« 2012年2月26日 - 2012年3月3日 | トップページ | 2012年3月11日 - 2012年3月17日 »

2012年3月4日 - 2012年3月10日

2012年3月 4日 (日)

ガイ・S・アリット『最後の儒者:梁漱溟と近代をめぐる中国のジレンマ』

Guy S. Alitto, The Last Confucian: Liang Shu-ming and the Chinese Dilemma of Modernity, 2nd edition, University of California Press, 1986

 梁漱溟(1893~1988)は五四運動・新文化運動の時期に頭角をあらわした思想家の一人。まだ20代後半の若さで蔡元培に見出されて北京大学で教鞭をとった。当初は仏教学を担当していたが、独自の文明論を展開するうちに儒教の再評価を主張、同僚であった胡適や陳独秀などと交わした東西文明論争は当時、注目を浴びた。自身の文明論に則った実践活動を志して北京大学を辞職、郷村建設運動に取り組む。抗日戦争・国共内戦に際しては第三党派の立場から国共の調停に奔走したが、最終的には失敗。中華人民共和国の成立後は北京に留まった。毛沢東を批判したため事実上引退していたが、文化大革命の終了後、再び注目を集め始める。本書は彼の生涯と思想について体系的に叙述された伝記である。

 梁漱溟は後に現代新儒家の先駆者と評価されることになる。しかし、①近代的教育を受けて育ったため、もともと儒学の素養があったわけではない。あくまでも彼自身の構想する文明論のロジックに従った儒教再評価であったため、伝統回帰的な復古派とは精神的土壌が全く異なるし、ベルグソン、オイケン、ショーペンハウアーをはじめ西洋の思想家を頻繁に引用している。②彼の文明論は、第一段階=西洋文化(→個の自覚を基礎とした科学と民主主義の精神で物質文明を発達)、第二段階の=中国の儒教文化(→内面的倫理性に基づき協同社会を形成)、第三段階=印度文化(→宇宙的一体感の悟りにより世界の寂滅へと向かう)の順序で世界文化は進化するという論法を取り、個々の段階に優劣はつけていないし、さらにクロポトキンやギルド社会主義を引き合いに出して、これも第一段階の限界の自覚から第二段階へ向かおうとする徴候だと捉えている。従って、単純なナショナリズムが儒教文化再評価の動機となっているわけではない。③晩年になると「本当は一貫して仏教徒だった」と発言しており、これに著者のアリットは戸惑いを見せている。しかし、彼の三段階文明論のロジックに基づけば、現在は第二段階たる中国の儒教精神が必要ということであって、遠い将来には第三段階へと向かうことになっているのだから、矛盾はしないだろう。

 第一段階をきちんと発展させないまま第二段階だけ成熟させてしまったところに中国社会の問題があったと考え、第一段階たる西洋の物質文化を摂取すると同時に、第二段階たる中国自身の儒教文化も再評価しなければならないと梁漱溟は主張した。ところで、彼が若い頃の精神的煩悶をクリアするため仏教に傾倒したところには、伝統的感性から離れた近代的自我に近いものすら感じさせる。彼の文明論的ロジックによって考えると、彼自身は第一段階の「個」のあり方で悩んだ末に、第三段階の仏教的悟りへと飛躍しようとしてしまったということになり、このあたりのジグザクな関係はややこしい。

 私自身が梁漱溟に関心を持っているポイントは、①最終的には世界が寂滅へと至る文明論(これは章炳麟「五無論」とも共通)と彼自身の自我意識との関わり方、さらには同時代的な思潮との比較。②新文化運動においては胡適や陳独秀の合理主義・個人主義に注目されがちだが、それとは違った立場の梁漱溟のような議論もあり、全体として闊達な言論の自由があったこと。③郷村建設運動と農本主義との比較。④自らを「中国のガンディー」になぞらえた非暴力主義。⑤公論形成のため知識人は権力と距離を置く必要があると考えて無党派・第三党派を目指したこと、など。

(以下は本書を読みながらとった箇条書きメモ)
・梁漱溟の父である梁済(巨川)自身は儒学的教養を備えた知識人であったが、西洋的な改革の必要を感じていたため、息子には西洋式教育を受けさせた。そのため梁漱溟は大人になるまで儒学の古典を学ぶことはなかった。
・他方、梁巨川は辛亥革命後、北京に享楽的な消費生活が蔓延し始めた状況を目の当たりにして、これは西洋文明の表面的な模倣に過ぎないと批判。近代化の必要を主張した彼の本来的なスタンスは変ってはいなかったものの、理想と現実との落差から疎外感を募らせつつあった彼は伝統的モラルの再生を痛感するようになった(この点は梁啓超と同様だと指摘されている)。中国同盟会に賛同して革命に飛び込んだ梁漱溟は(辛亥革命に感動して早速南京へと赴き、『国民報』の記者となった)父と見解に齟齬を来たすことになり、これが梁漱溟の原罪意識の一因になったと本書では捉えている。
・快楽と苦痛とはどこから生ずるのか?という精神的模索や父との葛藤から生じた懊悩の解決を模索する中で仏教、とりわけ日本経由でもたらされたばかりの唯識思想への関心を深めた。父との葛藤に着目し、エリクソンのアイデンティティ論で解釈しようとするのはいかにもアメリカの研究者らしい視点だ。

・1916年、梁漱溟はそれまでの社会心理的モラトリアムから抜け出したかのように論壇へ再登場。最初の記事は陳独秀の仏教論への批判。西洋思想の知識を用いながら唯識思想によって世界観を構築していこうとする彼の議論は論壇に認められ、蔡元培や陳独秀に招聘されて1917年の後半から北京大学でインド哲学を講ずることになった。
・1918年11月、梁巨川は還暦の誕生日を迎える頃、警世の遺書を残して自殺した→新旧世代に論争を巻き起こし、彼の遺書は出版された。彼は袁世凱の帝政運動も張勲の復辟も支持しておらず、単純に清朝や帝政など伝統的体制に殉じたわけではなかった。共和主義を歓迎しつつも清朝に殉じた矛盾→むしろ、共和国の世代に理想や道徳的高潔さに殉ずる姿勢を示したかったのだと解釈される(※こうしたメンタリティーは福澤諭吉「痩せ我慢の説」「丁丑公論」と比較できるだろうか?)。陳独秀は感動したが、胡適は合理主義の観点から共感を示さず。
・梁漱溟は学歴も留学経験もなく、しかも一番若かったので北京大学に馴染めたわけではなかった。1919年の五四運動では学生たちの心情には全面的に賛成ながらも、曹汝霖邸を襲撃したことを批判→将来の中国に法治が必要なら学生も法治の原則を守るべき。
・梁漱溟は一般世論から仏教学者とみなされていたが、1921年に儒教のために仏教を捨てたと宣言→清貧の生活を捨てて結婚。この転向には父の死が影響したと解釈したくもなるが、2年以上のタイムラグがある。以前から儒教への関心は言及されていたので、むしろ父の死以前、1911~16年あたりの精神的危機の頃までさかのぼるだろうと指摘される。

・第一次世界大戦後の西洋文明に対する懐疑→梁啓超、張君勱(Zhāng Jūnmài)と共に梁漱溟も伝統回帰の保守派とみなされた。1921年に刊行した『東西文明とその哲学』は「文化論争」に火をつけた点で大きな影響があった。
・梁漱溟の言う「文化」は唯識思想を基本としつつ、ショーペンハウアーの「意志」の概念も応用。この世界における人間存在とは根源的な「意志」が環境と相互反応しながら具体化されていくプロセスそのもの、こうしたプロセスのあり方=人生のあり方が「文化」であり、「文化」の相違とは、この「意志」が環境へと向き合う方向の相違であると捉える。
・「文化」の三段階:第一段階では「意志」は環境を積極的に変えていこうとする。第二段階では「意志」は環境に適応しようとする。第三段階では「意志」そのものを消し去ろうとする、つまり自己及び外界という幻影を打ち破ることでニルヴァーナへと至る。それぞれの段階は西洋、中国、インドに比定される。最終的には一つの段階がクリアされてから次に進むという進化論的な段階説をとり、それぞれの段階は相対的に捉えられ優劣はない。第一段階を経なければならないという点で西洋文明の摂取が正当化されると同時に、第二段階として中国文化の再評価も両立する。経済構造が文化のあり方を決めるという考え方ではマルクス主義も受け入れるが、ただし「意志」について閑却されている点で十分な説明ができないと考えた。
・現在、西洋が優勢なのは第一段階に適応しているからであり、中国の場合は第一段階をとばして先に第二段階に適応してしまったところに問題がある。こうしたロジックに基づいて、西洋と中国の良い所どりをしようとする東西文明融合論を批判。いまやコミュニケーション手段の発達により世界は一つになった→第二段階としての中国文化を世界に向けて発信する積極的な意義。
・西洋文明の核心を科学と民主主義に求める点で陳独秀の見解に同意。個人の自由や自我の自覚は、単に個人的レベルだけでなく、共同体を活性化させるので集団にとっても価値がある。
・西洋人の知的な計算→個人をコスモスから疎外した。
・五四運動後の思想では急進派も保守派も西洋(帝国主義)への反感を抱きつつも、西洋思想の言葉を用いて議論するという逆説では梁漱溟も例外ではない。例えば、易経をアインシュタインの相対性理論になぞられる。中国の形而上学では概念を固定的にではなく動的に捉える→ベルグソンの「直観」概念やドイツの「生の哲学」によって王陽明を説明。
・梁漱溟の考えでは、西洋における直観重視の哲学やギルド社会主義などの動向は西洋文化の精神的な中国化と捉えられた。例えば、クロポトキンの相互扶助論。ラッセルの実証主義的な側面は梁漱溟の志向性に合わないようにも思われるが、ラッセルの人道主義への情熱に梁漱溟は共感。それから、タゴール、オイケン、心理学、社会主義。
・「科学」は知的計算によって生み出されるが、自然を死物の堆積としてしまう。「民主主義」は自己と他者の分割によって維持されるが、自己と他者との感情的融合という中国の精神とは正反対、と考えた。
・胡適は環境決定論だと批判→しかし、彼はきちんと読んでいなかった。梁漱溟の描く「中国文化」は理想化されすぎているという批判。蔡元培は現代の思想的課題を提起したと評価→梁漱溟の中心的なテーマは近代の危機に関わる。
・『東西文化とその哲学』は、梁漱溟自身の西洋的功利主義と仏教の慰安との間をさまよった果ての解決策として儒教に行き当たったもの。

・道家的ユートピア志向の農業国家の実効性には疑問→中国の貧困を何とかするには産業的発展が必要という認識。
・理論的問題に決着をつけた→次は実践。1924年に北京大学を去る。
・ドイツ人の音楽家・教育家Alfred Westharpと太原で出会った。
・教育改革の問題では、西洋的な方法は中国の現実に合わないと考えた→学生たちとアカデミックなコミューンを運営していく講学のスタイル。人生はすべからく教育だから、クラスはない。教師も生徒も共に畑で働きながら日常の問題の解決を通して学ぶ。学生自身が運営し教師は監督や手助け。(※日本の農本主義と比較は可能か?)
・山東省の曲阜大学では失敗→1925~26年まで一時隠退。広東の国民党から招聘の手紙が舞い込むがためらう。息子の死去など→気分がふさぎこむ。
・共産主義の登場は、個人の物質的利害という観点から西洋文明では理の当然として出てくる結論→代替的なプランを出さないと若者たちはみな共産主義に引き寄せられてしまう→郷村建設に取り組む。国民党も胡適たちリベラルも代替案を出せていなかった。
・1927~28年まで国民党の勢力下にあった広東に行き、教育分野などで活動。教育長官や中山大学教授などポスト提供の話もあったが辞退。
・1929年2月、北京に戻る。各地を回り、閻錫山支配下の山西にも行く。各地を見てまわりながら、徴税等の近代的行政システムがかえって問題を深めているのを実見。地方再建や農村自治は草の根からの人々の大衆動員という形を取るのでなければ失敗する。地方行政機構の拡大は地方自治ではなくただの官僚化であって、こうした傾向は悪い結果をもたらすだけ。社会運動は、単に行政からの独立だけでなく、行政に反対する運動。つまり、近代的行政の拡張が草の根レベルでは逆に機能不全に陥っている問題を指摘している(※梁漱溟のこうした見聞は、Prasenjit Duara, Rescuing History from the Nation: Questioning Narratives of Modern China[The University of Chicago Press, 1995]でも引用されていた。この引用は、未見だがPrasenjit Duara, Culture, Power, and State: Rural North China, 1900−1942[Stanford University Press, 1988]での研究がもとになっているのだろう)。
・1929年10月から、梁漱溟は河南の学校と北京の『村治月刊』事務所との両方で時間を過ごす。

・西洋文化は理性により物質的な自己利益を図る。だからこそ、制度としての立憲主義やリベラル・デモクラシーが必要となった。対して中国の儒教文化は外力ではなく内面的な倫理に基づくという相違があると主張。
・梁漱溟が主張した中国に特有の文化的ジレンマを解決する方法は、文化的復興による近代化→郷村建設の理論につながっていく。
・彼が地域的・文化的復興を正当化する最終的な考え方は、ナショナル・アイデンティティによる一体化やロマン主義によるものではなく、彼自身の考察による「客観的現実」に対応しようとしたもの。
・ソビエト体制は資本主義の問題点を回避しようとはしているものの、都市集中の産業化、中央集権などの機械化傾向は資本主義と同様の問題をはらんでいると考えた。
・西洋と比べて組織・科学の面で中国は劣っている→中国的な解決をするのが郷村建設の課題。農民たち自身の手で新たな慣習が形成されるであろう。
・彼の郷約の構想と毛沢東の農村工作との類似。基本的な方向性は同じだと考えており、その点では後に共産党体制を受け入れる素地もあった。ただし、階級闘争の有無で相違(郷村建設運動では「悪い地主階級」については糾弾するのではなく教育を通して考え方を変えさせようとした)。梁漱溟は闘争や強制では何も解決できないと考えた。共産党の視野の狭い戦略は別の抑圧者を生み出すだけ。儒教的社会主義。非暴力に徹して内心から沸き起こるモラルによって社会的関係を築き直す→ガンディーのサチャーグラハの中国版と評価。ただし、梁漱溟のユートピニズムが参加者たちに理解されたとは限らない。
・1930年代は郷村建設運動の絶頂期。しかし、純粋な市民運動としての郷村建設は国民党の中央集権化志向とぶつかる。
・政府の学校化→社会の学校化。紛争が起こっても裁判ではなく、学校が仲裁。また、農業技術の教育やイノベーションも担う。
・日本軍の侵略→農民大衆からの支持が不可欠であり、そのためにこそ郷村建設は役立つと山東省政府に認めさせたが、まさにその侵略によって郷村建設は挫折。
・郷村建設を通して中国的な「理性」に基づく社会建設→物質面での劣勢を挽回しながら、同時に都市化による問題の回避を意図した。しかし、それは両立し得るのか?という根本的な問題。

・1937~1947年の間、梁漱溟は中国における無党派や第三党派などリベラルの指導者として現われた。抗日戦争における愛国心で国民党とも協力関係に入り、National Defense Advisory ouncilメンバーとなった。また、延安を訪れて毛沢東とも会う。他のリベラルな知識人たちと比べると二人は「中国的」な部分を共有、友好関係→毛沢東が海外から輸入された「形式主義」「教条主義」を批判して社会主義の中国化(毛沢東主義)へと向かっていく傾向と無関係ではない。毛沢東は反国民党的な人士を共産党の側に集めようとして梁漱溟を騙しているという批判もあった。
・梁漱溟の仲間たちは内戦は避けるべきという主張。政治的な民主主義と軍事的な全国民化のどちらが最初に問題となるのか?→共産党は前者を、国民党は後者を主張→両者の調停を図るため第三党派。しかし、この基本的な論点は1948年まで続き、内戦の結果、少数党派は駆逐されていく。
・1941年3月25日、中国民主政団同盟を結成(1944年9月に中国民主同盟と改称)。9月18日に政治的プログラムを発表→①抗日で領土回復。②民主的制度の確立。③国内的統一。④国民党を監督、支援。⑤中央・地方関係を法制化しながら分裂には反対。⑥武力による党派抗争には反対。⑦法治の確立。⑧学問や言論の自由を保障。⑨一党支配廃止後の注意点。⑩現在の政治状況への注意点。⇒国民党は反発。
・梁漱溟は立憲主義者の運動(constitutionalist movement)に政治的には取り組みつつも、哲学的には賛成ではなかった。
・戦後、国共の調停に奔走するが、失敗。政治から引退。
・1950年、毛沢東から招聘されて北京へ行く。その頃はブルジョワ知識人に自己批判が求められてた→1951年10月に梁漱溟も思想的変化を発表したが、大衆運動などで共産党の達成した功績を認める一方、『中国文化要義』にまとめた自らの思想は変わらず、共産党とは基本的な相違もあると述べた。自己批判は新しい政治環境の中で自らの主張との調和を図るため。彼の主張には一般に共感者も多く、彼個人は毛沢東と良好な関係にあったため、失脚はせず。
・ソビエト・モデルに基づく政府の経済発展プランを批判。
・1953年9月に公の場で毛沢東と口論→毛沢東の指示で公職から追放されることはなかったが、1955年半ば頃からマスメディアを通した梁漱溟批判。胡適のブルジョワ思想の封建主義的なカウンターパートだったと批判。熊十力を除き、中国の主だった哲学者たちはみな梁漱溟批判を展開。こうした大陸における反梁漱溟キャンペーンは、逆に香港や台湾の反共派から儒教精神の体現者として賞賛されることにもなる。
・しかしながら、1956年2月、全国人民政治協商会議の席上、罪を告白。政治協商会議のメンバーではあり続け、1950年代の反右派闘争や1960年代の文化大革命も何とかやり過ごす(→これは香港情報だが、実際には文革が始まってすぐの1966年8月24日に彼の家も紅衛兵の襲撃を受けたことを、後述のインタビューで知る。彼の妻は70代の年寄りなのに批判闘争に引き出されて殴られたのだが、なぜか梁漱溟自身は攻撃されなかった。毛沢東と個人的関係があったからではないかと推測している)。1970年代、ある高官が反儒教キャンペーンのため梁漱溟のエッセイを捻じ曲げて解釈。

・本書の第1版を刊行後、偶然の機会を経て、1980年と1984年の2度にわたり晩年の梁漱溟をインタビューできた。
・最初の会見で、梁漱溟が仏教を捨てて儒教を取った件に言及したとき、彼は「自分はいまでも仏教徒ですよ!」と言った。1921年に公言したじゃないですか?→「そんなことは問題ではない。私は仏教を捨てなかったし、あの時点ですら本当は捨てていなかった。16、17歳の頃から僧侶になりたかったが、29歳で結婚してしまったので諦めたんだ。」
⇒梁漱溟の親しい友人も含めてみんな彼を儒者と考えているのに、これは一体どうしたことだ?と著者は戸惑う。彼の内面の中で儒教と仏教とが階層化されており、年齢に応じて出方が違ってくるものと解釈。
・梁漱溟は二度の結婚→最初の妻への低評価と二度目の妻への高評価とがインタビューの時点で逆転しているのは?→自分は一貫して仏教徒だったという彼の言明にも、無意識的な心境の変化があったのではないか、と推測。
・唯一の西洋人の友人であったアルフレッド・ウェストハープ(Alfred Westharp)のこと。彼はプロシア貴族の息子だが、アメリカで音楽を学び、市民権を取得。彼の音楽はインド人と日本人に好まれた。中国へ来たが、第一次世界大戦で家からの送金が途絶えると、厳復に支援を求めた。後に日本軍に敵国人として捕虜になり、日本へ送られ、気落ちして自殺を試みたところ禅僧に助けられ、そのまま禅僧として過ごした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】「玲玲の電影日記」

「玲玲の電影日記」

 地方から出てきて水配達の仕事をしている青年。自転車で配達途中のある日、道に積まれたレンガにつまづき、しかも居合わせた女性にレンガで殴られてしまった。訳もわからないまま彼女の部屋の金魚に餌をやらねばならない羽目に…。部屋に入ると映画の機材がたくさんあり、人生の慰めを映画から得ていた彼は大喜び。ふと見つけた日記帳──映画にまつわる彼女の過去を読み始めると、そこには彼自身にとっても驚きの事実が記されていた。

 文化大革命の時期、映画の野外上映会を観ながら育った少女が家族の複雑な機微に悩む姿が描かれている。中国版「ニュー・シネマ・パラダイス」という触れ込みだが、ところどころ映写される作品を通して中国の人たちがどんな映画を観てきたのか、その一端が垣間見えるのが興味深い。少女の母親が自らをなぞらえるスター・周璇は知っているし、「馬路天使」は観たことはないにせよ映画史関連の文献でタイトルに記憶はあるが、これ以外はさすがに分からないな。文革の時期、外国映画は珍しくて人気があったが、それがアルバニア映画だったというのも時代をうかがわせる。

 回想シーンの舞台は寧夏らしい。街を取り囲む黄土高原の無骨な空間が夕陽に照らし出され、そのシーンが醸し出す黄金色は、ノスタルジックな感傷をいっそう強めてくる。このように過去を振り返る心境を捉えた映像は、繊細な美しさがじんわりと胸にしみこんで来て、実に良い。

 文革の時期を舞台とした映画にはノスタルジーをテーマにした作品が多いような気もする。例えば、「1978年、冬。」(原題は「西干道」)も印象的だった。文革も終わりに近づいた頃ではあるが、青春のほろ苦さが描かれており、そのノスタルジックな感傷が中国北部の工業都市の寒々とした風景と重ね合わさると、これがまた切ないからこそ美しい。

【データ】
原題:梦影童年
監督:小江
中国/100分/2004年
(DVDにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】「レバノン」

「レバノン」

 1982年、イスラエル軍のレバノン侵攻に戦車兵として参加した若い兵士4人の極限状態を描いた映画。ベネチア国際映画祭金獅子賞受賞作品。

 第一に、戦車の中という密室での心理劇としてストーリーは進行するのだが、外のシーンの大半は照準器を通して見えるだけ。自分たちを取り囲むものは何なのか? 誰を信用したらいいのか? そもそも自分たちは何を目的としてここにいるのか?…そうした不安や疑問が止め処なくあふれ出てくる兵士たちが戸惑う心情にリアリティーが刻み込まれる。第二に、照準器を通して外を見る映像構成は、同時に侵略する側、殺す側の視点をも表している。戦争の恐怖と悲惨さを描写する独特な視点の取り方が見事だ。

【データ】
監督・脚本:サミュエル・マオス
イスラエル・フランス・ドイツ/2009年/90分
(DVDにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】「ここに幸あり」

「ここに幸あり」

 フランスで活躍するグルジア出身の名匠オタール・イオセリアーニの作品。失脚して無一文になった大臣が放浪生活をしながら昔なじみの友人たちのもとを訪ね歩くコメディ・タッチのドラマ。出世ばかりが人生じゃないよ、たまには休みがてらバカなことやってもいいじゃない、というノリ。ところどころのシーンでさり気なくピロスマニ風の絵が映る。放浪生活を送った画家の生涯を重ね合わせているのか。グルジアというと、どうしてもピロスマニとワインというイメージを思い浮かべてしまう。

【データ】
監督・脚本:オタール・イオセリアーニ
フランス・イタリア・ロシア/2007年/121分
(DVDにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

クリスティアン・アングラオ『ナチスの知識人部隊』

クリスティアン・アングラオ(吉田晴美訳)『ナチスの知識人部隊』(河出書房新社、2012年)

 頭脳明晰で教養豊かな若者たちがなぜナチスに積極的に加担したのか?というテーマを追求するため、大学卒業者80人の経歴を分析した研究である。フランス人研究者による著作で、もともとは博士論文のようだ。殺戮行為を正当化した信仰システムの担い手として彼らSS知識人を位置づけ、第一次世界大戦で形成された戦争文化がその信仰システムに影響を与えたことが強調されている。
 思想内容よりも、メカニズムの分析が中心。以下にメモ書きしておくと、
・SS知識人は中産階級出身→第一次世界大戦期に支配的だった表現システムを伝達する主要媒体の一つ→戦争文化が前線から後方へ、富裕層から庶民層へ、大人から子供へと拡散→戦争文化を通して戦争に意味を与え、民間人にも犠牲の正当性を納得させる。
・大学は知的形成の時期であると同時に、政治的社会化の時期でもある。歴史は「正当化の学問」「闘う学問」→学問的厳密さを闘争的欲求へと結びつけ、戦争の正当化、敵のイメージの形成に寄与。
・ナチスは反知性主義?→ナチス独自のコンテクストの中で知的優秀さの規範があり、これに従って彼らは職務遂行。
・「東部出動」という試練→殺戮部隊の指揮を取り、この職務をこなした者には昇進が約束された。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

南条文雄『懐旧録──サンスクリット事始め』

南条文雄『懐旧録──サンスクリット事始め』(平凡社・東洋文庫、1979年)

・伝統的な仏教学が漢訳仏典をもとに、宗派ごとの正当性を中心に議論されていたのに対して、明治以降の近代的な仏教学は海外で新たに学びなおしたサンスクリット、パーリ語、チベット語などで原典から読み直し、宗門的な制約から離れた自由な批判的態度で歴史的・文献学的・理論的研究を進めていった。南条文雄(ぶんゆう、1849~1927年、後に大谷大学の学長)は後者の意味での先駆的な仏教学者であった。近代的仏教学草創期のエピソードがつづられた回想録で、原著の刊行は昭和2年である。
・明治10年代に選ばれて洋行、イギリスでの留学生活が本書の読みどころになるのだろう。まだ数少なかった頃の留学生仲間たちの錚々たる顔ぶれには驚くが、やはりオックスフォード大学で師事した著名な東洋学者マックス・ミュラーのもとでサンスクリットを学んだときの学問的交流が興味深いし、とりわけ同行したものの志半ばで夭逝した笠原研寿へのミュラーの情意をつくした追悼文が目を引いた。
・幕末維新の頃、僧兵として招集されたこと(ミュラーに提出した履歴書に記載したら、大笑いされたらしい)、もともと僧侶には苗字はなかったが、明治新政府の指示で急遽苗字を届出しなければならなくなったときの混乱などのエピソードも目を引いた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年2月26日 - 2012年3月3日 | トップページ | 2012年3月11日 - 2012年3月17日 »