝統の欠如は、1918年までの知識人の思想にマルクス主義の影響が全く認められないことともに、中国におけるボルシェヴィキ革命とマルクス主義学説の受容の方法に関して重要な意味を持っている。ヨーロッパやロシアのマルクス主義者が、おおむね政治活動の道に入るまでにマルクス主義理論の中心問題の研究に何年か没頭しているのとは異なって、中国で共産主義の信者になった人々は、マルクス主義世界観の基本的仮定さえ知らぬままに、「マルクス主義」革命に身を投じることになったのである。」(90頁)
・1918年2月、陳独秀の推薦で北京大学図書館主任。経済学教授も兼ねる。
・「李のロシア革命への反応を単に新思想の影響という見地からのみ理解することはできない。彼は単にマルクス、レーニン、トロツキーの学説の衝撃だけであのように熱狂的なボルシュヴィズムの唱道者となったのではない。むしろ、革命という行為そのもの、至福世界(ミレニアム)が眼前に実現しつつあるという期待に鼓舞されていたのだ。至福世界がいかなるものであるかについては、1918年7月と11月の論文では、いま現にそれが創造されつつあるという事実に対するほどには関心が払われていない。彼は革命を個々の圧制者に対する反乱というよりは、むしろ全世界の秩序を変革せんとする偉大な、普遍的・根源的力であると考えていた。」「1918年の李にとっては、革命それ自体が唯一の価値の源泉であり、真の創造力であった。」(105~106頁)
・1919年夏、胡適が提起した「問題と主義」論争。
・北京大学教授だった五四時期の師弟関係→学生たちの共産党加入。
・形の上ではマルクスの唯物論的歴史解釈の一般原理を受け入れたが、自己の意志に従って社会を改造する意識的・能動的人間の能力に対する信頼を捨てようとはしなかった。決定論と能動主義との矛盾の問題。
・1919年、アジア連邦の提唱(日本の大アジア主義と区別して新アジア主義)
・「陳独秀のような、より国際主義的・西洋指向的な中国マルクス主義者たちは、中国の都市プロレタリアートと提携することが必要だと感じていた、なぜならこの階級は(萌芽的ではあるが)西洋のイメージの中で作り出されたものだからである。李大釗はこれに反して中国民族の根源的な勢力と提携することが必要だと感じていた。農民の中に、彼は、偉大なる革命のいきいきとしたエネルギーの体現者、中国の民族的伝統の伝達者としての階級を見出したのであった。」(339頁)
・1927年4月6日、張作霖の軍隊が北京のソ連大使館に侵入し、約百人のロシア人や中国人を逮捕、李大釗もその中にいた。その後、処刑。
・能動主義的・主意主義的衝動→民族主義的衝動によって鼓舞、救世主的な民族主義へ。李大釗も毛沢東も革命的主意主義と中国民族主義との結合によって階級闘争を推進。

 メイスナーの本は李大釗の伝記的叙述よりも、毛沢東主義登場の前史として、李のマルクス主義理解と一般的なマルクス主義理論との比較検討の方が重視されており、それは必ずしも読みやすくないだけでなく、たいして面白くもない。森正夫『李大釗』(人物往来社、1967年)の方が歴史的背景や人物的つながりを記述して評伝としてまとまっているし、読みやすい。日本との関わりでいくつかメモしておくと、
・北洋法政専門学校では袁世凱に招かれて教鞭を取っていた吉野作造の講義を受けた。
・日本留学時は牛込区戸塚町520番地のYMCA内が宿舎。後に李大釗は北京で付き合いのあった牧師の清水安三に「東京で安部磯雄と接し、感化を受けました。大山郁夫からはそれほど影響は受けませんでした」と語っている。
・1919年「私のマルクス主義観」→中国における最初の体系的なマルクス主義の紹介。マルクスの経済学における地位、マルクス主義の体系の3つの構成部分への整理、史的唯物論について、用語も含めて河上肇から多くを学んでいる。マルクス文献の重要箇所は河上の日本語訳から現代中国語に翻訳。

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